開高健の最高傑作は、間違いなく「輝ける闇」(1968)と「夏の闇」(1972)だが、今回は長編は読み直さない。2019年1月に大岡玲編「開高健短編選」が岩波文庫に収録されたが、560頁を超える厚い文庫本なので、なかなか読む気になれなかった。2020年12月に集英社文庫で「流亡記/歩く影たち」が刊行されたので、合わせて読んでみたわけである。デビュー頃の作品はほぼ半世紀以来、後期の作品は刊行当時にリアルタイムで読んだから30年ぶりぐらいの再読だ。
(開高健短編選)
開高健は1958年1月に「裸の王様」で芥川賞を受賞した。その当時は寿屋(現サントリー)に勤務しながら、短編を書いていた。1957年8月に「パニック」を「新日本文学」に発表して評価され、文藝春秋の文芸誌「文學界」10月号に「巨人と玩具」、12月号に「裸の王様」を発表した。「新日本文学」は左翼系文学団体の新日本文学会の機関誌である。開高は寿屋の「洋酒天国」の編集をしていて、1956年11月に大阪から東京へ出てきたばかり。「パニック」は以前から交友があった文芸評論家佐々木基一に託したら「新日本文学」に掲載されたのである。
「文學界」編集長が注目し、続けて短編を依頼され芥川賞候補にもなった。同期の有力候補には大江健三郎「死者の奢り」があり、東大の学生作家大江が注目されたが、結局開高が受賞した。大江健三郎も次回(58年7月)に「飼育」で芥川賞を受賞する。1956年1月には石原慎太郎「太陽の季節」が芥川賞を受賞していた。芥川賞が社会的に注目されるのは、その頃からである。1956年7月発表の「経済白書」は、「もはや戦後ではない」と記述して流行語になった。時代の変化に合わせたかのように、文学界に新しい世代が続々と登場したのである。
今の若い人には感覚がつかめないと思うので、少し詳しく当時の事情を書いている。これらの「若い世代」はお互いにつながってもいた。1958年に岸信介内閣が国会に提出した「警察官職務執行法改正案」は女性週刊誌が「デートもできない警職法」と書き、国民的な反対運動が起こった。その時に石原慎太郎、谷川俊太郎、永六輔らが「若い日本の会」を結成した。彼らは「60年安保」にも反対した。参加したメンバーに開高健、大江健三郎もいたが、他にも黛敏郎、寺山修司、江藤淳、浅利慶太、羽仁進、武満徹などそうそうたる顔ぶれが揃っている。石原慎太郎、江藤淳、黛敏郎など後に右の論客になる人たちも、その時は「若い世代」だった。
僕がどうして同世代じゃないのに書けるかというと、岩波新書の中村光夫「日本の現代小説」を中学生で読んで文壇的知識を得たからだ。今では2年か3年もすれば文庫になるが、当時は文庫に入るまで時間が掛かった。70年頃に「文学青年」になったので、最新の日本小説は大江か開高、その上の三島、安部公房なんかだった。若い世代向けの小説なんてなかった時代だから、三島由紀夫「潮騒」とか大江健三郎「セヴンティーン」なんかを読んだのだ。そして開高健の初期短編を読んだけど、確かに新しかった。日本的な「私小説」でもなく、日本軍の横暴や革命運動の挫折を描く小説でもなかった。「組織の中の個」を描く新時代の小説だった。
学生だった石原、大江と違って、開高健はデビュー時にすでに「会社員」だった。その経験が違いを生んだのだろう。「パニック」は120年に一度のササの開花でネズミが大繁殖したことで、人間社会が大パニックになる様を風刺している。「巨人と玩具」は製菓会社の宣伝競争、「裸の王様」は子ども向け画塾を舞台に、抑圧された子どもの魂の解放をテーマにした。未だに他の誰とも違った独自の世界だと思う。でも、はっきり言えば、ずいぶん古い感じもした。「戦後」も75年以上経つ今となっては、「戦後12年」で書かれた短編群は認識の枠組がずいぶん昔風なのだ。
「巨人と玩具」は1958年に大映で映画化された。増村保造監督によるスピーディな演出は今見ても面白く、当時ベストテン10位になった。映画では「ワールド製菓」のキャラメル販売戦略が興味深く描かれていて、僕は映画で使われたコマーシャルソングを覚えているぐらいだ。ところがビックリしたことに、小説では「サムソン製菓」だった。そして映画には出て来ない時代分析や商品宣伝の仕掛けが事細かに分析される。案外観念的な小説だった。それは、いかにも「戦後小説」的な感じがする。僕が昔読んで「新しい」と思ったものが、今読むともう古びて見える。
(流亡記/歩く影たち)
開高健の短編小説をずっと読むと、やはりヴェトナム体験で文体も変わったと思う。日本では一時「行方不明」と伝えられるぐらいの激戦に巻き込まれた。またサイゴンで秘密警察長官が裁判なしで「ベトコン」青年を銃殺するシーンも見た。解放戦線側の爆弾テロで日本の特派員が死んだところも見た。確かに人生が変わるような体験だ。そういう体験を通過して書かれた後期の短編は素晴らしい。ヴェトナムものは急逝する10年ほど前にまとめて書かれ「歩く影たち」に収められた。岩波文庫にも「兵士の報酬」「飽満の種子」「貝塚をつくる」「玉、砕ける」が収録されている。やはり、この4篇が抜きん出ていると思う。
特に「玉、砕ける」は短編に与えられる川端康成賞を受けた傑作中の傑作。ヴェトナムではなく香港を舞台に、60年代末の中国文革時代の苦難をスケッチする。「貝塚をつくる」も釣りを描くと思わせながら、ラスト付近で転調する構成が見事に着地した名篇。これらの作品を通して、「絶望」をくぐり抜けた作家がどのように生きたかが伝わってくる。安易に時代や政治を語らず、人間の運命を見つめている。初期の短編は古くなったかと思ったけれど、後期の作品群は今もなお魂に触れる。岩波文庫にある「掌のなかの海」は没後に出た「珠玉」に入っているが、人生の奥深い凄みを描きつくした傑作。このタッチ、重くて軽くて深みがあるのが開高健の魅力だ。

開高健は1958年1月に「裸の王様」で芥川賞を受賞した。その当時は寿屋(現サントリー)に勤務しながら、短編を書いていた。1957年8月に「パニック」を「新日本文学」に発表して評価され、文藝春秋の文芸誌「文學界」10月号に「巨人と玩具」、12月号に「裸の王様」を発表した。「新日本文学」は左翼系文学団体の新日本文学会の機関誌である。開高は寿屋の「洋酒天国」の編集をしていて、1956年11月に大阪から東京へ出てきたばかり。「パニック」は以前から交友があった文芸評論家佐々木基一に託したら「新日本文学」に掲載されたのである。
「文學界」編集長が注目し、続けて短編を依頼され芥川賞候補にもなった。同期の有力候補には大江健三郎「死者の奢り」があり、東大の学生作家大江が注目されたが、結局開高が受賞した。大江健三郎も次回(58年7月)に「飼育」で芥川賞を受賞する。1956年1月には石原慎太郎「太陽の季節」が芥川賞を受賞していた。芥川賞が社会的に注目されるのは、その頃からである。1956年7月発表の「経済白書」は、「もはや戦後ではない」と記述して流行語になった。時代の変化に合わせたかのように、文学界に新しい世代が続々と登場したのである。
今の若い人には感覚がつかめないと思うので、少し詳しく当時の事情を書いている。これらの「若い世代」はお互いにつながってもいた。1958年に岸信介内閣が国会に提出した「警察官職務執行法改正案」は女性週刊誌が「デートもできない警職法」と書き、国民的な反対運動が起こった。その時に石原慎太郎、谷川俊太郎、永六輔らが「若い日本の会」を結成した。彼らは「60年安保」にも反対した。参加したメンバーに開高健、大江健三郎もいたが、他にも黛敏郎、寺山修司、江藤淳、浅利慶太、羽仁進、武満徹などそうそうたる顔ぶれが揃っている。石原慎太郎、江藤淳、黛敏郎など後に右の論客になる人たちも、その時は「若い世代」だった。
僕がどうして同世代じゃないのに書けるかというと、岩波新書の中村光夫「日本の現代小説」を中学生で読んで文壇的知識を得たからだ。今では2年か3年もすれば文庫になるが、当時は文庫に入るまで時間が掛かった。70年頃に「文学青年」になったので、最新の日本小説は大江か開高、その上の三島、安部公房なんかだった。若い世代向けの小説なんてなかった時代だから、三島由紀夫「潮騒」とか大江健三郎「セヴンティーン」なんかを読んだのだ。そして開高健の初期短編を読んだけど、確かに新しかった。日本的な「私小説」でもなく、日本軍の横暴や革命運動の挫折を描く小説でもなかった。「組織の中の個」を描く新時代の小説だった。
学生だった石原、大江と違って、開高健はデビュー時にすでに「会社員」だった。その経験が違いを生んだのだろう。「パニック」は120年に一度のササの開花でネズミが大繁殖したことで、人間社会が大パニックになる様を風刺している。「巨人と玩具」は製菓会社の宣伝競争、「裸の王様」は子ども向け画塾を舞台に、抑圧された子どもの魂の解放をテーマにした。未だに他の誰とも違った独自の世界だと思う。でも、はっきり言えば、ずいぶん古い感じもした。「戦後」も75年以上経つ今となっては、「戦後12年」で書かれた短編群は認識の枠組がずいぶん昔風なのだ。
「巨人と玩具」は1958年に大映で映画化された。増村保造監督によるスピーディな演出は今見ても面白く、当時ベストテン10位になった。映画では「ワールド製菓」のキャラメル販売戦略が興味深く描かれていて、僕は映画で使われたコマーシャルソングを覚えているぐらいだ。ところがビックリしたことに、小説では「サムソン製菓」だった。そして映画には出て来ない時代分析や商品宣伝の仕掛けが事細かに分析される。案外観念的な小説だった。それは、いかにも「戦後小説」的な感じがする。僕が昔読んで「新しい」と思ったものが、今読むともう古びて見える。

開高健の短編小説をずっと読むと、やはりヴェトナム体験で文体も変わったと思う。日本では一時「行方不明」と伝えられるぐらいの激戦に巻き込まれた。またサイゴンで秘密警察長官が裁判なしで「ベトコン」青年を銃殺するシーンも見た。解放戦線側の爆弾テロで日本の特派員が死んだところも見た。確かに人生が変わるような体験だ。そういう体験を通過して書かれた後期の短編は素晴らしい。ヴェトナムものは急逝する10年ほど前にまとめて書かれ「歩く影たち」に収められた。岩波文庫にも「兵士の報酬」「飽満の種子」「貝塚をつくる」「玉、砕ける」が収録されている。やはり、この4篇が抜きん出ていると思う。
特に「玉、砕ける」は短編に与えられる川端康成賞を受けた傑作中の傑作。ヴェトナムではなく香港を舞台に、60年代末の中国文革時代の苦難をスケッチする。「貝塚をつくる」も釣りを描くと思わせながら、ラスト付近で転調する構成が見事に着地した名篇。これらの作品を通して、「絶望」をくぐり抜けた作家がどのように生きたかが伝わってくる。安易に時代や政治を語らず、人間の運命を見つめている。初期の短編は古くなったかと思ったけれど、後期の作品群は今もなお魂に触れる。岩波文庫にある「掌のなかの海」は没後に出た「珠玉」に入っているが、人生の奥深い凄みを描きつくした傑作。このタッチ、重くて軽くて深みがあるのが開高健の魅力だ。