五木寛之著『歎異抄』の中に、五木寛之×川村湊の対談が収められていた。
川村は、対談で、つぎのように述べています。
親鸞のことを考えたとき、彼は鎌倉時代の初期に越後に流されたり、常陸に移り住んだり、その間、関東各地に行ったりしている。当然ながら、現在より言語的差異は大きかった。
親鸞が上方弁で、しかもお公家言葉で北陸、関東の人に話しかけたとしたら、おそらく親鸞の言葉は伝わらなかっただろうと思います。そこで親鸞は、それこそ文字を読めない人が聞いてもわかるように、きわめて平易にはなしたはずです。
『歎異抄』は、親鸞が話したことを弟子の唯円が書きとめてまとめたものですから、親鸞の平易な語り口を生かしつつ、しかもライブ感を出そうと思い、ちょと冒険ではあったのですが、関西弁で訳してみました。
面白いですね。
早速、今日の午後書店に行ってきました。
『歎異抄』 川村湊 訳
光文社古典新訳文庫 2009/09/20 初版第1刷発行
例えば、こんな具合です。(第四章)
人に慈悲をかけるちゅうことには、自分で悟りをひらいてホトケはんになるのんと(聖道の慈悲というのや)、あんじょう浄土に迎えてもらうのんと(こっちは浄土の慈悲や)、ふたつの違いがあって、その入れ替わる変わりめっちゅうもんがあるんや。聖道(自力でホトケはんになる道や)の慈悲ちゅうのは、いろんなものを憐れんだり、可哀想に思うたりして、面倒を見てやることや。そいでも、思うように世話して、助けてやるちゅうことは、難儀(ナンギ)なもんや。
そやから、さっさと浄土へ行って、そこでホトケはんになって、可愛いとか可哀想とかの気持ちで、思うたとおりにみんなにご利益(リヤク)を与えて、助けてやるんが、浄土の慈悲ちゅうもんや。
この世の中で、どんなに可哀想やなあ、不憫(フビン)やなあ思うても、みんな承知しとるように、人を助けるいうのはホンマに、えろう難儀なこっちゃ。だから、こないに可愛い、可哀想や思うても、そないな思いはなかなか首尾一貫せえへんもんや。そやから、「ナンマンダブ」と念仏することだけが、終(シマ)いまできちんと面倒みたるという大慈悲心といえるのではあらへんか(といわはりました)。
誰か、知人に朗読してもらって、ライブ感を楽しみたいと思います。