汐留のホテルの25階からの眺めは、まるで鉄道模型を見ているかのようでした。鉄道マニアの友人が集めていた、Nゲージの鉄道模型を思い出します。これは新橋駅を発車した上野東京ラインで、今や宇都宮や籠原から小田原や熱海まで、電車が直通する時代なのですね。
ネタがなくなると出てくる、昔の力士ネタで、元大関魁皇の浅香山親方の記憶です。魁皇は若い頃から上位キラーで名を馳せた存在で、右からの強力な上手投げという武器を持っていました。当時、四つになったら絶対に勝てないほどの安定感を誇っていた横綱貴乃花に、四つ相撲で勝てる唯一の力士でした。魁皇が勝つときは右上手を引いてすぐに投げたときでした。
もっとも、魁皇は関脇で長く足止めを食らい、勝負弱い力士という印象も持っていました。それが変わったのは後輩千代大海の大関昇進で、これで奮起した魁皇と武双山が関脇の壁を突破して大関昇進を果たし、相撲界は一気に世代交代の流れになりました。その頃、一時代を作った、若貴兄弟や曙は引退し、のちに朝青龍が出てくることになります。
魁皇といえば、リンゴを握り潰せる、中身が入ったビールケースを2個片手で持てるなどの怪力伝説を持っていました。その筋力に体が耐えられなくなることがあり、休場も多い力士でした。大関としてはカド番11回と史上2位のワースト記録も持っていますが、皆勤での負け越しはあまりなく、彼がカド番になるのは大抵休場が原因でした。
魁皇が誇るのは、最高位が大関以下の力士では最多となる5回の優勝と、史上2位の1047勝でしょう。たまたま、その優勝が連続していなかったので横綱にはなっていないですが、並の横綱よりは多い優勝回数です。現役の最後の方は毎場所のように8勝7敗が続き議論も呼んだのは確かですが、横綱に上がっていたら31,2歳で引退に追い込まれていたかもしれません。
そうやって、何とか8勝7敗でしのぎながら、積み重ねた記録が1047勝です。その間の勝率は6割前後と決して悪い数字ではないですが、大関は優勝争いに絡むものという記者からは「大関の地位を軽くした」などと厳しい記事が書かれることもありました。千代大海は序盤で6連勝くらいしてカド番脱出は問題ないという戦いぶりをしていましたが、魁皇の場合は中日で4勝4敗のような低空飛行はざらでした。
それでも、琴欧洲や琴光喜、日馬富士ら当時の大関陣との対戦成績はほぼ五分で、その直接対決を勝ってきたからこその、39歳までの大関キープでした。魁皇は福岡県直方市の出身で、地元の九州場所ではいつも人気がありました。5回の優勝の中で、九州場所が一度もなかったことが、彼が残した数少ない悔いかもしれません。
もっとも、魁皇は関脇で長く足止めを食らい、勝負弱い力士という印象も持っていました。それが変わったのは後輩千代大海の大関昇進で、これで奮起した魁皇と武双山が関脇の壁を突破して大関昇進を果たし、相撲界は一気に世代交代の流れになりました。その頃、一時代を作った、若貴兄弟や曙は引退し、のちに朝青龍が出てくることになります。
魁皇といえば、リンゴを握り潰せる、中身が入ったビールケースを2個片手で持てるなどの怪力伝説を持っていました。その筋力に体が耐えられなくなることがあり、休場も多い力士でした。大関としてはカド番11回と史上2位のワースト記録も持っていますが、皆勤での負け越しはあまりなく、彼がカド番になるのは大抵休場が原因でした。
魁皇が誇るのは、最高位が大関以下の力士では最多となる5回の優勝と、史上2位の1047勝でしょう。たまたま、その優勝が連続していなかったので横綱にはなっていないですが、並の横綱よりは多い優勝回数です。現役の最後の方は毎場所のように8勝7敗が続き議論も呼んだのは確かですが、横綱に上がっていたら31,2歳で引退に追い込まれていたかもしれません。
そうやって、何とか8勝7敗でしのぎながら、積み重ねた記録が1047勝です。その間の勝率は6割前後と決して悪い数字ではないですが、大関は優勝争いに絡むものという記者からは「大関の地位を軽くした」などと厳しい記事が書かれることもありました。千代大海は序盤で6連勝くらいしてカド番脱出は問題ないという戦いぶりをしていましたが、魁皇の場合は中日で4勝4敗のような低空飛行はざらでした。
それでも、琴欧洲や琴光喜、日馬富士ら当時の大関陣との対戦成績はほぼ五分で、その直接対決を勝ってきたからこその、39歳までの大関キープでした。魁皇は福岡県直方市の出身で、地元の九州場所ではいつも人気がありました。5回の優勝の中で、九州場所が一度もなかったことが、彼が残した数少ない悔いかもしれません。