すべてのことには“はじめ”があり、そのどこかに“おわり”がある。
それが、生成から消滅に向かっているのかそれとも、その逆に向かっているのかはわからな生成も消滅も人間が決めているだけのものだ。
いずれにせよ、ことが向いている方向は一つで、それはほぼ時の流れに一致している。時間にも乱れや歪みといったものがあるかもしれないが、その流れはいずれにせよ一方向である。
仮に“はじめ”を生成とすると、“はじめ”からいろいろなものが派生したというように考えることができる。
派生した、という場合、難しいのは“無生物”と“生物”の境界線となる。
“生物”を定義するのは遺伝子である。遺伝子は自己複製のためにキャリアーとしての生物を必要とし、生物を”生かしている”。
だが、遺伝子はDNAの組み合わせであり、DNAは窒素、水素、リンと酸素の各分子の組み合わせからできている。これらの分子を生物ということは困難なので、無生物の組み合わせが生物になっていることになる。
遺伝子が“無生物”であるとなると、生物は無生物と等価になる。というか、生物と無生物をわけるということも意味が失われてくる。
それぞれの”物”が持っているエネルギーとか質量とかのことを言い出すとこんがらがってしまうが、結局のところ、私たち人間も、ほかの生物もさらにはすべてのモノも同じ地球上というか宇宙にあって、同じ時間軸上でどこかに向いて進んでいる。
そしていつかはすべてがおわりになる。
おわりとは一体なんなのかわからないが、おわりは必ずある。
今というのは、はじめとおわりの間のどの辺りなのだろう。
そして、自分というのはそのどこにいるのか?
すべてが無生物であるならば、自分ははじめからいて、おわりまでいることになる。
自分(というのが、正しい表現なのかよくわからないが)というものの存在を明確化しようとすればするほど、どんどんおかしな方にいってしまう。
今日もまた、落としどころがわからなくなってしまった。
それが、生成から消滅に向かっているのかそれとも、その逆に向かっているのかはわからな生成も消滅も人間が決めているだけのものだ。
いずれにせよ、ことが向いている方向は一つで、それはほぼ時の流れに一致している。時間にも乱れや歪みといったものがあるかもしれないが、その流れはいずれにせよ一方向である。
仮に“はじめ”を生成とすると、“はじめ”からいろいろなものが派生したというように考えることができる。
派生した、という場合、難しいのは“無生物”と“生物”の境界線となる。
“生物”を定義するのは遺伝子である。遺伝子は自己複製のためにキャリアーとしての生物を必要とし、生物を”生かしている”。
だが、遺伝子はDNAの組み合わせであり、DNAは窒素、水素、リンと酸素の各分子の組み合わせからできている。これらの分子を生物ということは困難なので、無生物の組み合わせが生物になっていることになる。
遺伝子が“無生物”であるとなると、生物は無生物と等価になる。というか、生物と無生物をわけるということも意味が失われてくる。
それぞれの”物”が持っているエネルギーとか質量とかのことを言い出すとこんがらがってしまうが、結局のところ、私たち人間も、ほかの生物もさらにはすべてのモノも同じ地球上というか宇宙にあって、同じ時間軸上でどこかに向いて進んでいる。
そしていつかはすべてがおわりになる。
おわりとは一体なんなのかわからないが、おわりは必ずある。
今というのは、はじめとおわりの間のどの辺りなのだろう。
そして、自分というのはそのどこにいるのか?
すべてが無生物であるならば、自分ははじめからいて、おわりまでいることになる。
自分(というのが、正しい表現なのかよくわからないが)というものの存在を明確化しようとすればするほど、どんどんおかしな方にいってしまう。
今日もまた、落としどころがわからなくなってしまった。