マイミクシーのtomokenさんの日記で、次の記事を読ませていただいた。(一部分を抜粋させてもらう)
父親参観のイベント終了後、一旦帰宅し、夕方から「父親のための勉強会」に参加した。園長先生が「父親の役割や振る舞いが、子どもにとっていかに大切か」を熱心に語ってくれた。その内容について私は一つ一つうなづきながら、最後に先生が発した次の言葉には心底から感銘を受けた。それは、 「今年度はひとつの課題として、“いつも自分が話していることを、どれだけ自分が実際に行為できているか?”という点について、問題意識を持って取り組みたいと思っています」 という内容の発言だった。 要するに「意識レベルと行動レベルとの隔たりの問題」を言ってるわけだが、この問題の意味するところがどれほど重要かについては、言葉を尽くしても表現し切れないように思う。「カウンセリングにおける最大の問題点も、じつはこの点にある!」と断言したいくらいだ。
tomokenさんの記事を読みながら、蓮如上人の「おふみ」の言葉を思い出し、聖典を開いてみました。
そして、その言葉についての味わいを毎田周一の言葉からお届けします。
◆蓮如上人の「おふみ」
それ、八万の法蔵を知るといふとも、後世を知らざる人を愚者とす。たとひ一文不知の尼入道なりといふとも、後世を知るを智者とすと言へり。
◆毎田周一の味わい
ここに、「後世を知る」とはいかなることであるか。生きている間は徹頭徹尾うだつが上がらず、死んではじめて佛にさして戴くのだと知ることである。生きている間は、最後の瞬間まで邪見驕慢の悪衆生以外の何ものでもないと知ることである。「八万の法蔵」を知るといふ。いろいろなことを深く広く知っているのである。例へばヘーゲルの如くである。これが愚者であると蓮如上人は仰言る。「一文不知の尼入道」は世間のこと。まして学問のことなど何も知らないのである。だが彼はただ一つのことだけを知っている。それは、自分が邪見驕慢の悪衆生以外の何ものでもないことを知っているのである。根本智に目覚めたる人である。だから智者である。ここに一文不知の尼入道の恐ろしさがある。水洟たらして念仏している老婆の恐ろしさである、つまり念仏の恐ろしさである。
tomokenさんの記事に触発されて、右往左往、楽しませてもらいました。
komokenさん、ありがとうございます。
ご支援感謝です。