昨日、移植臓器の診断を行なっていたら不思議な感覚に襲われた。
腎臓とか肝臓、心臓、骨髄その他多くの臓器が移植手術によって人から人へと移しかえられている。その臓器、移植された人にとっては一旦廃絶した機能を代替してくれるありがたい存在だが、元々は他人のものだから拒絶反応が起こる。その拒絶反応を抑えるために免疫抑制剤を使うが、大抵の場合副作用が生じる。免疫抑制剤は一生使うので副作用が起こっていないかを、生検で一部を採取して定期的に診断するのだ。
私が診ていたのは、脳死の方から採取された臓器とのことで、診断申込書に書かれたその文字を見た刹那、
臓器を提供した人は、すでにこの世にないといえるのに、この患者さんの体の一部として生きながらえているのか。そうすると、この患者さんはこの臓器によって生きているわけで、では、この臓器とは一体誰なのか。
という考えが頭をよぎった。こんなことは、臓器移植が始まって何十年も経ち、当たり前のこととして言葉では理解していたのに、昨日は妙に頭の芯が揺さぶられるような感覚がした。それは、ここのところ毎日のように起こる殺人や紛争のニュースをつうじて感じる人の命の軽さを感じているからかもしれない。
昨晩、NHKのニュース番組で、身体中の筋肉の機能が徐々に低下する難病ALS(筋萎縮性側索硬化症)の患者さんが体の様々なパーツを人工臓器に置換させ、AIの力を使ってサイボーグとして新たな命を得ようとしていることを伝えていた。生きようとする強い意思を感じたと同時に、肉体という余計なものを脱ぎ捨てつつある新たなる命のあり方が現実になりつつあることを知った。
コロナ禍によってもたらされたバーチャル世界は人が実際に”そこ”に行く必要性を激減させた。互いがその場に存在することは重要ではあるが、そんなふうに考えること自体、やがては時代遅れとなっていくのかもしれない。
移植医療、殺人、AI、バーチャル世界、人間社会では全ての事項が同時並行的に渾然一体となって進行し、命の軽重とその定義づけも急速な変化を遂げている。私たちの誰もがそのような”命のあり方の変化”に直面しているということを自覚して生きるべきなのだが、その全体像が見えてこない今、それはまだ難しいことかもしれない。
永遠の命とは