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こんな気持ちでいられたら・・・一病理医の日々と生き方考え方

人生あっという間、私の時間もあと少し。
よりよく生きるにはどうしたらいい?

それぞれの人は代替可能なパーツではない

2020年07月16日 | 日々思うこと、考えること
勤め先の病院ではコロナの第二波に備え、臨戦態勢となりつつある。パンデミックになったらどうする。同僚から感染者が出たらどうする。そして、私自身が感染したらどうする、というようなことのシュミレーションを行なっている。検査部門は地味だけど、何か起こったら病院機能に深刻な影響がでてしまう。そんなわけで、われわれ末端の人間はそれぞれの持ち場でできる限り努力している。

こんなとき、そういうことを考えるのに必要なのは、様々な想像力であり、根底にあるのは他者への共感力だ。ああしろ、こうしろと人を指図するのは簡単なことだけど、常に相手のことを考えながら行わなくてはならない。今の世の中、普通の感覚を持った人は、できないことはできないというし、そもそもやらない。それにもかかわからず、強要したらそれはパワハラといわれる。

近年まれに見るパワハラ問題の裁判がいよいよ始まった(森友学園めぐる裁判 自殺した職員の妻 法廷での意見陳述 全文 | NHKニュース)。国やずっと上の上司が訴えられたわけだが、このことに関与した人間が問われているのは、その政治手腕、行政手腕ではなく、人間と人間の問題であるということ。いくら有能な政治家であっても官吏であっても、人間として許されないことをしてはならないということだ。

権力者の多くは、”代わりはいくらでもいる”と考えている。医者も代わりはいくらでもいると思われている職種であって、情けない思いをすることは少なくない。だがそれは権力者のほうも同じで、同じようにはできないかもしれないが、違ったやり方で仕事を立派に成し遂げる”代わりの”権力者はいる。そしてわれわれは選挙によってそうやって別の権力者に代わってもらうこともできるのだ。今度の裁判は、権力者がどれほど組織の人間を”人間として”扱っていたか、大切に考えていたかが明らかにされるものだろう。
余人はいくらでもいる

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エクボ八重歯は死語になる?”新しい生活様式がもたらす新しい時代”(2)

2020年07月15日 | 日本のこと、世界のこと
昨日(あなたは誰?)の続き。

こうして顔の下半分を隠すのが当たり前になってくると、鼻や口の形を表現する言葉は廃れていくだろう。かつて、ファミレスで、エクボの可愛い女の子がいて「エクボの可愛い子だね」などと夫婦で話したことがあったが、そういう話題ももう出なくなるだろう(とくに可愛かった子には直接言ったらとても喜んでいた、もちろん妻のいるところで)。妻には八重歯があり、本人はそれを気にしているが私は可愛いと思っている。石野真子も八重歯で売り出したので、そう悪いものではないと思っているが、口を隠すとそんな八重歯も見えなくなる。
新しい生活様式”のもと、マスク装着が当たり前となり、エクボ、八重歯に限らず、顔の下半分、鼻、口、頬を見なくなると、それぞれを誰かと比べることもできなくなる。そうすると鼻の高さ、形、口の大きさ、歯並びといったものが人の美醜の価値基準としてこの先どれぐらい残っていくのだろうか。それどころか人の美醜の基準そのものも変わっていく可能性もある。今はまだ、半年前の価値基準が適応されていて、目はぱっちりしている方がなんとなくいいように思えるが、美容整形などでみんながみんなそんなになったら、個性がなくなり、むしろ別の目の形ーたとえば切れ長の目ーが好かれるようになるかもしれない。実際、先日見た浮世絵ではそういう一重まぶたのいわゆる日本的な美人がたくさんいたし、私は好きだ。もしかしたら美醜という概念そのものがなくなって、人間の評価自体も変わるかもしれない。そうしたら、美醜などにこだわらず、人間性勝負という時代がやってくるかもしれない。

日本語に限ったことではないと思うが、顔の造作を表現する言葉というのは少なくない。これまで人間が顔というものにいかに大きな価値基準を置いてきたかということだが、それだけに、顔の造作というものが人間を悩ませる要因の一つでもあった。だから誰もが禅智内供に共感するわけで、あれは何も鼻に限った話である必要もなかっただろう。ただ、そんなわけで、少なくとも顔の美醜を表現する言葉というのは廃れ、やがて死語になるかもしれない。

テレビや映画、SNSなどではこの先もマスクレスの美しい顔を見ることができるが、それはモニターの向こうの世界のことで、背格好を含めた実像ではない。だから、イケメンを探してライブだの劇場に足を運ぶが、ウィズコロナでは、感染のリスクがあってどれほど続くかわからない。この生活様式、少なくとも、この先2、3年は続くだろうから、価値観が変わるかもしれないと思っているし、それはいいことだと普通の容貌の持ち主である私は思う。

私は少々ダンゴ鼻

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あなたは誰?"新しい生活様式がもたらす新しい時代”(1)

2020年07月14日 | 日本のこと、世界のこと
先日、肩までの髪を後ろで束ねた、目のぱっちりした女性の先生が廊下の向こうから歩いてきた。私の方を見て何か話したそうにしているようだ。この先生、誰だったっけと思い出そうとしたが、すぐに出てこない。こういう髪型と目をした女性医師は私が覚えている限りで内科系に1人と外科系に2人の3人いるのだが、マスクをしていてよくわからない。スタッフドクターでもあの例の服を着ているので服装でも区別がつかない(レジデントの青い服 -2012年10月31日)。話しかけられたらどうしようとビクビクしていたら、声の届くところまで近づいてきたところで、私の顔を見て笑顔で会釈して、「先生、○日に迅速診断をお願いします。」と言われた。

迅速の話をしてきたということは外科系ー外科か脳外科ーのどちらかだ。内科系の医者にヤマを張っていたのだが違った。「どんな症例?」と誰だか分からず困っているなどということはおくびにもださないような顔をして、ちょっと気さくな感じで聞き返した。どうせあっちだって私の表情など半分しかわらかない。そして臨床診断を聞いて初めて誰だか、というか何科の医者かがわかって一件落着となった。男性医師だったら、例の服ースクラブーを着ていても体型とか顔の形、髪の毛の量である程度わかるが、30代の女性医師でポニーテールにしていたら区別はつかない。目のメイクも進化しているようで、街ゆく女性みんながきれいだ。

新しい生活様式”のもと、マスクはどんどん進化しているようだが、この先どんなマスクが普及するかは別として、”新しい生活”とは人の顔を半分隠して生きる世の中だ。この生活、始まってまだ半年あまりだから以前の顔を知っている人のことはわかるが、初対面の人の顔は半分、すなわち目から上しかわからない。あと何年かしたら、一緒に仕事をする人の半分以上は顔の下半分を知らないままになるだろうし、仮に今は覚えている人であっても、ほとんどの人の顔の下半分はやがて忘れてしまうだろう。

実際、4月に入ってきた若い医者の顔は知らない。知らないというのは不正確で、よくわからないといった感じだろうか。すでに若い医者の名前は覚えられなくなっている上、さらに科と顔すらもわからなくなってきているので、少々不安すら感じる。
世界保健機関(WHO)のテドロス事務局長が、「予見可能な将来においてオールドノーマル(これまでの標準)に戻ることはない。多くの懸念が存在する」と7月13日に語ったそうだ(WHO「多くの国が間違った方向に」、コロナさらに深刻化も - ロイターニュース - 国際:朝日新聞デジタル)。確かに、オールドノーマルは消滅していくわけで、こういった傾向は今後ますます顕著になっていく。そういったことがはっきり自覚できたとき、初めて人類は新たな衝撃を受けるのかもしれない。
あしたにつづく
半仮面社会

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誰とも会わなきゃいいのだが

2020年07月13日 | 自然災害・事故・感染症
梅雨空に逆戻り。どうも調子が出ない。
昨日、ベランダの鉢を動かしたり、剪定をしたりしたからか、蜘蛛もだいぶ被害にあったようで、今朝は張り直した新築の巣がほうぼうにあった。
***
新型コロナウイルス(COVID-19)の昨日の新規感染者数は360人。東京で206人、神奈川県で35人、あっという間に増えてしまっている。今日の東京は一転119人だそうだが、この先もう歯止めはかかりそうにない。実はこの記事、はじめは6月末に書いたのだが、ほかの話に割り込まれてあえなくボツ記事になりそうだったものの敗者復活版。その時点では東京の新規感染者が20人程度で低め安定、などと書いていたのが夢のようだ。

感染者の主体は相変わらず夜の街の住人と若者らしいが、劇場でもクラスターが起こったみたいだし、そろそろそういう人たちの家族からも感染者が出てくるだろう。そんな普通の人から広がる市中感染が広がると事態は深刻。満員電車でクラスターというのは今の所起きていないが、緊急事態宣言解除後ほぼ以前のような混雑に戻っている。毎日緊張して乗っているが、とくに固まって大声で話す学生や会社員が増える帰宅時の電車が心配だ。鉄道各社は車内での会話を控えるようにアナウンスしてほしいと切に思っている。

大阪の知事が、「どんちゃん騒ぎをする若者」という表現で、そのような行動を慎んでほしいということを発言したそうだが、世界中で感染拡大が問題になっている状況で、そういう行動は控えるべきだろう。とくに医療従事者とか高齢者と同居しているような、感染させた時の重症化のリスクの高い人が近くにいるような人は遊ぶか仕事かのどちらかを選択すべきだろう。私だって、そんな従業員がいる病院、施設は利用したくない。まあ、かかってもいいやぐらいに思っている人にそんなことを言ったところでが仕方ない。彼らにとって新型コロナウイルス(COVID-19)感染はほかの風邪と変わらないもので、症状の出ない人だっている。そんなのを世の中ではなんでそれほど恐れるのか理解できるわけがない。

若者に限らず、”症状さえ出なければ感染しても構わない”と思っている人は少なくないはずだ。問題は、自分が感染すること、というより、他人に感染させないこと。なぜ、マスクをしなくてはならないのか、そのことを理解して欲しい。
かかりたくなければ誰とも会わなければいいのだが、人間生きていくには誰かと会って話をしなくてはいけない。人間である限り逃げ場はないので、極力人と会わずに過ごすのが一番だろう。それでも、対策がしっかりしているようだから大丈夫だろう、などと美術館に行ってしまったり、私にしても緊張は緩んできていると自覚している。
戦々恐々

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かえって静かに過ごした1日

2020年07月12日 | 日々思うこと、考えること
久しぶりの青空。
ああ、空の色って、こうだった、と思わずしみじみしてしまった。それほど、今回の長雨は精神的にこたえている。そんな貴重な梅雨の晴れ間を上手に使おうとしてもいざとなるとあれこれありすぎ、かえって悩む。
土日はいつも晴れていて、たまに曇ったり雨だったりなんて思えていたのがいかに贅沢だったか。

手入れをしようとプランターを見て回ったが、ベビーリーフ類は手入れをしないうちに徒長したり、虫に食われていたりで、ほぼ全滅。今年はもう終わりにしよう。キュウリとゴーヤは充分育っていたのがあったので、収穫した。キュウリが大好物だったナイトに供えた。枝に突き当たって見事に曲がってしまったキュウリ、ナイトに1本丸ごとやれたのにと思うとまたちょっと寂しくなる。
ほかの鉢植えたちにも陽を浴びさせてやったり、傷んだ葉や花を取り除いたり、土増ししたりするうちにあっという間に昼となった。
昼食を済ませて、東京の母のところに顔を出した。高速は空いていて、なかなか快適なドライブとなった。

明るいうちに帰ってきたが、雲がずいぶん出てきた。明るいうちにもう少しだけ庭仕事をやろうと思ったら、あっという間に蚊の餌食。虫除けスプレーもあまり役に立たなかったので、早々に退散した。
あれこれしようと思っていたけど、終わってみたら、なにをしたというわけではない1日。かえって静かに過ごしたことになるけれど、コロナの時代、こんなのをスタンダードにしたい。
天気は明日からまた下り坂とのこと、梅雨明けが例年並みならあと1週間ちょっと。我慢我慢。
夕食はゴーヤチャンプルー

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大雨ついて葛飾北斎

2020年07月11日 | 読書、映画、音楽、美術
葛飾北斎生誕260年ということで、今年はほうぼうでいろいろな企画があったり、雑誌の特集があったりしている。神奈川県箱根町の岡田美術館で「北斎の肉筆画展」というのが行われているとのことで、観に行った。
箱根は全山濃霧、芦ノ湖はほとんど見えなかった。それでも箱根神社の横を通ったら、結構な数の参拝者がいてびっくり。箱根への観光客は徐々に戻り始めているようだ。
この美術館が有名なのは知っていて、前を通ったことはあったが、入ったのは初めてだった。駐車場は空いていてすんなり入場。しっかり熱を測定され、スマホもコインロッカーに預けた。館内は空いていて、ゆっくり鑑賞することができた。
4フロアのうち、企画展はそのうちの1フロアで行われていたが、行き着くまでに他の展示品に目を奪われ、なかなかつかない。北斎展にたどり着くまでに2時間近くかかってしまった。でもまあ、途中で歌麿の「深川の雪」をたっぷり観ることもできて、よしとしよう(深川の雪|岡田美術館)。もちろん、北斎展は見応えのあるものだったが、他にもそうそうたる展示品があり、大した美術館だった。解説もふんだんにあって大変よく理解できた。
楽しい1日となり、よかった。
留守番してくれた娘へのお土産は温泉まんじゅうとかまぼこ。
明日は晴れる?

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電車で本を熱心に読む少年を見て

2020年07月10日 | 読書、映画、音楽、美術
今日の天気は小康状態。空の一部には青みがみえるが、基本的には曇り。梅雨明けはまだ2週間ほど待たなくてはいけないようだ。

学校が再開されてしばらく経った。電車内では多くの学生を見るようになり、分散登校のせいか私の出勤時間帯にも、中学生高校生が目立つ。そんな中で熱心に本を読んでいる少年がいた。最近の学生といえばすっかりスマホかゲーム機をいじっている姿ばかりが目につくので、そんな少年の姿は新鮮だった。

私は本を読むことは、知らない世界の知らない人の考え方を知ることができるという意味で、いいことだと思っている。タブレットで漫画を読んでいる人も多く、それも悪くはないだろうが、文字だけで情景を想像するという点では読書には及ばない。そういう意味でも若い人には、読書を勧めたい。
私は本を読むのが好きだったおかげで人間力は多少上がったような気がするが、結局のところ今だに未熟者だし、国語の点数も漢字が読めるようになったという以外はあまり役には立たなかった。だから、必ずしも読書家=国語の点数が高い人ではない。まあ、得るものがたとえほんの少しであったとしても、読書はいいものだ。
ラジオもいい

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降れば土砂降り、泣き面に蜂

2020年07月09日 | 自然災害・事故・感染症
朝、身支度をしているとき地震があった。テレビをつけたら各地の震度が表示されていた。震源は茨城県西部で、さほどの揺れは感じなかったが、北関東はわりと揺れたようだった。その知らせを、大雨に関する警戒情報のテロップが囲む。地震のニュースの次は新型コロナウイルス感染症。

降れば土砂降り、泣き面に蜂。今日も大雨、写真はピンボケ。
東京は今日、過去最多(224人)の感染者数が報告された。
今回の豪雨は「令和2年7月豪雨」と命名された。

地震があればモノが壊れて、雨が降ったら流される。ウイルスに、感染したら熱が出て、若者は平気でそれを拡散し、中高年は重症化。
地震も雨もウイルスも、それ自身は単なる自然の営み。現象そのものはもちろん怖い。だが人間社会で怖いのはむしろそれぞれに付随し、二次的に起きてくる経済社会の問題のほう。

人間だってもともと地球という環境の中の一つの存在にしか過ぎない。それが他の存在の間にまで割り込もうとするからうまくいかない。地球を破壊し蹂躙した結果がいま世界の人を苦しめていることだ。だがそんな自然の流れに対して、抗うことなく、むしろ謙虚に相対さなければ、乗り越えることはできないだろう。
全体の一部

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どことなく憎めない奴らだが

2020年07月08日 | 鎌倉暮らし
昨日の七夕の夜、夜半になって雲間から十六夜の月が顔を出したので、織姫と牽牛は無事逢うことができただろう。でも、ふた晩続けての強風ではなかなかゆったりとはできなかったかもしれない。
いかな大雨大風であっても、三日三晩続けばたいていは収まるものだったが、今年は一向に収まる気配がない。日本列島すべてが水害の恐怖を実感しはじめている。
その強風で、プランターで育てているミニトマトが先週末にだいぶ落とされてしまった。だが、そのうちの何個かは、風に飛ばされたにしてはずいぶん離れたところにあった。動物のせいかと思っていたがなんだろう、スズメには無理な話だろうが、カラスがやってきたらすぐわかるはず、いわんやトンビをや。そうしたら妻が真犯人を突き止めてくれた。
犯人はリス、鎌倉を縦横無尽に駆け巡るタイワンリスだ。妻が発見して写真を撮ったら、”見たなー”みたいな顔をしてこちらをにらみ返されたそうだ。
このタイワンリス、3羽の家族でわが家の周辺を縄張りにして暮らしている。3月ごろから小鳥に餌をやっていたのを横取りするようになって、困っていた。今度は家庭菜園までとは。どことなく憎めない顔をしているので追い払うぐらいで許してしまっているのがいけないようだ。
鎌倉市のリス問題は結構昔から知られていて、市としても対応しているが実効性のあるものはないらしい(タイワンリスによるひがいー鎌倉市HP被害)。先日、友人のFBで横浜でも出没するようになったということを知った。害獣であるタイワンリスがその可愛らしい顔で人間を油断させつつも、勢力範囲を拡大している。東京進出の日もそう遠くはないだろう。

わが家の家庭菜園程度なら、布を被せたらいいだろうと考えているが、タイワンリスは案外賢く、これでは甘いかもしれない。あとは、完熟して甘くなる前に収穫するか。
ミントか七味

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昨日のうちに会ってたりして?

2020年07月07日 | 日々思うこと、考えること
夜中に、ごうごういう風の音で目が覚め、外を見たらソヨゴが今にも折れそうにしなっていた。房のように咲いた花が白くぼうっと浮かび上がっていたので、どうしたのかと空を見上げたら、ものすごい速さで流れる雲の間から丸い月が見えた。そういえば、昨晩は満潮となるから、水害に十分気をつけるようにとニュースで言っていたのを思い出した。
おとといの日曜日、ご近所までお届け物をしにでかけたら、鶴岡八幡宮の鳥居に七夕飾りがあったので、舞殿までお参りした。舞殿の先、大石段の下、すなわち大銀杏の前に茅野輪があったので妻とくぐった。どうしてまだ茅野輪がまだあるのだろうと不思議に思ったが、そこには人形(ひとがた)も置いてあり、”新型コロナウイルス感染症の影響で大祓いの儀式は取りやめ、参拝した人それぞれが納めることにしたというような説明書きがあった。頭と体を撫で、息を吹きかけ、横に置いてあった小さな赤い箱に奉納した。
神の服をせっせと作っていた織姫と、これまたせっせと牛の世話をしていた牽牛とを、神が夫婦にしたら働かなくなり、怒った神が引き離し、悲しく余計に働かなくなって、困った神が二人を年に一度だけ合わせるようになったそうだ。もともと労基署がやってきそうなブラック企業で、職場結婚させられて、それでも幸せを掴んだら、今度は、片方が単身赴任。会えるのは年に一度、というなんだか切ない話だ。どこかにあったそんな話が物語になったのだろうか。
昨晩の満月は妻も見ていたようで、”今夜も雨だから、あの月明かりを頼りに二人は一晩早く、会っていたのかしら”などと今朝言っていた。今夜も雨は上がっているけれど、やはり星は見えない。そうだとしたら、なかなか二人もしたたかだ。
それはさておき、その織姫のような技術・技能が手に入るようにという願いを込めるようになったのが、七夕の願い。舞殿の横にはそんな願いを書いた短冊がたくさん下がっていた。
日本各地の七夕祭りも新型コロナウイルス感染症に加え、大水害でそれどころではなくなっているだろう。医療施設の被災も報じられていて、受付には家庭に飾るよりはずっと大きな笹が多くの短冊で飾られていただろうかと思うと、悲しくなる。
この国に、どうしたらいいかわからないという状況が目の前に突きつけられている。
世の中の役に立つ病理医になれますように

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弁当箱でお弁当の味は変わるか

2020年07月06日 | 料理・グルメ
今日も朝から土砂降り。鎌倉は水害に強い街ではないので、だんだん心配になってくる。

車で駅まで送ってもらわなかったら、とてもじゃないけど出勤などできないぐらいだった。駅の近くにはいつもの数倍の車が家族を送りに来ていて、ちょっとした渋滞まで起こっていた。湿度は高くて、階段を上がってホームに並んだ頃にはマスクの下で頭がぼーっとしていた。それでも雨のおかげかPM2.5が低い値で推移しているのは助かる。結局一日中降ったみたいで、帰りも傘を持って出てよかった。なにしろ、仕事場は窓なし部屋なので、出るときには外の天気は分からず、タイムカードを押して、病院の外に出てやっとわかる。だから、手ぶらで外に出て雨だったら部屋に取りに戻らなくてはならず、傘を持って出るかはちょっとした賭けだ。

妻には、今の職場に移ってからお弁当を作ってもらうようになった(今週からお弁当 - 2019年10月17日)。それ以来、よほどのことがない限り弁当を持たせてくれている。最初は息子が高校時代使っていた黒い弁当箱を使っていたが、大きかったのとパッキンが今ひとつで時々汁漏れをした。そこで娘が高校時代に使っていた蓋にスヌーピーの絵が描かれている2段重ねの弁当箱に変えた。それなりに量も入り、使い心地はまずまずだった。休憩室で技師さん達と一緒に食事をしていた頃は、蓋も可愛いといってくれていたが、最近表の絵がだいぶ剥げてきてしまっていた。
妻が先週、新しい弁当箱を買ってきてくれた。スリムタイプでカバンの中に立てて入れることができるスグレモノだ。四六判の単行本と同じぐらいの大きさなので、並べてピッタリと入れることができ、荷室に無駄が出ない。昼は多めにというのが妻の持論で、ちょっと細身だったのを心配していたが、見た目よりも多く入っていた。
これにインスタント味噌汁にとろろ昆布を二口分ほど加えたものが昼食。今度のはワンプレートなので、蓋を取ってそのままぱっと電子レンジで温めることができるのはうれしい。それに洗うのも楽だ
ところで弁当の味が、弁当箱によって変わることはない。今日も美味しくいただいた。毎日いろいろと献立を考えてくれる妻には感謝するとともに、尊敬する。
ありがとうございます

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雨続きで手入れ不足の家庭菜園

2020年07月05日 | ガーデニング・菜園・花・緑
昼前からふたたび大雨。梅雨時だから仕方ないとはいうものの、ここ数年来と同様、雨の降りかたが極端で、わが家もいつ水害にあってしまわないかと心配になる。熊本では線状降水帯が発生して球磨川が氾濫する大水害がおこってしまった。お気の毒に、多くの方が亡くなってしまった。お見舞い申し上げます。

連日の雨で、野菜の収穫もままならず、ベビーリーフやサンチュを取らないでいたらいつの間にか徒長してしまった。傷んだ葉っぱを取り除くのを怠っているうちにどれも茫々。素焼き鉢で育てたのがよかったのかわからないが、世話はなかなか大変だ。来年はすべて野菜用のプランターでやることにする。
ちょっと油断していたら、キュウリがずいぶん大きくなってしまっていた。ナイトの大好物なので、元気だったら喜んで食べてくれただろう。そのほかはナスとミニトマトとピーマン。
ミニトマトは風で落ちてしまったものがたくさん。もったいないので拾い集めておいた。熟してくれたらお弁当に入れてもらおう。
そなえよつねに

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私の幸せ不幸せ

2020年07月04日 | 生き方について考える
朝、身体を起こしたとき、ふと考えた。

私は幸せか、と。



私は幸せかもしれない、でも本当に本当に幸せ?

私より幸せな人のことを考えてみよう。
私より金持ち、私より才能のある人、私より人格の優れた人。私より幸せで羨ましくなる人はたくさんいる。私はそれほど金持ちではなく、何の才能もない上、人間は未熟。そんな私は幸せではない。

あれ?ついさっきまで幸せだと思っていたのに、つぎの瞬間不幸せ。

幸不幸など絶対的な価値基準など無く、相対化された瞬間にそれは優越感と劣等感に置換される。
そんなことに心を悩ませなんになる。

父が亡くなって今日で1ヶ月、父は幸せだっただろうか。

そう、亡くなった人に、幸せだったか不幸せだったかを問うて一体何になる、何にもならない。やがて死にゆく生きている人間にしてもそれは同じ、幸せか不幸せかを悩んだところで、何になるというのだろう。
比べない

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また立ち会えた、病理診断科のスタート

2020年07月03日 | 病理のこと、医療のこと、仕事のこと
病理診断科が診療科の一つに仲間入りすることになった。昨年赴任した病院に病理診断科(または病理科)という診療科がなかった。位置付けとして、病理診断業務は検査科の一部、すなわち検査業務の一つという状態だった。

折しも7月1日から第109回日本病理学会総会がコロナ禍にもめげずにWeb開催され、錚々たる先生方が立派な講演や発表をされているというところで、一介の一人病理医が病理診断科が標榜されるようになったからという程度のことで欣喜雀躍というのもなんだか残念な話ではある。だが、検査科ということでは身の置き所がなく、赴任して以来落ち着かない日々が続いていたということを可哀想に思ってお許しいただきたい。

私の世代の病理医は標榜科を勝ち取る苦労を経てきた世代でもある。広告可能な標榜科名として「病理診断科」が認められたのが平成20年であり、そもそも10年余りの歴史しかないのだ。病理科とか病理診断科という名前はずいぶん前からあったが、平成の初め頃に勤めた大学病院でも、検査部内にあったし、最初に赴任した出張病院でも検査科病理だった。次に移った病院でも初めは臨床検査部の中の病理検査室だったが、12年前にやっと病理診断科を標榜するようになった(いよいよ病理診断科 - 2008年3月27日)。これがはじめての所属部署の名称変更で、今回が二度目。その前後から病理科とか病理診断科という名称を使う施設が急速に増えたが、病理学会の調査(文末参照、少し古い)ではまだまだ決して多くはないようだ。その後勤めた2病院は幸いいずれも病理診断科だった。

最後に、平成25年に出された、病理学会のHPからの院内標榜に関する告知を原文のまま引用する。遅ればせながら、私の勤務先も数値の向上に寄与することができたということだ。
”平成20年に標榜診療科として「病理診断科」が広告可能な標榜科名として認められ、医療法施行令第3条の2に「病理診断科」の名称が付け加えられました。しかしながら、「病理診断科」の名称が使用されている病院は少なく、HP上での調査(2012年7月現在)では、「病理診断科」を標榜している病院は、国立大学附属病院・関連施設では約19%、公立大学附属病院・関連施設では約22%、私立大学附属病院・関連施設では約27%にとどまっております。厚生労働省・専門医機構の「専門医のあり方に関する検討会」のヒアリングでも、「病理診断科」の科名を使用している病院が非常に少ないことが問題として指摘されました。  
「病理診断科」の院内標榜にあたり、所轄保健所等への届け出は必要ではなく、外来ブースの設定や外来を実際に行う必要もありません。また、「病理診断科・病理部」などと併記することも可能です。病理学会員による長年の働きかけの結果、標榜診療科として「病理診断科」の標榜が可能となりました。会員の皆様には、診療機関での「病理診断科」の名称使用の促進をよろしくお願い申し上げます。
こんなことでも大変でした

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院内標榜科に関して下記に参考資料を紹介しますので、参考にしてください。”



転売ヤーとシャイロック ・・・2020年6月の読書記録

2020年07月02日 | 読書、映画、音楽、美術
1冊。それも読み始めたのは5月の終わりの27日で、それまで4か月間本を1冊も読んでいなかったのかと思うとゾッとする。これでは、教養を高めるどころか、ジリ貧の知性がますます枯渇するだけだ。

この本を読んで、私のかねてからの”嘆き”、すなわち、今の社会に”大人”が減っているということへの答えの一部がわかった。それは、私が望んでいる”大人”というのは、”教養のある人”に換言できるということだった。教養をひけらかす教養人はいないので、だれが教養のある人であるかはなかなかわからないが、すくなくともクイズ番組で物知りであることをひけらかすような人物ではない。
とはいえ、そういったクイズ王のような人たちの足元にもおよばない人生を歩んできた私のような凡人は、教養を高めようなどと大それたことを考えるより、高値で教養の書を売りつけた転売屋のように浅薄な人の欲望を見透かして商売をする人間の生き方を学んだ方がよほどいいかもしれない。そもそも、教養と商売は別物だから、強欲なシャイロックが実は教養あふれる人物だったとしても物語への影響はない。

朝日の書評欄に載っていたから勘違いしたのだが、この本は高校生、大学生に向けて書かれたもので、私のようなアラ還はおよびでなかったようだ。およびではなかったが、せっかく高いお金を出して買いもとめた良書、ちょっと遅いかもしれないが大学出たての娘に読んでもらおうと、机の上に置いておいたら、いつの間にか、妻が手にとっていた。

読んだ本の数:1
読んだページ数:416
ナイス数:8



朝日の書評欄で目にしてamazonで買おうとしたが品切れ。マーケットプレイスでは税込み1980円の本が、配送料・手数料1300円、計3280円で売られていた。注文した後、この業者が話題の本をいち早く買い占め、手数料で稼ぐ転売屋だと気がついた。マスク騒動の時、マスクそのものよりも、配送料・手数料が高い値段で売られているのを思い出した。転売屋から手に入れた”教養”はわかりやすい言葉で語られていて、私がいかに教養と無縁に生きてきたかを思い知らされた。後の祭りとはいえ、自分なりに教養を高めようと、せめてこれまで蓄えてきたガラクタのような知識をまずは見直してみることにした。(斜体時は加筆)
読了日:06月30日 著者:戸田山 和久

ひけらかさない

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