やや厚い雲によっておおわれて、空気はひんやりしている。
といっても、24度で、一昔前だったら熱帯夜一歩手前で結構な騒ぎだったのではないだろうか、体の順応能力には驚きを隠せない。
毎日、いろんな細胞がいろんな目的を持って変化している姿をみているが、それらの延長が個体の変化であると考えると人間というのがいかに生きるために上手く作られているかがわかる。
安倍元首相の暗殺事件をきっかけに旧統一教会のことがクローズアップされているが、私が若かった頃、わが家ではよくこのことが話題に上がった。
原理とか、統一教会という(宗教というよりは)組織があり、若い人がそこに入信して抜け出せなくなっているという話を聞くから、私(コロ健)も気をつけるように、と両親によく言われたが、具体的にどういうものかはよくわからなかった。
ある地方大学など、学生の半分が原理だなんて噂を聞いた。
昭和4〜50年代というのは、新興宗教が勢力を伸ばすのにしのぎを削っていた時代だったのだろう。
通学の時、渋谷での乗り換えついでに、公園通りのディスクユニオンまで外版レコードを買いに行く途中で、たいてい一人か二人(そしていつも女性)に、
「ちょっとよろしいですか?」
とか、
「鶴をおりませんか」
などと声をかけられた。
今にして思えばああいうのの中には、原理なんていうのもあったのかもしれないが、結局喫茶店とかどこかに連れていかれるというようなことはなかった。
ちなみに、芸能プロからのスカウトもなかった。
カルト宗教といえば、地下鉄サリン事件を起こしたオウム真理教がを思い出す。
講義中に選挙カーから流されて聞こえてきた教祖の名前を連呼するテーマソングはいまだ耳から離れない。
オウム真理教は大事件を起こし自己破滅に向かった。
一方で、マスコミ報道で知る限りだが、統一教会は既存政党に食いついて市民権を得ることに成功したようで、やり方によってずいぶん違うものだ。
今や、ハチ公だのモアイ像だのの辺りをうろうろしても、若者に突き飛ばされるのが関の山でだれも声をかけてくれることはない。
あの頃、それなりに若かったであろう女性たちにホイホイついていかなかったのは、どうしてだろう。
私が女性に興味がなかったからか、それとも、友達と遊ぶこと、部活に打ち込むことで忙しかったからか。
女性に興味がなかったからではないだろうが、その雰囲気に気圧されていた可能性はあるし、これに、後者が加わったのだろう。
そうだとすると人間は孤独にしておいてはろくなことがない、ということになる。
小人閑居して不善をなす、とはニュアンスがちょっと違うが、人間一人にしておくとろくなことにならないというのは確かだ。
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