一見、岡田監督が立てている「W杯4強」は、ドイツW杯を見る限り、主力選手のほとんどが欧州トップレベルのチームのレギュラーでないと厳しいように思えます。しかし、そうでない国が4強に入ったケースはあります。今回はその例として1998年フランスW杯のクロアチア代表を取り上げます。
当時のクロアチア代表は、欧州トップレベルのチームにいたのは、右アウトサイドのスタニッチ(パルマ[イタリア])、ゲームメーカーのボバン(ACミラン[イタリア])、FWのスーケル(Rマドリード[スペイン])くらいで、あとのメンバーは国内組や、欧州でも下位チームに所属していました。
そういうチームの4強は、当時は驚きをもって迎えられました。クロアチア代表は、W杯の前年にキリンカップで来日して、ベストメンバーではなかったですが日本に4-3で敗れていた理由もあります。当時は自分の分析力が未熟で、自分の言葉で当時のクロアチアを語れないのが残念ですが、サッカー専門誌の評論では「カウンター主体のチームがあそこまで残るのは珍しい」と言われていました。
ただ、のちに日本代表にオシム監督が就任したことでようやく話題になりましたが、当時のクロアチア代表には1990年イタリアW杯で「欧州のブラジル」と呼ばれて8強に残ったときの旧ユーゴのメンバーが一部残っていました。
そのメンバーが挑もうとした1992年の欧州選手権は、優勝候補とも言われたほどでしたが、ユーゴ紛争の影響で出場自体が取り消され、オシム監督も辞任して、この地域の代表が復活するのは1998年を待たないといけませんでした。
そんなチームの流れをくむチームですから、唯一記憶に残っている日本戦の印象では、試合巧者というものでした。あの試合はアルゼンチン戦とは違って、日本にもチャンスがありましたが、クロアチアは一瞬のチャンスに賭ける集中力がありました。
暑さの中の試合だったこともあって、当時のボランチのアサノビッチは、中田英寿からボールを取ってカウンターというプランだったと、大会終了後に語っていました。
ただ、W杯4強に入るためには、本当の勝負は8強です。クロアチアは8強でドイツに勝ち、夢の4強をつかんでいます。相手に退場者が出た幸運もありますが、たぶん日本戦でも見せたここぞの集中力で勝ったのではと思います。
当時のクロアチア代表は、欧州トップレベルのチームにいたのは、右アウトサイドのスタニッチ(パルマ[イタリア])、ゲームメーカーのボバン(ACミラン[イタリア])、FWのスーケル(Rマドリード[スペイン])くらいで、あとのメンバーは国内組や、欧州でも下位チームに所属していました。
そういうチームの4強は、当時は驚きをもって迎えられました。クロアチア代表は、W杯の前年にキリンカップで来日して、ベストメンバーではなかったですが日本に4-3で敗れていた理由もあります。当時は自分の分析力が未熟で、自分の言葉で当時のクロアチアを語れないのが残念ですが、サッカー専門誌の評論では「カウンター主体のチームがあそこまで残るのは珍しい」と言われていました。
ただ、のちに日本代表にオシム監督が就任したことでようやく話題になりましたが、当時のクロアチア代表には1990年イタリアW杯で「欧州のブラジル」と呼ばれて8強に残ったときの旧ユーゴのメンバーが一部残っていました。
そのメンバーが挑もうとした1992年の欧州選手権は、優勝候補とも言われたほどでしたが、ユーゴ紛争の影響で出場自体が取り消され、オシム監督も辞任して、この地域の代表が復活するのは1998年を待たないといけませんでした。
そんなチームの流れをくむチームですから、唯一記憶に残っている日本戦の印象では、試合巧者というものでした。あの試合はアルゼンチン戦とは違って、日本にもチャンスがありましたが、クロアチアは一瞬のチャンスに賭ける集中力がありました。
暑さの中の試合だったこともあって、当時のボランチのアサノビッチは、中田英寿からボールを取ってカウンターというプランだったと、大会終了後に語っていました。
ただ、W杯4強に入るためには、本当の勝負は8強です。クロアチアは8強でドイツに勝ち、夢の4強をつかんでいます。相手に退場者が出た幸運もありますが、たぶん日本戦でも見せたここぞの集中力で勝ったのではと思います。