Kobby loves 埼玉&レッズ

埼玉と浦和レッズを愛する管理者のブログです。

堀監督の改革の手(8/5浦和対大宮)

2017-08-05 23:33:36 | 浦和レッズ
埼玉スタジアムから帰ってきました。結果は2-2の引き分けです。先制点も取り、リードする展開ながら2度も追いつかれ、勝ち点3は目前で逃げていきました。この試合を大きく左右したのは、宇賀神のありえないようなDFラインでのパスミスでしたが、それについては明日以降のマニアック分析に回し、今日は堀監督がどういうアプローチで浦和を立て直そうとしたかを中心に書きます。

堀監督は、スタメンの選考を見ると3-6-1でほぼミシャ体制の形を引き継いでいます。しかし、選手の動き方はミシャ時代とは微妙に異なっていました。ミシャ時代は、攻撃のときは4-1-5のように前に5人を上げ、相手の最終ラインに大きな圧力をかけるスタイルでした。はまったときの威力は大きかったですが、シュートでもクロスでも終われなかった場合にカウンターを食らいやすいデメリットもありました。

そのため、堀監督のやり方は、4-1-5は可能な限り少なくして、普通の3-6-1の時間を長くするというアプローチで来ました。阿部勇樹と柏木陽介は最終ラインにあまり入らず、ストッパーの森脇や宇賀神はできるだけ上がらないことにして、最終ラインにとにかく3枚を残すという約束事だったようです。

ミシャ時代は、4-1-5でサイドの槙野、森脇が極端に高い位置を取ることがあったので、最悪中央の守備が遠藤、阿部の2バックにアンカーの柏木だけということもありました。カウンターを食ったら3人では守り切れないので、両ストッパーにあまり上がらせないことで、最終ラインの人数を最低3枚とする、「普通の3-6-1」への移行でした。

大宮は前から取りに来ていました。浦和の最終ラインの連係に難ありとみていたのでしょう。危ない場面は多かったですが、ぎりぎりのところで阿部勇樹や遠藤が「回収」することでピンチを防ぐことはできていました。このまま、勝っていればその改革は成功ということになりましたが、宇賀神のミスという、戦術ではどうしようもないところで動いてしまったのは残念でした。

槙野が戻ったときにも同じスタイルを貫き通せるかなど、課題はありますが、少なくとも堀監督のメッセージは出たと思います。成功させるかどうか、選手たちが頑張ってできるようにしないと、チームが空中分解してしまうかもしれない、本当にぎりぎりのところです。





































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敗者復活からの代表入り(中村俊輔)

2017-08-05 11:36:34 | 他チーム
今日は埼玉スタジアムまで出かけてくるので、即日更新は難しいと思うので穴埋めネタを用意して出かけます。先日の浦和対磐田戦は負傷欠場で見られなかった、磐田MF中村俊輔選手の記憶です。39歳の今、J1クラブで背番号10をつけてエースクラスの活躍をしている姿は、それだけで立派です。

中村俊輔は1997年、桐光学園から横浜Mに入団しています。彼は敗者復活の選手で、横浜Mのジュニアユースからユースに上がれなかったという挫折を経験しています。そのため、桐光学園入りしましたが、ここで高校選手権準優勝とチームとしても結果を残し、念願だった横浜Mのトップチームからオファーをもらうことができました。

プレースタイルは一貫してパサーです。2002年W杯こそ、トルシエ監督に評価されずメンバー入りは叶いませんでしたが、後任のジーコ監督に評価され、当時の代表左MFは中村俊輔で決まりでした。最初は「自分に合わせて戦術を変えさせるような選手になりたい」と言っていましたが、課題だった守備を強化してサイドハーフのポジションをものにします。

当時、欧州クラブからオファーをもらうためには、日本代表での活躍が必要でした。中村俊輔は2002年にイタリアのレッジーナに移籍していますが、ここでのプレーよりは日本代表のコンフェデ杯でのプレーが評価されて、スコットランドのセルティックに完全移籍を果たすことになります。

このセルティック時代が、彼の最大の輝きでした。得意の直接FKで、欧州CLでマンUからゴールを決めたこともあります。リーグMVPにも輝き、当時の年俸は3億円だったとも言われています。スコットランドリーグは、グラスゴーの2強のレンジャーズとセルティックが強く、他のチームは弱いというリーグですが、欧州CLでも活躍し決勝トーナメントも実現させています。

いつかスペインリーグでやりたいと言っていた中村俊輔は、セルティックとの契約満了後にスペインのエスパニョールに移籍することができました。ここでは半年間のプレーにとどまりましたが、家族を日本に残しての日々は限界だったようで、日本帰国は必然の流れでした。今でも現役でいられることを考えると、それは正しい判断だったと思います。
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