こうして顔の下半分を隠すのが当たり前になってくると、鼻や口の形を表現する言葉は廃れていくだろう。かつて、ファミレスで、エクボの可愛い女の子がいて「エクボの可愛い子だね」などと夫婦で話したことがあったが、そういう話題ももう出なくなるだろう(とくに可愛かった子には直接言ったらとても喜んでいた、もちろん妻のいるところで)。妻には八重歯があり、本人はそれを気にしているが私は可愛いと思っている。石野真子も八重歯で売り出したので、そう悪いものではないと思っているが、口を隠すとそんな八重歯も見えなくなる。
”新しい生活様式”のもと、マスク装着が当たり前となり、エクボ、八重歯に限らず、顔の下半分、鼻、口、頬を見なくなると、それぞれを誰かと比べることもできなくなる。そうすると鼻の高さ、形、口の大きさ、歯並びといったものが人の美醜の価値基準としてこの先どれぐらい残っていくのだろうか。それどころか人の美醜の基準そのものも変わっていく可能性もある。今はまだ、半年前の価値基準が適応されていて、目はぱっちりしている方がなんとなくいいように思えるが、美容整形などでみんながみんなそんなになったら、個性がなくなり、むしろ別の目の形ーたとえば切れ長の目ーが好かれるようになるかもしれない。実際、先日見た浮世絵ではそういう一重まぶたのいわゆる日本的な美人がたくさんいたし、私は好きだ。もしかしたら美醜という概念そのものがなくなって、人間の評価自体も変わるかもしれない。そうしたら、美醜などにこだわらず、人間性勝負という時代がやってくるかもしれない。
日本語に限ったことではないと思うが、顔の造作を表現する言葉というのは少なくない。これまで人間が顔というものにいかに大きな価値基準を置いてきたかということだが、それだけに、顔の造作というものが人間を悩ませる要因の一つでもあった。だから誰もが禅智内供に共感するわけで、あれは何も鼻に限った話である必要もなかっただろう。ただ、そんなわけで、少なくとも顔の美醜を表現する言葉というのは廃れ、やがて死語になるかもしれない。
テレビや映画、SNSなどではこの先もマスクレスの美しい顔を見ることができるが、それはモニターの向こうの世界のことで、背格好を含めた実像ではない。だから、イケメンを探してライブだの劇場に足を運ぶが、ウィズコロナでは、感染のリスクがあってどれほど続くかわからない。この生活様式、少なくとも、この先2、3年は続くだろうから、価値観が変わるかもしれないと思っているし、それはいいことだと普通の容貌の持ち主である私は思う。
私は少々ダンゴ鼻