法音カウンセラー 釋 真聴 《日乗》

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主宰者の《日乗》

唯識勉強会

2009年12月01日 23時49分31秒 | 日乗

只今、月一回の「唯識勉強会」から帰りました。
本日の講義は、「阿頼耶識」「薫習」についてでした。
なかなか難解でしたが、パーソナリティ理論と重なる感じでした。

勉強会の後の懇親会で、ある一人のお坊さんの話が気になりました。
中村久子のお話でした。
中村久子は明治30年ですが、病気で両手両足切断をして壮絶な人生を歩みました。
浄土真宗の門徒だった父親は、浄土真宗や天理教にすがり、娘の病気平癒を祈りました。
ある僧が、「宿業」について説いたそうです。
それに対して、久子は本当に「宿業」を説くなら、手足を切ってから「宿業」と説いてくれと語ったそうです。
僧は、自分の手足を切ることなどできません。

しかし、私がもしその僧の立場であったら、親鸞聖人の、「遇 行信を獲ば 遠く宿縁を慶べ」という言葉を共有できそうな気がします。

後に、久子は『歎異抄』と出会い「生かされて自分」に目覚め、「私が信仰するのは人間・親鸞」と語り、親鸞の後継者たる「浄土真宗」の教団組織や教義を遠ざけられたそうです。

で、懇親会での話題は、久子は『歎異抄』から何を学んだのか?ということになりました。

私は、私なりに答えをもちましたが語りませんでした。

 

この話題を聞きながら、恩師五十嵐正美先生の言葉を思い出しました。
先生とご一緒したワークショップで、先生から課題が出されました。
課題は、芭蕉の俳句
「猿を聞く人捨て子に秋の風いかに」でした。

芭蕉が富士川を渡ろうとすると、三歳ばかりの捨て子悲しそうに泣いている。
親は、この子を置いて人知れず捨て置いて立ち去ったのだろう。
芭蕉は、その場面に遭遇した。
芭蕉は、捨て子を助けることも出来ず持っていた弁当を置いてその場を立ち去った。

さて、その芭蕉は、現在の裁判で裁くと「有罪」か?「無罪」か?
であった。

中村久子の「宿業」も、師匠が出した芭蕉の課題も、両者に通底するもの感じる。

さて、皆さんの答えは如何に?


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