尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

映画『雨の中の慾情』、つげ義春の大胆映画化に驚き

2024年11月30日 21時54分03秒 | 映画 (新作日本映画)

 片山慎三監督『雨の中の慾情』を公開初日に見に行った。公開直後に見ることは少ないが、まあ時間がちょうど良かったのと、そう大ヒットしそうもないから1週目に見ておく方が良いかという判断もある。見る前に、この映画に関する情報はほとんどなかった。普通ならチラシを見れば大体予想できるけど、この映画のチラシには主演者しか書いてない。東京国際映画祭で上映され、つげ義春原作だと出ていたが、ほとんどそれだけ。片山監督は『岬の兄妹』や『さがす』を作った人。『さがす』は2022年のキネ旬ベストテンで7位に入ったが、どこか「過剰」な描写が気になってここには書かなかった。

 つげ義春原作の映画はかなりあるが、竹中直人監督『無能の人』(大傑作!)を除けば、短編をオムニバス的に映像化したものが多い。最近石井輝男監督の『ねじ式』を再見したが、それもいくつかの短編が基になっていた。同じ石井監督『ゲンセンカン主人』は最初からオムニバス映画として作られている。今回の『雨の中の慾情』も同様で、1950年代に書かれた初期作品幾つかを組み合わせている。ただし、それで終わらずに、イメージがどんどん暴走していき、時間の迷宮に入り込む。場所も年代も判らぬ幾つものイメージが重なり合いながら、作者を思わせる義男成田凌)と福子中村映里子)の関係が変奏されていく。

(左から福子、義男、伊守)

 映画館の紹介では「貧しい北町に住む売れない漫画家・義男。アパート経営の他に怪しい商売をしているらしい大家の尾弥次から自称小説家の伊守とともに引っ越しの手伝いに駆り出され、離婚したばかりの福子と出会う。艶めかしい魅力をたたえた福子に心奪われた義男だが、どうやら福子にはすでに付き合っている人がいるらしい。伊守は自作の小説を掲載するため、怪しげな出版社員とともに富める南町で流行っているPR誌を真似て北町のPR誌を企画する。その広告営業を手伝わされる義男。ほどなく、福子と伊守が義男の家に転がり込んできて、義男は福子への潰えぬ想いを抱えたたま、三人の奇妙な共同生活が始まる……。」

(PR誌の営業)

 冒頭が『雨の中の慾情』のシーンで、すぐに売れない漫画家義男の現実になる。その後伊守森田剛)とともに、『池袋百店会』が基になったPR誌のエピソード。だが、どうも変なのである。「北町」と「南町」の間には検問所があるという。町は「分断」されているらしい。そして三人の共同生活になるが、実はこれで話の半分にもならない。怪しい病院で子どもの「脳髄」から液を取り出し、薬として南町に売りに行く。検問を越え、初めて海を見る。そこでは中国語が支配言語になっている。何だか全然判らないけど、今度は突然戦闘シーンになる。負傷した義男は慰安婦(福子)から貰った毛を握りしめている。

(「南」で海を見る)

 全編に漂う不思議ムードは、この映画が台湾でロケ撮影されたことにもよる(台湾との合作)。南国風の「空気感」があって、突然時間が逆転してもおかしくない気がしてしまう。慰安所や野戦病院も出て来るのはどうなのかと思うが、つげと関係が深かった水木しげるの世界にワープしたような印象。時間が132分と長く、時空を飛び越えたイメージの連鎖が少しやりすぎというか、やはり今回も「過剰」な感じを受ける。そこも含めて、つげ原作映画の中でもとりわけ「変」な映画に仕上がっていて、そこが魅力。(「変」は褒め言葉である。)今年のベストとは思わないけど、妙に忘れがたいイメージが残り続ける。

(片山慎三監督)

 片山慎三監督(1981~)は、ポン・ジュノ監督『母なる証明』や山下淳弘監督『苦役列車』などの助監督を務めたあと、『岬の兄妹』(2019)で監督デビューした。今回の『雨の中の慾情』では福子の中村映里子が素晴らしかった。森田剛や成田凌が惹かれているのも納得。また大家や野戦病院の医師などをやってる竹中直人は、出て来るだけでムードが高まる。ロケは当初金門島でやりたかったというが、結局嘉義市で撮影された。多少茨城県などで撮られたシーンもあるようだが、基本は嘉義ロケ。その懐古的なムードが、つげ作品に似合っている。不思議な「怪作」であり、また「快作」。

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桂二葉ふたたび、「チャレンジ!!2」3回目、ゲストは柳家三三

2024年11月29日 20時21分17秒 | 落語(講談・浪曲)

 11月28日夜、有楽町の朝日ホールで桂二葉の落語を聴いてきた。6月に行った時のことは、『桂二葉チャレンジ!!2』、桂二葉の才能とエネルギーに感嘆』に書いた。すごく面白かったので次は夫婦で出掛けようと思ったが、2枚希望にしたらチケットぴあの抽選に当たらなかった。その後のセカンドチャンスでも落選して、もう行けないのかなと思ってたら、2週間ぐらい前にラストチャンスなるメールが来た。それに当たったわけだが、かなり大きな朝日ホールの最後列だったので遠かった。

 桂二葉はマクラがものすごく面白いが、今回は「探偵!ナイトスクープ」の話がおかしかった。最近はいろんな仕事をしてるけど、その一つが「探偵」とか言って笑わせる。大阪のテレビ番組で、東京では大手放送局でやってないので評判は聞いてるが見たことはない。番組に来た相談を「探偵」が解決するという趣向で、二葉が最近担当したのは「人生は生きてるだけで素晴らしいのか」という相談だそう。仕事で失敗が多く、同僚に相談したらそう言われた。それは果たして本当なのか。

 大阪のあちこちでいろんな人にインタビューした後、「ディベート部」が強い進学校に行ったという。そして「人生は生きてるだけで素晴らしい」「そうは思わない」の二派に分れて大討論を喧々諤々。果たして結果はどちらが勝ったのでしょうというところで、それは来週のオンエアで。これは何だか見たくなってきた。首都圏ではなかなか見られないんだけど…。

 さて、この落語会シリーズは、長講をネタ下ろしすることが売りで、今回は「しじみ売り」と公表されている。ちなみ来年4月のファイナル公演は「百年目」をやるそうだ。「しじみ売り」は子どもながらしじみを売り歩く男の子に一体何があったのか。そこには掛けた情けがあだになった悲劇が隠されていた。買ってくれと言われた親分は、全部買い取ってしじみを川に放すとともに事情を聞き取っていく。鼠小僧次郎吉の人情ものなんだけど、案外寒々しい話なので熱演に関わらず今ひとつ乗れないなあ。

(柳家三三)

 そこへゲストの柳家三三。寄席にもよく出ているが、東京でも今一番脂が乗ってる何人かの一人だろう。歯切れの良さと勢いで、満座を引きずっていく。「締め込み」という噺で、明るい泥棒もの。留守の家に上がり込んで空き巣を働こうと、風呂敷を広げて着物を包んでいく。そこへ八五郎が帰ってきてやむなく床下に隠れていると、風呂敷を見つけて「さては女房が浮気して家出する気だな」と早合点する。そこに女房が帰ってきて、壮絶な夫婦げんかになってヤカンを投げつけると、お湯が床下の泥棒にかかってしまう。思わず出て来た泥棒が仲裁に入ってしまう…。良く出来た噺で、ケンカ場面が圧倒的に面白かった。

 仲入をはさんで、再び桂二葉の「池田の猪買い」。上方落語なので、東京ではほとんどやらないだろう。何しろ薬と思って、猪の肉を買いに行くが、その行き先が大阪北部の池田という。池田と言えば戦国時代に荒木村重の本拠地だったところだが、大阪でも北部で山の方は高給住宅地になってるらしい。この噺では、大阪で猪(誌誌)と言えば池田と言われている。ともかくとぼけた掛け合いが抜群。特に買いに来た男と猟師が雄を撃つか雌を撃つかで、揺れるところがおかしかった。

 その後、二葉と三三のトーク。マクラから、「二人ともトークが苦手で、今までもやってるけど黙ってしまうし、どうなるやら」と気を持たせていた。二葉がネタ下ろしはどう練習するかと聞いたら、三三は一度ノートに書き写すと8割方覚えてると答えた。映像記憶で残っているので、頭の中でノートを見るような感覚でやるという。これには二葉もビックリ。自分は歩きながら覚えると言ったら、三遊亭白鳥がそれで職質を受けたと返して笑えた。まあ、今回も面白かったから次回も是非行きたいな。

 今年前半は落語協会百年行事もあって、ずいぶん寄席に行ってたけど、8月に浅草へ行ったあとずっと行ってなかった。暑いと長丁場の寄席は厳しい。この会は終わりが9時半過ぎになるので、帰りが遅くなってしまうのが難点。まあ、たまには夫婦で久しぶりの外食も美味しかったけど。

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中国新聞「決別金権政治」取材班『ばらまき 選挙と裏金』、河井夫妻事件の全貌に迫る

2024年11月27日 21時55分29秒 | 〃 (さまざまな本)

 『ばらまき 選挙と裏金』(集英社文庫)という本を読んだ。集英社文庫8月新刊だが、新聞広告などでは見逃した。東京新聞の書評を読んで、そんな本があったのかと買うことにした。本体価格1000円だが、このぐらい出してちゃんと読むべき本だ。書いたのは中国新聞「決別 金権政治」取材班である。2019年参議院選挙広島県選挙区で起きた河井克行元法相、河井案里元参議院議員による大量買収事件。もとは週刊文春が運動員に過大な報酬を払っていたと報道したことが発端だった。広島で発行されている中国新聞は、地元の出来事を週刊誌に抜かれて、プライドにかけて事件の全貌を追い続けた記録がこの本である。

 地元ならではの強みを感じたのは、広島県の市町村長、県議、市議などへの「ローラー取材」である。これは全国紙や週刊誌には出来ない。そうすると受領を認める人も出てきた。単なる運動員買収ではなかったのである。検察も動きだし、どうも地方議員の聴取を始めたらしい。ほとんど答えない検察幹部に「夜討ち朝駆け」をするなど、非常に大変な取材が続いたことがよく判る。やがて河井夫妻の逮捕につながり、起訴されると今度は公判を傍聴して記録を残した。でも、地方議員の中には取材に嘘をついた人もいた。使ってないはずの人が、裁判で調書が公開されるとパチンコに使った議員もいたのである。

(河井夫妻事件)

 定数2の広島県では参院選では大体与野党が1議席ずつ当選してきた。しかし、2019年参院選では「自民党2議席」を合言葉に、現職の溝手顕正議員の他に党本部主導でもう一人擁立を決めた。溝手氏は安倍首相をかつて「過去の人」などと発言して、安倍首相の受けが悪かった。河井克行議員は当選同期の菅義偉官房長官に近く、安倍首相の補佐官を務めたこともある。そのため県議を務めていた妻の河井案里氏が県連の反対を押し切り党本部で公認が決定した。選挙戦では安倍首相や菅官房長官も応援に駆けつけたのである。また広島県全戸に「自由新報」号外(河井案里特集)が3回にわたり配布された。

(中国新聞のスクープ記事)

 その結果、溝手議員は落選し、河井案里が2位で当選したのだった。そのことを考えると、河井克行元議員による「買収の原資」が気になってくる。この本は2021年に刊行されたが、今回の文庫化に当たって大幅に加筆されている。それはこの「原資」問題を追及した経緯を書き足したのである。河井本人は捜査、公判を通じて、「自宅に保管してきた金」と述べていたが、貰った側では金に封がされていたという証言もある。そうすると、これは「政権中枢からの裏金」だったのではないか。

 実はそのことを河井がメモしていて検察が押収したという証言も得られた。中国新聞はスクープ報道したのだが、Yahoo!ニュースで取り上げられたものの、全国紙の後追い記事がなかった。だから僕もこの記事を知らなかった。ぜひ本書で読んで欲しいのだが、「安倍、菅、二階、甘利」から裏金が渡っていたらしいのである。それは本当なのかと追っていく様子はスリリングだ。安倍氏は亡くなっているが、他の3人は存命である以上取材せずに書くわけにはいかない。でも、どうやって?

(仮出所し地元に帰った河井克行元議員)

 実刑判決(懲役3年)を受けた河井氏も今では社会に復帰している。(2023年11月に仮釈放され、2024年6月に刑期満了となった。)最近では獄中体験を公に語ることもある。上記の写真は仮出所後に、地元に戻ったとの情報を得て、地元を「お詫び行脚」していたところを直撃取材した様子である。河井事件は多くの人を巻き込んだけれど、全国的に見れば「そんな大きな事件じゃない」とも言える。僕も何となくそう思っていたが、そういう「小さな事件」にこそ日本社会の縮図があった。その後、安倍派を中心にして派閥の裏金が明らかになった。何でそのような金がいるのか、この本を読めば判ってくる。

 新聞に対する批判は多いけれど、この本のような取材をみれば「新聞は必要だ」と思うだろう。全国紙数紙があれば良いのではなく、各地方の「地方紙」が必要なのである。地方紙の活躍をこれほど示す本はない。地方紙でも政権中枢の疑惑に迫れるのである。ただし、それを応援する人がいなければならない。「政治とカネ」をめぐる本は他にもあるけど、この本は「面白い」という点でも超一級。徹底取材している関係上ちょっと長いけど、飽きることなく読み切ってしまう本だ。

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映画『チネチッタで会いましょう』、イタリアの巨匠ナンニ・モレッティの新作

2024年11月26日 22時17分10秒 |  〃  (新作外国映画)

 イタリア映画が好きなので、1996年にベストワンになった『イル・ポスティーノ』4Kデジタル・リマスター版を見に行ってしまった。物語だけじゃなく、風景も音楽も心に沁みる名作だが、まあここでは書かないことにする。(名作の評価は定着しているので、見てない人はどこかで見て欲しい。)続いて公開されたばかりのナンニ・モレッティ監督『チネチッタで会いましょう』も早速見に行って、すごく面白かった。内容も語り口も映像も、この監督ならではの洒脱さで感じるところが多い。

 ナンニ・モレッティ(1953~)は若くして世界の映画祭で認められ、『息子の部屋』(2001)がカンヌ映画祭パルムドールを受賞した。一昨年に『ナンニ・モレッティ監督『3つの鍵』『親愛なる日記』を書いたが、1994年カンヌ映画祭監督賞の『親愛なる日記』はとても面白かった。イタリアには社会的テーマに果敢に挑むマルコ・ベロッキオのような監督もいるが、ナンニ・モレッティは自分で主演した「私映画」的な作品で知られている。今回の『チネチッタで会いましょう』も自分で映画監督ジョヴァンニを演じて、まさに映画の中で映画製作を行っている。チネチッタはローマ郊外にあるイタリア最大の撮影所。

 ジョヴァンニは妻がプロデューサーを務め、40年間夫婦で映画を作ってきた。今回の映画は1956年のハンガリー事件当時のイタリア共産党をテーマにしている。共産党機関誌「ウニタ」編集長がいる「アントニオ・グラムシ支部」では、ハンガリー事件さなかにハンガリーのサーカスを呼んで公演が始まるところ。イタリア共産党は西欧最大の党員数を誇ったが、事前ミーティングでは若い俳優から「イタリアにも共産党があったんですか」などと言われる。共産党はロシアだけじゃないのと言うから、イタリアには200万の党員がいたと答えると、イタリアにロシア人が200万人もいたんですかなどと言われる。

(ジョヴァンニと妻)

 ジョヴァンニはどうも自分を抑えられず、わがまま気味のようである。妻が他の人と話していると平気で割り込む。何事も決めつけている。若い人ともズレ始めている。(もっともイタリア共産党をめぐる先のセリフは笑えるエピソードなんだろうが。)そういう夫に妻は自分の考えを言えず、長い間ストレスを溜め込んできた。実はカウンセラーに通い始めていて、妻は離婚を望んでいる。映画音楽を担当している娘もどうやら彼氏が出来た様子。夫婦で会いに行ったら、そこはポーランド大使館だった。そこで大分年上の男を紹介されるが、本人どうしは仲良くやってるようだ。

 監督の映画の方は、党員を演じる主演女優が暴走気味で、突然年長の編集長にキスしたりする。脚本にない芝居をするなと言うと、カサヴェテスとジーナ・ローランズはもっと自由に映画を作ってきたと反論する始末。その上フランス人プロデューサーが詐欺師だったことが判明し、製作資金が底をつく。そこでNetflixに出資を仰ぐと、テーマが地味でもっと引きつける脚本じゃないと言われる。「私たちは190か国で見られているんです」と言われてオシマイ。撮影中止かと思われる時に、なんと韓国人が出資して製作再開になるのだった。ここが興味深く、韓国の映画産業の活況ぶりがうかがえる。

(Netflixと交渉するが)

 かつて日本でも左翼文化団体がソ連、中国などの「文化使節」を招待することがあったが、イタリアでもどうやら共産党が「社会主義国」ハンガリーとの文化交流でサーカスを呼んだらしい。しかし、本国の動乱発生で彼らは気もそぞろ、ついにハンガリーの自由のためにとストライキを始める。一方、主演女優演じる党員は起ち上がって、イタリア共産党は自由を求めるハンガリー市民に連帯すると宣言する。しかし、共産党の正式な対応は「(ハンガリーに侵攻した)ソ連支持」だった。

 妻は初めて夫以外の監督のプロデューサーをしているが、ジョヴァンニはクランクアップ直前に訪れて撮影をストップさせ暴力描写は良くないとぶつ。もういい加減ウンザリした妻はついに家を出て独り立ちする。若い世代とは話が通じないし、家庭もゴチャゴチャ。ジョヴァンニの生活は公私ともに多難だが、自分の映画のラストでも意に反してソ連支持の機関紙を作ってしまった編集長は自殺を選ぶ。というところで、自分でもこの結末に納得出来なくなる。

(ラストの大行進)

 そして何も映画は現実通りじゃなくていいじゃないかとタランティーノ的覚悟を決めて、編集長はハンガリー支持の紙面を作ってしまう。ラストは関係者全員が大行進するというまさにフェリーニ的結末に至る。(僕はあえて「1964年の東京五輪閉会式のように」と表現したい気がする。)そしてイタリア共産党は真に人民の党として活動し続けたと字幕が出るが、これはもちろんフェイク。イタリア共産党はその後マルクス主義を放棄し、「ユーロコミュニズム」と呼ばれた。冷戦崩壊後の1991年には「左翼民主党」に改名、その後ただの「民主党」となった。納得しない左派は「共産主義再建党」などを作るが小勢力。

 そういう戦後史の流れを知っていて、グラムシやトリアッティ(当時の書記長で、映画に登場する)などの名前を知ってる方が面白いだろう。またジャック・ドゥミ『ローラ』やフェリーニ『甘い生活』が引用される他、「スコセッシに電話する」なんてセリフもある。様々な映画の話題も出て来るし、当時のヒット曲を歌ってミュージカルみたいになるシーンも。ジョヴァンニも歌謡映画を作ってみたいなどと言っている。そんな小ネタも面白いんだけど、ここまでやるか的な自虐的イタさを監督自身が主演していることの面白さ。好き勝手に生きてきて、今初めて自分がかなり傍迷惑な存在と気付かされた人生。いや、面白かった。

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原武史『象徴天皇の実像 「昭和天皇拝謁記」を読む』(岩波新書)、昭和天皇の世界観

2024年11月25日 22時26分35秒 |  〃 (歴史・地理)

 岩波新書10月新刊の原武史象徴天皇の実像 「昭和天皇拝謁記」を読む』を読んだ。原武史氏の昭和天皇研究は今までも読んできたので、まあこれも読んでおこうという気持ち。『昭和天皇拝謁記』というのは、初代宮内庁長官だった田島道治という人が残した記録である。職務上、天皇に接するのが仕事だったわけだが、単なるメモを越えて肉声が伝わるように記録していた。近年になって「発見」され、岩波書店から2021年~2023年にかけ全7巻で公刊された。今さら原史料に当たる気持ちはないけれど、新書ぐらいなら読んでおこうかなということである。

 昭和天皇(1901~1989)、つまり迪宮裕仁(みちのみや・ひろひと)が亡くなって、もう35年になるのかと今さら書いていて気付いた。当然ながら35歳以下の人は同時代の記憶が全くないわけである。幼児も無理だろうが、10歳ぐらいなら何か大ニュースになっていたのを覚えているかも知れない。それにしても、もう社会の中堅になっている人々には、昭和天皇は歴史的人物以外の何者でもないんだろう。自分の若い頃は、「昭和」がいずれ終わるということはもちろん理解していたが、ほとんど想像不能なことだった。何しろ「昭和」しか知らずに30年以上生きていたのである。

 田島道治(1885~1968)を知らなかったので、調べてみるともともとは銀行家だった。東京帝大時代には新渡戸稲造門下で、無教会派クリスチャンだった。金融恐慌後に設立された「昭和銀行」の頭取などをしているが、実業家としてはそんな有名な人ではない。戦後になってから貴族院議員を務めていたが(1947年5月に貴族院廃止)、1948年6月に最後の宮内府長官に任命され、宮中改革を担当した。天皇は難色を示したらしいが、芦田均首相が押し切ったという。そして1949年の宮内庁発足とともに初代長官となった(1953年まで)。芦田内閣はすぐつぶれたが、その後の吉田茂首相と協力して戦後皇室制度の基礎を築いた。

(田島道治)

 この本は全巻を通読して、「天皇観」「政治・軍事観」「戦前・戦中観」「国土観」「外国観」「人物観」「神道・宗教観」「空間認識」に分けて分析している。人物観はさらに「1」が皇太后節子、「2」が他の皇族や天皇、「3」が政治家、学者などと分れている。そして終章で「「拝謁記」から浮かび上がる天皇と宮中」としてまとめが書かれている。

 印象的にはあまり新しいことが出て来るわけじゃない。従来から知られていたように、戦後も「大元帥」感覚を持ちつづけて、新憲法の「象徴」の意味は理解していなかった。天皇家永続を絶対視し強烈な反共、反ソ連意識を持ち、憲法9条「改憲」を願い、それまではアメリカとの防衛協力を望んでいた。皇祖皇宗(天皇家の祖先)への責任は感じていたが、「臣民」への戦争責任は全く感じていなかった。(そのように教育されて育ったまま、「国民主権」を理解できなかった。)

 原武史が従来から指摘してきたように、昭和天皇は実母の貞明皇太后(1884~1951)との折り合いが悪かった。幼い頃から別居して育った生育歴もあるが、それより大正天皇の早世以来「宮中祭祀」絶対になった母親が苦手だったのである。昭和天皇が学問・スポーツが好きだったことも、母からすれば気に入らず、弟・秩父宮の方を愛していたらしい。戦後も母親の怒りに触れないようにしていることを田島には率直にもらしていた。宮中の「地雷」だった皇太后が66歳で急逝したことは戦後皇室に影響を与えただろう。年齢的にあと10年ぐらい生きていてもおかしくなく、その場合は皇太子妃選考が変わっていたのではないか。

(清水幾太郎)

 今回驚かされたのは、学者の動向にまで気を配っていたことである。それは皇太子(現上皇)が大学で「悪影響」を受けるのが心配だったかららしい。東大は「全面講和」を主張する南原繁が学長をしているからもっての外。皇族を主に受け容れてきた学習院大学にも清水幾太郎がいるから、皇太子を通わせて影響を受けたら大変だと思ったらしい。皇太子はエリザベス女王の戴冠式に参列して、結果的に出席不足で留年しで学習院を退学した背景にはそんな事情もあったらしい。

 清水幾太郎(1907~1988)は確かに当時有名だったけれど、マルクス主義者でもなく、天皇が気にするほどでもないと思うが。60年安保闘争では「今こそ国会へ」という檄文を書いたが、60年代半ばに右旋回して「ニューライト」と呼ばれた。僕はそっちのイメージが強いので、天皇が警戒心を抱くほど「戦後論壇」の左傾を気にしていたのかと感慨深い。もう知らない人の方が多いと思うけど、E・H・カー『歴史とは何か』の最初の訳者である。大学に左派的な学者がいたら学生が全員左翼になるなら、日本は社会主義国家になっていてもおかしくない。自分が教えられた通りに信じる真面目タイプだったからかもしれない。

 ところで、原氏は最後に極めて重大な指摘をしている。戦前の価値観を引きずったままの昭和天皇には、原爆被害者や沖縄戦被害者などの「なぜもっと早く終戦の決断をしてくれなかったのか」という「声なき声」は届かなかった。近隣諸外国への配慮も欠けていた。そのため後継者である現上皇にとって、沖縄を繰り返し訪問したり、中国を公式訪問するなどの「配慮」を欠かせなかった。それが右派には不満を残したという。そこで代替わりした現天皇には、軍事化が進む現代日本において「自衛隊のシンボル」になって欲しいのではないか。それが右派があくまで「女性天皇」に反対する深層の理由ではないかというのである。

 戦争が起きたとするなら、「男性天皇」には軍人を鼓舞する役目、「女性皇后」には戦死傷者を慰撫する役目が求められると考えて、「女性天皇は望ましくない」と思うのか。もっとも1983年のイギリス・アルゼンチンの「フォークランド戦争」では、エリザベス女王、サッチャー首相と王室も内閣も女性がトップだった例もあるわけだが。

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『がんばっていきまっしょい』、原作と映画とアニメを比べると

2024年11月23日 22時51分23秒 |  〃  (旧作日本映画)

 最近アニメになって再び注目された『がんばっていきまっしょい』。1998年に公開された実写版映画を久しぶりに見たので、原作も含めて比べてみたい池袋の新文芸坐の「アルタミラピクチャーズ31周年記念上映」という不思議な企画で、磯村一路(いそむら・いつみち)監督の『がんばっていきまっしょい』が上映された。監督に加えて、田中麗奈等出演女優4人のトークもあり、原作者(敷村良子)も来ていて豪華な顔ぶれに大満足。きっとすぐ満席になると見込んで、予約が可能になる一週間前午前0時過ぎにすぐ押さえた甲斐があった。(0時5分頃にすでに3分の1ほど埋まっていた。夕方に見たら、ほぼ満席だった。)

(1998年の映画)

 この映画は「部活映画」の最高峰だと思う。愛媛県の進学校に合格したもののやる気が湧かない主人公が、ボート部に入ろうと思う。しかし、ボート部に男子はいるものの女子部員はいなかった。そこで「作れば良い」と開き直って、新人戦までという条件で1年生4人を見つけてくる。最初は体力もなく、ボートも自分たちで運べない。実際に海に出てみれば、全く思うようには動かない。そういう様子を瀬戸内海の美しい景色の中に描き出す。学業の悩み、淡いロマンスなども織り込みながら、ついに新人戦がやって来て…。ボロ負けしたところで終わるはずが、「これでは止められんね」と皆の闘志に火が付くのだった。

 その後ビリは脱するものの、その後どこまで勝てるのか。原作、実写映画、アニメ映画で全部展開が違うので、今後接する人のため書かないことにする。この映画の素晴らしさは、瀬戸内海で実際に10代の俳優がボートを漕いでいるということにある。それは小説でもアニメでも不可能だ。当初のぎこちなさも含めて、「青春」という至上の瞬間が映像に封じ込められている。時間的な問題もあり、進路や恋愛など定番的設定は最少にして、ボートの練習や試合が中心となっている。体力、技量、健康問題など幾つもの困難を抱えながら、ここでは終われないと何とか頑張る。そのひたむきさが年齢を超えて訴えてくるのである。

 この映画は1998年のキネ旬ベストテン3位になった。小さな公開だったので高評価に驚いた。公開当時、設定をよく知らずに見に行って、すごく感動した記憶がある。監督はピンク映画出身で一般映画は少ない。女子ボート部を起ち上げる「悦ねえ」役の田中麗奈は本格初主演で、まだ無名だった。原作も知名度が低いし、ボート部経験者も少ないだろう。主要キャストで知名度があったのは、コーチになる中嶋朋子ぐらい。他に両親(森山良子、白竜)や校長(大杉漣)、また原作者が養護教諭でカメオ出演。Wikipediaによると、男子ボート部員に若き日の森山直太朗とバカリズムがいたんだそうだ。

 原作は松山市主催の第4回坊っちゃん文学賞(1995)の受賞作。この賞は中脇初枝(2回)、瀬尾まいこ(7回)が受賞している。著者の敷村良子(しきむら・よしこ、1961~)は松山東高校ボート部出身で、自身の体験を基にした青春小説である。(映画では伊予東高校、アニメでは三津東高校になっている。)2005年にドラマ化(主演鈴木杏)されたとき、原作小説が幻冬舎文庫に収録された。それを読むと、映画もいいけど小説はいっぱい書けていいなと思った。ホントのボート部は映画より活躍したのである。題名の「がんばっていきまっしょい」は始業式などで、生徒会長が声を出す掛け声。在校生は「しょい」と復唱する。ただし、ボート部ではそんなに使われず、原作では難しい「垂示(すいし)」というのを唱えている。

(敷村良子)

 原作では「豚神様」という皆が大切にしているマスコットが印象的だが、今日の監督の話によれば映画でも撮影したものの時間の問題で削ったという。残念。一番違うのは、コーチだろう。中嶋朋子のコーチは謎めいていて、道後温泉で偶然出会ったり、石手寺万灯会を教えたりする。原作ではOB夫妻が教えに来てくれるが、1月2日は毎年新年会で代々の部員が集結すると出ている。ところで実は作者は女子ボート部再興時のメンバーではなく、本当は後輩の部員なんだという。敷村良子さんは現在新潟県在住で、Wikipediaによると立教大学法学部を卒業した越智敏夫(新潟国際情報大学学長)という人が配偶者とのこと。

(2024年のアニメ)

 櫻木優平監督の劇場アニメ『がんばっていきまっしょい』は2024年10月25日に公開され、だいぶ上映回数が減ったけれど今も上映されている。これは原作、実写映画と大きく違っていて、時代が現代に変更されている。原作では1976年で、映画もそれに合わせて懐古的に作られているが、アニメでは皆がスマホを使っている。部員個々の設定も大きく違っていて、それはそれで面白いんだけど、原作や元の映画が好きな人には「何だかなあ」という感じも。また他校の部員とのあつれきや交流なども一番出て来る。部員も2年生だし、悦ねえの幼なじみで因縁深い「関野ブー」も変更されている。顧問の「渋じい」も他には出て来ない。

 別に同じである必要はなく、時代に応じて変えて行くのは当然だろう。しかし、瀬戸内海でボートの練習を繰り返すというベースはもちろん変わらない。その海の美しさはアニメならでは。事前に物語を知っていて、それを期待する人には満足出来るだろう。だけど、何か足りない気もしてしまうのは、実写版映画が好きだからだろうか。1976年という設定は自分の高校時代に一番近い。(大学2年生だった。)その意味での「あの頃」的な思いは、21世紀のスマホを持つ女子高生には持ちにくいのか。

(松山東高校)

 舞台となる松山東高校とは、旧制松山中学、つまり夏目漱石が赴任し『坊っちゃん』の舞台となった学校である。正岡子規の卒業校でもあり、他にも高浜虚子河東碧梧桐中村草田男石田波郷など俳句の巨星を輩出した。今も俳句甲子園の強豪校である。また大江健三郎の出身校で、伊丹十三と知り合った学校でもある。(伊丹はその後松山南高校に転学し、そこを卒業。)伊丹万作(十三の父)、伊藤大輔山本薩夫森一生など、なぜか映画監督の巨匠も多く輩出した。他の分野でも多くの人材を輩出した愛媛県の進学校で、そもそもは藩校明教館にさかのぼり空襲を逃れて今も校内に建物があるという。

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見えてくる「王権」の構造ー『特別展はにわ』を見る②

2024年11月22日 22時18分31秒 |  〃 (歴史・地理)

 東京国立博物館の『特別展/はにわ』の話2回目。第1会場に入ると、最初に「踊る人々」が展示されている。埼玉県熊谷市の野原古墳出土のもの。これは祭祀の場面で踊っていると思われてきたが、馬の手綱をひく姿と見る異説も有力だという。古墳時代末期の6世紀のもので、技法的には表現の省略が進んだものと言えるらしい。そこからくる「ゆるさ」が埴輪っぽいと言われる。いずれにしても、「王」(地方政権の権力者)の権威を誉め称えるためのものだろう。

(踊る人々)

 はにわ展なんだから、もちろん埴輪(はにわ)がいっぱい展示されている。しかし、それだけでなく、江田船山古墳(熊本県和水町)や綿貫観音山古墳(高崎市)などの豪華な副葬品も展示されている。埴輪は「王墓」周囲から発掘されるものだから、「王権」全体の理解が欠かせない。特に下の金銅製の帯は黄金の鈴が付いていて、実に見事なもの。驚くしかない見事な副葬品だ。大陸製の豪華な装飾品が関東地方まで渡っていたのである。当然、畿内の大王墓からは、どんな素晴らしいものが出て来るだろう。しかし、「天皇陵」に指定されているものは発掘調査が出来ないし、仮に出来てもほとんどは盗掘されていると思われる。

(金銅製鈴付大帯=綿貫観音山古墳出土)

 大和に本格的な王権が成立すると、巨大な王墓が建設された。その周囲に置かれたのが「埴輪」である。「殉死を禁止した代わりに埴輪を作るようになった」と「日本書紀」垂仁天皇(11代)の条に出ているが、これは考古学的研究の結果と矛盾するので、今は土器製造を職掌とする土師(はじ)氏の伝承とされている。じゃあ、なんで埴輪を作ったかというと、「結界」だと思われる。王墓に悪霊が侵入しないように、周囲に祈祷施設を作るのである。それが「円筒埴輪」で、円筒の上に捧げ物を乗せて祈るのである。これがベースになる埴輪で、動物や家などの埴輪は東国で発展した異質なものである。

 (円筒埴輪、左のものは2.2mもある巨大なもの)

 大王墓は発掘出来ないと書いたが、例外が一つだけある。宮内庁管理の天皇陵は発掘出来ないが、天皇陵の治定(ちじょう)には疑わしいものが多い。26代継体天皇の真の墓は大阪府高槻市の今城塚古墳だというのは、ほぼ学界の通説となっている。今城塚古墳は発掘調査が行われ、史跡公園、歴史館が作られている。そこで出土したのが下の家形埴輪で、実に豪壮な姿が大王にふさわしい。(もっとも北陸から発した征服王朝である継体天皇は、それまでの王権中心地の大和に入れず、大阪府高槻市に墓が作られたわけだが。)しかし、こういう家に住んでいたかどうかは判らない。むしろ霊の依り代としての「家」かもしれない。

(今城塚古墳の家形埴輪)

 高崎市の綿貫観音山古墳から出た人間の埴輪はとても興味深い。下の二つは向かい合って発掘されたもので、対になると思われている。あぐらをしている左の男性は、「王」と思われている。一方、右の女性は正座をしていて王に仕える女性らしい。王権に仕える巫女的なものか、それとも食事を提供する役か。ともかくすでに性差が現れている。武人埴輪があるように、権力のベースは武力にあるが、倭国の王権は宗教的な「権威」で統一された要素が大きい。その経緯の中で、男の武人と侍女というジェンダーによる役割が成立していったものだろうか。権威と権力、武力と宗教性。王権の二重性がうかがえる埴輪だ。

 (王と仕える女性)

 動物埴輪も興味深い。いっぱい並んだ部屋があって、面白い。しかし、これも当然「かわいらしさ」などを感じるのは現代人の勝手だけど、やはり被葬者の力を寿ぐために置かれているんだろう。もっとも東国で独自に発展していく動物埴輪は、ある程度は埴輪工人の趣味というか、違う動物も作ってみたいというような「遊び心」もあったような気もする。ヴァリエーションがありすぎるし、「美」的な創造性は感じないとしても、動物を再現したいという初期的な作家性も多少あるような気がする。力士埴輪も面白い。土俵入りみたいに四股を踏んでいる。これは王墓を霊的に踏み固める「地鎮」の役だろう。

(馬)(鹿)(力士埴輪)

 埴輪は前方後円墳の周囲に置くものだから、当然ながら古墳時代が終わると作られなくなる。継体天皇の子である欽明天皇時代に「仏教渡来」があり、次第に葬送儀礼も変わってゆく。普通は「古墳時代」は3世紀中頃から6世紀後半頃を指す。地方ごとに多少違うとしても、7世紀半ばには古墳は(中央では)完全に作られなくなる。野見宿禰(のみのすくね)を祖とする土師(はじ)氏は葬送儀礼や土木技術を担当する一族で、埴輪を発明したと伝承される。しかし、次第に直接の役割がなくなっていって、学問に生きるようになる。菅原氏や大江氏は土師から改姓したもので、菅原道真を出すことになる。

  (東京国立博物館)

 当日は晴れ渡った一日で、トーハクも黄葉が始まっていた。真ん中の写真を見ると、表慶館の上に「キティちゃん」がいる。

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『特別展はにわ』を見る①ー「挂甲(けいこう)の武人」勢揃いの迫力

2024年11月21日 21時56分20秒 |  〃 (歴史・地理)

 『オン・ザ・ロード』を見る前に、東京国立博物館の『特別展/はにわ』に行った。12月8日までなので、そろそろ行かないと。「はにわ」には今までそんなに関心がなかったのだが、たまたま本屋で雑誌『時空旅人』11月号「はにわの世界」を見て、名前も知らなかった雑誌だけど買ってしまった。読んで勉強すると、なんだか興味が増してきたわけ。

 トーハクも高くなって、最近はあまり行かなくなった。久しぶりに行ってみると、チケット売り場が大混雑。ほとんどが外国人客である。表慶館では「Hello Kitty展」なんかやっててビックリ。しかし、そのチケットは博物館では売ってない。並んでる外国人客は「はにわ展」を見るわけじゃなく、ほとんど全員平常展(総合文化展)のチケットを買っている。はにわ展を見たい人は事前にネットで買っていく方が賢いようだ。平日なので、はにわ展そのものはそんなに混んでたわけじゃなかった。

 日本史の教員だったけど、僕はほとんど埴輪(はにわ)に詳しくない。「古墳」そのものには関心があったが、専門外なので副葬品の埴輪には関心がなかった。だから「挂甲の武人」なんて言われても、意味も読み方も知らなかった。これは「けいこうのぶじん」と読む。群馬県太田市で発掘された埴輪「挂甲の武人」の国宝指定50年というのが今回の展覧会の趣旨で、同型の埴輪5点が勢揃いしている。まるで秦・始皇帝陵の「兵馬俑」を見た時を思い出すというと大げさだが、まあ壮観ではある。

(国宝「挂甲の武人」)

 「挂甲」と言われても意味不明だが、この言葉はWikipediaに出ていた。「」は「ケイ」「カイ」で、訓読みでは「かける」。つるすとか引っかけるという意味である。本来は奈良・平安時代の甲(鎧=よろい)の一種で、鉄製や革製の甲に小さい穴をあけて引っかけて、腰から下まで覆う。今では古墳時代のものは「小礼甲」(こざねよろい)と呼ぶべきだと言われているらしいが、僕にはよく判らない。写真で見れば、確かに下半身まで覆うような甲をまとっている。そして刀と弓を持っている。この展覧会では一部を除き写真撮影可なんだけど、「挂甲の武人」の部屋は暗くてよく撮れていなかった。そこでHPから取ってみる。

(「挂甲の武人」5体勢揃い)

 所蔵先を見てみると、左から順に「東博(国宝)」「相川考古館(重文)」「シアトル美術館」「歴博」「天理参考館(重文)」である。外国所蔵のものもあるから、二度と見られない勢揃いだろう。こんな風に並んでるわけではないが、一つの部屋に集まってるから迫力である。埴輪は古墳の周囲から出土する副葬品だが、これら武人たちは何のために存在するのか。それは被葬者の霊を来世でも守り続ける「呪術的役割」だろう。武人だからもちろん戦争にも行ったんだろうが、ここでは王に対して死後も供奉している。院政期に「北面の武士」が置かれたが、「武士」の第一の役割は権力者の周囲を悪霊などから守ることだったと思う。

 そして驚くべし、本来の「挂甲の武人」は装飾されていたというのである。解体修理時に細かな調査を行い、彩色を施したレプリカが作られた。それが上にあるもので、もともとは白いものだった。意味があるのかどうか知らないが、やはり「破邪」の色としての白なんだろうか。埴輪は美術品として見ても良いが、本来は「作品」ではない。中にはカワイイものもあるけど、それも含めて僕は埴輪に「史料」としての価値を見るのである。このような多種多様な埴輪はほとんど群馬県など関東から出土する。

 古墳時代後期になると、ヤマト王権は大陸から「仏教」を受け入れ、大規模古墳を作る文化がすたれていった。中央の文化的規制が緩くなり、東国独自の発展をした。それがこれほど多彩な埴輪が作られた理由らしい。東国だから、巨大古墳があっても「大王墓」ではない。地方の王権とは言えるかもしれないが、統一政権の「大王」(オオキミ)ではない。しかし、前方後円墳を作っている以上、東国文化も中央と無関係ではない。埴輪を通して「王権の構造が見えてくる」のである。「挂甲の武人」は第2会場に展示されていて、そこまでにも興味深い埴輪がいっぱいあった。長くなったので2回に分けることにしたい。

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映画『オン・ザ・ロード~不屈の男、金大中』、韓国民主化運動の歴史

2024年11月20日 22時06分43秒 |  〃  (新作外国映画)

 『オン・ザ・ロード~不屈の男、金大中』という映画が上映されている。韓国の元大統領、金大中(キム・デジュン、1924~2009)の生涯を多くの映像をまとめて描くドキュメンタリー映画である。これを見ると、苦難の韓国現代史がよく理解できるだろう。東京ではポレポレ東中野でやってるけど、見るのも書くのもどうしようかと思った。同時代に生きてきて、知っていることが多かったけれど、改めて感じるところも多かった。だからやっぱり見ておくべき映画かなと紹介する。

 韓国初のノーベル賞受賞者である金大中は、2024年が生誕百年にあたる。そのことに僕は気付かなかったが、あれほど有名だった隣国の政治家も没後15年になれば知らない人も増えているだろう。特に韓国の「民主化運動」及び、日本で取り組まれた「韓国政治犯救援運動」も知らない人が多くなったと思う。韓国映画には現代史を描く映画がかなりある(今年公開の『ソウルの春』など)が、民主化運動の歴史をきちんと知らないと韓国理解が偏ってくる。生年を見れば判るように、金大中は日本統治時代に生まれ、「光復」(日本敗戦による独立回復)は21歳の時だった。韓国南西部の全羅南道の島に生まれ、近くの港町木浦で育った。朝鮮戦争では「北」の軍隊に逮捕され殺されかかったが、マッカーサー率いる国連軍が仁川に上陸して危うく助かった。

(野党政治家として活躍)

 その当時は海運会社を経営する若き経済人だったのだが、戦争を辛くも生き延びてから政治を志すようになった。もっとも1954年の選挙では落選、その後も1959年、60年と落選している。決して当初から故郷の支持基盤が厚かったわけではなかった。しかし、李承晩政権と対立する野党民主党のリーダー張勉に引き立てられ、民主党のスポークスマンを務めている。このように古い時代のことは当時を知る人も少ないだろうし、あまり映像資料もない。61年の選挙で初めて当選したが、3日後に朴正熙大統領のクーデターで国会は停止された。どちらかと言えば党内でも「現実派」として出発したが、以後はずっと軍政に抵抗し続ける。

 そして、71年の大統領選(野党候補として善戦し注目された)、73年の金大中氏拉致事件(東京に滞在していた金大中が韓国情報機関により不法に拉致された)、76年の「民主救国宣言」発表とその後の弾圧と続くが、18年続いた朴正熙政権も1979年に突然終わった。朴正熙大統領が突然中央情報部長に暗殺されたのである。ここから「ソウルの春」と呼ばれた民主化が始まるが、今度は全斗煥将軍のクーデターでそれも挫折した。1980年5月に、クーデターに反発した光州の民衆を軍部が残酷に弾圧した「光州事件」が起きる。それ以前に拘束されていた金大中は事件を長く知らず、7月になって初めて聞かされて失神した。

 この「知らなかった光州事件の首謀者」として死刑判決が下されたが、全世界で救援運動が起こった。日本でも集会やデモが何度もあって、僕も参加している。当時の映像が出て来るが、「左派系」(政党や労働組合のもの)のデモが多く使われていたが、実際はもっと市民運動やキリスト教系の運動の方が広がっていたと思う。(映像がないのかもしれない。)最終的にはレーガン政権の「圧力」もあり、無期懲役に減刑され、1982年には「治療」目的で米国渡航が認められた。

 その頃の映像はかなり残っていて、獄中書簡などは感動的。頑なに渡米を拒んでいた(政治活動をしないなどの条件を呑みたくなかった)が、やがて受け容れるまでの面会の様子も映像で残されていたので驚いた。アメリカに落ち着いた後は、政治家や学者などに韓国民主化の必要性を訴えて理解者を増やしていった。1985年2月に「強行帰国」した際は、1983年に同じく「強行帰国」したフィリピンの野党指導者ベニグノ・アキノが空港で暗殺された事件の再現を防ぐため、米下院議員や報道関係者などが多数付き添っていた。全斗煥政権は直ちに「自宅軟禁」にしたが、金大中帰国が民主化運動を蘇生させたことが判る。

 金大中は獄中で考えを深め、「報復」ではなく「寛容」を説くようになっていく。そのことが後に大統領になったときに大きな意味を持ってくる。映画は大統領になるまでは描かず、あくまでも「民主化運動のリーダー」として描いている。そのため、民主化運動の高まりで大統領直選制などが実現した1987年までで終わっている。知っている人には意外な話はなく、知ってることを映像で確認する映画。金大中をめぐって意外な証言が出て来るわけでもなく、一本調子な感じは否めない。

 (光州に集まる民衆の様子)

 しかし、この映画のラストは本当に感動的だった。民主化実現後に初めて光州を訪れた時の映像である。光州に着く前から鉄道沿線に人々が集まって、金大中も窓から手を振り続ける。光州での様子は上の写真にあるが、もう見渡すばかり人、人、人の波である。金大中も慟哭して泣き続けていた。見ている方も胸が熱くなる。自分もいろんなことを思い出してグッときた。

 ところで、この映画の上映素材は韓国公開時のものではなく、日本語のナレーションで進行する「日本編集版」である。1980年の日本での救援運動の映像も、韓国で2024年1月に公開された時にもあったのかどうか不明。説明がないと判らない人も多いだろうし、字幕で見るのは不適当なのかもしれない。しかし、出来れば韓国で公開されたままのヴァージョンで見たかった。

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それでも「パワハラ」は否定できないー兵庫県知事選、斎藤前知事が再選

2024年11月19日 22時32分11秒 |  〃  (選挙)

 17日に兵庫県知事選が行われ、斎藤元彦前知事が再選された。斉藤氏は111万3911票で、次点の稲村和美氏が97万6637票、以下清水貴之氏=25万8388票、大澤芳清氏=7万3862票、立花孝志氏=1万9180票、福本繁幸氏=1万2721票、木島洋嗣氏=9114票だった。斉藤氏支援の立花氏を含め、事実上斉藤票は113万票ほど。稲村、清水、大澤3氏合わせれば、130万票ほどになる。

 乱立で斉藤氏が有利になると言われていたが、まさにその通りになった。本来なら「決選投票」を行うべきだろうが、日本の選挙制度にはないので、これで斉藤氏が当選である。まさかそういう結末になるとは予想してなかった人が多いだろう。本来他県の選挙はあまり書かないんだけど、この兵庫知事選には非常に重大な論点があるので、あえて書いておきたい。

 何年か経つと忘れてしまうから、ざっと経緯を書いておくと、2024年3月に斎藤知事の「パワハラ」を告発する文書がマスコミ、県議等に送付された。斎藤知事は文書の作成者を当時の西播磨県民局長と特定したうえで、記者会見で告発を「嘘八百」と否定し「業務時間中なのに嘘八百含めて文書を作って流す行為は、公務員としては失格」と激しく反発した。その後、県議会は6月13日に「百条委員会」(地方自治法に基づき強い調査権限を持っている)を設置して調査を進めていた。

 しかし、その調査結果を待たずに、県議会内で不信任案提出の動きが強まり、9月19日に全会一致で不信任案が可決された。その場合、辞職するか、議会を解散して県議選を行うかになるが、どちらも選択しない場合は、10日後に「自動失職」する。自ら辞職して再選挙に臨む場合、当選した場合の任期は本来の残り(2025年7月)までになるが、自動失職後の選挙で当選した場合、任期は新たに4年間となる。斉藤氏は自動失職を選び、10月17日の知事選で当選したわけである。

(斉藤氏の演説に熱狂する人々)

 今回の選挙が特別な経過をたどったのは、立花孝志氏が参戦したことが大きい。立花氏は「斉藤知事はパワハラをしていないことを確認した」と言って、自分の当選(あるいは自党の勢力拡大)を目的とせず斉藤氏支援のために立候補したのである。しかし、立花氏と言えば7月の都知事選で「ポスター掲示板の掲載権を売買する」という信じられないことを行った人だ。それも「違法ではない」ということなんだろうが、僕は立花氏が「問題ない」と言った時には「眉に唾を付ける」べきだと思う。

 都知事選のふるまいは「違法」じゃないとしても「明らかに不適切」だ。同様に斉藤氏の行為も、(現時点では)違法行為に当たらないとしても、「不適切」なことはあったように思う。7月に『斎藤兵庫県知事の「内部告発」問題ー「維新」知事のパワハラ疑惑』で書いたように、告発者は3月末で退職の予定だったのに、退職を差し止めにしたうえで5月に「停職3ヶ月」の処分となった。この「退職差し止め」「早い処分」はどう見ても、知事権限の不当な行使としか思えない。

(立花孝志氏)

 「パワハラ」は定義がバラバラで、本人がパワハラではなく「厳しい叱責」と言えば、それを信じる人もいるかもしれない。しかし、様々に問題視された件の中でも「処分」は間違いなく知事権限である。「内部告発」者をさっさと停職にしたのは大問題だ。また「オリックス優勝パレード」問題は、未だにその全容がはっきりしていない。その解明を待たずに不信任案を可決した県議会も、問題はあったと思っているが、その問題は違法行為である可能性もある。このように未解明の問題もあるのに、どうして他者が「パワハラはない」と結論できるのか。何か特別の秘密情報でも持っているんだろうか。

 ところがテレビニュースで見たけれど、「SNSで調べたら、パワハラはしてないとわかった」と言ってる若い人が結構いた。これは本当に「調べた」んだろうか。「調べる」とは自分で論拠に当たることで、「パワハラはしてない」(またはパワハラをしている)というサイトを探して見ることではない。探して見た後で、その人の論拠に当たって自分の考えで検証しなければいけない。それが「調べる」ということのはずで、本当に多くの人がそこまでやったのか疑問なのである。

 教育現場で「自ら考える」授業を進めているけれど、僕の経験では「調べた」と称して、たまたま見つけたサイトをコピー&ペーストした「レポート」を提出するような生徒は結構いると思う。対立しているテーマでも、たまたま見つけた新聞の社説に沿って「自分の考え」のように書く。いくつかのマスコミに当たって、対立点を検討したうえで、さらにその問題の本も読んでみるなんて、そんなことのできる生徒はあまりいない。だから、「自分で調べたら、パワハラじゃないことがわかった」という言説には疑問を持つのである。その中の何人が「パワハラがあった」という意見も読んで、クロスチェックしたんだろう。

 都知事選の石丸現象、アメリカのトランプ現象、さらに名古屋市長選も控えている。今回はSNSが「暴走」して、脅迫に近くなったケースもあったらしい。百条委の委員をしている県議が辞任している。また稲村氏の「X」アカウントが不自然に何度も凍結されたという話もある。もちろん新聞やテレビが報じないことはいっぱいある。ネットで探す情報なくして現代は生きていけない。しかし、ネットで候補者側が発信する情報を有権者側がどう生かすか。一応新聞やテレビには「報道倫理」があり、ファクトチェックも可能だ。しかし、ネット情報はどこか権威ある機関が真偽を保証するわけではない。どうすれば良いのか、今は答えがない。

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『鍵・瘋癲老人日記』『陰影礼賛・文章読本』『台所太平記』ー谷崎潤一郎を読む③

2024年11月18日 22時12分34秒 | 本 (日本文学)

 谷崎潤一郎を読むシリーズ3回目(最後)。谷崎作品の中には、今となってはこれはどうもという小説が結構多い、いつもスルーしておくんだけど、谷崎の場合はその説明も意味があると思うので書いておきたい。まず、伝奇小説系のエンタメ色の強い作品は面白くない。『乱菊物語』『武州公秘話』などが代表。もっともどっちも未完だから、面白くなくても仕方ないかもしれない。一般論として、純文学は生き残るがエンタメ小説は賞味期限が短い。芥川賞の名前となった芥川龍之介は皆が読んでるだろうが、直木賞の由来である直木三十五なんで、読んでないどころか名前も忘れられている。まあ、それはともかく現代の冒険小説、幻想小説、時代小説の水準は非常に高くなっているので、今じゃ谷崎作品レベルじゃ満足出来ないのである。

 戦後に書かれた大問題作『鍵・瘋癲老人日記』もあまり面白くなかった。どっちも老人の性を赤裸々に描いて、評判・非難・称賛された小説である。『』(1956)は「異常」な性行動が日記体で書かれていて、国会で問題にされたぐらいだ。どんなエロティックな話なんだと思うと、今じゃ『鍵』で興奮する人なんかいないだろう。56歳の大学教授と45歳の妻がお互いに相手に読まれると知っていて、日記に性行動を書く。さらに、娘と夫の教え子もいて複雑な関係になる。夫婦、親子で心理ゲームを仕掛けあうのが鬱陶しい。『』の夫の日記と『瘋癲老人日記』はカタカナ日記なので、今では読みにくいったらない。

 『瘋癲(ふうてん)老人日記』(1962)は谷崎75歳の作品で、77歳の老人の日記という体裁。実娘より嫁(息子の妻)に執着して、嫁の足形の「仏足石」を墓石にして、あの世に行っても嫁に踏まれたいと望む。谷崎の「マゾヒズム」「足フェチ」を究極まで突き詰めた最後の長編小説。小説としてみれば、紛れもない傑作だが、あまりにも変すぎて笑えるぐらい。気色悪いのは否定出来ない。これもモデルがあって、三人目の妻松子の連れ子の妻、渡辺千萬子である。

 それより『鍵』も同じだが、主人公は病気持ちなのである。高齢で美食しているから、高血圧で脳血管障害がある。実際に小説中で倒れている。驚くのは救急車を呼ばないのである。調べてみると、救急車自体はもうあったが、全国各地に普及するのはもう少し後らしい。大体各家庭に電話がないんだから(60年代後半まで固定電話もない家が多かった)、呼ぶのも大変。小説の主人公は裕福で電話もあるが、病院に行ってもMRIなんかないから自宅で安静が一番という時代である。東大病院の医師が往診に来るのでビックリ。血圧の上が200を越えたりしているのも、驚き。医療水準の違いこそ、今では読みどころである。

 『陰影礼賛・文章読本』は30年代に書かれた有名な評論だが、初めて読んだ。本格的に論じるのは大変なので、ちょっと感じたことだけ。どっちも今でも興味深い論点もあるんだけど、全体的に古びた感じがする。有名な『陰影礼賛』(1933)は人種的観点があるのがマイナス。「白人」の文化が「陰影」を解さないのは「皮膚の色の違い」が原因だみたいな箇所がある。それなら「黒人」はどうなんだという観点が全くない。これは昔の文明論の特徴でもあるが、日本とヨーロッパ(の英仏独など大国)を比べるだけで、「東西文化」を論じちゃうのである。また「トイレ」も取り上げているが、洗浄便座が普及した現在では、昔の「厠」(かわや)の方が奥ゆかしいなんて思う人は誰もいないだろう。都会の夜は明るすぎて星空も見えないけれど、安全には代えがたい。

 『文章読本』(1934)はとても良く出来た文章入門編だけど、今じゃ例文が古すぎる。でも『城の崎にて』(志賀直哉)を取り上げて何度も論じているところは勉強になる。なるほど、これが志賀の文章推敲かと実感できた。古典文を引用しているのも貴重。だが可能な限り「新語」を使うべきでなく、「概念」「観念」は「考え」と言えば通じるという(218頁)のは、今では通じない。出ている例文、「彼には国家という観念がない」は「彼には国家という考えがない」と言えるかというと、現代人ならそこに微妙な違いがあることが理解できると思う。「観念」「概念」「理念」などはそれぞれ特別なニュアンスが生じたのである。 

 『台所太平記』(1962)について最後に簡単に。これはライトノベル的に谷崎家にかつて勤めた「女中」を回想した小説。すごく面白いし、映画化されたのも面白い。だけど時代の違いをこれほど感じる本もない。堂々と「同性愛」嫌悪が語られるし、家意識、家父長意識が随所に出ている。谷崎がいかに転居を繰り返したかが判って興味深い本で、時代相の描写も面白い。しかし、「良き主人」と「良き女中」による「良き家庭」を心底信じていた時代の産物なのである。

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『春琴抄』『少将滋幹の母』『猫と庄造と二人の女』ー谷崎潤一郎を読む②

2024年11月17日 21時46分51秒 | 本 (日本文学)

 谷崎潤一郎を読むシリーズ2回目。谷崎作品は数多くあるけれど、最高傑作は何だろうか。僕は学生時代に読んだとき、『春琴抄』(1933)が内容的にも方法的にもひときわ抜けた作品だと思った。今回読み直しても評価は変わらなかったが、『少将滋幹の母』(1949)も同じぐらい素晴らしいと思った。もちろん『細雪』を忘れてはいけないが、谷崎文学の特色である「女性崇拝」「母恋い」というテーマを突き詰めている点で、この2作が突出していると思う。

 『春琴抄』は大活字に変わった新潮文庫でも128頁、そのうち92頁から「注解」になるから、ずいぶん短い小説である。しかし、その90頁ほどの中は、ほとんど句読点がなく字ばかりがずっと続いている。内容も異様だが、文体も異様な熱を帯びていて、一見すると読む気が失せる感じだが、読み始めると案外作品世界に入りやすい。「春琴」という盲目の三味線奏者に丁稚の佐助が生涯掛けて尽し抜くという「女性崇拝」の極致。しかも美女とうたわれる春琴がある事件により顔に傷を負うと、佐助は自らも盲目になって付き従う。「マゾヒズム」というか、恐るべき愛の境地を緻密に描いて読むものを「納得」させてしまう。

 何度も映像化されているが、この小説は本来映像化不能だと思う。肝心なところを薄めないと映像に出来ないし、どう工夫しようと「盲目」の世界を描き切るのは不可能だ。この超絶的小説を成立させるため、作者が試みたのは「評伝」として書くという方法である。幕末から明治にかけて活躍した奏者の伝記、「鵙(もず)屋春琴伝」という本を作者が見つけ、墓も訪ねる。ゆかりの人にも話を聞いて、「春琴伝」に書かれていない春琴、佐助の「真実」を追求していくという体裁である。これが成功して実在人物のように読めて感銘が深くなる。(実在人物と思い込んで春琴の墓を探す人が多かったという。)

 そういう風に、様々な本に当たりながらまるで歴史の考証のように始まる小説は、『春琴抄』が初めてではない。1931年の『吉野葛』も同じような構成になっていて、ほとんど歴史紀行みたいに始まる。南北朝統一後も吉野の奥で活動を続けた「後南朝」の秘史を探るというスタイルで進行し、いつのまにか「母恋い」の物語となる。吉野の風景描写も趣深く、昔から好きな小説なんだけど、完成度から言えば、内容と形式の融合が不十分で読んでいて中途半端感が残るのが残念だ。

 『少将滋幹(しげもと)の母』は、戦後の1949年に書かれた傑作。『今昔物語』にあるエピソードをもとに想像力を膨らませ、谷崎が創作した「偽書」を巧みに織り交ぜて「母恋い」ものの極致に至る。左大臣藤原時平は老齢の大納言藤原国経の北の方が美しいと聞き、計略を巡らせて白昼堂々奪い去る。幼くして母を奪われた後の左近衛少将藤原滋幹(国経と北の方の子)は母を慕いながらも会うこともならずにいたが、後年になって思いがけず再会の日がやって来る。藤原時平はもちろん実在人物で、右大臣菅原道真が左遷されときの左大臣である。国経、滋幹も実在人物なんだけど、ここで描かれたエピソードは作者の創作である。

 時平の横暴が凄すぎて、今となってはこんなパワハラが許されたのも驚き。老齢国経の生きざまもすさまじく、この小説はどうなるんだと思う時に、偽書を基にした滋幹のエピソードが出て来る。ものすごく感動的で、谷崎文学でこれほど清冽な感動を覚えるのも珍しい。この小説も昔読んでいて、その時も面白いと思った記憶があるが、どうも年齢が高くなってから読む方が感動が深いかもしれない。妻を奪われた国経の絶望が身に沁みるのである。権力者の横暴がこれほど印象的な小説もない。

 もう一つ、「母恋い」とも「女性崇拝」とも関わらないけど、思いがけぬ傑作が『猫と庄造と二人の女』(1937)。1956年に豊田四郎監督によって映画化され、キネ旬4位となった。主人公の森繁久彌が前年の『夫婦善哉』を思わせる名演で、読んでいて森繁が思い浮かんでしまう。まさに題名通りの小説で、猫のリリーが真の主人公。庄造と前妻、現妻がリリーを巡って相争う。関西小説としても興味深いが、日本史上最高の猫小説じゃないだろうか。最初人間どうしの駆け引きが鬱陶しいが、リリーの存在感がどんどん大きくなっていき、読んでる方も納得させられてしまう。猫好きな方は一読を。

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『痴人の愛』『卍』『蓼喰ふ虫』ー谷崎潤一郎を読む①

2024年11月16日 22時12分13秒 | 本 (日本文学)

 10月からずっと谷崎潤一郎を読んでいて、計14冊になる。文庫に入っている主要作品は大体読んだことになる。いや、けっこう大変だった。今谷崎を読まなければならない内的必然性なんか全然なく、単に溜まっているから片付けようというだけ。近代日本文学史に残されたピースを埋めたいだけなのだ。谷崎は若い頃に何冊か読んで、その後ずっと読んでなかったが、数年前に『細雪』を読んだことはここで3回書いた。今回読んでみて、案外詰まらないもの、古びたものが多いのに驚いた。 

 谷崎潤一郎(1886~1965)はもちろん同時代に新作を読んだ作家ではない。でも、僕の若い頃は作家死後10~20年程度しか経ってないので、そんな昔の作家とも思ってなかった。それから早半世紀、今では100年前に書かれた作品を読むんだから、世の中の風俗、生活洋式も大きく変わってしまった。『刺青』で新進作家と認められたのは1910年で、その後幻想、怪奇的な作風で知られた。新奇な風俗に関心が強く、映画『アマチュア倶楽部』のシナリオも書いている。

『痴人の愛』

 東京都中央区日本橋人形町の生まれだが、1923年の関東大震災を機に関西に居を移した。その後、「日本趣味」に回帰し数多くの傑作を生み出した。それらの中で今も傑作として読めるのは、『痴人の愛』(1924)、『』(1928)、『蓼喰ふ虫』(1929)だろう。特に『痴人の愛』は『春琴抄』『細雪』に並ぶ有数の傑作だった。何度も映像化されていて、僕も映画を2本見ているので、大体の筋は知っていた。でも読むのは初めてなのである。この長編小説は神戸時代に書かれたが、舞台は東京である。

(谷崎潤一郎)

 電気会社の技師河合譲治が浅草のカフェで、まだ少女のナオミを見初める。そして家庭事情もあるらしいナオミを引き取って、教育を施して自分にふさわしい女性に育てたいと思った。そして東京南部の大森に居を定める。ナオミという名前は「ハイカラ」な「変わった名前」だと言われている。ナオミはまだ15歳というんだから、今では「犯罪」になるだろう。これは現代の「源氏物語」なんだと思う。光源氏が若紫を引き取って理想の女性に育てようとしたのと同じく、譲治はナオミを自分好みの女に仕立てたい。ところが身分制度の崩れた近代社会ではそんなことは不可能で、ナオミは「小悪魔」となり譲治の支配者となっていく。

(1949年映画の京マチ子)

 谷崎文学は「異常性愛」「マゾヒズム」で知られるが、この頃の作品はその絶頂といっても良い。特に『痴人の愛』は今の感覚で見ても「異常」な展開になっていくが、文章はキビキビして生きが良く紛れもない傑作。何度か映画化されているが、ナオミは最初の木村恵吾監督版(1949年)の京マチ子が最高だと思う。しかし、譲治は宇野重吉なのでマジメすぎて、1967年の増村保造監督版の小沢昭一の方が似合っていた。(ナオミは安田(大楠)道代。)ナオミはダンスを覚えて享楽的な女になり、大学生と浮名を流すようになる。譲治は徹底的に引きずり回されるが、「美にひれ伏したい」谷崎マゾヒズムの白眉だ。鎌倉での避暑なども含め、大正時代の東京の「中流」生活の様子も興味深い。読んで気持ち良くなる作品じゃないけど、うまく出来ている。

 『』(まんじ)は同性愛を描いた作品として著名。だが今読むと、そのこと以上に「大阪弁の語り小説」として読解が難しい作品になっている。『痴人の愛』も譲治による回想として書かれているが、いわゆる「標準語」だからスラスラ読める。『卍』は大阪の言葉に直すために助手を付けて徹底的に直した。その結果、僕には読みにくくて困った。この小説は柿内園子という女性が、夫がありながら徳光光子という女性に惹かれる。ところが、光子には綿貫という男が付きまとっている。そして様々な駆け引きが行われ、人心操作小説になっていく。そこが思ったよりも詰まらないところ。結末も判るようで判らない(僕には)。

 『蓼喰ふ虫』は新潮文庫に『蓼喰う虫』として入っているが、小出楢重の挿画が「完全収録」された中公文庫版『蓼喰ふ虫』を読んだ。この小説は谷崎の「日本回帰」として重要視され、内容的にも傑作と言われることが多い。でも相当に読みにくくて、僕は何だかよく判らなかった。愛情の冷めた夫婦がいて、子どもの手前取り繕っているが離婚も考慮している。妻は決まった愛人があり、夫公認で日々会いに行っている。夫は秘密の「売春クラブ」みたいなところに長年通っている。(遊郭があった時代だがそういう場所ではなく、「神戸」という国際港ならではの外国人経営の不思議な場所である。)

 そんな不可思議な関係の話かと思うと、まあそうなんだけど、それ以上に人形浄瑠璃(文楽)のついての講釈なのである。そもそも冒頭が妻の父から招待されて、浄瑠璃に行くかどうかという場面。その後、淡路島に義父、その妾とともに淡路の人形浄瑠璃を見に行ったりする。これは今重要無形文化財に指定され、「淡路人形座」で上演されている。昔はもっと野趣に富んだ上演形態で、ジャワ島の影絵芝居を見に行くみたいな雰囲気だ。この場面が非常に好きだという人がいるらしいし、確かにとても印象的。でも、全体的に浄瑠璃講釈が多すぎで、そういう好事趣味が谷崎文学の特色でもあるけど、付いていけない人も多いと思う。

 ところで、異常な性愛ばかりを書き綴った谷崎だが、実は大体モデルがあるんだという。谷崎は1915年に石川千代と結婚し、翌年に長女が生まれる。しかし、翌年には妻の妹石川せい子(同居して谷崎が音楽学校に通わせていた)が好きになり、この女性が『痴人の愛』のモデルだという。せい子は谷崎脚本の映画『アマチュア倶楽部』で、女優葉山三千子としてデビュー。『浅草紅団』などに出演した。せい子は谷崎の求婚を断り、映画界で活動したが、1932年にサラリーマンと結婚して引退した。

 妻の千代は夫に顧みられず、それに同情した作家佐藤春夫と親しくなった。このため『蓼喰ふ虫』のモデルは長らく佐藤ではないかと思われていたが、実は違うという。当時谷崎宅で書生をしていた和田六郎が本当のモデルだという。和田は戦後になってミステリー作家大坪砂男となった人物である。一方、谷崎は一時妻を佐藤に譲ると言いながら谷崎が前言を翻し、二人は1921年に絶交した(小田原事件)。1926年に和解し、千代と和田が結ばれることに佐藤が反対し、結局1930年になって谷崎と千代は離婚、千代は佐藤春夫と結婚する。三人連名の挨拶状を送り、「細君譲渡事件」と騒がれた。まあ驚きの文壇エピソードである。

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映画『八犬伝』(2024)と『里見八犬伝』(1983)、比べてみたら

2024年11月15日 22時33分47秒 | 映画 (新作日本映画)

 真田広之が『将軍』でエミー賞を取ったのを記念して、新文芸坐で「世界の真田広之へ、その軌跡」という特集上映をやっている。日本時代の代表作『たそがれ清兵衛』がないのは残念だし、来年の大河ドラマに関連する『写楽』もやって欲しかった。それはともかく、深作欣二監督『里見八犬伝』(1983)を見てなかったので、この機会に見てみた。角川映画の大作で、1983年末の正月映画だったらしい。まったく記憶にないのだが、就職、結婚した年なので、人生上一番多忙だったのである。

 2024年のいま、曽利文彦監督『八犬伝』という映画もやっている。じゃあ、合わせて見比べて見ようと思った。「八犬伝」なんだから、八犬士が珠を持っているのは同じで、その表現もほぼ同じように光っていた。しかし、感触的には全然違っていて、『八犬伝』は作者である曲亭(滝沢)馬琴が登場して、物語を創作する現実世界と物語内の虚構世界を交互に描き分けている。一方、『里見八犬伝』は虚の世界だけを描いている。しかも内容的には「勧善懲悪」よりも、薬師丸ひろ子と真田広之のラブストーリーになっていくのでビックリした。19歳の薬師丸ひろ子を見たい観客もいるだろうが、新作の『八犬伝』の方が傑作だろう。

 両者が違うのも当然で、原作が別なのである。『里見八犬伝』は鎌田敏夫新・里見八犬伝』、『八犬伝』は山田風太郎八犬伝』である。長大かつ近代以前の物語である曲亭馬琴南総里見八犬伝』は、もう著作権も関係ないので自由に翻案できるわけだ。新作『八犬伝』は、馬琴が役所広司、妻お百が寺島しのぶ、息子宗伯が磯村勇斗、その妻お路が黒木華と一家が豪華キャスト。さらに葛飾北斎が内野聖陽、鶴屋南北が立川談春、中で演じられる歌舞伎を中村獅童尾上右近がやってる。北斎と馬琴は実際に知人だったということだが、こんなにひんぱんに訪ねていたわけじゃないだろう。

(馬琴と北斎)

 南北の『東海道四谷怪談』が評判になって、二人が見に行くシーンがある。その歌舞伎シーンは香川県琴平町にある現存最古の芝居小屋金丸座で撮影され、実際の「奈落」が出て来る。そこに作者の南北が現れ、馬琴と虚実論争を交わすシーンが、実はクライマックスでもある。何が虚で、何が実か。この映画も「虚」に賭けて後半生を「八犬伝」完成に費やした馬琴、失明後は嫁のお路との関わりが一番丹念に描かれている。お路が代筆して完成したことは有名な史実で、僕も見る前から知ってたが、いくらでも熱演できる黒木華の抑えた演技が心に残る。馬琴とその家族を描いたシーンこそ、この映画の見どころだろう。

(八犬士)

 一方、その分「虚」の伝奇物語の方は、あまり有名俳優も出ていない。伏姫が土屋太鳳、玉梓が栗山千明、浜路が河合優美と女優はそれなりなんだけど、肝心の八犬士は僕は知らない人ばかり。だが筋書き自体は原作にほぼ沿っているらしい。僕は原作は現代語訳でも読んでないけど、ネットで調べると妖刀村雨を古河公方に献上しようとして、疑われるシーンなど原作通り。そこの特撮アクションはとても面白く出来ている。だけど、面白くなってきたところで、現実の馬琴の悩みになっちゃうんで、アクション、ファンタジー映画という意味では、中途半端な感じもする。馬琴の「実」生活の方が面白いのである。

(『里見八犬伝』)

 一方、深作欣二監督『里見八犬伝』は一大冒険ファンタジー映画としては面白い。八犬士も千葉真一、寺田農、志穂美悦子、それに最後に加わる真田広之など、豪華な面々。ただし、村雨を献上するとか原作由来のシーンはほとんどない。里見家には静姫薬師丸ひろ子)がいて、ひたすら逃げまくる。つまり黒澤明監督の『隠し砦の三悪人』みたいな話なのである。まあ玉梓夏木マリ)は悪の統領として出て来て、薬師丸ひろ子と戦う。その城は戦国時代だというのに、中世ヨーロッパの古城かなんかみたい。主題歌が英語のロック調ということもあって、昔のハリウッド製冒険映画っぽい感触である。

 どうも不思議なところの多い映画だったが、実は当時の深作欣二監督の大作映画には似たようなものが多い。ハリウッドを越えると意気込んで、結果的に怪作になったような作品群である。深作監督の大作だから見なかったのかも知れない。そして最後は薬師丸ひろ子、真田広之が手に手を取って馬で去って行く。(薬師丸ひろ子は実際に乗馬していると思う。)大ラブロマンス映画になっちゃって、二人はキスシーンまであるのである。

 『南総里見八犬伝』は1814年から1842年にかけて刊行された。これはフランスでアレクサンドル・デュマが『三銃士』(1844)や『モンテクリスト伯』(1842~1846)を書いたのとほぼ同年代である。「近代文学」以前の「勧善懲悪」文学なのである。ところで、里見家は房総半島に土着の一族ではない。新田氏につらなる源氏の一門だが、安房で戦国大名になった経緯はまだよく判ってないらしい。古河公方、堀越公方に続く第三の関東公方(自称)の「小弓公方」を支持して関東の独自勢力となった。関東は本来「公方」と「管領」という体制で、そっちの方が正統のはず。物語世界で里見氏が勝つと「勧善」なのも不思議だが、300年前の話だから江戸の人々もどうでも良いんだろう。里見家も断絶して、馬琴の時代には大名としては存在しなかった。

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赤山城跡と安行ー江戸時代の関東と「植木の里」

2024年11月13日 22時10分03秒 | 東京関東散歩

 埼玉県南東部に安行(あんぎょう)という地区がある。昔は安行村だったけど、1956年に川口市と合併した。近くの人以外はあまり知らない地名だと思う。昔は僕の最寄り駅からバスが出ていて、時々母親が庭に植える植木を買いに行っていた。(持ち帰れないから、後から届けて貰ったんだろう。)安行は「植木の里」で、園芸農業の盛んな地として知られていたのである。

 また、僕の最寄り駅近くを通っている道路を「赤山街道」と呼んでいる。この赤山って何だろうと昔から思いながら、全然知らなかった。やがて自動車で東北方面(日光など)に行くようになったら、安行近くに「赤山」という地名があった。ふーんと思ったけど、じゃあ何で「赤山街道」なのかは知らなかった。最近やっとそのことが判明したので、この前行ってみた。

 江戸時代に「赤山城」(赤山陣屋)というのがあったのである。東北道につながる首都高に川口ハイウェイオアシス(一般道からも利用出来るサービスエリア)がある。首都高に入って2つめのインターで下りちゃうので、今まで利用したことがなかった。(トイレは自宅まで我慢出来るので。)この前どんなところだろうと下りてみたら、そこは「イイナパーク川口」という公園だった。物産館などの他、「歴史自然資料館」もある。赤山城跡というのは、この公園の近くにあるらしいと地図もあった。

   (赤山陣屋跡地と碑)

 そんな城は知らないという人が多いだろう。「大名」じゃないので、史跡としては「赤山陣屋」とも呼ばれる。しかし、堀なども備えたなかなかのもので、1629年伊奈忠治が築いた。ここは「関東郡代」と呼ばれた伊奈氏の拠点だったのである。今は堀跡と思われるものなどの他、当時の建物は何も残ってない。それも当然、伊奈氏は幕末まで続かなかったのである。イイナパーク北口から5分程度歩いたところに、碑が立っているだけである。案内板は2024年に建てられていた。

   (伊奈忠次像)

 公園にある「歴史自然資料館」は本当に小さな施設だったが、そこに赤山陣屋のジオラマがあった。上の1枚目だが、遠くから撮ったしガラス越しで何も判らない。2枚目は伊奈氏の説明パネル。3枚目は堀跡。資料館前には初代の伊奈忠次の像が作られていた。忠次は徳川家康に仕えた武将で、関東支配に大きく貢献した。新田開発や利根川の付け替えなどにも関わったらしい。伊奈氏の祖地である埼玉県伊奈氏小室に1万石を与えられた。それは長男、孫と受け継がれたが、後継なく改易となった。

 忠次長男の忠政が1618年に亡くなったため、関東代官としての仕事は弟の伊奈忠治が引き継いだ。この忠治は以前から勘定奉行を務めて7千石を与えられ、赤山に屋敷を築いていた。この忠治こそが関東地方の河川改修、利根川東遷事業や荒川、江戸川などの開削工事を行った人物である。これらの功績により、関東代官領の支配は代々伊奈氏が世襲することになり、12代、約200年近く、赤山陣屋を拠点にした伊奈氏の関東支配が続いたのである。

 伊奈忠次という名前はなんとなく記憶にあった。家康時代の歴史に出て来たと思う。しかし、それ以後18世紀末まで伊奈氏が関東の代官を世襲していたことは知らなかった。当然それだけ長く続けば強大な力を持つようになる。一時は飛騨代官も兼ねたり、勘定奉行配下から老中直属に変わったりした。このように強大化した伊奈氏で18世紀末に御家騒動が起こる。その結果、1792年に12代忠尊(ただたか)は改易され、伊奈氏の関東支配は支配は終わり赤山城も破壊されたのである。

 お取り潰しの後、伊奈氏の持っていた強大な権限は分割され、関東代官の地位は勘定奉行の下に戻った。ということで、もう僕もそんな伊奈氏の業績は全然知らなかったのである。強大だった時代、赤山に至る道が整備され、日光街道の千住、越谷、中山道の大宮に至る赤山街道が整備されたのである。僕の家近くに残る赤山街道の名は千住へ向かう道のなごりだった。近くの源長寺に伊奈氏歴代の墓所があるということで訪ねてみた。下2枚目、3枚目の写真。寺には寝釈迦像があった。

   (寝釈迦像)

 安行地区は「埼玉県立安行武南自然公園」に指定されている。県立公園は国立公園、国定公園に次ぐ自然公園だが、埼玉県には長瀞玉淀、奥武蔵、両神、武甲など首都圏から多くの観光客が訪れる地区がある。「武南」は武蔵の南ということで、さいたま市浦和、及び川口市安行の二地区が合わさって1960年に指定された。でも「自然」というより、人工の景観が広がる地域で、しかも今はほとんど宅地化している。現地でも自然公園という案内は全くなかった。下のような感じ。

   

 ただの田舎の農村風景だろうという感じだ。これが自然公園なら全国のほとんどは指定可能じゃないか。と思うけど、70年前は園芸農家の他は雑木林が広がるような地域だったんだろう。園芸と言っても、安行地区は植木や盆栽などが中心で、そういうのが植えられた農家が今も多い。まあ、わざわざ散歩に来るほどでもないと思ったけど。「埼玉県花と緑の振興センター」もあって、どんなところかと行ってみたが、確かにいろんな樹木はあったけど閑散としてた。

 

 この地区には「道の駅」もあって、「川口緑化センター 樹里安」(上1枚目)が指定されている。ここには多くの植木や花、盆栽が販売されているので、関心がある人には楽しいかも。農産物直売所もある。そこに「安行観光マップ」もあるから、まあ一応観光の対象にはなっているらしい。長年の疑問が解決したけど、全国ではほとんど知られてないだろう地域だろう。

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