本日(1/6)のZoom法音道場は、
『歎異抄・第四章』の音読でした。
ボクが、気になったところは、
「今生に、いかに、いとおし不便(フビン)とおもうとも、
存知のごとくたすけがたければ、この慈悲始終なし。」
「たすけがたい」。
昔昔、カウンセリングの勉強を始めた頃、
先輩から、「カウンセラーの役割は?」の質問がありました。
ボクは、世間知らずの若造でしたので、
自信満々に、
「カウンセラーの役割は、クライエントをたすけることです。
そのために、臨床経験を積み勉強をしています」
と答えたものです。
マアマア、簡単に言えば、
カウンセラーがクライエントを引っ張り上げる・指導するようなイメージ。
こんなところから、ボクのカウンセリングの勉強がスタートしました。
さて、数年後。あるワークショップの席上、
先師・五十嵐正美先生が、
芭蕉の『野ざらし紀行』から、
「猿を聞く人捨子に秋の風いかに」
の一句から出題されました。
「捨子を救済することなく、食い物を与えただけで、
通り過ぎた芭蕉の気持ちは?」
マアマア、ワークショップでのディベート場面を想像ください。
「もし、芭蕉さんを裁判にかけたら、(有罪?)それとも(無罪?)」
ということで、三十人程の参加者が、
(有罪)派と(無罪)派に分かれて、討論を展開したものです。
さて、皆さんは、どちら派ですか?
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます