Jリーグができる前は、一番熱心に見ていたスポーツは野球でした。今でも年間数試合は西武球場に行きますが、テレビ中継も減ったこともあって、西武の先発投手のローテーションを覚えていたかつてのレベルからは、だいぶ落ちました。それでも、野球は少年時代の私に夢を与えてくれたのは事実で、いろいろな選手の思い出があります。その中ではもっとも地味な、中継ぎ投手の思い出を書きます。
・鹿取義隆(巨人→西武)
トレードで西武に来てからは、最優秀救援投手になるなど、華やかな活躍もしましたが、強く印象に残っているのは巨人時代の地味な中継ぎ振りです。当時の王監督に、毎試合のように、先発投手が降りた直後の中継ぎを指名されていました。当時、カトリル(懸命に働くという意味)という言葉が流行ったこともあり、鹿取の使いすぎは日本人の多くが知っていたことでした。本人は明大時代に、陸上部にいるかのようなハードな走り込みを課されたのが良かったと語っていたようです。
・永射保(西武)
典型的な左の変則投手で、打者一人だけに投げるワンポイントリリーフの草分けでした。かつての強打者、ロッテのリーに滅法強く、リーがあまりにも打てないから、右打席に立とうかと冗談を飛ばすほどでした。ただ、永射の全盛期は、私は小学生だったため、どんなボールが良かったかを覚えていないのが残念です。
・小田真也(西武)
先程の永射に比べると、絶対的な信頼度を得ていた訳ではない、普通の中継ぎ投手です。ただ、左の変則投手は当時の西武には小田しかいませんでした。しかも、全盛期が西武の黄金時代とぴたりと一致して、毎年のように日本シリーズのマウンドに上がっていた幸運な選手です。西武球場での登板のときに流される音楽が、「おもちゃのクラリネット」で、勝負の場にはそぐわないようなこの音楽も相手打者のリズムを崩したように思います。
・横山道哉(横浜)
地元の横浜高校出身で、1998年の横浜の優勝に貢献した右の本格派です。当時の権藤監督が中継ぎ投手にもローテーションを導入し、優勝したシーズンの割に連投があまりなかったと記憶しています。その投球を見たのは日本シリーズでしたが、当時絶対的存在だった大魔神佐々木に球威だけなら十分対抗できそうなボールを見て、きっと佐々木の後継者は横山だろうと、当時は思っていました。その予感は当たりませんでしたが。
・鹿取義隆(巨人→西武)
トレードで西武に来てからは、最優秀救援投手になるなど、華やかな活躍もしましたが、強く印象に残っているのは巨人時代の地味な中継ぎ振りです。当時の王監督に、毎試合のように、先発投手が降りた直後の中継ぎを指名されていました。当時、カトリル(懸命に働くという意味)という言葉が流行ったこともあり、鹿取の使いすぎは日本人の多くが知っていたことでした。本人は明大時代に、陸上部にいるかのようなハードな走り込みを課されたのが良かったと語っていたようです。
・永射保(西武)
典型的な左の変則投手で、打者一人だけに投げるワンポイントリリーフの草分けでした。かつての強打者、ロッテのリーに滅法強く、リーがあまりにも打てないから、右打席に立とうかと冗談を飛ばすほどでした。ただ、永射の全盛期は、私は小学生だったため、どんなボールが良かったかを覚えていないのが残念です。
・小田真也(西武)
先程の永射に比べると、絶対的な信頼度を得ていた訳ではない、普通の中継ぎ投手です。ただ、左の変則投手は当時の西武には小田しかいませんでした。しかも、全盛期が西武の黄金時代とぴたりと一致して、毎年のように日本シリーズのマウンドに上がっていた幸運な選手です。西武球場での登板のときに流される音楽が、「おもちゃのクラリネット」で、勝負の場にはそぐわないようなこの音楽も相手打者のリズムを崩したように思います。
・横山道哉(横浜)
地元の横浜高校出身で、1998年の横浜の優勝に貢献した右の本格派です。当時の権藤監督が中継ぎ投手にもローテーションを導入し、優勝したシーズンの割に連投があまりなかったと記憶しています。その投球を見たのは日本シリーズでしたが、当時絶対的存在だった大魔神佐々木に球威だけなら十分対抗できそうなボールを見て、きっと佐々木の後継者は横山だろうと、当時は思っていました。その予感は当たりませんでしたが。