古代山城 屋嶋城 667-3

2024-06-27 21:06:16 | 屋嶋城 ₂₀₂₄



やしまのき
屋嶋城




これまでに 見たことのない 城門



左側


🔻 左端の方は 地形に沿って カーブしています

🔺 内側に カーブしてます


近世城郭だと 枡形 ということだと思います
石垣は もっと下まであるような気がしますね 
埋まってしまった と思う所は 掘ってるはず
無かったから こんな状態なのだろうか…




中央に城門



右側




階段 通路が 設けられていますが
石垣の上部には 入れません
上部は 雨水が浸み込まないように
処理されてるようです
カラーモルタルだろうか…




説明ボード




門の上部に オープンデッキ?

扉も あったんだ

🔻



崖で撮れない 正面から


門入口は 高く 梯子だったという




この 区画 だけ
なぜこんな強固な石垣を積んだのか?
ここが 最終防衛ライン?
それとも
近世城郭で言う 大手門 の位置づけなら
ここは 一部で 長く続いていたのか
だとしたら調査してるだろうし
?は増えるばかり


白村江から 逃げ帰った時の
百済の人たちの 石積み技術
なんだろうね
そうなると 古墳時代の 石積みは
やはり 大陸からの 技術か
なんたって 万里の長城があるもんね
遣隋使 遣唐使が 見てきてるだろうし

明日香 石造物 石舞台
スケールさん 連れて行ってなかった
また がんばんなきゃならんな~
なかったことに しようかな~



門の上部




開口部の 上部に 丈夫な 砦が
オープンデッキみたいな 砦


設置された 階段 降りてみましょ





自然石を 積んでるんだけど

きれい

近世城郭の 野面積みとは 全く違う
それとは 部材は 小ぶりなんだけど
丁寧に積まれている
洋風のお宅の門
こういうのあるよね

レンガ風に 積んでる





見学用 階段と石段 設置



🔺       🔺

発掘時 柱は残っていなかったが
四角い穴は 残ってたそうだ



ここに 扉があった門

人が ラクラク通れる高さ





門柱の あったことは よくわかる






この頃は もう 四角い柱に 加工できてたということか
御殿でも ないわけだし
丸太で 良かったような気もするが…


この頃の 建物と言えば
飛鳥寺 法隆寺
興福寺 東大寺 


こちらは 反対側





1350年前の 角
(復元)

ではありますが

いいですね~

さすがに 算木には なってませんが
角を意識して 部材選び 積み方
ただ 積んでるわけじゃないですね





足元も 石 敷いてます
粗いですが 👍







けっこう いろいろな石があるようです
たまに 転がった 角が丸いのもありますが
おおかた 尖ったのですね




城門 から見た 景色







方角は

南南西くらいか
南西まではいかないくらい
もちろん
1350年前は 入り江
つまり
軍船が上陸する可能性があるということだ

ここから 動向が一望できた ということか
もちろん攻防は 水際だろうから
ここには 指揮官が 居たのでしょう

なんつって 勝手に 思ってる…





古代山城 屋嶋城 667-2

2024-06-27 09:05:16 | 屋嶋城 ₂₀₂₄





パンフのMAP 案内板MAP
見るもの全部 バラバラ
現地と 一致しない

こんなに 簡単なルートで わかりづらいなんて
今まで あんまり 記憶がない
ヤレヤレ



現地はこんな感じ


🔻 ここに立てるべきでは?

                 実際は ここに 立ってました 


  こっちから 来たので  そうなりますが


せめて こんなのだったら




戸惑いませんが…
細かいですかね?

でも 莫大な経費で発掘調査復元
行政も推そうと 豪華なパンフも作成
してるのに なんか 惜しい



私なら ココにも 立てます




ということで

左へ 行けというけれど

分かれ道 右に 行きます




下り坂 すぐに 右 ヘアピン




そして すぐに

左ヘアピン

サイド 2回 引きます





もうじき 見えてきそうです


古代山城

どれくらい 古代かといいますと
1350年前
まだ 日本ではなく 倭の国のころ
朝鮮半島に 戦に行きました
663年
白村江の戦い
   私は はくすきのえのたたかい と習いましたが
いつのまにか はくそんこうのたたかい となっていました

   唐 新羅 VS 百済 倭(援軍)

結局 破れて 撤退
この時 百済の人も逃げてきました

となると

唐 新羅 が 攻めてくるやもしれん

となりますよね


九州北部…大野城とか多数築く
瀬戸内海沿岸…屋嶋城、他築く

屋島城 667年
天智天皇の時

この頃 日本はと言いますと
大化の改新 と習った クーデター
645年
白村江の戦いで負けて 危機感が増し
日本 建国に繋がった

って 時ですよね~ 


余談を一つ

この頃 郡 という 地名ができた頃らしい
その 1300年の 歴史の地名を
平成の大合併とか言って
捨ててしまったんですよね
情けないったら ありゃしない

と ボヤッキー 


説明板がありましたよ







ほんで ほんで 見えてきました








あちこち 城巡りしてますが
戦国時代前後 の 近世城郭

ここ 屋嶋城 は 古代山城
初体験であります



この城を知ったのは
毎回 行ったことのない城に招待してもらってます
勉強になります




古代山城の 石垣 どんな岩感なのか
ワクワクドキドキ



同行人さんには 何も言わずに 来ました
どんな 感じを受けるか それもまた
楽しみです
つまんないと言われたどないしょ…






ユーチューバーの方かも知れないので
居なくなるまで近寄らないでいました








上の段の通路を 移動しながら 撮ることに



どう撮れば この 雰囲気を 撮れるか






不思議な感じです






解体復元ということで
1350年のまま
というわけでは ありませんが







近世城郭の石垣とは ちがう光景です

1350年前の 石積み

これの頃が 石垣の城の 始まりなんでしょね







向こうから 撮れない…

遠くの下に 街が見えます

結構 断崖 です




あの辺りは 埋め立てだったでしょうから

海 入り江

唐 新羅が 攻めてくる







向こう側から 見たいですね~

どんな 感じに 見えるのでしょう





写真だと 規模が小さそうですが
けっこう 大きいです
この 門 が入口でしょう

石垣の門のはじまり

なんでしょうが…

防御面からすると
こんなに 広い 門が 必要でしょうか
向こうは 断崖 ですから
ここに 大規模な 石垣の城壁が どうなの?
とも 思ってしまいます

この 断崖の上に これだけの 石垣を造り
何を 守ったのでしょう?

唐 新羅の 軍が

スルー する~ ということは
考えなかったのでしょうか?

畿内を 守るのであれば
もうちょっと 海上で 待ち伏せできる
防御施設の方が 役に立つのでは?

この門も 瀬戸内海とは 反対の方を向いてます

なんだか よくわからないです