能登半島地震ではじまった1月も今日明日で終わり。
あっという間だ。
このひと月の間私は何をしていたのだろうと思い返してみても、これといったことはしていない。
もちろん、日々多くの患者さんの病理診断をして、それぞれの人の命、人生に関わってはいるのだから何もしていないわけではない。
人間というのが何かを為すというのは難しい。
この辺りに潜伏していたというのには少々驚いたが、身を隠すのにはこれぐらいの人口密度がちょうどよかったのだろう。
連続企業爆破事件があったのは、1974年頃、私が小学5年生の頃で、報道を見聞きして得体の知れない恐怖を感じたのを思い出す。
その後、超法規的措置とか難しい言葉が続いた。
最近でもときどき高齢者の過激派が捕まっているので、まだ”何か”のために闘っている人たちがいるようだ。
ときどき、かつての活動家なのか、近寄りがたい目力を感じるお爺さんお婆さんがビラを配っているのをみかける。
鎌倉の病院で死んだかつての過激派(と思われる人物)は私と10歳しか歳が違わない。
もちろん、その頃は小学生と大学生ほどの大きな違いだが、としをとれば10歳など誤差の範囲だ。
20歳前後でそういった道に身を投じ、50年という人生のほとんど全てを捧げたのは、”何のための”闘いだったのだろうか。
そして、本人とっては高邁な理想を掲げていたわりに、逃亡犯のまま何も世に問うこともない人生は何だったのだろうか。
最期は自分の名前で死にたかったということだが、ならばもっと早くに名乗り出ているべきではなかったろうか。
死刑が怖かったのか、では、殺された人の恐怖はどうだったのか、それは彼の中でどのように解釈されていたのだろうか。
生きている間に本人確認ななされなかったそうだ。
利他的に生きる
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