この時期になると植物の成育速度がゆっくりとなる。バラの蕾ももう一週間も開かない。プランター栽培のナスなど二週間は大きくならずにぶら下がっているが、まだ実があるうちはかわいそうで終わらせられない。今日は鉢植えの手入れをしていたが、鉢を持ち上げたところで腰を痛めてしまい、全部を終わらせることはできなかった。
私がほぼ毎日欠かさず読んでいるブログがあるのだが、先日このブログを取り上げてくれた。ブロ主さんは私が夏休みの間ずっと妻と一緒にいたことに驚いたということをテーマにしたエントリーを親愛の情を込めて軽妙に書いてくださっていた。
この度のコロナ禍は妻にとっては案外幸せなことだったのかもしれない。なんといっても、私が外で飲んでくることが無くなり、出張もほぼ無くなった。彼女としては、私にリモートワークを増やしてほしいところだろうが、病理医も病院にいることが求められるので、これは増やすことが出来ない。顕微鏡を家に据えたら診断できるかもしれないが、そのためには標本が家になくてはならない。そうすると標本を家に持ち帰らなくてはならず、では、標本の持ち帰りのために往復するぐらいならば”ついでに”診断してしまえばいい、ということになる。結局家でできるのは、書類仕事だけでそんなことはせいぜい月に1日あればいいし、そのためにイレギュラーなことをして、ルーチンワークを溜とあとあと困るので、結局日常の診断業務の隙間時間に行ったほうが効率がいい。それはさておき、コロナ禍でお家時間が増えたことで、夫婦仲、家族関係が良くなった人は少なくないのではないか。もちろん逆もあるかもしれないが、それはどちらでもいい。
そのエントリーの中にはこんな一文があった、
”思春期から青年期を、何がしかのコンプレックスに悩んで過ごした男というのは、自分には生涯無縁だと諦めてきたタイプの女性を女房にすると、一生愛情を注ぎ続けることができる存在なのかもしれない。”
さすがは私がブログの師と仰いでいる方だけあって、私の拙いブログから私の本質が見抜かれていた。妻のような女性を無縁と思っていたかはわからないが、愛情を注ぎ続けることができる存在であるのは間違いない。愛情の形というのは様々なので、私が妻に対して抱いているそれは他の誰とも異なるし、自分自身でもそれがどのようなものであるのかを言語化することは難しい。少なくともそれは、私が考える”おのろけ”のようなものではないのだが、人から見たらまったくの”おのろけ”かもしれない。
人間にとって最もストレスのおおきな問題は人間関係だろう。そうすると、妻との結婚生活はそのストレスを生じる最大のリスク要因だ。それをかれこれ30年回避してくることができたというのは幸運だった。そしてそれが私のコンプレックスのおかげだったとすると、コンプレックスもあながち悪いものではなかったということだろうか。
また、何か言われるかな?