勤め先の病院ではコロナの第二波に備え、臨戦態勢となりつつある。パンデミックになったらどうする。同僚から感染者が出たらどうする。そして、私自身が感染したらどうする、というようなことのシュミレーションを行なっている。検査部門は地味だけど、何か起こったら病院機能に深刻な影響がでてしまう。そんなわけで、われわれ末端の人間はそれぞれの持ち場でできる限り努力している。

こんなとき、そういうことを考えるのに必要なのは、様々な想像力であり、根底にあるのは他者への共感力だ。ああしろ、こうしろと人を指図するのは簡単なことだけど、常に相手のことを考えながら行わなくてはならない。今の世の中、普通の感覚を持った人は、できないことはできないというし、そもそもやらない。それにもかかわからず、強要したらそれはパワハラといわれる。

近年まれに見るパワハラ問題の裁判がいよいよ始まった(森友学園めぐる裁判 自殺した職員の妻 法廷での意見陳述 全文 | NHKニュース)。国やずっと上の上司が訴えられたわけだが、このことに関与した人間が問われているのは、その政治手腕、行政手腕ではなく、人間と人間の問題であるということ。いくら有能な政治家であっても官吏であっても、人間として許されないことをしてはならないということだ。

権力者の多くは、”代わりはいくらでもいる”と考えている。医者も代わりはいくらでもいると思われている職種であって、情けない思いをすることは少なくない。だがそれは権力者のほうも同じで、同じようにはできないかもしれないが、違ったやり方で仕事を立派に成し遂げる”代わりの”権力者はいる。そしてわれわれは選挙によってそうやって別の権力者に代わってもらうこともできるのだ。今度の裁判は、権力者がどれほど組織の人間を”人間として”扱っていたか、大切に考えていたかが明らかにされるものだろう。
余人はいくらでもいる
