こんな気持ちでいられたら・・・一病理医の日々と生き方考え方

人生あっという間、私の時間もあと少し。
よりよく生きるにはどうしたらいい?

少数の意見を埋没させない

2020年07月30日 | 病理のこと、医療のこと、仕事のこと
医局会など他科の医師と共に行う会議で発言するのには、病理医のようなマイナーな科の医者はずいぶんと勇気が要る。病院というところの表の顔、すなわち看板はいうまでもなく臨床医であり、病理医である私が何かを発言したところで、病院のマジョリティーーー売り上げとか、治療成績ーーーの問題解決に直接つながる建設的な意見にならないと考え、発言するのをついためらってしまうのだ。

私の場合、喋りたがりのところがあって、会議で誰も発言しなかったりするとーーーおそらくほんの15秒ほどだろうがーーー沈黙に抗うことができず、よせばいいのについ口火を切ってしまう。私のせっかくの”場を動かすための”発言を誰かがついでくれるのならいいが、多くの人は遠慮がちに別のーーー出席者の多くが関心を持っているーーー話題へと舵を切る。もちろん、いったん誰かーーーたとえそれが病理医であってもーーーが発言したら、会議は重い腰を上げて動き出すが、最初の、病理医の発言を会議の終わりまで覚えている人は私以外にはいない。

国会(閉会中審査を含め)の討論を見聞きすると、何をしているのかよくわからない議員が多く見えるが、多様な人材が発言の機会を得るためにはこれぐらいの人数は必要なのかもしれないと思うようになった。これは先の参議院選挙で障がいのある方を国会に送り込む政党があったということでとくにそう思うのかもしれない。健常者の視点に立った政治は、国力の増強のためには必要なことだろうが、健常者だけで議論していては、考え方の多様性は欠落してしまう。少数者、弱者の発言に耳を傾け、その意見を取り入れることができないような人は、人を導いていく資格はない。自分の席を譲った党首は大したものだと思う。
さて、私は今の勤務先の病院に、病理医がいなくて困っているからきてくれないかと言われてやってきた(だから一人病理医)。プレコロナの頃だったからこそ開催された”私の歓迎会”で「(なんでも知っているわけでもないので)私がどれほどお役に立てるかなんてわかりませんよ。」と言ったら、院長が「意見を聞いてくれる人、言ってくれる人、相談できる人というのが必要なんですよ。」と応えてくれた。ああ、ありがたいなと思ったし、この言葉はずっと忘れることはないだろう。実際その言葉に嘘はなく、マイノリティーの代表格である病理医としての私の発言は正当に扱われているし、会議での発言にしても思っていたよりずっと丁寧に耳を傾けてくれている。
あとは私次第

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