新聞を読む人がずいぶん減ったそうだ。原因として新聞のコンテンツに問題が無いともいえないが、やはりモバイル機器、特にスマホの発達が原因で、情報をスマホでとってくるので十分であると考える様になったことは否めない。でも、新聞と違ってスマホの記事はとても短く、新聞記事の要約だけのものがほとんどだ。スマホの記事の見出しは15文字程度で、それらはよく凝縮されていて素晴らしいのだけど、そこを開いたあとの記事は、内容が少なかったり、制限がかかっていたりして、一般紙と比べると見劣りがする。そのこと自体はいいのだが、ニュースソースを選ぶ時、最近の私たちはずいぶんと狭い領域から情報を得ているものだと思う。
回転寿司屋に行くと、たくさんの寿司ネタが目の前を次から次へと流れていく。客はそこから、自分の好きなネタを選び取って読む。好きなものを立て続けにとる人も少なくない。これはまるでスマホ画面に次々と登場する多数の情報のようなものだ。すなわち、好きなネタ=好きな情報、耳障りのいい情報、ということで、逆にいうと嫌いなネタは最初から自分の判断で無視することになる。
最近では板前さんに直接注文することも少なくなく、普通の寿司屋に近いところもある。人間同士の会話があって、ときどき嫌いなネタも提案されるという点では、新聞のようなものか。まあ、寿司屋は店主のバイアスがかかっているわけでその点も新聞各社と同じではある。
現代社会は、思いの外自分勝手に行動することが可能となっている。好きなことだけをしていて許される権利がある。嫌なことは無視していいし、嫌なことに直面したらそのことを声高に否定していい。好きなことも嫌なことも次から次へと送られていって、一緒くたになっているので、それぞれの軽重も皿の色ぐらいの違いにしかない。
結果として、他者への配慮は欠如して、人の命は軽んじられる。そんな社会に向かっていることを自覚し、その流れを食い止める必要があると思う。
値段も違う