かなり昔の選手なので、現役時代をご存じない方もいらっしゃるでしょうが、前回指揮を執った当時に、オジェック監督から最も強い影響を受けた選手が田口禎則元選手と思われます。前回オジェック監督が就任した1995年、田口は前年に広島から移籍し、ざる守備と言われた当時の浦和でCBをやっていました。
オジェック監督は当時最下位が続いていた浦和には、相当のチーム改革が必要と感じていたようですが、選手の顔触れは前年とほとんど変わっていませんでした。しかし、サポーターの私は、とにかく勝つところを見せて欲しいと勝利に飢えていた頃でした。そろそろ勝たないと、チームを見捨てるサポーターも現れそうな頃でした。
そんなとき、オジェック監督は記者会見で、誰も田口の話題をしていないのに、「田口は変わります。」と発言したことがあります。オジェック監督が着手したのは、現有戦力のレベルアップでした。田口は、それまでは身体能力に任せ、力づくで守るDFだったようです。
しかし、そんな田口にオジェック監督が指導したのは、ポジショニングとカバーリングだけでディフェンスはできるということでした。田口はその教えを素早く吸収して、この年(当時29歳)になってディフェンスの面白さがようやくわかったと、コメントを残すまでになりました。当時現役だったギドがリベロに控える前で、田口はしっかり相手FWを止めてゴール前に堅陣を築きました。
田口は残念な事件で謹慎生活を送ったこともありますが、このときに社会福祉の大切さに気付き、引退後は浦和市議会議員に当選しました。ただ、田口が本当にやりたかったことはサッカーの指導だったようです。2004年に、議員生活の合間を縫って、浦和レッズレディースの前身のさいたまレイナスの監督を務め、Lリーグ優勝に導いています。
おそらく、その指導はオジェック監督から吸収したものが多くを占めていると思います。そんなサッカーへの情熱は抑えられず、統一地方選挙に立候補しなかった田口が選んだ道は、日本サッカー協会のU-15のコーチでした。おそらく、オジェック監督に出会っていなければ、そういう道は歩いていなかったと思います。いつか、田口の育てた選手が代表に入って活躍する姿を見るのを、楽しみに待ちたいと思います。
オジェック監督は当時最下位が続いていた浦和には、相当のチーム改革が必要と感じていたようですが、選手の顔触れは前年とほとんど変わっていませんでした。しかし、サポーターの私は、とにかく勝つところを見せて欲しいと勝利に飢えていた頃でした。そろそろ勝たないと、チームを見捨てるサポーターも現れそうな頃でした。
そんなとき、オジェック監督は記者会見で、誰も田口の話題をしていないのに、「田口は変わります。」と発言したことがあります。オジェック監督が着手したのは、現有戦力のレベルアップでした。田口は、それまでは身体能力に任せ、力づくで守るDFだったようです。
しかし、そんな田口にオジェック監督が指導したのは、ポジショニングとカバーリングだけでディフェンスはできるということでした。田口はその教えを素早く吸収して、この年(当時29歳)になってディフェンスの面白さがようやくわかったと、コメントを残すまでになりました。当時現役だったギドがリベロに控える前で、田口はしっかり相手FWを止めてゴール前に堅陣を築きました。
田口は残念な事件で謹慎生活を送ったこともありますが、このときに社会福祉の大切さに気付き、引退後は浦和市議会議員に当選しました。ただ、田口が本当にやりたかったことはサッカーの指導だったようです。2004年に、議員生活の合間を縫って、浦和レッズレディースの前身のさいたまレイナスの監督を務め、Lリーグ優勝に導いています。
おそらく、その指導はオジェック監督から吸収したものが多くを占めていると思います。そんなサッカーへの情熱は抑えられず、統一地方選挙に立候補しなかった田口が選んだ道は、日本サッカー協会のU-15のコーチでした。おそらく、オジェック監督に出会っていなければ、そういう道は歩いていなかったと思います。いつか、田口の育てた選手が代表に入って活躍する姿を見るのを、楽しみに待ちたいと思います。