尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

闘うヒロイン、女たちのアクション映画が量産された時代

2025年03月15日 22時34分18秒 |  〃  (旧作日本映画)

 アカデミー賞で作品賞など5冠を獲得した『ANORA アノーラ』のショーン・ベイカー監督が来日して、3月8日に舞台挨拶を行った。その時に梶芽衣子がサプライズで登場して花束贈呈を行った。なんと監督は主演女優のマイキー・マディソンに、役作りの参考にと梶芽衣子主演の『女囚701号 さそり』(1972)を渡したというのである。いや、それは映画を見たときには考えもしなかった。共通点はあるにしても、マイキー・マディソンは狭義の「アクション」で復讐しようとするわけじゃない。しかし、半世紀を超えて70年代日本の「闘うヒロイン」映画が21世紀のアメリカ映画にインパクトを与えたというのは興味深い。

(ショーン・ベイカー監督と梶芽衣子)

 梶芽衣子(1947~)は僕も昔からファンで、一度「トーク&ライブ」に行ったこともある。『梶芽衣子トーク&ライブ』に書いたが、ブログ開始半年程度で画像もない愛想のない記事を量産していた時期だった。日比谷図書館がリニューアルした時の記念で、梶芽衣子は神田出身、銀座でスカウトされたと東京都心部に縁が深いのである。元々は日活の俳優で、本名太田雅子でデビューした。60年代末の「日活ニューアクション」と呼ばれた『野良猫ロック』シリーズなどで活躍した。そのシリーズは大好きだけど、さすがに同時代に見たわけじゃない。梶芽衣子も東映映画の『さそり』シリーズでブレイクしたと言って良いだろう。

(『さそり』シリーズの梶芽衣子)

 伊藤俊也監督のデビュー作『女囚701号 さそり』は評判になって大ヒットし、監督は日本映画監督協会新人賞を受けた。この年藤純子が結婚して引退、東映は新しい女性スターとして梶芽衣子に目を付けたのである。1973年には東宝で藤田敏八監督の『修羅雪姫』も公開された。この映画はクエンティン・タランティーノ監督の『キル・ビル』に深い影響を与えている。その当時映画ファン初心者だった者として、半世紀後にこんなことがあるとは予想もしなかった。僕も『さそり』シリーズは当時見たが、見たのは名画座。東映の映画館は高校生には金銭的にも雰囲気的にもハードルが高くて、ほとんど行ってないからだ。

(『修羅雪姫』)

 当時の日本映画には、「女性主人公のアクション映画」がいっぱいあった。世界映画史、大衆文化史の中でも珍しいんじゃないだろうか。世界中どこでも男性スターのアクション映画は無数に作られてきた。70年代頃のアメリカのシリーズ映画(『ダーティ・ハリー』『ロッキー』『ダイ・ハード』など)は皆男性スターの映画だった。最近でこそ『マッドマックス』シリーズや『キック・アス』など女性が主演したアクション映画もあるけれど、70年代には考えられない。インド映画も最近無数に公開されているが、その大部分は男性スターのアクション映画である。女性が活躍しているアクション映画はほぼないと思う。

 (藤純子の「緋牡丹博徒」)

 なぜ70年代日本映画に「闘うヒロイン」映画が量産されたのだろうか。日本社会、あるいは日本映画界で女性進出が世界に先駆けて進んでいたわけではもちろんない。日本社会ではむしろ女性の活躍が遅れていたし、今も遅れている。じゃあ何故だろう? 当時の外国映画では香港のキン・フー監督『侠女』ぐらいしかないというのに。直接的には藤純子の影響が大きいと思う。藤純子とその実父俊藤浩滋については、『おそめ』の記事で紹介したことがある。たまたま撮影を見に行ってスカウトされた藤純子は、60年代末には事実上高倉健、鶴田浩二に次ぐ第三のスターになっていた。藤純子の成功を見て、大映の江波杏子なども活躍した。

(江波杏子)

 しかし、藤純子、江波杏子の映画はは当時人気を誇っていた「任侠映画」だった。「ヤクザ」もギャングだとはいえ、任侠映画には独特のお約束があって海外では理解が難しいだろう。それに藤純子のアクションも、時代劇の殺陣(たて)と同様に「日本舞踊の様式美」である。映画を作っているスタッフも主に男性で、「ジェンダー平等意識」なんかなかっただろう。梶芽衣子のヒット作の原作も、『さそり』は篠原とおる、『修羅雪姫』は小池一夫上村一夫の劇画だった。それは女性の価値観を反映したものじゃない。しかし60年代末の反体制、反権力的な空気が濃厚に漂っていて、世界で受けた原因になったのではないか。

(杉本美樹『0課の女 赤い手錠』)

 1974年にはもう一つの忘れがたい「闘うヒロイン」映画が作られた。杉本美樹が主演した『0課の女 赤い手錠(わっぱ)』(野田幸男監督)である。杉本美樹は「日活ロマンポルノ」と張り合った「東映ポルノ」で活躍したというが、僕はこの映画が初めて。大好きな映画で何度か見ているが、いくら何でも演技がまずいと思いつつ、見てるうちにのめり込んでしまう。この映画も篠原とおるの劇画が原作である。さて、70年代頃から「少女漫画」が話題になっていくが、ジェンダーをめぐる漫画・劇画の歴史的研究も大事だろう。70年代半ばになると、様式的アクションを越えるスターも現れてきた。志穂美悦子である。

 (志穂美悦子)

 志穂美悦子は千葉真一が作った「ジャパン・アクション・クラブ」出身で、ホンモノのアクションスターだった。70年代はブルース・リーに始まる香港カンフー映画が世界でヒットし、日本でも女子プロレスがブームになっていた。もはや女性が体を張ってアクションをこなすのは、意外でも何でもなくなっていた。(しかし、まだそれらは「マトモ」とは思われず、端っこの文化だったと思うが。)ところで、これらを見ていたのは誰だろうか? 藤純子、梶芽衣子らの映画は主に男性ファンが見に来ることを目的に作られていた。実際、東映のアクション映画は(日活ロマンポルノほどじゃないとしても)女性観客が見に行くのは難しい。

 文学研究における「読者論」のような意味で、映画の「観客論」も大事になる。映画雑誌やファンクラブなどの分析が必要だろう。梶芽衣子が脚光を浴びたのをきっかけに、ちょっと70年代の「闘うヒロイン」映画をふり返ってみた。それは「男性」によって「男性観客」のために作られたものだったが、濃厚な反権力的意識に基づく「復讐」というテーマが今も世界に通じているんだろうと思う。しかし、映画を見直し、諸資料に当たって、きちんと調べる意欲はもうないので、若い大衆文化史研究者のために思いつきを書いてみた次第。こういう映画があって、現在の『ベイビー・ワルキューレ』シリーズなどが出て来たと思う。


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