さて、前回まで患者の立場から医療を哲学的に考えてみたのだが、今度は医療者の視点からの医療とはとして考えてみる。
ここでは、少々極端な言い方になるが医療者なぜ医療者でいられるかという点から入ってみたい。というのも、つらい思いをしてやってくる患者さん達に毎日毎日接していても、どうしてフラットに接することができるのか、すなわち、どんな病気に対しても同じように対処することができるのかということを考えてみたい。不肖コロ健は病理医であまり患者さんに接しないし、そもそも医者といっても十人十色、診療科もさまざまであり、それぞれ違うので、わからないことは多い。
そこで、医療小説、医療映画・ドラマ、医療漫画なんていうのを参考にしたい。こういったものは極端にすぎるが、これまで数多くある。どれが優れていてどれがだめ、なんていうことは評論家でない私にいう資格は無いが、もしかすると考えるヒントになるかもしれないので、いくつか思い出してみたい。
まずは小説。

医療小説 『白い巨塔』『最後の診断』『チームバチスタの栄光』
病理医が重要な人物として出てくるから題材として取り上げたわけではないが、いずれも名作である。それぞれの作品について覚えていることを一言で述べると、『白い巨塔』は医療過誤を軽視した医師の挫折。『最後の診断』は院内感染対策に最後の力を振り絞って奮闘する老一人病理医の物語。『チームバチスタの栄光』は死因不明社会における医療の意義。ちなみに著者の海堂尊は病理医。
医療過誤も院内感染も死因究明のいずれも古くからある医療問題であり、医療者は実はこれらの問題との戦いに明け暮れているようにすら思える。医療技術がますます発展し、知識が医療界全体にあまねく行き渡れば医療者間の技量の差というのはほとんどなくなるだろう。
と、ここまで書いてわかることというのは、医療者が医療の話をするに際して、患者の人格というのはほとんど描かれていないということ。
なぜか。
それは、医療者にとって患者というのは皆同じにしか見ないからだろう。医学教育というものの立脚しているところがそうなのだから仕方ない。
解剖学の教科書にある人体の図はすべて同じという前提である。病理学にしても病気の成り立ちは基本的には同じである。炎症や腫瘍に登場してくる細胞に個人差はない。炎症細胞は炎症細胞だし、がん細胞はがん細胞である。実際の患者は十人十色、細かいところはもちろん違うのでそこは経験がものをいうが珍しい症例は、報告しなくてはいけない。それは人類への貢献であるのだ。
すなわち、医療者は患者一人一人を相対化してとらえているということになる。

ここでは、少々極端な言い方になるが医療者なぜ医療者でいられるかという点から入ってみたい。というのも、つらい思いをしてやってくる患者さん達に毎日毎日接していても、どうしてフラットに接することができるのか、すなわち、どんな病気に対しても同じように対処することができるのかということを考えてみたい。不肖コロ健は病理医であまり患者さんに接しないし、そもそも医者といっても十人十色、診療科もさまざまであり、それぞれ違うので、わからないことは多い。
そこで、医療小説、医療映画・ドラマ、医療漫画なんていうのを参考にしたい。こういったものは極端にすぎるが、これまで数多くある。どれが優れていてどれがだめ、なんていうことは評論家でない私にいう資格は無いが、もしかすると考えるヒントになるかもしれないので、いくつか思い出してみたい。
まずは小説。

医療小説 『白い巨塔』『最後の診断』『チームバチスタの栄光』
病理医が重要な人物として出てくるから題材として取り上げたわけではないが、いずれも名作である。それぞれの作品について覚えていることを一言で述べると、『白い巨塔』は医療過誤を軽視した医師の挫折。『最後の診断』は院内感染対策に最後の力を振り絞って奮闘する老一人病理医の物語。『チームバチスタの栄光』は死因不明社会における医療の意義。ちなみに著者の海堂尊は病理医。
医療過誤も院内感染も死因究明のいずれも古くからある医療問題であり、医療者は実はこれらの問題との戦いに明け暮れているようにすら思える。医療技術がますます発展し、知識が医療界全体にあまねく行き渡れば医療者間の技量の差というのはほとんどなくなるだろう。
と、ここまで書いてわかることというのは、医療者が医療の話をするに際して、患者の人格というのはほとんど描かれていないということ。
なぜか。
それは、医療者にとって患者というのは皆同じにしか見ないからだろう。医学教育というものの立脚しているところがそうなのだから仕方ない。
解剖学の教科書にある人体の図はすべて同じという前提である。病理学にしても病気の成り立ちは基本的には同じである。炎症や腫瘍に登場してくる細胞に個人差はない。炎症細胞は炎症細胞だし、がん細胞はがん細胞である。実際の患者は十人十色、細かいところはもちろん違うのでそこは経験がものをいうが珍しい症例は、報告しなくてはいけない。それは人類への貢献であるのだ。
すなわち、医療者は患者一人一人を相対化してとらえているということになる。

「医療者によって患者一人一人は「症例」として相対化される。」