尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

『台北プライベートアイ』、台湾ハードボイルドの傑作

2025年01月28日 22時41分17秒 | 〃 (ミステリー)

 年末にカフカを読んで2回ほど書いたが、その後もずっと短編やノートを読み続けた。この機会に読まない限り絶対に読まずに終わると確信するほど、実につまらない体験だった。途中で中断した断片が多いし、不条理文学は20世紀後半に大発展して、もっと優れた面白い作品は山のように書かれていると思った。100年前のヨーロッパはもう古めかしくて、最後の頃は読むのが苦痛だった。でも途中で止めずに読み切ったが、ここで書く必要もないだろう。

 そこで正月になったが、今度は純粋に面白い本が読みたい。もう体内にそういう欲求が満ちてきて、僕の場合はそう言う時に溜まってるミステリーを読みふける。今はミステリーも長くて複雑だから、結構時間がかかる。ホントは1月で終わりにしたかったが、どうも2月に続きそうだ。そろそろ体は歴史、社会系のマジメ本を欲し始めているけれど。

 

 そこでミステリー本の話を少し書きたいと思う。まずは紀蔚然台北プライベートアイ』(原題『私家偵探』、文春文庫、船山むつみ訳)。題名は「タイペイ」とルビが振られているが、作者は「き・うつぜん」で良いようだ。一応中国語表記も出ていて「ジー・ウェイラン」とある。2011年に出た本で、単行本は2021年に刊行され、2024年5月に文庫になった。著者紀蔚然は1954年生まれで、国立台湾大学演劇学部名誉教授。劇作家として多くの戯曲を書き、論文も多いという。

(紀蔚然氏)

 近年中華圏のミステリー、SFなどが大流行していて、世界的に評価されている。例えば去年の「このミステリーがすごい!」ベスト1は馬伯庸両京十五日』(ハヤカワ・ミステリ)という本だった。なかなか分厚い2巻本なので、まだ読んでない(買ったり借りたりする気になれない)。今まで読んだのは、香港の『陳浩基「13・67」、驚愕の香港ミステリー』だけである。あれは警察小説の傑作にして、香港現代史でもあった。僕は比較的ハードボイルド系が好きなんだけど、アジアの町は(東京も含めて)純粋のハードボイルド、つまり探偵が「卑しい街」を走り回るような小説が書きにくい。

 まず主人公が独自に動き回れる「自由な都市」が必要だが、それが少ない。また銃犯罪も少なく、警察の捜査力が強くて、私立探偵が成り立ちにくい。ということで、日本でもハードボイルド系のほとんどは、一匹狼の警官や新聞記者などが主人公のことが多い。そこへ台湾から突如現れたのが、この『台北プライベートアイ』である。今まで数多くのミステリーが書かれてきたが、この小説の後半の事件、展開は今まで読んだことがないものだ。インターネット携帯電話、それに防犯カメラなど、現代社会の調査システムをフル稼働させているが、ベースの発想は非常に深刻かつ深遠で宗教的なものだ。

(信義署)

 後半では主人公が事件に巻き込まれる展開になり、それも新味がある。今まで読んだことがないような設定だ。ミステリーだから、詳しく書けないのが残念だけど、これはこれはと思わせられる。主人公呉誠(ウー・チェン)は作者本人とほぼ同じらしい。台湾演劇界で知らぬ人がいない大物だが、他人にも自分にも厳しく攻撃性が強い。暴言を吐きまくり、ついには妻も去り自分も大学教授の職を捨てて、街の片隅に探偵事務所の看板を掲げた。興信所の資格もなく、公式な「私立探偵」なんてものじゃない。要するにただ「調査します」というだけのことである。ほとんど仕事はなく、毎日散歩するばかり。

(よく散歩する富陽自然生態公園)

 そんな中で、ある依頼が舞い込む。ある日から娘が父親と一切口をきかなくなってしまった。その理由を探って欲しいというものである。まあ、そういうことがあるとすれば、大方は父親が愛人といるところを偶然見たとかそんなものだろうと調査を開始するが…。それが父親はほぼ動きもなく普通に仕事しているじゃないか。一応動きが出て来て、調査らしくなって、真相も見えてくる。ところが、それは前置きみたいなもので、後半から台湾に珍しいシリアルキラー(連続殺人犯)ものになっていく。

 台北の街の描写も興味深いが、それ以上に面白いのが主人公の人生観や映画、小説などの批評。チャンドラーなんかも小説内でけっこう文明評のおしゃべりをしているが、ハードボイルドの興趣を高めるのは主人公の生き方、世界観である。この自分を基にしつつ、相当誇張して独善的になった主人公が、やがて下町に知人を増やしていき、本格的に考えて行く。さすがに現代では捜査そのものは警察力なくして不可能だが、主人公は「考察」するのである。家に閉じこもって、ついに『戦争と平和』を初めて読破しながら、主人公に迫る敵を一生懸命見つけ出す。

 ちょっと独自色の強いミステリーだが、日本に関する叙述も豊富。特に仏教に関心がある人に読んで欲しいミステリー。もちろん台湾に関心がある人にも。2021年に続編が出たということで、早めの邦訳を期待したい。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「デナリ」か「マッキンリー」かー「トランプ2.0」の世界観

2025年01月27日 22時21分16秒 |  〃 (歴史・地理)

 アメリカ大統領にドナルド・トランプが正式に就任した。一度間を空けて当選したのは、19世紀末のクリーヴランド大統領以来である。クリーヴランドは第23、25代大統領で、次の26代が今回の記事の主人公マッキンリーである。トランプが大統領に返り咲いてどんな大変なことになるかと心配され、実際に大変なことが次々と起こっている。移民送還を強行し、国籍出生地主義を見直し、パリ協定を離脱した。でも、まあ8年前ほどの驚き、怒りは世界に広まってないような気がする。

 僕もそうだけど、要するに慣れてしまったのである。とんでもない人物が世界最強の権力を持つ恐ろしさ。しかし、それは4年で終わるわけだし、予測不能なトランプ政権を「予測」しようとしてあれこれ気をもんでも仕方ない。そんなムードが世界を覆っている気がする。そんなトランプ政権当初の大統領令の中に、「デナリの呼称をマッキンリーに戻す」「メキシコ湾をアメリカ湾と呼ぶ」というのがあった。僕なんか昔に覚えた知識がすぐ出てくるから、そうか今はデナリって言ってたのかと思った。

(デナリ山)

 デナリ(Denali)はアラスカ州にある北アメリカ大陸最高峰である。標高は6190mで、2015年から正式にデナリという呼称となった。近隣の先住民の言語(コユコン語)で「偉大なるもの」を意味するという。1897年に当時の大統領の名をとって「マッキンリー」と名付けられた。1975年からアラスカ州では呼称をデナリとするよう運動を始め、1980年には一帯を「デナリ国立公園」とした。以上の記述はWikipediaにあるものだが、地元ではデナリという名前に親しみがあるようだ。

(デナリの位置)

 昔はよく「各大陸最高峰」というのを覚えたものだ。南アメリカはアルゼンチンのアコンカグアで標高6962m。デナリよりずいぶん高い。アジアは「エヴェレスト」「チョモランマ」で、この呼び方の違いはデナリと似ている。ヨーロッパはアルプスのモンブランではなく、実はカフカス山脈のエルブルス山(5642m)。冷戦中はソ連の山に登れないし、モンブランと覚えた人が多いだろう。アフリカはキリマンジャロ(5895m)で、オーストラリア、南極大陸もあるわけだけど省略。

 世界的に30年ぐらい前から、地名の「呼称変更」が多くなった。インドの大都市が特に有名で、ボンベイがムンバイ、カルカッタがコルカタ、マドラスがチェンナイなどである。ロシアではソ連の人名にちなんだ都市名が続々と元に戻された。レニングラードがサンクトペテルブルク、ゴーリキーがニジニ・ノヴゴロド、スヴェルドロフスクがエカテリンブルクといった具合である。ロシアの例は特別だが、アジアやアフリカで多いのは「脱植民地化」として宗主国が付けた地名を現地名に戻す動きである。

 デナリをマッキンリーに戻すというのは、まさにこの「脱植民地化」に反する動きだ。まあアラスカは1867年にロシアから購入した地域で、武力で征服したわけではない。しかし、州に昇格したのは1959年で、住民の自治権もない時代に時の大統領の名前を付けたのだから、ある種「植民地主義的」ではある。では、そのマッキンリーとはどんな大統領だったのか。

(マッキンリー大統領)

 ウィリアム・マッキンリー(William McKinley、1843~1901)は、1896年と1900年の大統領選に当選したが、2回目任期の初期に暗殺された。アメリカ大統領は現職中に4人が暗殺されている。リンカーンケネディは有名だが、他の二人は20代ガーフィールドマッキンリーである。そして、マッキンリーを調べてみると、この人は何だかトランプに似ているのである。マッキンリーは大統領になる前に連邦下院議員、オハイオ州知事を務めたが、下院議員時代に高額の輸入関税を掛けることを主張して実現させた。それを「マッキンリー関税」と呼ぶんだそうだ。それで知られて彼は共和党の有力者になっていった。

 大統領時代の1898年には、本格的な対外戦争として米西戦争を勝利させた。スペイン植民地だったキューバとフィリピンを占領し、フィリピンプエルトリコグアム島を領有しキューバを事実上の保護国とした。アメリカはこの戦争を契機に本格的な帝国主義国となった。民主党はフィリピン領有に反対したが、マッキンリーは押し切った。また同じ1898年にハワイ共和国(1894年に白人系住民がハワイ王国を転覆させてハワイ共和国となった)を併合したのである。

 しかし、1901年8月31日、マッキンリー大統領はニューヨーク州バッファローのパンアメリカン博覧会を訪れて、そこで暗殺された。犯人は無政府主義者のレオン・チョルゴッシュという人物だった。大統領死亡直後に直ちに副大統領セオドア・ルーズヴェルトが昇格したが、当時42歳で史上もっとも若い大統領である。日露戦争のポーツマス講和条約締結に尽力したことで、1906年のノーベル平和賞を受賞した人物でもある。しかし、マッキンリー、T・ルーズヴェルト時代はアメリカが世界に帝国主義的野望をむき出しにした時代だった。こうしてみてくると、高率関税、領土的拡張という点で、ドナルド・トランプは同じ共和党のマッキンリーに共感を抱いているのではないか。そのためデナリをマッキンリーに戻すという決断をしたのかもしれない。

(長尾三郎「マッキンリーに死す」)

 ところで僕の世代だと、どうしても「マッキンリー」は「植村直己が遭難した山」として忘れられない。1984年のことで、冬季初登頂を果たした後で帰還しなかった。今も行方不明のままである。植村は世界初の五大陸最高峰登頂者で、その時点ではモンブランをヨーロッパ最高峰としている。マッキンリーには1970年8月26日に登頂して、それで五大陸最高峰登頂を成し遂げた。植村直己が書いた本はものすごく面白いので、読み継がれて欲しいと思う。映画にもなり、国民栄誉賞も受賞した人だけに、忘れられて欲しくない。その植村直己が帰ってこなかった山という意味で、僕はこの山を忘れることが出来ない。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

東京23区の北の端でー僕の東京物語①

2025年01月26日 22時02分44秒 | 自分の話&日記

 2年前まで日本の山や温泉を毎月1回書くシリーズを書いていた。それを終わりにした後で、なんか違うシリーズを始めたいと思ったけれど、ちょうど母親の入院と重なって書く機を逸してしまった。それが「僕の東京物語」である。実は東京新聞の最終面に「私の東京物語」という連載コラムがあって、著名人がそれぞれの東京の思い出を書き綴っている。まあ、それと同じなんだけど、自分なりに関わりのあった思い出の地を書き残してみようかと思ったのである。

 このブログを書き始めてもう15年ぐらい経つ。いつまで書けるか知らないが、まあ誰かと同じようなことを書いても仕方ない。絶対に誰も書いてないのは、自分自身の思い出である。とは言っても自分の仕事は教員だったから、面白いエピソードは大体「個人情報」に触れてしまう。そこで「場所」の方をメインにして書こうかと思いついたわけである。 

 「自伝」とは違うけど、まあ最初は自伝的に。僕は東京23区の北の端、足立(あだち)区という所で育った。1歳まで墨田区にいたらしいが、当然記憶はない。記憶は足立区から始まる。と言っても、全国的にはどこというイメージが湧かないと思う。北千住西新井大師があるが、東京人でも行ったことがない人の方が多いだろう。この前書いた寅さんゆかり、あるいは「こちら葛飾区亀有公園前派出所」(または「キャプテン翼」)に関係する隣の「葛飾(かつしか)区」の方が有名だろう。

(足立区立伊興小)

 しかし、足立区だろうが葛飾区や他の区も含めて東京23区の周縁部は、高度成長時代以前はほぼ農村地帯だった。ただ西の方は畑が多かったが、東の方は田んぼが主流だった。つまり、僕が小学校に通っていた時代には、通学路はほぼ水田地帯だったのである。あぜ道を歩いて通学していたのである。春になるとレンゲが咲き、やがて田植え、秋に稲刈りがあり、木に掛けて干す。それを「稲架掛け(はさかけ)」というらしいが、その一連の仕事を見て育った。冬になると、水田の水は落とされ乾いたところに鷺がよく来ていた。そうやって、就学時期が来て「足立区立伊興小」に通学するようになった。

 ということで伊興小に行ってみよう。行ったのはお正月のころだけど、アレ、どこだ、迷ってしまったじゃないか。仕方ない、スマホで検索するかと思ったら、スマホがないじゃないか。時々スマホを忘れて出てしまうのである。小学校は駅に行くのとは方向が違うので、もう半世紀以上ちゃんと行ったことがない。そうすると行き方を忘れてしまうのである。そんなことがあるのか。

 翌日地図を確認して出かけたら、ようやく着いた。こんなところにあったのか。案外遠いのに驚いた。子どもは元気だし、皆で行っていたから、遠さは感じてなかった。今はネットが張りめぐらされていて、写真を撮りにくい。ボール飛びだし予防もあるが、写真を撮りにくくする意味もあるのかもしれない。子どもがいたら、盗撮っぽくて撮りにくい。だから正月に行ったわけ。 

(校庭)

 校歌の2番をホームページで確認してみると、「東に筑波 西に富士 平和の旗はたなびきて 自由のかねのなるところ」とある。この歌詞とメロディは今も覚えているが、「平和」「自由」はいかにも「戦後の校歌」という感じがする。ところで、このように富士山筑波山を対比させる校歌は、自分が通学通勤した学校に多かった。しかし、もう僕の子ども時代に筑波山は見えなくなっていた。家が建ち並び始めていて、標高が低い筑波は見えないのである。しかし、特に空気が澄み渡る冬になれば富士山はよく見えた。今は家からは見えないが、電車に乗って荒川鉄橋を渡るときなど富士山がよく見える。(冬だけだが。)

(今は家ばかりの通学路)

 小学校2年、3年時の担任の先生は片足が悪かった。傷痍軍人だったのである。そしてバイオリンが得意で、時々弾いてくれた。図工の時間にはよく校舎外に「写生」に行かせてくれた。学校の周りは田んぼで、田植え前の時期にはレンゲがキレイ。周りにメダカがいる小川が流れていて、その辺りに腰掛けてスケッチするのである。時間があったらレンゲを摘んで首飾りを作ったり、皆で遊び回る。そんな自然環境が東京23区だけど、1960年代にはまだ残っていたわけである。

 自分の家で飼っていたニワトリがイタチに襲われて全滅したのも覚えている。そんな地域に住んでいたわけだから、周囲は空き地だらけ。「秘密基地」みたいな隠れ場所もいっぱいあったが、それらはほぼ1970年前後に無くなった。昨日まで遊んでいた雑木林が、今日見たら重機が入って土地がならされていた。そこに住宅が建って、あっという間に開発されていった。もともとただの郊外農村だったから、特に伝統ある祭りとか名物など何もなかった。そして風景も変わってしまった。

 僕には昔から「アイデンティティの拠り所」がないという気持ちに囚われていたが、それはこういう環境で育ったことが大きいと思う。僕の若い頃に「外地帰還者の文学」が注目されていた。僕はそういう体験とは違うけれど、何か似たような通じるものがあるのかと思う。僕が若い頃に感じていたのは「居場所が失われていく」という感覚だった。いつの間にかなじんでいた風景が無くなってしまうのである。今は肯定的なイメージで語られる「高度成長」だが、中で生きている時は激しい変化に付いて行くことが大変な時代だった。だから僕は「故郷がない」という感覚で育っていくのである。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

映画『港に灯がともる』、震災30年の「心の傷」を描く

2025年01月25日 22時15分21秒 | 映画 (新作日本映画)

 阪神淡路大震災30周年の2025年1月17日に、映画『港に灯がともる』が公開された。NHKドラマを基にした『心の傷を癒やすということ』の劇場版映画を手掛けた安達もじり監督が、阪神淡路大震災翌日に神戸市で生まれた在日コリアンを描いた映画である。富田望生(とみた・みう)の初主演映画で、ラストに流れる主題歌「ちょっと話を聞いて」も作詞して歌っている。

 この映画について書こうかどうか、ホント言うとちょっと迷った。見た映画全部を書いてるわけじゃない。エンタメ系の場合、自分が見なくても良いと思っても、他に人には面白いという映画は多いだろう。一方シリアス系の場合、見ていて辛い映画も多い。暴力シーンなど血糊を使っていると知ってるけど、人間関係のもつれとか心の病を扱う場合は見ていて辛い場合がある。

 この映画の主人公「金子灯(かねこ・あかり)」の設定もかなり大変で、過呼吸になってるシーンなど見る側にも伝染してしまいそうだ。同じような悩みを持つ人は無理して頑張って見なくても良いと思う。しかし、この映画は小さな公開なので、知らない人も多いだろう。阪神淡路大震災30年の年に公開された意味もあり、多くの人に知らせる意味もあるから記録しておきたい。

(震災20年目の成人式)

 2015年から映画は始まる。震災の年に生まれた子どもたちも成人式を迎えたのである。金子灯富田望生)も参加するが、家ではもめていて家族写真も撮れない。灯は震災翌日に生まれて、幼い頃から母に「大変だった」とばかり言われ続けて、実は重荷に思い続けてきた。長田区に住む在日コリアンだが、震災で移った過去がある。父は震災直後の長田の大変さ、頑張ってきたことを語るが、それも灯には重い。姉を中心に日本の国籍取得を進めているが、父は反対していて父とは別居の予定である。

(家族写真の思い出)

 灯は工場で働いていたが、次第に「すべてがしんどい」と心の平衡を失っていき、病院へ行く。「うつ」と診断されるが、また別の病院で皆で話し合いをする療法に出会う。少しずつ回復していくが、まだ家族、特に父と向き合うことが出来ない。ようやく面接に行けるまでになるが、履歴書に療養歴を書くと全然受からない。ある小さな建設設計事務所で働けるようになり、そこで長田区の「丸五市場」のリニューアルという仕事に携わる。生まれたばかりの家族写真に出て来た場所はここだったのかと灯は初めて気付く。少しずつ父の心境も理解出来た気がするが、父と話すとやはり一方的に言われて衝突してしまう。

(安達監督と富田望生)

 という風に、「震災」や「民族」を描いた映画かなと思うと、実は「心の病」を描く映画という面が大きい。そして、それが大切なところであり、また見る側もちょっとしんどいところだ。大人は「自分たちが復興を頑張ってきた」ことを次の世代に「伝えていかなくてはいけない」と思いがちだ。しかし、それを重荷を背負わされてきたと感じる人もいるんだなということが理解出来る。それがこの映画のテーマなのかどうか、僕にはちょっと決めがたいが、自分にはそう感じられたのである。

 富田望生は福島県いわき市で、2011年に東日本大震災に遭った。その後東京に移り、2015年の『ソロモンの偽証』のオーディションに合格した。『チアダン』の小太りなメンバー、『SUNNY強い気持ち強い愛』の渡辺直美の若い時期を演じた人である。いつも太っているわけじゃなく、役のために10キロ以上増減するんだという。最近は朝ドラ『なつぞら』『ブギウギ』や日曜ドラマ『だが、情熱はある』の南海キャンディーズしずちゃん役などで思い出す人もいるかと思う。映画初主演は非常にシリアスな役柄になったが、僕は見事に演じていたことに感心した。

 安達もじり監督はNHK大阪放送局のディレクターとして、『まんぷく』『花子とアン』などを手掛けた後、『カムカムエヴリバディ』でチーフ・ディレクターを務めて評価されたという。朝ドラ以外に『心の傷を癒やすということ』(2020)とその劇場版があり、この映画もそこからのつながりで作られた。なお、Wikipediaを見たら、哲学者鷲田清一の子だと出ていた。「もじり」はモディリアーニから取ったという。音楽を世武裕子が担当している。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「反復」する人生、懐かしさの正体ー『男はつらいよ』考③

2025年01月23日 22時39分58秒 |  〃  (旧作日本映画)

 『男はつらいよ』シリーズを考えるシリーズ3回目(最後)。今回見送るつもりだった第9作『男はつらいよ 柴又慕情』(1972)もついつい再見してしまった。吉永小百合がマドンナ役になったこともあり、シリーズ屈指の人気作である。おいちゃん役の森川信が72年3月に死去して、松村達雄に代わったことでも重要。(松村は5作に出演して終わって、14作以後は最後まで下條正巳が演じた。)おいちゃんは亡くなったままという設定も考えたそうだが、結局代役を立てたのは「バカだねえ、あいつは」「ああ、やだやだ」と口走る人物が必要だったということだろう。

(『柴又慕情』)

 さて、喜劇とは「反復」である。チャップリンの時代から、コメディ映画ではセリフ、体技、シチュエーションなどで、主人公が同じようなことを繰り返すのがおかしかった。落語の登場人物も、自分の失敗を性懲りもなく繰り返す。それも次第にレベルアップ(レベルダウンというべきか)していくのがおかしいのである。『男はつらいよ』シリーズも、ベースはおなじことの反復で、寅さんが周囲の美女に惚れては失恋してまた旅に出る。展開が判っているのにおかしいのは、渥美清の演技と山田洋次の演出が洗練の極みに達していることが大きい。また周囲の脇役のアンサンブル演技も完成されていて見事というしかない。

(御前様の「バター」シーン)

 ギャグの幾つかは作品を超えて受け継がれている。有名なものでは「バター!」がある。第1作で御前様とその娘冬子に出会って、寅さんが写真を撮ろうとする。笠智衆が例によって堅物なので、「御前様笑ってくださいよ」と寅が口をはさむと、シャッターを切るときに御前様が「バター!」と言うのである。その時初代マドンナ光本幸子が実に上品に笑うのが印象的だ。写真の時に「チーズ」というのがいつ頃からか知らないけど、ある時期まで「欧米風」のことを「バタ臭い」と表現していた。バターが臭かったぐらいだから、チーズはもっと臭いとして食べられない人も多かった。まだ宅配ピザ屋などなかった時代である。

 バターとチーズを混同するのは、今じゃ通じないかもしれないが、70年代初期にはまだ同じように「臭い物」として同一視する人も多かった時代である。そのギャグを今度は寅さんが使うことになる。第1作ラストのさくらの結婚式、集合写真を撮るときに寅が「バター!」というので皆爆笑になる。ところでこのギャグが『柴又慕情』で再現される。吉永小百合たち3人組と北陸で一緒になって、記念写真を撮ろうとしたとき、寅さんが「バター!」と言うのである。3人とも笑い転げるのだが、有名作家の父と確執を抱えて旅に出ていた歌子(吉永小百合)があまりのおかしさに笑顔を取り戻して寅さんに感謝する展開になる。

(『柴又慕情』の「バター」シーン)

 「反復」という点では「音楽の力」も『男はつらいよ』シリーズを支えた重要な要素だ。作曲家山本直純(1932~2002)が全作を手掛けた。主題歌のメロディはほとんど全国民が知っているんじゃないだろうか。山本直純がいかにすごい人物だったかは、岩城宏之『森のうた』という本に描かれている。テレビ番組「オーケストラがやって来た!」の司会や森永チョコのCM(「大きいことはいいことだ」が流行語になった)などで当時は多くの人が顔を知っていた。主題歌のテーマは映画内で何度も流れるが、同時にもっと抒情的なメロディもここぞというシーンで何度も使われる。『ゴジラ』や『仁義なき戦い』シリーズを越えて、シリーズ映画史上一番耳に残るメロディじゃないだろうか。一度見るとつい口ずさんでしまうのである。

(山本直純)

 しかしながら、48作はさすがに多い。僕もあまりの「反復」ぶりに、最後の方はもう飽きてしまってほとんど見なかった。世の中には「盆と正月は寅さん」という人も多かった時代で、「安心して見られる映画は他にない」と言う人もいた。確かに東映実録映画や日活ロマンポルノと同時代の映画なのに、暴力シーンもセックスシーンもない。だから「家族で見に行ける」わけだけど、同時代の僕は「安心して見られる映画なんて映画じゃない」と思っていた。「危険な映画」こそ魅力的なのである。リアルタイムで安部公房や大江健三郎の新作を読み、大島渚や今村昌平、寺山修司らの映画を見ていたんだから当然だろう。

 なにゆえに、見なくてもまた寅さんが失恋すると判っている映画を見に行くのか。世界にはもっと面白い映画や演劇、音楽や美術がいっぱいあるじゃないか。それが「若い」ということだろうと今は思う。人生は「一回性」だからこそ、「反復」は嫌いだったのだ。だが年齢を重ねるにつれ、「反復」もまた面白いという気になってきた。そう思わない限り寄席なんて楽しめない。何度も通えば同じ落語を聴くことも多くなるし、色物の大神楽や奇術なんかほとんど同じである。それが楽しいのだ。

 思えば自分の人生も(誰の人生も)「反復」である。いや、もちろん毎日毎日は日々新たな一日なんだけど、それは「同じような一日」である。もちろんその日初めて見る映画もあるし、初めて読む本もある。だけど、長く生きていればそれは「昨日と同じような一日」なのである。仕事をしていれば、毎日新しく「働く喜び」を感じるわけがない。食事や家事・育児・介護なんかも、同じではないけれど「毎日が似ている」。そして自分もまた一日が積み重なって老いていく。「夜トイレに起きてしまう」とか「血圧が高くなってしまう」とか、そういう話は聞いていたけどやっぱり同じことが自分にも起こるのである。

 つまり自分の人生もまた「世界全体の反復の一部」だったのである。最初に『男はつらいよ』シリーズが終わったこの30年間をどう考えるかと書いた。僕は根が社会科教員なので、つい「グローバル化」とか「情報社会化」とか考えてしまう。もちろん、『男はつらいよ』シリーズには携帯電話が出て来ないし、柴又には外国人観光客がほとんどいない。この30年で世界も日本も大きく変わったけれど、自分の問題で言えば(あるいは誰にとっても)30年間で一番大きな出来事は「自分が30歳年をとった」ことだ。その結果、自分は「何者か」になって、「何事か」をしたわけである。

 僕が70年代にリアルタイムで、初期のシリーズ、特にリリー3部作の2本(「忘れな草」「相合い傘」)を見た頃、自分はまだ何者でもなかった。まあ「学生」も何者かではあるが、就職も結婚もしていなかった。それを逆に言えば、何者でもないことによって今とは別の自分になる可能性も存在していた。その可能性はもうないわけで、自分は何者かになってしまった。別に後悔するとかではないけれど、そういう風に人生の時間が進んで行ったのである。ところが『男はつらいよ』シリーズは、70年代、80年代を超えて続き、その間ずっと寅さんは何者にもならなかった。だからずっと出会った誰かを好きになっても許された。

 この「寅さんがいつまでも何者でもないこと」が懐かしいのである。もちろん画面には今では見られなくなった幾つもの風景が残されている。それも見るだけで懐かしいわけだが、その風景を寅さんが歩いてきてテーマ音楽が流れると、「パブロフの犬」のように自分がまだ何者でもなかった時代が自然に思い出されてくるのだ。それなりに一生懸命取り組んだこと、自分も家族(ペットも)若かった頃、好きになった人、失恋した人…「寅さん」が「反復」だからこそ、思い出してしまうわけだ。

(山田洋次監督)

 寅さんはどこにも「居場所がない」。柴又に帰っても、定着せずに旅に出る。時々定職に就こうとするが、やっぱり無理で辞めてしまう。いや、そういう人生を望むわけじゃないけれど、心の奥底に「自分の本当の居場所」を探し続けている人はいっぱいいるだろう。そのような「漂泊」の思いはどこから来たのだろうか。それは山田洋次監督の「引き揚げ体験」に原点があるのではないだろうか。山田監督は「外地」育ちではないが、戦時中に疎開していて戦後大連から帰還してきた。外地から引き揚げた体験は戦後日本に大きな影を落としてきた。安部公房の小説、別役実の演劇に描かれた「居場所がない」不安感。山田洋次が創作した「寅さん」の居場所なき絶えざる放浪も、また日本人の戦争体験による喪失感が生んだ「不条理文学」なのではないか。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

リリー3部作と「漂泊の魂」ー『男はつらいよ』シリーズ考②

2025年01月22日 22時38分58秒 |  〃  (旧作日本映画)

 『男はつらいよ』シリーズを考える2回目。今回第3作の『男はつらいよ フーテンの寅』を見たのだが、これはなかなか映画館で見る機会が少ない。僕も前に見ているとは思うが、細部はほぼ忘れていた。というのも山田洋次監督は正続2作で一端終わりと考えたようで、3作目はシナリオは書いたものの演出を森崎東監督に任せたのである。寅さん特集上映が企画されるときは山田監督作品が中心になり、一方森崎監督特集も時々あるけれど山田色が強いこの作品は除かれやすいのである。

 この映画は三重県の湯の山温泉が舞台になっている。おいちゃん、おばちゃんが久しぶりに骨休みで温泉に行くことになる。今頃寅はどこでなにしてるやら? やだよ、旅先で会っちゃったりしたら…なんて会話しながら旅館に入るとコタツが点いてない。フロントに電話すると飛んできたのが寅さんだった! という、当然そうなると予想通りの「悪夢の展開」。旅先で病気になった寅を親切に看病してくれた旅館の女将。寅さんはその女将新珠三千代に一目惚れして居付いてしまったのである。

 1928年生まれの渥美清に対し、新珠三千代は1930年生まれだから、年齢的には釣り合っている。当時50~60年代に映画各社で活躍した女優は映画界の衰退と年齢的問題で、舞台やテレビに活躍の場を移していた。新珠三千代は宝塚出身の美人で、テレビの『氷点』や『細うで繁盛記』で大人気だった人である。だから、観客が二人をある種の「身分違い」と認識するのは当然だ。片方は亭主に死に別れた美人女将、もう片方は定職もないテキ屋である。この恋もまたまた失恋に決まっている。

(ハイビスカスの花)

 シリーズのマドンナ役には多くの女優が出たが、当初のマドンナには3作目の新珠のような、年齢は釣り合うが設定と芸歴が釣り合わない「大女優」が多く出ている。若尾文子池内淳子八千草薫岸惠子京マチ子香川京子らで、当然結ばれるはずもない。一方、1973年8月公開の『男はつらいよ 寅次郎わすれな草』のマドンナ浅丘ルリ子(1940~)はちょっと違っていた。当初山田監督は北海道の酪農農家という役をオファーしたが、浅丘は自分の体格からそれは無理で、お化粧もせず牛の世話をする役は自分に合ってないと断ったという。そこで山田監督は再考して「さすらいの歌姫松岡リリー」という役に書き換えたのである。

 今回第25作『男はつらいよ 寅次郎ハイビスカスの花』(1980)を再見したが、これはリリー3部作の3作目。(リリー出演作は4つあるが、最終作の『寅次郎紅の花』は設定が特別なので除く。)いま「さすらいの歌姫」なんてカッコよく表現してしまったが、実は地方のキャバレーを歌い歩くドサ回り歌手である。博がたまたまキャバレーの募集広告を小岩(江戸川区)に届けると、リリーに偶然出会う。帰ってから柴又の皆は「リリーさんみたいな人がお兄ちゃんと一緒になってくれていたら」と語り合う。と思うと突然リリーから沖縄で病気になって入院中という速達が来た。飛行機嫌いの寅も何とかすぐに駆けつけるのだが…。

(忘れな草)

 寅とリリーの関係は「身分違い」とは言えない。テキ屋とドサ回り歌手は、まあちょっと違うかも知れないが、本人どうしが好き合うなら周りも反対しないだろう。もちろん二人が幸福な結婚をして寅さんが定職に就いてしまったら、シリーズは終了である。エンタメシリーズの展開上も、またドル箱を失えない松竹の営業事情からも、寅さんとリリーは結ばれてはならない。しかし、それ以前の多くの作品では、明らかに「釣り合わない」ゆえに寅の懸想はまたも報われないと観客皆が予想出来た。しかし、その展開はリリー3部作では使えないのである。ではどういう事情、論理から二人は結ばれなかったのかを具体的に見てみたい。 

 『寅次郎忘れな草』(1973)の冒頭、網走で寅とリリーは出会ってお互いの浮草稼業を語り意気投合する。東京へ来たら柴又を訪ねておいでと別れた二人。実際にリリーはとらやを訪ねて歓迎される。ある夜リリーは酔っ払って柴又に現れ、寅さんに一緒に旅に出ようと誘うが、寅さんは一歩を踏み出せず、ここは堅気の家だから深夜は静かにとたしなめる。翌日リリーのアパートを訪ねるが、もうその時は引き払った後だった。その後とらやにハガキが着き、リリーは寿司職人と結ばれ店を持ったという。寅が訪ねると、リリーは「本当はこの人より寅さんが好きだった」と冗談のように言う。リリーの相手は毒蝮三太夫なんだから、こんなことを言っちゃ何だけど渥美清と結ばれていても全然おかしくないのである。

(相合い傘)

 僕だけでなく多くの人がシリーズ最高傑作と考える第15作『寅次郎相合い傘』(1975)。冒頭で離婚したリリーは再び柴又を訪ねるが、寅さんいなかった。その頃寅は「蒸発」中の会社役員船越英二と出会って北海道に渡る。北へ向かったリリーは函館でこの二人と出会い、三人の珍道中となる。しかし、船越の初恋の人を訪ねた後で寅とリリーは女の幸福をめぐって口げんかとなって、リリーは去って行く。柴又へ帰った寅だが、そこへリリーも来て仲直り。周囲もあの二人のケンカは夫婦げんかみたいという。ついにさくらはリリーに対し「お兄ちゃんの奥さんになってくれたら素敵」と発言するのである。それに対して、リリーは真剣な顔になって「いいわよ。あたしみたいな女でよかったら」と述べたのである。シリーズ屈指の名シーンだろう。

(浅丘ルリ子のリリー)

 ところが帰って来た寅さんは、それを「冗談だよな」と決めつける。そこでリリーも「冗談に決まってるじゃない」と返して去る。さくらは追いかけろと言うが、寅は二人は「渡り鳥」だという。漂泊者である寅とリリーは結ばれても幸福になれないだろうと示唆するのである。これはある意味正しい認識だと思う。第25作『寅次郎ハイビスカスの花』(1980)では病気になったリリーを沖縄に訪ねた後、退院した二人は同じ家に暮らして療養する。その後またケンカしてリリーは寅を置いて東京へ戻る。寅も戻ってきてリリーと再会する。沖縄じゃ幸せだったと言うリリーに、寅も「俺と所帯を持つか」とまで言うのだった。

 このように二人はほとんど結婚直前の関係にあった。だが、この二人が結ばれないのは寅さんが臆病だったということではなく、もちろんシリーズを続けさせるためでもない。二人が結婚していたとしても、その後幸福に添い遂げたとは思えない。きっとまたケンカして、寅さんは行商の旅に出て行ってしまうだろう。そういう性格設定になっているからだ。そのような「社会不適応者」としての寅さんに我々は惹かれるのだ。その孤独がリリーの存在によって、くっきりと浮かび上がる。リリーだって同じようなもので、やはりまた歌手に戻ったのではないか。リリーが登場したことで、物語の哀歓はグッと深くなったと思う。

 そして「思い合っていても結ばれない関係」という若い時にはよく理解出来なかった心理が、今はただただ懐かしく感じる。好きなら結婚しちゃえばいいじゃないかと昔は思ったが、その後の人生行路を経てそういうもんでもないと思うようになった。そして、居場所を求めてさすらいながら幸福がつかめそうになると自分から遠ざけてしまう寅さんが我が事のように思われるようになった。自分の中にも漂泊の魂があって、ここは自分の本当の居場所じゃないと語りかける。だが今いる場所で頑張り続けることでしか未来は開けない。そうやって年を重ねてきたけれど、年齢とともにますます寅さんとリリーの切なさが身に沁みるのだ。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『男はつらいよ』第1作と「身分違いの恋」ー『男はつらいよ』シリーズ考①

2025年01月21日 22時20分06秒 |  〃  (旧作日本映画)

 2024年は『男はつらいよ』シリーズが始まって55年ということで、幾つかイヴェントも行われた。それには行ってないんだけど、2025年になって池袋・新文芸坐で4本上映しているので見てきた。(下の画像にあるクリアファイルをくれた。)今年最初に書いた記事で指摘したが、『男はつらいよ』シリーズ最終作が公開されたのは1995年12月だった。阪神淡路大震災や地下鉄サリン事件が起きたあの忘れがたき年は、『男はつらいよ』が終わった年でもあったということにはどんな意味があるんだろうか。僕はそのことをずっと考えている。そこで幾つか再見して感じたことを何回か書いてみたい。

(男はつらいよクリアファイル)

 まず『男はつらいよ』第1作(1969)を取り上げる。まあ第1作と言っても、それは映画版第1作ということである。よく知られているように、それ以前の1968年~69年にフジテレビで全26話のドラマが製作されていた。最終作で寅さんは奄美大島でハブに噛まれて死んでしまった。しかし、終了後に抗議の声が殺到し、それが映画化につながった。渥美清森川信(おいちゃん)は共通するが、さくらは長山藍子、博は井川比佐志、おばちゃんは杉山とく子だった。映画ではさくらは倍賞千恵子、博は前田吟、おばちゃんは三崎千恵子だった。さくらの倍賞千恵子は欠かすことが出来ないキャストとなったと言える。

(第1作)

 第1作を見るのは多分3回目。1970年代半ばに作られたシリーズ10番台に傑作が多くベスト級だと思ってきたが、改めて第1作を見るとこれも素晴らしい傑作だ。もちろん公開当時に見たのではなく、若い頃にどこかの名画座で見たんだろう。その後2019年の50年記念の時に見直したと思う。続けていっぱい見ると、このシリーズは皆同じじゃないかとつい思うんだけど、今回は「公開当時の2本立て再現」という不思議な企画である。だから『喜劇・深夜族』『祭りだお化けだ全員集合!』『思えば遠くへ来たもんだ』等の映画も見たのである。それぞれなかなか面白いけれど、映画の完成度は『男はつらいよ』第1作が飛び抜けている。

 帝釈天のお祭りの日、20年ぶりに寅さんが柴又に帰ってくる。そのお祝いで飲み過ぎて、おいちゃんは次の日二日酔いである。そのため予定されていた妹さくらのお見合いに行けない。さくらは丸の内にある大企業オリエンタル電機の「BG」(当時はOLをビジネスガールと呼び、セリフもそうなっている)で、重役の御曹司がさくらを見初めてお見合いとなったが、さくら本人は実は乗り気ではない。やむを得ずおいちゃんの代わりに寅さんが同行し、その結果無作法な言動を繰り返してしまう。(ここは何度見ても実におかしい傑作シーン。)そして、案の定お見合いは断られてしまうわけである。

(初代マドンナ光本幸子)

 家族が寅さんの所業を責めたてたので、寅はプイッと家を出ていってしまう。そして行方も知れず数ヶ月。突然御前様の娘、坪内冬子から団子屋にハガキが届く。親子で奈良を旅行していたら寅さんに偶然出会ったというのである。冬子を演じたのは光本幸子(みつもと・さちこ、1943~2013)で、若い頃から劇団新派や日本舞踊で活躍してきた人である。これが映画初出演で、結婚・育児で休業した期間が長かったこともあり(その復帰するも舞台が中心だった)、今では知らない人も多いだろう。とても存在感がある演技を披露していて、寅さんならずとも惹かれていってしまうのも無理はない。

 ということで寅は御前様親子にくっついて、そのまま柴又に帰ってきてしまった。その後は何かと用を作っては寺に顔を出す日々。柴又の人々は「寅の寺参り」と呼んでいるという。一方、その頃裏の印刷会社に勤める博がさくらに惹かれていた。しかし、戻ってきた寅さんは「職工風情に妹をやれるか」と暴言を吐き、会社の壁に「寅の暴言を許すな」と書かれる。似顔絵もあって笑える。結局すったもんだがあって寅と博の「川船の決闘」となる。一時は柴又を去ろうとしていた博をさくらが追っていき、帰って来たさくらは「私、博さんと結婚する」と宣言する。結婚式は有名な川魚料理屋「川甚」で行われることになった。

 このように『男はつらいよ』第1作は、「身分違いの恋」をめぐって展開される。妹さくらをめぐる「上司から来たお見合い」と「裏の印刷会社の労働者」、そして「寅さんと冬子さん」である。もちろん戦後日本には「身分」などないわけだが、実質的には「結婚をめぐる家の釣り合い意識」は残り続けた。そしてさくらに関しては、「本人どうしが好き合っていることが第一」という価値観が実現する。一方、寅さんの場合は「学歴も定職もない」男である。実際冬子は大学教授との縁談が進んでいて、これは「身分違い」というのとはちょっと違うけれど、寅さんにとって冬子が「高嶺の花」であることは観客皆が理解している。

(寅さんは家族の会話を聞いてしまう)

 「身分違いの恋」は古今東西を問わず大衆芸能の大きなテーマだった。近世日本の心中もの、あるいは泉鏡花の『婦系図』(おんなけいず)、あるいは洋画の『ローマの休日』など幾つもの物語に変奏されてきた。中でも日本では戦時中に作られた映画『無法松の一生』が思い出される。何度も映画化、舞台化された名作だが、そこでは人力車の車夫が高級軍人の未亡人に憧れてしまう。戦争中は許されない設定として検閲で大事なシーンが削除されてしまった。「車夫風情」が軍人の未亡人に懸想するなどあってはならないことだった。『男はつらいよ』はそういう定型的テーマのパロディとして成立している。

 寅さんを演じる渥美清(1928~1996)は浅草のコメディアン出身だが、その前に実際にテキ屋をしていたこともあったらしい。50年代末からテレビに出始めて、テレビ勃興期に大活躍していた。寅さんをを演じる前にテレビを通して多くの人が知っていて、僕も見た記憶がある。その時は「おかしな顔」で売っていて、よく「ゲタ顔」と言われている。これは三枚目コメディアンにとって大切な資産である。しかし、『男はつらいよ』では無学なテキ屋という設定なので、教養ある美人に思いを寄せても実らないことになる。観客は皆渥美清の芸風を知っていて、実らぬ恋に身を焦がすのを見て面白がるのである。

 第一作で行われるさくらと博の結婚式はとても感動的だ。かつて衝突して家を飛び出た過去があり、博の親は来ないと言われていた。しかし、父親の諏訪飈一郎が夫婦で現れたのである。この名前が読めず皆困ってしまう。(「ひょういちろう」である。)志村喬が演じていて、北大名誉教授となっている。その後も8作目と22作目に登場し、なかなか重要な役を果たす。博の父の前に、帝釈天の御前様が寅の幼き日の所業をバラす祝辞を述べる。これは笠智衆が演じているから、小津映画を象徴する笠智衆、黒澤映画を象徴する志村喬がともにスピーチして、『男はつらいよ』船出を祝うという映画史的奇跡なのである。

 ところで、この「身分違い」問題は、リリーシリーズではどのように描かれていくのか。次に考えてみたい。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

映画『アプレンティス ドナルド・トランプの創り方』を見る

2025年01月19日 19時47分07秒 |  〃  (新作外国映画)

 さて、ドナルド・トランプがアメリカ大統領に戻って来る。2ヶ月前の当選から、世界は戦々恐々としてその日を迎えようとしている。ということで、アリ・アッバシ監督『アプレンティス ドナルド・トランプの創り方』(The Apprenticeという映画を見に行ってきた。この映画は若き日のトランプを描く伝記映画で、アメリカでは選挙戦最中の公開をトランプ陣営が阻止しようとしたが、結局10月に小規模な公開となった。日本では何故か高須美容クリニック院長が協賛してテレビCMを流している。いろんな見方は出来るだろうが、まあ普通に解釈するならば「怪物が生まれるまで」を描いた映画ということになるだろう。

 「アプレンティス」とは「見習い」という意味で、同時にドナルド・トランプが司会を務めた有名なテレビ番組の題名でもある。その番組は2004年から2007年に放送された。応募者から選ばれた10数名が会社で見習いとして働き、本採用を目指すというリアリティ・ショー。脱落者にはトランプが「君はクビだ! (You're Fired!) 」と宣告する。この決めぜりふが有名になって、今でも演説でよく使っている。映画はそのはるか前、1970年代に始まる。テレビではニクソン大統領の「ウォーターゲート事件」疑惑が報じられている。そんな時代に若きトランプは苦境に立っている。父親の不動産会社が人種差別で司法省に訴えられたのだ。

 青年実業家ドナルド・トランプセバスチャン・スタン)は、有名人が集まるクラブの会員になって、「悪名高き」弁護士ロイ・コーンジェレミー・ストロング、1927~1986)に近づく。この弁護士は3回も訴追されながら無罪となった経歴がある。かつては検事でローゼンバーグ夫妻(原爆の情報をソ連に流したスパイとして訴追された)を死刑に追い込んだことを「国家のため」として誇っている。事件当時はまだ20代前半の検事だった。コーンはドナルドに「勝つための3つのルール」を伝授した。

(ロイ・コーン弁護士)

 それはまず「攻撃、攻撃、攻撃」であり、次に「絶対に非を認めるな」、そして「勝利を主張し続けろ」だった。選挙戦や前の大統領時代にどうにも奇妙な言動が多かったが、これを見て「ドナルド・トランプはロイ・コーンによって創造された」ことが良く判る。しかし、非を認めず勝利を一方的に主張するだけでは、もちろん現実の裁判で勝つことは出来ない。表舞台では「証拠」がものを言うからだ。しかし、ロイ・コーン弁護士のやり方は「裏で取引する」のである。相手に不利な情報を収集して、裏で恫喝して訴訟を取り下げさせたりするわけである。ここで「取引」というもう一つのトランプ流が成立する。

(トランプ)

 そうやって大ホテルを作り、トランプタワーを建て、アトランティック・シティ(大西洋岸のリゾート)にカジノを作る。モデルを追い回して結婚し、子どもも生まれ、次第に大物実業家になっていく。最初はある程度「ニューヨーク再開発」を考えていたようだが、次第に恰幅もよくなって大物ぶりが板に付く。一方でコーンは不祥事を起こし弁護士資格を取り上げられ、さらに病気にもなる。周囲は「エイズ」だと言うが、本人は肝臓ガンだと主張する。同性愛者の権利に厳しかったコーンは、実は同性愛者だったのである。そしてまだ50代で亡くなるが、その時点ではトランプは完全にコーンをしのぐ大物になっていた。

(アリ・アッバシ監督と)

 アリ・アッバシ監督はイラン出身だがスウェーデンで育ち、『ボーダー ふたつの世界』がカンヌ映画祭で「ある視点」部門グランプリを受けた。その後の『聖地には蜘蛛が巣を張る』でカンヌ映画祭コンペティション部門の女優賞を受けた。今回の『アプレンティス』も2024年のカンヌ映画祭コンペに出品されたが無冠に終わった。しかし、トランプ役のセバスチャン・スタンとコーン役のジェレミー・ストロングは高く評価されていて、ゴールデングローブ賞やイギリス・アカデミー賞の主演、助演にノミネートされた。主演はソックリぶりが見事だが、それ以上にコーン弁護士の存在感が半端ない。こういう人がいたのかと思った。

 もう一つ、トランプ家の問題、特に父と兄の存在がドナルドに与えた影響の問題がある。父の圧政に兄はつぶされ、弟は父を(良くも悪くも)乗り越えた。その意味でドナルド・トランプは間違いなく「成功者」であり、この映画を「成功の秘訣」探しとして見ることも可能ではある。だが「成功」しすぎて、何事も「取引」として考える世界に生きる姿は果たして「成功の報酬」としてふさわしいか。むしろ「モンスターの誕生」を目の当たりにする映画だと思う。面白く出来ていて一見の価値がある。

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

俳優座劇場プロデュース『音楽劇わが町』(ワイルダー作)を見る

2025年01月17日 22時02分54秒 | 演劇

 俳優座劇場プロデュース音楽劇わが町』を見た。『わが町』はアメリカの劇作家ソーントン・ワイルダー(1897~1975)が1938年に発表した戯曲で、ピュリッツァー賞を受けた名作。日本でも何度も上演されてきたし、原作もハヤカワ演劇文庫で読んだことがある。それを2011年に「音楽劇」にして、各地を198回上演してきたという。2015年以来10何年ぶりの再演だが、ちょうど阪神淡路大震災30年の1月17日に見たこともあって、とても心に沁みる舞台だった。

 この劇はアメリカの小説や映画に多い「スモールタウン」ものの演劇における代表作で、1901年のニューハンプシャー州の小さな町(グローヴァーズ・コーナーズ)の人々を「進行役」が巧みに紹介していく。3幕に分れていて、1幕で町の日常生活をテキパキと紹介、2幕で3年経つと隣同士で育った二人が結婚する日を迎える。そして3幕は9年経って、どうなるか。20世紀初頭のまだ自動車が登場し始めた時代を生きる人々。その時代のその町でも、人々は明日がどうなるか判らないまま一生懸命生きて、大きくなると人を好きになり、そして死んでいった。それはいつの時代も同じなんだけど、いつもは意識しない。

 そんな愛おしい日々を進行役が語るという手法が非常に感動的である。しかし今から見てみると人種対立も、銃犯罪も、薬物中毒もない時代なのである。WASP(白人、アングロサクソン、プロテスタント)の異性愛者ばかりが登場する劇で、工場が出来て町の違う地区にはポーランド人(カトリック)が増えたと言われている。犯罪など特に起きないが、1913年になると家に鍵を掛ける人が増える。1914年に第一次大戦が始まり、1917年にアメリカも参戦、町には戦死者も出る。そういう変化も書かれているけど、それでも「生活の規範」があった時代だなあと思うのである。それは懐かしいとも言えるが、古い。

(ソーントン・ワイルダー)

 アメリカの演劇というと、テネシー・ウィリアムズやアーサー・ミラーなど葛藤渦巻く舞台が思い浮かぶが、戦前に書かれた『わが町』はそういうのと違う「しみじみ系」の傑作。しかし、僕も原作を読んだときに、ちょっともう古くなった気がした。それを製作陣も感じて、音楽の上田亨と演出の西川信廣は日本人になじみやすくするために「音楽劇」にするというアイディアを実現したという。一種のミュージカルだが、井上ひさしの作品のように舞台上にピアニストがいて伴奏とともに俳優が歌ったりする。エミリーを演じる土井裕子の魅力と若々しいジョージの奥田一平が良い。進行役の清水明彦(文学座)も忘れられない。

(俳優座劇場)

 『わが町』は「さようなら俳優座劇場」という企画である。六本木交差点そばの俳優座劇場は、2025年4月末で閉場する。ここは俳優座以外の公演も多く行われてきた場所で、「青春の思い出」というほど行ってはいないけど、それでもまあ惜別の思いはある。しかし行く度に狭い階段が大変になってきて、やはりバリアフリーとか考えてない時代の建物だなあと思う。そろそろ終わるのもやむを得ないような気がする。今の建物は1954年に作られた旧館を1980年に建て直したもの。300席と小さいが、舞台との距離が近く見やすい。4月までにまだいくつかの公演が控えているので、もう少し見たいなと思ってる。

 なお、『音楽劇わが町』の初演は2011年3月12日だった。大震災翌日だが俳優座劇場は大丈夫だったので、公演を挙行したものの観客は50人だったという。僕は当時六本木高校に勤務していたので、3月12日朝(10時頃)まで六本木にいたわけである。(震災当日は地下鉄が停まったので、生徒・職員は学校で夜明かしした。)そんな日のことも思い出した。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

不思議な不思議な「石丸新党」ー政策なしの政党ってあり?

2025年01月16日 21時48分14秒 | 政治

 2025年1月15日に、石丸伸二氏が地域政党「再生の道」設立を発表した。石丸氏は2024年7月の都知事選に立候補して第2位となって注目された。開票日の会見では「衆院選広島1区」の名を挙げて国政へのチャレンジも示唆していたが、結局立候補しなかった。その後沈黙していたが、今年になって都議選に向け地域政党を作る方針を明らかにしていた。

(石丸新党は「政策は候補者まかせ」)

 記者会見そのものにも問題はあったが、それはさておきこの会見で明らかにされた「再生の道」の方針は非常に不思議なものだった。何しろ政党を結成するというのに、「党として実現する政策は出さない」というのである。良くも悪くも、政策を掲げるから政党のはずである。党議拘束は一切せずに予算案や条例案への賛否は各議員の判断に任せるというのでは、「無所属互助会」と同じではないか。議会内の「会派」ならあり得るが、このやり方が果たして受けるんだろうか。こういう「社会実験」が「ブーム」になるならば、自分もずいぶん時代とズレてしまったということになるんだろうか。

 候補者が別の国政政党に所属していても構わないとまで言う。これも理解出来ない。一般的には他の政党は「党議拘束」を掛ける。予算などで各議員がバラバラの対応をするのはおかしいからだ。選挙の時に同じ公約を訴えて、当選したらその実現を目指す。それが普通の政党だから、どこかの国政政党に所属していたらその党の政策実現に努力しなければならない。地域政党「再生の道」から出馬して、当選したら自分の考えで賛否を決めると言っても、もう一つ属する政党の方針に従えば良いということか。

(議員任期は「2期8年まで」) 

 「よく分からない力学で議員になり、しまいに議員の椅子にしがみつく。日本が衰退している原因だと断罪します」と言っているのはどう考えるべきか。「議員のイスにしがみつく『政治屋』の一掃が新党の目的」とも言う。まあそういう考えもあるかもしれない。だけど新党の候補者選考はどうなるのか。今後立候補希望者を募り、書類審査や面接で決めるらしいが、それは「よく分からない力学」とは何が違うのか。政策もはっきりしない「新党」の公募に応じるのは「政治屋」と何が違うのか

 僕にはこういう「怪しい公募」こそ「政治屋」を生み出すのではないかと思う。「2期8年まで」という議員任期は地域政党「生活者ネットワーク」と同じだが、そのような地域活動を基盤している党以外では不可能じゃないか。そうじゃないと「8年まで」と期限付きの政治活動を行えるのは、(医師や弁護士など)有力な資格を持っている人に限られてしまう。若い人は「実績」がないから選ばれにくい。壮年期の人は8年と区切られると、2期目は次の仕事探しに忙しくなる。

(国民民主党とは近い?)

 僕も今までの政党のあり方がベストとは思っていない。諸外国に比べ日本の党議拘束は厳しすぎる。一端議席数が決まってしまえば、後は議会の審議をいくらやっても結果が変わらない。そういう議会のあり方が日本社会の停滞感を招いているのも確かだ。だけど、「党議拘束をしない」だけでは政党の方向性が判らない。「政策の細部」までは要らないが、「世界観」は示してもらわないと選びようがない。「イデオロギー」を左右で測れる時代は終わったかも知れないが、それでもリーダーに「イデオロギー」が不要なわけではない。何も語らなければ左右からの批判を受けないかもしれないが、それは逃げてるのと同じだ。

 「逃げてる」と言えば、直前になって「記者会見場」が変更になった。記者会見の告知がネット上に掲載され、その結果誰が来るか不明な会見は困るということだった。実際、一部のフリー記者らの参加は拒否された。これもどうかなと思う。今度選挙に出るんだから、誰でも来て何でも聞いてくださいというのが普通じゃないか。「記者選別」というのは、何だか気になる。そういうことをしていた政治家は大体何か問題を抱えていた。批判されては困る問題があるんだろうか?

 ということで、「批判」以前に「批判材料がない」という問題である。具体的政策を語らないことで、財源がどうのとか伝統がどうのとか世界ではどうのとかいう批判が起きない。それを「頭のいい」」やり方だと思う人がいると困るなと思う。国政じゃないけど、都政のあり方でもいくつもの問題がある。政党として都議選に臨むなら、政策的方向性は必要だと思う。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

上野鈴本演芸場「正月二之席」で、2025年初寄席を楽しむ

2025年01月15日 21時55分17秒 | 落語(講談・浪曲)

 上野の鈴本演芸場正月二之席に行ってきた。年末に年の暮れらしい演目、例えば「芝浜」なんかを聴きに行きたかったけど、時間が取れなかった。今になると何の用事があったのか思い出せないけど。1月はぜひ行きたいと何とか行ける日を作った。寒いから夜はやめて、浅草や新宿だと長くなるから、短い上野で。(上野は4時上がりである。)トリは春風亭一之輔で、トリに聴くのは久しぶり。よく聴いてる人が多いが、まあ安心してノンビリ出来るからそれが良い。半分ぐらいの入りか。

 前座は白鳥門下の三遊亭東村山で、その後に出て来た柳家緑太(3月に真打昇進)から白鳥の他の弟子は「三遊亭青森」や「三遊亭ぐんま」なのに、一人だけ自治体名だといじられていた。奇術の「小梅」さんをはさんで、三遊亭歌扇柳家歓之助は初めてだけどなかなか面白い。紙切りの林家二楽に続き、新作の柳家小ゑんは「下町おたく」が田原町のせんべい屋で妄想に入る「下町せんべい」。これは前にも聞いてるが、ものすごく面白くて場内でも大受けする。せんべい屋が「まっつぐ」とか言うと大感激しちゃって、奥さんは「お久」でしょと決めつけると「オレの女房はエリカだよ」というところなど爆笑。

(柳家小ゑん)

 次はごひいきの桃月庵白酒のはずが、今日は代演の隅田川馬石。大家の紹介で祝言した相手が京の格式ある言葉しか話せない「たらちね」。寄席ではよく出てくる噺だが、これは今までの中でもすごく面白かった。両者のディスコミュニケーションの案配が難しく、下手すると単なるおバカみたいになるが、今日は味わい深く面白かった。馬石も注目の落語家だ。

(隅田川馬石)

 ごひいきの音楽パフォーマンスのだゆきは相変わらず受けている。次の林家正蔵師匠も最近よく聴いてる「一眼国」。まあ同じなんだけど、いつものマクラ(見世物小屋の思い出)も受けていた。そこで仲入(休憩)。その後大神楽でなごんで、林家彦いちの「ドキュメンタリー落語」。実際にあった話という触れ込みで、京浜東北線川口、西川口間で電車が急に停まってしまった時の乗客ドキュメント。隣のおばちゃん達が話していたという、知り合いの夫が食品会社を辞めさせられた顛末。「缶にガが入って、カイコ(解雇)になった」というのを、これはうまいとメモするところがおかしい。その後音漏れ少年がケータイでキレ始める。その再現がおかしい。結局その相手は誰だったかと思うと母親だった。やはり彦いちの新作は面白いな。

(林家彦いち)

 続いてごひいきの古今亭文菊だが、気の長い男と気の短い男のやり取り「長短」という噺。熱演なんだけど、噺そのものがあまり面白くない。漫才のロケット団は相変わらず面白い。今は「疑い出すといろいろ疑いが出て来る」四字熟語が「疑心暗鬼」じゃなくて「中居正広」で爆笑を取っていた。そして最後にトリの春風亭一之輔。マクラで受けた後で、町内の素人芝居で「天竺徳兵衛」の忍術の場をやる。役に不満な連中が出て来ない。「舞台番」役がフンドシを付け忘れて…という噺は初めて聴いたけど、調べると「蛙茶番」という題だった。おかしいっちゃおかしいが、品がないか。一之輔もどうも今ひとつかも。

(ロケット団)

 寄席はやはり落語と色物の混ざっているのが良い。あまり気を詰めずに楽に見られる。眠くなっても気にしなくて良い。長い映画やお芝居だと寝るともったいないからコーヒーと飲んでしまうと、夜寝付きが悪くなる。まあ、いろいろと困ったことが多い年になってきた。今年はまだまだ頑張れると思うので、ライブ芸能をたくさん見たい。そう思って演劇や落語のチケットを数枚予約してある。まあお金の問題で、歌舞伎やミュージカルは行かないんだけど。ということで、体調を崩さず気を付けていきたい。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2025衆参同日選はあるか?ー石破内閣の今後を考える

2025年01月14日 22時13分01秒 | 政治

 2024年10月27日の衆議院選挙が終わった後で、『しばらくは石破「少数与党内閣」で、2025衆参同日選挙か?』を書いた。2ヶ月ちょっと経って、2025年を迎えたので今年の政局を考えてみたい。2025年は何といっても「7月の参議院選挙」である。今のところ、7月20日が有力と言われている。その前の7月上旬に都議選がある予定だが、期日はまだ未定。都議選は次にある参院選の結果に影響することが多いが、今のところどうなるか全く想定できない。従って参院選の結果も現時点では予測不能である。

 石破内閣の命運もこの参議院選挙に掛かっている。衆院は与党がすでに過半数を割り、さらに参院選もボロ負けして与党過半数割れとなったら、さすがに石破首相も直ちに辞意表明に追い込まれるだろう。それを防ぐにはどうしたら良いか。政策的な問題はちょっと置いて、政局的な判断としては「衆参同日選に持ち込む」というのが一つある。支持率が落ちたといっても、自民党が第一党であるのは間違いない。衆院選、参院選両方を一緒にやれば、候補者数も不足しがちな小党には厳しいからだ。

(衆参同日選はあるか?)

 しかし、僕の見るところでは石破首相は「ホンネでは同日選を考えていない」と判断している。それは昨秋から、時々同日選を匂わす発言をしているからだ。もし本当に同日選を想定しているなら、深く秘して人には語らないだろう。衆参同日選をやれば、もしかしたら衆参とも自公で過半数を獲得できるかも知れない。しかし、未だに裏金問題への批判も強く、保守系新党も出馬するわけで、自民党が大勝利することは難しいと思う。もし自民党が大勝したら、功労者の石破総裁は安泰になる。しかし、そういう可能性がほぼないのなら、まだしも「衆院で少数与党の方がマシ」だと思っているのではないか。

 石破内閣の支持率もパッとせず、首相への批判も強い。しかし、自民党内で「石破おろし」は起きない。その理由は、仮に誰がなっても「少数与党」という現実は変わらず、石破首相に代わって自分が苦労するだけのために「石破おろし」をする意味がないからだ。つまり、「少数与党」が石破内閣存続の理由にもなっている。無理して衆参同日選をやっても、負けたらオシマイ。勝っても「少数与党」じゃなくなったら、かえって反石破運動を誘発しかねないのである。

 また都議選に集中したい公明党は、衆参同日選を忌避している。(支援組織の創価学会が東京都知事から宗教法人の認可を受けているため、都議会で一定の勢力を維持することを重視していると言われる。)そのことも衆参同日選を避けたい理由だろう。もっとも野党がもし一致結束して内閣不信任案を可決した場合は、石破首相は総辞職ではなく解散を選択するのは確実だ。だから野党が衆参同日選を求めているかどうかという問題になる。一般論としては、参院選を前に各党は「独自色の発揮」を考えるはずで、安易に政権にすり寄るよりは内閣追及を強めることが多い。

 だから内閣不信任案を国会会期末に出すというのが普通のパターン。野党が全部賛成すれば不信任案が通っちゃう。そこの神経戦がギリギリの判断のしどころで、「ひょんなことから衆参同日選」になる可能性もある。ただ、その場合一年もしないうちに衆院選をまたやるわけで、世論は野党側に厳しい反応を示すかも知れない。じゃあ、どうなる。「立憲民主党との間で大きな妥協をする国民民主党の要望を受け容れて不信任案反対に回ってもらう」というのは、どっちも参院選に連合の組織内候補を多く抱える両党にはなかなか難しいのではないか。(連合は建前上、両党の協力を求めているわけだから。)

 そうなると、様々な可能性を模索しながら、「日本維新の会が不信任案反対に回る」可能性がもっとも高いように思う。3月に大阪万博が始まり、「やってみれば大評判、大盛況」となれば別だ。そうなれば万博会期中に衆参同日選をやってみたいかもしれない。だけど、今のところ前売券販売もパッとせず、盛り上がりも今ひとつ。正直「維新」は万博中に衆院選をやりたくないんじゃないか。その場合、何か少し維新の求めに応じて、維新が不信任案反対に回る。そういう可能性は考えられると思う。こういうことは後数ヶ月すると当たり外れがはっきりするので、書かない方が利口かと思うが一応予測してみた次第。

(参議院の勢力)

 なお、参議院選挙の結果だが、今の段階では全く予測できない。毎回「一人区」の結果が参院選を左右してきた。だから、野党の選挙協力があるかないかで大きく変わる。前回2022年選挙では、自民党63公明党13と与党が勝利した。その後岩手県選出の広瀬めぐみ議員が辞職し、補選で立憲民主党が勝利した。だから今の時点では、与党が75議席持っている。参議院全体は248議席で、124が改選になる。(蓮舫が都知事選出馬で失職した議席が今回欠員補充となるので、実際は125議席が争われる。)

 ということは自公で50議席取れば何とか過半数になる。公明党が同じぐらい取ると仮定すれば、自民党はおよそ半減するぐらいの大敗でも「3年前の貯金」で過半数になる。野党側が全部まとまっても一挙に与党を過半数割れに追い込むのは難しい情勢。まあ自民党は大きく減らすだろう。だから問題は2028年参院選になるのかも。なお、東京都選挙区は、6人+蓮舫分を加えた定数7になる。(7番目の当選者は任期3年。)6年前当選の丸川珠代、音喜多駿は衆院選に出て失職。公明党の山口那津男元代表は引退だから、知らない人がいっぱい出て来る選挙になりそうだ。)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ICC(国際刑事裁判所)に迫る危機ーアメリカの制裁と「法の支配」

2025年01月13日 20時33分00秒 |  〃  (国際問題)

 国際刑事裁判所ICC=International Criminal Court)が重大な危機に直面している。2024年11月に、ICCはガザ地区の戦闘をめぐってイスラエルのネタニヤフ首相らに戦争犯罪などの疑いで逮捕状を発行した。ハマス指導者の責任も追求しているし、ウクライナをめぐってロシアのプーチン大統領への逮捕状も発行している。しかし、当事国ではない(ICC非加盟国の)アメリカ議会がネタニヤフへの逮捕状に関して反発して、米下院がICCへの制裁法案を1月10日に可決したのである。まだ上院が残っているが、「史上最もイスラエル寄り」を自負するトランプ大統領の就任が近い。新議会は上下両院とも共和党が過半数を獲得しているから、いずれ制裁法案が成立する可能性は高いと覚悟する必要があると思われる。

(米国の制裁を危惧する赤根智子所長)

 「国際刑事裁判所」は1998年の国際刑事裁判所ローマ規程に基づき、2002年に設置された国際裁判所である。「個人の国際犯罪」を裁く裁判所で、125か国が参加してオランダのハーグに置かれている。同じくハーグに「国際司法裁判所」(International Court of Justice)もあって、混同する人が多い。こちらは国連の機関で、「国どうし」の争いを担当する。一方の「国際海事裁判所」は国連機関ではなく独立した裁判所で、個人の犯罪を対象としている。

(国際刑事裁判所)

 ただし、その対象は「戦争犯罪」「集団殺害犯罪」「人道犯罪」などで、普通に警察が捜査している詐欺、麻薬取引、マネーロンダリングなどは扱わない。それらも国家を越えた犯罪が行われているが、それは国際的な捜査協力で対応可能である。一方、政治指導者が関わっている「戦争犯罪」では、指導者が裁かれずに終わることが多かった。それを許さないという国際的な枠組がICCなのである。そして、2008年にはスーダンのバシル大統領に逮捕状が出された。また2011年にはコートジボワールのバクボ前大統領が実際に拘束された。(2019年に無罪となった。)その他リビア、リベリア、コンゴなども追求されている。

 この段階ではアフリカ諸国が捜査対象になることが多かったので、「先進国」も反発しなかった。人道的な新しい試みとして評価する人も多かったが、スーダンのバシル大統領への逮捕状は執行できないままになった。(2019年に失脚し、スーダン国内で裁かれたがICCへの身柄移送は拒否された。)ICCには米、中、ロなど大国が参加せず、実際に中国ではバシル大統領が2015年に訪中した時に歓迎した。ICCは国際警察などの下部機関を持たないので、逮捕状を発行しても実質的効力がないのである。

(ロシアのプーチン大統領への逮捕状発行)

 2022年にロシアがウクライナ侵攻を開始し、戦争犯罪、人道犯罪が指摘された。ICCは捜査を開始し、2023年3月にプーチン大統領の逮捕状を発行した。その後ショイグ前国防相やゲラシモフ参謀総長らへの逮捕状も出ている。プーチン大統領はICC加盟国を訪問すれば逮捕されるはずだが、その後訪問したモンゴルは身柄を拘束しないと約束した。一方、ロシアはICCの赤根所長やカーン検察官に逮捕状を出した。赤根氏のインタビュー(1.1付東京新聞掲載)によると、ロシアはICCにサイバー攻撃を行ったり、スパイをインターンとして送り込もうとした(オランダ政府が拘束)したという。

(ネタニヤフ首相らに逮捕状)

 プーチン大統領を追求している段階では、アメリカはICC加盟国ではないのにICCを称賛したという。しかし、2024年11月にイスラエルのネタニヤフ首相らに逮捕状を発行したら、アメリカの対応は一変した。そして、議会はICCへの制裁法案を検討しているわけである。これはロシアによる制裁とは比べものにならないほど深刻な事態である。ロシアが逮捕状を出しても、ロシアに行かなければ関係ないし、ロシアに財産を凍結されてもロシア内に財産を持ってる人なんかあまりいないだろう。

 一方、アメリカの場合、直接アメリカと関係を持たなくても、日本で生きている限り何らかの形で「アメリカ」と縁がある。一番大きいのは、我々の生命線は「銀行」だということだ。給与や年金の振込み、公共料金やクレジットカードなどの引き落としなど、誰でも銀行を使っているだろう。そして、日本の金融機関(だけではなく主要会社)は皆アメリカに支店などを置いている。経済の基盤が「ドル」なんだから、アメリカと無縁で生きていくことは出来ないのである。

 そしてアメリカの制裁は多くの場合、アメリカ国内での財産凍結や取引禁止に止まらない。アメリカに行けないだけなら大したことはないが、「アメリカで取引している銀行」もICCと取引していると「二次制裁」を受ける可能性がある。従って、アメリカ企業だけでなく、いわゆる「西側企業」すべてと取引出来なくなる恐れがあるのだ。そうなると、職員への給与支払いも不可能になる。つまり、日本で「反社」認定されたと同様のケースになっちゃうのである。

 実際にアフガニスタンでのケースをめぐって、2020年にトランプ大統領命令で、ICCの捜査官と部下に米企業との取引禁止処分がなされたことがあるという。その時はオランダ当局の協力によって、オランダのある銀行だけが取引を続けてくれたという。そういう事態が今度はICCという組織全体に起きる可能性がある。まさに「ICC存亡の危機」である。

 日本は赤根智子所長を出している。もともとは元は検事で、2018年に最高検検事兼国際司法協力担当大使から、ICC裁判官に就任した。日本人3人目で、いずれも女性である。2024年3月から所長を務めている。そのこともあるが、日本は「東アジアにおける法の支配」を外交的に主張してきた。今になって「法の支配」を無視することは出来ない。そもそも米中ロなど、ICCに入っていない国が国連安保理常任理事国として「拒否権」を持って好き勝手している事態がおかしい。ここで日本は徹底してICCを擁護しないといけない。(なお、昨年のノーベル平和賞はICCと被団協の共同受賞が望ましかったと思う。)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「埼玉の日光」、国宝妻沼聖天山を見に行く

2025年01月12日 20時16分36秒 | 東京関東散歩

 妻沼(めぬま)と言われても難読地名だろう。埼玉県北部、川向こうは群馬県太田市という辺りである。2005年に熊谷市と合併して、今は自治体名としては残っていない。昔、東武鉄道熊谷線という熊谷と妻沼を結ぶ短い路線があったので、名前だけは小さい頃から知っていた。(本来は太田市にあった中島飛行機への資材搬送のため計画された路線だったようである。敗戦で必要が薄れて、短いまま運行されていたが、1983年に廃止された。)その妻沼にある歓喜院聖天山(かんぎいん・しょうてんざん)の本堂国宝に指定されたというニュースがあったのが2012年。エッ、聞いたことないんですけど。

 いつか行きたいと思っていて、ようやく今年の正月に出かけてみた。なかなか場所的には行きにくいのである。熊谷と大田方面を結ぶバスはあるようだが、なかなか遠そうだ。車で行っても関越道と東北道の中間になり、どっちからも距離がある。しかし、まあ隣県なんだから日帰り出来る範囲である。関東の国宝建造物は日光(東照宮、輪王寺)、鎌倉(円覚寺舎利殿)の他は富岡製糸場、足利の鑁阿寺、赤坂の迎賓館、東村山の正福寺地蔵堂しかないので、非常に貴重で気になる場所である。

   

 上記写真にあるのが本堂の奥殿で、ここが国宝エリア。ここまで行くのもなかなか遠いのだが、本堂まで行っても一番大事なところは見られない。まあちょっとは見えるんだけど、奥の方に日光の東照宮陽明門みたいな見事な彫刻に覆われた黄金の建物が見えている。そこは有料エリア(700円)だけど、入らないと意味がない。ただエリアが板で囲われているので、全体を写真で撮るのが難しい。陽が差していると金箔が輝いてキレイだけど、写真が難しい。自分で撮るのがなかなか難しい場所である。色彩がかなり褪せていたらしいが、2003年から11年まで修復工事が行われ、その完成を待って国宝に指定されたのである。

   

 創建は平安末期だが、この本堂は江戸時代中期に再建された。具体的には1735年から60年で、東照宮みたいな権現造というらしい。奥殿は本堂に接続し、残り3面に彫刻が施されている。それは仏教をベースに儒教や道教などの教えを平明に説くものらしい。ボランティアの説明があるので聞けばよく判る。面白いんだけど、全部書いてても仕方ないから省略。写真ももっと撮ってるけど、あまり多く載せても仕方ないから省略。この彫刻が素晴らしいので、「埼玉の日光」と呼ばれる。一見の価値がある。 

   

 上の写真が本堂で、その奥に奥殿があるわけだ。合わせて国宝に指定されている。寺伝によると、1179年に斎藤実盛(さいとう・さねもり)によって建立されたと言われる。斎藤実盛はこの地域を本拠とした武将で、源氏の内紛で源義賢が討たれた時、まだ幼児だった義仲を木曽に送り届けた人である。その後は平氏に従っていて、源平合戦になると義仲追討軍に加わることになった。1183年、加賀国の篠原の戦いで討ち死にしたが、事前に覚悟を固めて白髪を黒く染めて出陣した。このエピソードは『平家物語』で後世に伝えられている。江戸時代初期の1670年に大火で焼失し、それを江戸中期に20数年かけて再建された。

(斎藤実盛像)

 ここにはもう一つ見どころがある。国指定重要文化財貴惣門という境内正面にある門である。横から見ると三つの破風を持つ特異な様式と調べて知ったのが今なので、うっかり正面しか撮らなかった。1855年頃完成という。持国天、多聞天を左右に配している。他にも国の登録有形文化財指定の建物は多いけど、国宝の本堂にかなり圧倒されたので、他は写真を撮らなかった。また本尊になっている錫杖(しゃくじょう)が重文に指定されている。下が貴惣門。

   

 この地域はやたらに長い稲荷寿司が名物で、「聖天寿司」というらしい。まあ買わないけど。境内に占い師がいて、寒い中ストーブに当たって客待ちしていたが、誰も相談してない感じだった。境内に鰻屋もあったし、なかなか広いお寺だった。車で5分ほどのところに「道の駅めぬま」があって地場農産物も多い。「妻沼ねぎ」という名前で束にしたネギを売っていた。まあ隣が深谷なので、深谷ネギと同じような品種だと思う。帰りは車で羽生方面に向かう途中に荻野吟子記念館があった。

   

 荻野吟子(1851~1913、おぎの・ぎんこ)というのは、日本最初の「女医」である。日本全体ではそんなに知られてはいないと思うが、埼玉県では「埼玉三偉人」の一人となっている。(後の二人は塙保己一(はなわ・ほきいち)と渋沢栄一。)日本で最初の女性医師はシーボルトの娘じゃないのという人もいるかもしれない。しかし、「正式な国家資格第Ⅰ号」は荻野吟子で、1884年のことだった。1868年に結婚するも夫から淋病をうつされて離婚し、その時の体験から女性医師の必要性を痛感して勉強を始めた。東京女子師範(現お茶の水女子大)を首席で卒業し、その後医学を学ぶも国家試験を受けることすら認められなかった。そこを何とか苦労の末に突破するのだが、それは映画にもなっている。時間がなくて記念館は見なかったが、生誕の地の碑が立っている。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

渡辺恒雄、鈴木修、須田寛、石原一子、千田謙蔵他ー2024年12月の訃報③

2025年01月10日 22時23分49秒 | 追悼

 2024年12月の訃報、日本の政治・経済関係を中心に。読売新聞グループ本社代表取締役主筆渡辺恒雄が12月19日死去、98歳。中曽根康弘元首相が2019年に101歳で死んだあと、僕は時々「ナベツネはいつまで生きるのか」と思うことがあった。100歳には届かなかったが、十分長生きした。最初に書いた長い肩書きにあるように、最後まで「代表取締役」兼「主筆」であり続けた。これは他の新聞社ではあり得ないし、むしろあってはならないことだろう。それを言えば、そもそもジャーナリストは「文化」だと思うが、「ナベツネ」は自ら政治のプレーヤーだったので、ここで書くわけだ。マスコミ人としては異例の人だった。

(渡辺恒雄)

 1945年東京帝大入学後に、陸軍に召集された。復員後に東大に復学、今度は共産党に入党した。活動に疑問を持ち1947年末に離党(除名)したが、この両方の体験から「反軍」「反共」という「ナベツネ」の信念が作られた。21世紀になって、小泉首相が靖国神社に公式参拝したとき、それまでの「保守」「自民党寄り」のイメージを覆すかのような激しい批判を繰り広げた。それを「ナベツネの本質は硬骨のリベラリストだった」と論じる人がいる。しかし、僕は全く同感出来ない。(大体、今まで読売の主張に賛同してきた「保守」陣営に同調した人がいないではないか。仲間内を説得できなかったのである。)

 「リベラリスム」(自由主義)とは、その主張内容の以前に「常日頃のふるまい」で判断されなくてはならない。読売新聞はもともと保守的ではあった(社主の正力松太郎は自民党議員だった)が、それでもある時期までは「庶民派」風のところがあり、反骨の記者も多かった。それが「ナベツネ」が実権を握るにつれ、全く異論を許さない体制が作られたのである。自ら「独裁者」を任じていたぐらいである。この人の下では仕事が出来ないと思わせる「リベラリスト」はあり得ないだろう。

(中曽根首相と)

 1950年に読売新聞に入社、「週刊読売」を経て政治部記者となった。自民党の有力者だった大野伴睦の「番記者」となり、信頼されて総裁選やポスト交渉まで任された。その後、まだ若手だった中曽根康弘と懇意となり、裏の仕事も手伝うようになる。内閣や議員のゴーストライターを務めたりしていたので、「新聞記者」を越えた「政治屋」だったと言うべきだろう。「昔はそんなことが許された良き時代だったのか」という問題ではない。記者が自ら大臣ポストを交渉するなど、当時でもアウトだろう。「英雄伝説」にしてはいけないと思うが、他には誰もマネ出来ない戦後ただ一人の怪物的人間ではあった。

 ホントはプロ野球(1リーグ制をめぐる問題)やサッカー(Jリーグの理念をめぐる)の話が残されているが、それはよく言われているので省略したい。中公文庫に『渡辺恒雄回顧録』(伊藤隆、御厨貴、飯尾潤)という本が入っている。なかなか興味深い聞き書きだと思うが、結構高いし(1362円)読まなくいいやと放ってある。きっと面白いと思うんだけど。

 軽自動車で知られる「スズキ」の相談役(元会長兼社長)鈴木修が12月25日死去、94歳。もともと銀行員だったが、2代目の鈴木俊三氏の女婿となり、1958年に鈴木自動車工業に入社した。1978年に社長就任後すぐに発売された軽自動車アルトがヒットし、「軽自動車」のスズキというブランドを確立した。またインド政府の要請に応えて1981年に進出し、インドの経済成長とともに日本を上回る販売数を記録するまでに育てた。後継者と見込んだ女婿小野浩孝(元経産省課長)が2007年に先に亡くなるなど不運もあって、2008年に会長兼社長に復帰した。(2015年に長男に譲る。)徹底した現場主義を貫いて、家業の「中小企業」を世界的企業に育てた実業家だった。静岡県(特に浜松市)に大きな政治、経済的影響力を持っていた人である。

(鈴木修)

 JR東海初代社長を務めた須田寛が12月13日に死去した。僕はこの人のことを知らなかったが、非常に興味深い人である。引退後の2007年から15年間「鉄道友の会」会長を務めるなど、経営者という以上に「鉄道ファン」という面があった。新幹線建設に深く関わり思い入れも強かったようで著書も多い。いわゆる「改革派」ではなく、性急な分割民営化には疑問を持っていたので、自分が初代社長になるとは思っていなかったそうである。「シルバーシート」「青春18きっぷ」「ホームライナー」「オレンジカード」などの企画に関わった。また「のぞみ」の投入や品川新駅の設置など新幹線の利便性向上を実施した。社長就任直後に「シンデレラ・エクスプレス」のCMが始まり、大きな話題となった。2021年までJR東海相談役を務めていた。

(須田寛)

 元高島屋常務石原一子(いしはら・いちこ)が12月1日死去、100歳。この人も長生きによって忘れられたかも知れない。同族経営を別にして、「東証1部上場企業初の女性役員」だった人である。1952年に東京商科大学(現一橋大)を卒業し、男女同一賃金だった高島屋に入社、二児を育てながら1979年に取締役になり広報室長についた。1987年に退社し、多くの会社や団体に関わり、女性経営者育成に務めた。Wikipediaには国立市のマンション景観問題で、環境を考える会代表を担ったと出ている。

(石原一子)

 元最高裁長官の山口繁が11月27日死去、92歳。福岡高裁長官から1997年に最高裁裁判官に就任、同年秋から2002年まで5年間長官を務めた。2002年の郵便法事件で、大法廷で違憲判決を言い渡した。2015年には当時審議されていた「安保法制」について、集団的自衛権の行使を認める立法は違憲だと述べたことで知られる。

(山口繁)

 元秋田県横手市長千田謙蔵(ちだ・けんぞう)が12月20日死去、93歳。この人は1952年に起きた「東大ポポロ事件」の被告として知られていた。学生劇団「ポポロ」の上演中、私服警官を見つけた学生らが警察手帳を取り上げるなど吊るし上げた事件である。「大学の自治」が争点となったが、1972年に有罪確定。しかし、千田は故郷の横手に戻って1959年に27歳で市議(社会党)に当選して3期務めた。1971年には市長に当選し、根強い人気に支えられ5期20年間務めた。その間、市民参加や暮らしと健康を守る市政を掲げて活動した。引退後も自治や平和運動に尽力した。

(千田謙蔵)

 「原爆乙女」として知られた笹森恵子が12月15日、カリフォルニアで死去、92歳。13歳で被爆し、大きなケロイドを負って自由に指や首を動かせなくなった。1955年にアメリカの慈善団体の招きにより、渡米して治療を受ける「原爆乙女」の一人となった。その後アメリカで看護師となり、被爆体験を語り平和を訴える活動を行った。

(笹森恵子)

・社会学者の打越正行(うちこし・まさゆき)が9日死去、45歳。『ヤンキーと地元』で知られる。

・少女画で知られた少女漫画家高橋真琴が11月17日に死去、90歳。イラストレーターとして大きな瞳の少女が人気を得た。男性。また漫画家の森田拳次が23日死去、85歳。『丸出だめ夫』で知られた。漫画評論家の村上知彦が22日死去、73歳。

・映画美術家の小池直美が11月29日死去、75歳。相米慎二監督『ションベンライダー』『魚影の群れ』、滝田洋二郎監督『おくりびと』などを担当した。

・バスケットボール女子の強豪校として知られる愛知県の桜花学園の監督、井上真一が12月31日死去、78歳。全国高校総体で25回、全国高校選手権で24回の優勝を記録。日本代表で活躍する多くの選手を指導した。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする