こんな気持ちでいられたら・・・一病理医の日々と生き方考え方

人生あっという間、私の時間もあと少し。
よりよく生きるにはどうしたらいい?

病理医としての私のCPCへの思い入れと病理解剖

2022年07月13日 | 病理のこと、医療のこと、仕事のこと
CPC(Clinico-pathological conference)、すなわち臨床病理検討会が終わった。
私にとってCPCは病理医として最もつらいが、最も重要な事項。
そのCPCを終え、興奮冷めやらぬ状態で書き、長文となってしまったが、病理医に興味のある方、および病理医を目指している方はどうぞお読みください。

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担当の臨床医はまだ若くてプレゼンの経験が乏しかったようで、うまくいかなかったところもあったみたいだが、忙しい中よく頑張ってまとめてくれた。

これまでにも何度か書いてきたが、このCPCというのは、病気で亡くなった方で病理解剖(剖検)をさせていただいた症例のうちから教育的意義が高いと考えられたり、希少な症例だが興味深い所見があったりするものを選び、院内の医師皆でディスカッションする。
剖検(ぼうけん)と病理解剖は同義で、剖検という言葉の意味は馴染みが薄く、わかりにくいので病理解剖ということが多いが、解剖というと”解剖医”という言われ方をされてしまうので、私は剖検という言葉を使うようにしている。
病理医は病理医であって解剖医ではないのだ。
その病理医は亡くなった方の死因の究明のため剖検を行なうが、そのためだけに病院にいるわけではない。
剖検の結果を皆でディスカッションするため、CPCを開催する。

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今日のCPCだが、コメディカル部門からこちらが予約しておいた会議室の時間を少しずらしてくれないかという申し入れがあった。
告知のため、院内に一斉メールを出していたので、変更は気が進まなかったのだが、CPCのことがわからない人にそのなんたるかを話したところで理解してもらえないので、関係するプレゼンテーターの医師全員の了解を取って先方の言うとおり時間をずらした。

結果として、参加者は医者、コメディカル合わせて50人近くとなったので、よかった。

その時も、いきなり時間をずらせと言ってきたので。

 CPCなんで、ちょっと(困る)

とは一応断ってみたが、

 それ、勉強会みたいなものですよね

とトンチンカンなことを言ってきたので、CPCがわからない人にCPCのことを言っても意味がないと、抵抗せずにすぐに引き下がった。

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CPCというのは病院の行事として行うものだが、医者すなわち医学部での教育を受け、その後さらに臨床研修を受けた者でないとその目的、意義を知らないことも多い。

ちなみに、内科学会によると、CPC (Clinico-pathological conference)とは,その症例の診療に関与した臨床医と病理解剖に関与した病理医を中心として,剖検(ぼうけん)例の肉眼的,顕微鏡的病理所見と臨床所見との関連について双方の立場から意見交換をし,詳細な病態および死因の解明に向けて検討を行うものである。

大学病院では臨床の担当教室の教授も来るし、病理の教授ももちろんいる。
CPCの持つ意味がわかるのは病院内では医師しかいない。
学会だの研究会、勉強会なんてのはどこにでもあるがCPCは病院にしかない。

したがって、アナウンスを出すときのメールのタイトルは、

CPCのご案内

だ。

本文にはもちろんもう少し詳しく書くが、わからない人にいちいち、CPCとはなんて、説明しても、かえって鬱陶しいだろう。

***

昨今、剖検を行うことに対して消極的な医者が多いのには閉口するが、かつては剖検率は高かった。
今でも剖検率の高い施設も多いが、私の勤務先でも剖検数は少なく若手病理医の教育には苦慮している。

剖検診断というのは病理医としての全てを注力して行うもので、正直私だってあまりやりたくはない。
通常の生検診断、手術検体診断と違い、全て病院からの持ち出しで、全身の臓器を検索するので、時間も無茶苦茶かかる。

だが、これをやらなくては医療医学の進歩は望むべくもない。
若手の病理医の中にはそんな剖検が嫌なものだから、

 もう、画像診断の時代ですからねー

などとうそぶいて、剖検を疎かにするのもいるが言語道断で、そんなことでは病理医としての研鑽を積むことはできない。
剖検をおろそかにしては、そもそも懸命な治療にも関わらず、患者さんが亡くなり、その剖検の承諾を得た臨床医。そして亡くなった故人そのご遺族に申し訳ない。

臨床医にしてももう亡くなってしまった方のことの振り返りだし、より良い治療法があったかもしれないなどと突っ込まれることもあるし、学会発表でもないので、なんの実績にもならない(実際のところは希少症例が多いので、その後発表する臨床医は多い)。

そんな臨床医と病理医が議論を戦わせるのがCPCであり、病理医である私にとっては院内でもっとも権威のあるカンファレンスだ。

などといっても、剖検は時間がかかるし、診断はもっと時間がかかって辛い。日常の手術検体や生検組織の診断だけしている方がよほど楽チンだがそれでは病理医としての鍛錬にはならないのだ。でも、病態を解明しきって(できないことの方が多いが)報告する時は本当に嬉しい。
 
***

患者さんが亡くなることのない科は、剖検などとはほとんど縁がないし、CPCに興味のない臨床医もいる。

今日も、

〇〇科の先生いますか?

と司会の先生がコメントを求めるところがあったが、あいにく不参加だった。
あの科が出てくれてたらもう少し突っ込んだディスカッションになっただろうに、残念だ。

それに解剖室のある病院でなくては剖検はできないし、死体解剖資格をとる臨床医もいるが、そもそも組織が読める病理医がいなくてはできない。

今日の私のプレゼンが全て正しいということはないだろうが、組織をみて、病態についていろいろな可能性を考えるという、医者としての思考の訓練はできたのではないだろうか。
 
今日、参集してくれた医師およびコメディカルの人に、ほんの少しだけでも役に立ったとしたら私は嬉しいし、故人へのお礼となるに違いない。

病理医の病理医たるゆえん

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きょうの弁当と人口増加と食糧危機

2022年07月13日 | 日本のこと、世界のこと
昨日の帰り、駅のエスカレーターを上がっていたら、足を踏み外して、ステップに手をついたところが痛い。
大怪我にならなくてよかったが、やっぱりエスカレーターでは手すりにつかまってじっとしているべきだと痛感した。
自分がせっかちだというのはわかってはいるが、遠距離通勤ではピンポイントで電車の乗り継がなくてはあっという間に2、30分のロスになるので、ついつい急いで次の電車の出るホームに向かってしまう。
山手線だの中央線を一本やり過ごすのとはわけが違うのだ。
とはいうものの、他の人への迷惑もある、やっぱり気をつけようと反省する。

来年にはインドの人口が中国を抜いて世界一になるという(インドの人口 来年世界最多に 中国を上回る推計を国連が発表 )。
すでに人口減少局面に入っている中国の人口が再び増加に転じることはどうやらなさそうで、この先しばらくはインドの独走となるみたいだ。
さらに、世界人口は30年に85億人、50年に97億人、80年代には104億人でピークに達すると予想されているそうだ。
確か私が子供の頃の地球の人口は36億人と記憶している。それがいつのまにか50億を突破し、今では80億近く。
人口増加に加え、天候不良、円安、中国による食料寡占、ロシアによるウクライナ侵攻、そしてそもそも極端に低い食料自給率のせいで、食料価格がどんどん上昇している。
こんなお弁当を作ってもらえるのも今のうちだけかもしれない。

国がやらなくてはいけないことは山積みだ。
政治家はスピード感を持って、という言葉を使うが、”感”は抜いて、スピーをもって喫緊の課題に取り組んでもらわなくてはいけない。

私だって、医療資源の有効利用を考えながらより良い医療を実現しなくてはいけない。
それにしても痛い

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