分担執筆していた病理の専門書の著者校正が戻ってきた。1月に脱稿していたものが今頃になって返されたもので、脱稿後は例の連載に追われて内容も忘れかけていた。しかしながら、赤やら緑やらのインクでびっしり書き込まれたコメントを見て、校正者さんの熱意に圧倒された。それで、元の原稿の文章を読むと、こんなものを提出していたのかと恥ずかしくなる。それなりに推敲したつもりだったがまだまだ足りない点が多く、言い回しも分かりにくい点が多かった。ページ数が決まっているので、冗長になところはなかったが、念のため自分なりに点検してお返しした。
読む人が読めばしょうもない文章・図表かもしれないが、原稿を文字情報の塊として眺めてみるとそれなりの質量を感じる。私なりの情念というかそんなものを感じるわけで、なるほどプロの作家なんていうのはこうした感覚の虜になっているのかもしれない。こんなだいそれたものを自らの頭が生み出していたのかと思うと、私ですら一種わけのわからない感覚にとらわれてしまうぐらいだからそうなのだろう。
改めて文字というものは面白いものだと思う。記号の羅列に過ぎないのにそれが集まって様々な情報を持つようになり、優れた文章は人の心をさえ動かす。それはもう文章が”質量”を持っているといえるのではないか。では、文章の質量とは何だろう。
世の中に溢れている駄文のほとんどは吹けば飛ぶような軽いものだ。私のブログもそう言われたらそんなもので、毎日ビクビクしながらアップしている。ただ、軽いといっても短くて拙い文章であっても心に届いてくるものがある一方で、長かったり、難しい語を並べたりしていても内容を理解できないものも少なくない。学術書のように門外漢にとってはそれこそ文字記号の羅列にしか過ぎない文章もある。それぞれの文章の”質量”というものを客観的に計る指標というものはない。さて、私はこのブログという場をどう利用して、日々のエントリーに”質量”を持たせることができるか、自問しながら書いていきたい。
ということで、明日も少し考えてみようと思う。
今日は直木賞・芥川賞の発表
上手い文章が心を打つとは限りませんね。
野口英世さんのお母様の手紙。
円谷幸吉さんの遺書・・・
ずし~~と来ます。
作家は確かに上手い!
宮沢賢治さんの永訣の朝など毎回涙です・・・
ブログは論文ではないので自由な書き方でいいのでしょうが・・・
私も、こんなこと書いて大丈夫かななどハラハラしてます。
友人家族にも知らせず、そっと書いているので読者は多くないのですが、
読んでくださる方がたには感謝いっぱいです。
そうですね、読んでくださる方には感謝以外の言葉はありませんね。自分の思いを受け止めてくれるわけですから、ありがたいことです。
そんな思いも加えて、もう少し考えてみたいと思います。