今朝は、埼玉での立てこもり事件のニュースでいっぺんに目が覚めた。犠牲者が出たとのこと、とても悲しく残念だ。昨日、警察に出頭した大学入試共通テストのカンニングの犯人は19歳の隠れ浪人女子大学生だったそうだ。海外では、ウクライナをめぐる米露の対立は深刻さが増しこそすれ沈静化する兆しはなかなかみえてこない、北朝鮮は此処を先途とミサイルを撃ちまくっている。そして中国ではもうまもなく冬季オリンピックが開幕する。人の数だけ事件があってもおかしくはないが、昔からこんなにあっただろうか、あったけど闇に葬られていただけだったのだろうか。
私のことに立ち返ると、一昨日から妻の手製の布マスクをやめて不織布マスクを使うようになった。これは新型コロナ分科会の尾身会長がNHKで、
布マスクやウレタンマスクではなく、不織布マスクを使ってください
と宣言したからで、こうなると布マスク=悪のようになってしまうので、せっかく妻が作ってくれた布マスクだが、私もあきらめた。布マスクはウレタンよりはよほど性能はいいのにと思うと少し残念だ。
マスク生活が始まってほぼ2年になる。すなわち、人の顔をまともに見なくなって2年ということだ。人と集まることも減り、互いの距離というものを忘れつつあるように思う今日この頃。距離といってもよく言う”パーソナルスペース”とかそんなものではない。人と接するとき、背格好、服装、物腰、表情などを見てから近づく。もう少し近づき、少なくとも互いのにおいがわかるぐらいになる。話しているうちに相手の息遣い、目の動き、体温など感じるようになり、互いを理解するようになる。
それが、マスク・リモート生活で、日常生活でそんな他人との距離感を把握することが難しくなってきている。当たり前のようにあることに対するありがたさというのは、失ってみて初めて分かるが、人間同士の距離感というものもそんなことの一つだろう。最近は握手をする人をテレビの中でちらほらみるが、あれはもう我慢できない人の行動だ。おかしな事件が頻発しているのも人との距離が失われているからだと思うし、実際コロナ禍が直接の引き金になっている事件はあるに違いない。
人間は社会的な動物であって、それなくして生きていくことはできない。いくら頑張っても霞を食って生きていくことはできないのだ。だとすれば、この人との距離感が失われつつあるこの時代にどうやって新しい距離感というものを構築していくかを人類皆で考えなくてはいけない。
忘れないうちに
僕も遠くに行くときは不織布、近くを2、3時間散歩するとき(喫茶店でお茶しますが)は布マスクと決めてましたが、尾身発言で全て不織布にしました。2、3時間でポイは勿体ない気がしますが、仕方ありません(笑)。
あの発言は結構ショックでした。なにせ2年近く布マスクでしたから。布マスクに比べて不織布マスクはチクチクして嫌ですね。かぶれる人がいるのもよくわかります。