攻防 消費税⑧ 看板掛け替えても
国会内外の反対を押し切って、当時の自民党・竹下登内閣は1989年4月から消費税を実施しました。消費税強行に反対する国民世論は、日本列島を揺るがし、竹下首相は退陣を余儀なくさせられました。
竹下氏は自著『平成経済ゼミナール』でインタビューに答えて、「(政権を放り出して)残念だったというような感じがしないんだな。やはりおれは実感としてひと仕事やったんだ、という自分自身に対する誇りがいささかなりともあるんだよ」と振り返っています。まさに消費税導入を自らの使命と自覚していました。しかし、消費税強行に象徴される国民を無視した自民党政治そのものがゆきづまりを迎えます。
新政権も継承
93年7月の総選挙では、自民党政治の危機が一つの頂点に達しました。自民党政治を終わらせることが問われ、選挙の結果、細川護煕(もりひろ)内閣が誕生したのです。細川連立政権は「非自民・反共産」を掲げ、「国の基本施策についてはこれまでの政策を継承」するという「合意事項」に署名しました。つまり、自民党政治を終わらせるとしながら、その内容は継承するということです。
細川内閣は「政治改革」と称して小選挙区制と政党助成金の導入を強行。つづいて手がけたのが「税制改革」でした。
「高齢化社会においても活力のある豊かな生活を享受できる社会を構築するため、国民福祉税を創設する」「消費税はこれを廃止する」。94年2月3日未明に記者会見をおこなった細川首相は税率3%の消費税を廃止するとともに、税率7%への国民福祉税を創設すると表明しました。
名前を変えた消費税アップに反対し、廃止を呼びかける「なくす会」の人たち=94年2月4日、東京・巣鴨駅前
米と財界優遇
国民福祉税構想はだれが求めたものなのか。当時、細川首相の秘書官を務めた成田憲彦氏は日本記者クラブでの講演で「まず、アメリカが強く要求をしておりました。それから日経連、それから連合の山岸章会長は大変熱心」だったと振り返っています。
当時アメリカは対日輸出を増やすための景気刺激策を日本に要求していました。それにこたえて細川首相は所得税減税を画策し、財源として消費税の増税=国民福祉税の創設を提唱したというのです。
実際、米国・ベンツェン財務長官は、「景気刺激策の公表を歓迎する。正しい方向への一歩だ」と、歓迎する声明を異例の早さで発表しました。また、当時の経団連・平岩外四会長は「所得税、法人税減税を含む税制改正に思い切った決断をしたことを評価したい。
これが実現すれば、景気にも好ましい結果をもたらすと確信する」と歓迎しています。
導入に暗躍したのが連立与党の一つ、新生党の小沢一郎代表幹事と大蔵省の斎藤次郎事務次官(現・日本郵政社長)でした。小沢氏は93年に『日本改造計画』で「現在3%である消費税の税率を、欧州諸国と米国の中間の10%とする」と明言するほどの消費税増税論者です。小沢氏と斎藤次官のパイプは自民党政権時代からのもの。
細川氏の首椙時代の日記『内訟録』には当時、官房副長官だった石原信雄氏の証言として7%という税率を小沢氏と斎藤氏が決めた経緯が書かれています。
しかし、国民福祉税は「消費税の看板を掛け替えただけのもの」などと批判を浴び、7%の根拠も「腰だめの数字」(おおよその数字)という要領を得ないものだったために、連立政権内部でも反対の声が抑えられず、国民福祉税は撤回せざるを得ませんでした。
(つづく)
「しんぶん赤旗」日刊紙 2012年6月23日付掲載
国会内外の反対を押し切って、当時の自民党・竹下登内閣は1989年4月から消費税を実施しました。消費税強行に反対する国民世論は、日本列島を揺るがし、竹下首相は退陣を余儀なくさせられました。
竹下氏は自著『平成経済ゼミナール』でインタビューに答えて、「(政権を放り出して)残念だったというような感じがしないんだな。やはりおれは実感としてひと仕事やったんだ、という自分自身に対する誇りがいささかなりともあるんだよ」と振り返っています。まさに消費税導入を自らの使命と自覚していました。しかし、消費税強行に象徴される国民を無視した自民党政治そのものがゆきづまりを迎えます。
新政権も継承
93年7月の総選挙では、自民党政治の危機が一つの頂点に達しました。自民党政治を終わらせることが問われ、選挙の結果、細川護煕(もりひろ)内閣が誕生したのです。細川連立政権は「非自民・反共産」を掲げ、「国の基本施策についてはこれまでの政策を継承」するという「合意事項」に署名しました。つまり、自民党政治を終わらせるとしながら、その内容は継承するということです。
細川内閣は「政治改革」と称して小選挙区制と政党助成金の導入を強行。つづいて手がけたのが「税制改革」でした。
「高齢化社会においても活力のある豊かな生活を享受できる社会を構築するため、国民福祉税を創設する」「消費税はこれを廃止する」。94年2月3日未明に記者会見をおこなった細川首相は税率3%の消費税を廃止するとともに、税率7%への国民福祉税を創設すると表明しました。
名前を変えた消費税アップに反対し、廃止を呼びかける「なくす会」の人たち=94年2月4日、東京・巣鴨駅前
米と財界優遇
国民福祉税構想はだれが求めたものなのか。当時、細川首相の秘書官を務めた成田憲彦氏は日本記者クラブでの講演で「まず、アメリカが強く要求をしておりました。それから日経連、それから連合の山岸章会長は大変熱心」だったと振り返っています。
当時アメリカは対日輸出を増やすための景気刺激策を日本に要求していました。それにこたえて細川首相は所得税減税を画策し、財源として消費税の増税=国民福祉税の創設を提唱したというのです。
実際、米国・ベンツェン財務長官は、「景気刺激策の公表を歓迎する。正しい方向への一歩だ」と、歓迎する声明を異例の早さで発表しました。また、当時の経団連・平岩外四会長は「所得税、法人税減税を含む税制改正に思い切った決断をしたことを評価したい。
これが実現すれば、景気にも好ましい結果をもたらすと確信する」と歓迎しています。
導入に暗躍したのが連立与党の一つ、新生党の小沢一郎代表幹事と大蔵省の斎藤次郎事務次官(現・日本郵政社長)でした。小沢氏は93年に『日本改造計画』で「現在3%である消費税の税率を、欧州諸国と米国の中間の10%とする」と明言するほどの消費税増税論者です。小沢氏と斎藤次官のパイプは自民党政権時代からのもの。
細川氏の首椙時代の日記『内訟録』には当時、官房副長官だった石原信雄氏の証言として7%という税率を小沢氏と斎藤氏が決めた経緯が書かれています。
しかし、国民福祉税は「消費税の看板を掛け替えただけのもの」などと批判を浴び、7%の根拠も「腰だめの数字」(おおよその数字)という要領を得ないものだったために、連立政権内部でも反対の声が抑えられず、国民福祉税は撤回せざるを得ませんでした。
(つづく)
「しんぶん赤旗」日刊紙 2012年6月23日付掲載