今や山形のキャプテンで、あの「ミスターモンテディオ」の高橋健二の7番を受け継いですっかり山形の中心選手に定着した、宮沢克行選手の思い出です。宮沢の磐田戦でのゴールは、J1では10年ぶりで、本人は「名誉な記録ではないがサポーターに捧げたい」とコメントしています。
宮沢がプロとしてのキャリアをスタートしたのは、1999年、浦和でした。当時左利きの中盤は貴重だったので、原監督が4-4-2を続けるなら、ベテランになっていた当時の左MFベギリスタインの後継者の有力候補でした。
しかし、この年の浦和は開幕から不振でした。なかなか勝てない状況で、新人に出番を与える余裕はありませんでした。さらに悪いことに、4バック信奉者の原監督が解任され、後任が守備的な戦術を好むデモス監督となり、宮沢の出番は更に遠くなります。
ただ、それでも宮沢はデモス監督にFWで起用され、J1初ゴールを決めます。ただ、どんどん泥沼に入って行った当時の浦和では、継続的な起用はされませんでした。結局、チームはJ2に降格して、不完全燃焼の一年目が終わります。
後任の斉藤監督は4-4-2の監督でした。しかし一年でどうしてもJ1に戻りたい浦和は、鹿島から左MFの阿部敏之を補強します。宮沢の出番は、負けていて攻めに出るときの左SBしかありませんでした。
パサーの阿部敏之とは違って、宮沢はタッチライン際からクロスを上げるのが売り物の選手でしたが、結局その持ち味は発揮できずに、当時J2の新潟に移籍しました。新潟での彼の印象はあまりありませんが、2004年にビッグスワンで浦和と対戦したときに左SBで出ていた記憶はあります。
しかし、そのシーズンの後半戦に山形へレンタル移籍したことが、宮沢にとって転機になります。4-4-2のボックス型中盤の左MFに定着した宮沢は、初めて主力選手として試合に出続ける経験をします。
その後一旦新潟に戻りましたが、このときの活躍を覚えていた山形が再度宮沢を獲得します。ただ、当時の山形は昇格争いには遠い年もあるチームでした。悲願の初昇格は今シーズンでした。
今回の10年ぶりのゴールは、よくここまで現役を続けていたという評価をしています。今や32歳となり、残されたサッカー人生が充実したものになるよう、願っています。
宮沢がプロとしてのキャリアをスタートしたのは、1999年、浦和でした。当時左利きの中盤は貴重だったので、原監督が4-4-2を続けるなら、ベテランになっていた当時の左MFベギリスタインの後継者の有力候補でした。
しかし、この年の浦和は開幕から不振でした。なかなか勝てない状況で、新人に出番を与える余裕はありませんでした。さらに悪いことに、4バック信奉者の原監督が解任され、後任が守備的な戦術を好むデモス監督となり、宮沢の出番は更に遠くなります。
ただ、それでも宮沢はデモス監督にFWで起用され、J1初ゴールを決めます。ただ、どんどん泥沼に入って行った当時の浦和では、継続的な起用はされませんでした。結局、チームはJ2に降格して、不完全燃焼の一年目が終わります。
後任の斉藤監督は4-4-2の監督でした。しかし一年でどうしてもJ1に戻りたい浦和は、鹿島から左MFの阿部敏之を補強します。宮沢の出番は、負けていて攻めに出るときの左SBしかありませんでした。
パサーの阿部敏之とは違って、宮沢はタッチライン際からクロスを上げるのが売り物の選手でしたが、結局その持ち味は発揮できずに、当時J2の新潟に移籍しました。新潟での彼の印象はあまりありませんが、2004年にビッグスワンで浦和と対戦したときに左SBで出ていた記憶はあります。
しかし、そのシーズンの後半戦に山形へレンタル移籍したことが、宮沢にとって転機になります。4-4-2のボックス型中盤の左MFに定着した宮沢は、初めて主力選手として試合に出続ける経験をします。
その後一旦新潟に戻りましたが、このときの活躍を覚えていた山形が再度宮沢を獲得します。ただ、当時の山形は昇格争いには遠い年もあるチームでした。悲願の初昇格は今シーズンでした。
今回の10年ぶりのゴールは、よくここまで現役を続けていたという評価をしています。今や32歳となり、残されたサッカー人生が充実したものになるよう、願っています。