尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

「沙羅乙女」と「胡椒息子」、滅びし国の物語ー獅子文六を読む③

2020年02月20日 22時39分26秒 | 本 (日本文学)
 獅子文六最初の新聞小説は「悦ちゃん」だった。1936年から1937年にかけて報知新聞に連載された。報知新聞は今では読売傘下のスポーツ紙だが、戦前は東京五大紙に数えられる一般新聞だった。1930年頃に文六のフランス人妻が体調を崩し娘を置いて帰国して亡くなった。1934年に再婚したが、妻子を抱えて演劇に関わるだけでは食べていけず、ペンネームでユーモア小説の執筆を始めた。少しずつ評価され、新聞連載を頼まれたわけである。そして大評判となった。

 最近もNHK土曜ドラマで放送され、「悦ちゃん」の名前は今も知られているだろう。確かにものすごく面白い「一気読み」本で、戦後の新聞小説よりも短いからもっと読みやすい。でも最初の新聞小説だからか、何でも盛り込みすぎのうえ、偶然の出会いややり過ぎ的展開のてんこ盛りにいくぶん食傷する気もする。そこで「悦ちゃん」が面白いことは前提にして、ここでは続く作品の「沙羅乙女」(東京日日新聞、1938年)、「胡椒息子」(主婦の友、1937~1938年)を取り上げたい。どちらも近年ちくま文庫で復刊され。どっちも題名が意味不明だが、とにかく面白くて一気読み必至の小説だ。

 「沙羅乙女」のヒロイン遠山町子は新宿にある煙草屋で雇われ店主をしている。物語はこの町子の結婚をめぐって進行する。母が亡くなっていて、発明狂の父と夜学に通う弟を抱えて、町子はもう24歳と当時としては婚期に遅れつつある。しかし、そんな彼女のしっかりした姿勢を見ていて、二人の男が町子に心を寄せる。いい縁談が成り立ちそうになると、様々な困難が相次ぎ右往左往、一喜一憂しながら、ついに父親念願の大発明?をめぐって大騒動が持ち上がる。

 「沙羅乙女」の意味は書かれてない。仏教説話に出てくる樹木、沙羅双樹が香り高いらしく、多分そこから来ているんだろう。まことに町子さんは「沙羅乙女」なのである。だけど町子をめぐる副人物たちも面白い。最高にとんでもないヤツは発明マニアの父親である。大発明をしたというんだが、今読むとこの「発明」はヤバすぎでしょ。だけど、物語がどう着地するのかハラハラする。また新宿で洋菓子屋を夢見る青年の大志がどうなるかも見逃せない。青年は「大村屋」の自伝を「津の国屋」で買ってきて町子にも貸してくれる。中村屋紀伊國屋である。

 この小説のラストは「誰も予想できない」「衝撃の結末」だと帯に書いてある。でもそんなことをいうのは、いつ書かれたかチェックしてないからだろう。今読んでも面白いモダン小説とばかり思い込んではいけない。「悦ちゃん」が水着を買いに行くのは「大銀座デパート」である。町子に思いを寄せる男は「大東京銀行」勤務である。何でも「大」が付くのである。そもそも国の名前が「大日本帝国」だった。この今は滅んだ国には、驚くほどがっしりした階級制度が存在した。当時の人には当たり前すぎるから、むしろ風俗的モダニズムが目に付いたわけである。

 「胡椒息子」は「主婦の友」に連載されたからだろう、少年小説色が強い。なおこの後「主婦の友」には「信子」「おばあさん」「娘と私」「父の乳」など代表作レベルを連載するようになる。戦後の一時期は「主婦の友」社の社員寮に住んだこともある。財産家の一族の次男は実は「出生の秘密」がある。親にも兄姉にも疎まれる彼は、一本気の正義漢ながら誤解を受け続け悲しい境遇に陥る。しかし最後まで一本気を貫いてゆく。子どもが感動的で、獅子文六の中でも一気読み度ベストだと思う。

 「胡椒息子」の意味は「小粒でもピリリと辛い」ということである。1935年のフランス映画「Paprika」(パプリカ)が日本では「胡椒娘」の題名で公開された。恐らくそこからヒントを得た題名だろう。(なお映画の題はハンガリー女性が出てきて、ハンガリー料理につきもののパプリカと呼ばれたことからだという。)「胡椒息子」を読むと、本質的な物語構造は「悦ちゃん」「沙羅乙女」と同じだと感じた。「結婚」をめぐる騒動である。そしてすべて「階級」の物語である。

 もっと言えば「人間は同じ階級同士で結婚する方が幸福だ」という常識論である。戦争を経て階級変動が大きくなり、高度成長とともに高学歴化が進み文化的同質性が進んだ。現代にも「階級」はあるし、「玉の輿」という言葉は生きている。だが戦前ほどの重大性はないだろう。戦前は法律上の「家制度」が存在していたし、戦争や結核などで跡継ぎの男子が死ぬ可能性を考えておく必要があった。家存続のため、どのような結婚が望ましいかという問題があった。

 獅子文六はけっして「親が決めた結婚」を勧めない。本人同士が納得して結婚するというストーリーが多い。「上流階級は腐敗している」という批判も強い。だから今読むと「リベラルなモダニズム」色を感じることも出来る。だが当時の「事変下」にあっては、同じ階級同士でわかり合った間柄で結ばれる方が幸せというのは、まさに時局に適合したものだった。それを教訓臭さを抜きに、ひたすら面白い小説にまとめ上げる。だから今も面白く読めるけど、日米戦争が始まると「海軍」を書くのは決して不思議ではない。昔の東京風俗も面白いし、文学史というよりも現代史研究的興味から一度読んでみて欲しい小説群だ。「沙羅乙女」は続編を書いてみたい気持ちになった。
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「バナナ」と「箱根山」、高度成長期の夢-獅子文六を読む②

2020年02月19日 22時38分55秒 | 本 (日本文学)
 新型コロナウイルスはますます蔓延し、米大統領選予備選やイギリスのEU離脱、米イランの対立問題など世界情勢も混沌としている。能天気に獅子文六を書いている時かと思わないでもないのだが、こういう時期だからこそ獅子文六が再評価されているとも言える。何しろ最近じゃエンタメ系文学でもけっこう面倒な作品が多い。軽い小説や映画なんかでも、むしろ悲劇が好まれて、「一番泣ける」とか宣伝する。だからこそ説教臭さがなく、ただ気持ちよく進行する獅子文六の小説が面白い。

 今回読んだ中で面白かったのが「バナナ」。読売新聞に1959年に連載され、1960年に松竹で映画化された。監督の渋谷実をウィキペディアで調べても「バナナ」が載ってないぐらい忘れられているが、国立映画アーカイブの追悼特集で昨年見た。主演が津川雅彦だったので上映作品に入っていたのだ。一種の「グルメ小説」でもあるが、主人公が台湾系華僑であることが珍しい。ほとんど仕事もせず、今では在日華僑総社の会長をイヤイヤ務めている呉天童。(会長になっても首相主催の観桜会に招待されるぐらいの役得しかない、とぼやいているのが時節柄おかしかった。)

 この呉天童を演じているのが、歌舞伎役者の2代目尾上松緑(現4代目松緑の祖父)で、恰幅の良さが似合っている。映画出演は珍しく貴重だ。戦前に植民地だった台湾から留学し、下宿先の娘と結婚した。妻紀伊子は杉村春子、間に生まれた竜馬は津川雅彦。竜馬は大学生だが遊んでばかり。自動車部で車が欲しいが父親は認めない。自分で稼ごうと神戸の叔父からバナナ輸入の利権を譲って貰う。竜馬の友人、島村サキ子岡田茉莉子)は大学をやめてシャンソン歌手をめざしている。一方、呉の妻は友人に誘われシャンソン喫茶に通い始めてシャンソン趣味に目覚める。

 1950年代後半を描くとき、「バナナとシャンソン」とは実に卓抜な思いつきだ。バナナは60年代初期に輸入自由化が実現したが戦後長らく輸入は認可制だった。そのためある時期までバナナは「高級果実」だったのである。一方フランスの歌である「シャンソン」(まあフランス語で「歌」の意味だが)は、特に戦後にあって日本でも多くのファンを獲得しブームになった。思想、文学、映画、ファッション、何でもフランスに憧れがあった時代だが、ちょっとオシャレな歌としてシャンソンも人気があった。

 「バナナ」の家庭は一般より恵まれている。だから子どもに車を買うか買わないかが問題になる。60年前後には白黒テレビや掃除機、洗濯機などを買うかどうかが問題だった時期である。それでも獅子文六の小説に出てくるムードは全体的に上向きである。人々の気持ちは「観光」にも向き始めた。それを示すのが「箱根山」である。朝日新聞に1961年に連載され、1962年に川島雄三監督により東宝で映画化された。文庫本には「冒頭の会議は退屈」と書かれている。しかし、そここそ「箱根山戦争」と呼ばれた東急の五島慶太と西武の堤康次郎の壮絶な闘いを描いて実に興味深い現代史である。

 ところでこの「箱根山」の本筋は財界トップによる利権争奪戦ではなく、一転して「ロミオとジュリエット」になる。箱根最古の温泉「足刈」の「玉屋」と「若松屋」は大昔は一族だったが、別れて以来競争関係が続いていて口も聞かない。箱根では高度成長で団体観光が盛んになって、湯治主体の足刈も危機にある。そんな時に若松屋の娘明日子と玉屋の番頭乙夫の仲が接近中。乙夫とは珍しい名だが、実は「オットー」の当て字。戦時中に船が爆発して箱根で過ごしていたドイツ兵(実話である)と玉屋の女中の間に生まれた子どもなのだった。
(乙夫と明日子)
 女中は産後に亡くなり、玉屋で育てられた乙夫は成績も抜群、性格も素直、体格も良いという優等生で加山雄三がやってる。明日子は星由里子で、若大将シリーズのコンビが初々しい魅力を発揮している。この二人の行く末に、旅館の後継者問題なども加わる。そして「氏田観光」社長の思惑もあって…。この氏田観光は藤田観光で、小涌園を開発し芦ノ湖スカイラインを建設しつつあった。足刈は「芦之湯」で、ここには「松坂屋本店」と「きのくにや」の二つの温泉旅館がある。ロケもされていて、当時の温泉風景を見ることが出来る。温泉小説としても上出来だ。

 この二つに加えて「コーヒーと恋愛」(1962年読売新聞連載時は「可否道」、映画化題名は「なんじゃもんじゃー「可否道」より」)は、高度成長下に生きる人々の気持ちがよく出ている。まだまだ貧しいが、人々の心は未来に向かっている。そんな時代を背景にしたラブコメで、そのドタバタは今読む方が面白いかも。でも当時の日本を知るためには、獅子文六はA面で、B面とも言える松本清張なども読むべきだろう。このA面、B面という表現も古いかなと思うが。当時の人々は決して向上心に富むばかりではなく、貧者は富者に嫉妬やねたみを持っていたことが清張作品で理解出来る。
 
 また「バナナ」の竜馬、「箱根山」の乙夫は、どちらも「国籍」が違う男女の間に生まれた子どもである。知られているように、獅子文六の最初の妻はパリ遊学中に知り合ったフランス女性で、最初の娘は日仏「混血」だった。獅子文六の小説で「民族性」がどのように扱われているか。そんなテーマも追求可能だろう。ひたすらスラスラ読める娯楽小説だが、読み飛ばすだけでは惜しい。風俗小説として、今から60年ぐらい前を知るためにも読んでみてもいい。
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「青春怪談」、セクシャリティの揺らぎー獅子文六を読む①

2020年02月18日 22時55分54秒 | 本 (日本文学)
 2月になって獅子文六を連続で読んでいる。獅子文六(1893~1969)は昭和を代表するユーモア小説、家庭小説の名手として再評価されつつある。本名は岩田豊雄で、フランス演劇の研究家であり、今も続く劇団文学座の創立者でもあった。(1937年に岸田国士、久保田万太郎、岩田豊雄の3人が創立した。)もともと娯楽小説は生活のためで、そのため「四四十六」をもじったペンネームを作ったと言われる。死の直前に文化勲章を受けたほど有名だったが、その後忘れられてしまった。

 数年前にちくま文庫で「コーヒーと恋愛」が面白本発掘と銘打って刊行され、人気を呼んだ。その後続々と文庫化され、今や12冊も出ている。人気作は当時ほとんど映画化されている。ベストテンに入るような映画は一本もないけど、最近古い日本映画を上映する映画館が増えて僕もかなり見た。それが面白いので原作も読もうかと何冊か買ってみた。「コーヒーと恋愛」「てんやわんや」「七時間半」と読んで、まあそれなりに面白かったがこの程度かなとも思った。だから、もう数冊あったけど放っておいたんだけど、最近読み始めたのは今横浜で獅子文六展が開かれているから。

 今回はその圧倒的な読みやすさに参ってしまった。ちょうどこういうのに飢えていたのかも。今では少しずれてしまったレトロ感も悪くない。決して名文ではなく、わかりやすさを優先してスピード感のある文体で疾走する。我が若かりし頃、安部公房大江健三郎の新作はハードカバーで欠かさず読んでいた頃、獅子文六は読む対象ではなかった。それは源氏鶏太石坂洋次郎も同様。レトロな大衆文学なら、夢野久作小栗虫太郎のような「異端文学」に惹かれた。

 今になれば、獅子文六のぬるい「良識」的な保守主義が面白く読めるじゃないか。僕の若い頃には「ちょっと前」だった時代も、今では半世紀以上も昔になる。思い入れや恥ずかしさを抜きに楽しめるようになった。ポケベルとかPHSWindows95とかワープロは、僕にはまだ懐かしさの対象じゃない。しかし、「ほとんどの家に電話がなかった頃」とか「白黒テレビ」とか「オート三輪」(三輪のトラックである)なんかは、不便極まりないけど懐かしい。1960年代の話である。

 ということで何回か獅子文六の本について書いてみたい。まず最初は「青春怪談」(1954)である。獅子文六の有名小説はほとんど新聞小説である。「青春怪談」は読売新聞に連載され、翌1955年4月19日に日活新東宝で競作されて同日に公開された。日活は市川崑監督で、これは見ている。新東宝は阿部豊監督で、今回獅子文六展で上映されたが遠いから見に行かなかった。

 父と娘の奥村家、母と息子の宇都宮家。両家は鵠沼(くげぬま、神奈川県藤沢市の海岸)の疎開先で知り合い、若い二人はまあ婚約的な状況にある。でも二人は「クールボーイ」と「ドライガール」で、お互いに燃え上がってる関係にはない。奥村千春は「バレー」に夢中で大役が付いたばかり。(今は「バレエ」と「バレーボール」を使い分ける。この当時は「バレエ」も「バレー」である。)宇都宮慎一は商売を始めることを考え、大学卒業後も就職せずパチンコ屋やバーに投資して「勉強」している。

 日活映画では、千春を北原三枝、慎一を三橋達也が演じている。千春に憧れてつきまとっている新子、あだ名はシンデ(シンデレラから)を芦川いづみが超怪演している。ところで問題はむしろ両親の方である。今じゃ「一人親家庭」とは大体離婚だが、当時は戦争や病気で若くして死ぬ人が多かった。子どもの結婚で一人暮らしになってしまう親たちが心配で、子どもたちは相談して二人を結びつけようと企む。そこに様々な人々が絡んできて、ドタバタの上出来ラブコメが展開されるわけである。
(北原三枝と三橋達也)
 ところで「青春怪談」という題名は何故だろうか。軽快に展開していた小説がラスト近くで停滞する。不可解な中傷事件が続発して、犯人も判らず慎一の起業のもくろみも座礁しかねない。そこら辺が映画ではサラッと描かれたと思うんだけど、小説ではもっと違う問題が延々と展開されていた。それは「千春のセクシャリティのゆらぎ」である。シンデの千春に寄せる思いは、かなりはっきりと「同性愛」が示唆される。慎一は受け入れがたいが、千春は自ら「自分は本当に女性なのか」、つまり今の言葉で言えば「性同一性」を自ら疑っているのである。

 「自由学校」を合わせ読むと、登場人物というより作者自身の「ホモフォビア」(同性愛嫌悪、恐怖)は否定できないと思う。しかし、50年代半ばに新聞小説でここまで「セクシャリティ」をめぐって議論されていたのかとビックリした。それは当時の「良識」の範囲をはみ出さない。しかし外国における「性転換」ケースなども紹介され、作者の関心の深さを思わせる。けっして「興味半分」ではなく、マジメなアイデンティティの問題として、あくまでも娯楽小説の枠をはみ出さないレベルでだが展開されるのである。

 親たちの方は山村聡轟由起子がまさにピッタリの名演。ラスト近く、向島百花園での出来事は抱腹絶倒である。戦後の百花園が出てくることでも貴重。慎一と千春はケータイなき時代のことだから、ひたすら新橋駅で待ち合わせしてずっと待ってる。地下鉄は銀座線しかない時代だから、新橋駅はどこへ出るにも便利なのだ。ところで宇都宮慎一という男、「美男子過ぎる」と評されている。日活は三橋達也、新東宝は上原謙だが、どうもイメージが違う。言い寄ってくる女に不自由しないが、全然興味を示さず千春とも友だちみたいな関係。道徳的に純潔を保っているのではない。当時の概念になかったが「無性愛」に近いのではないか。いろいろ時代に先駆けた小説だ。
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多和田葉子の小説を読む

2019年12月15日 22時34分21秒 | 本 (日本文学)
 11月18日に多和田葉子、高瀬アキの「晩秋のカバレット2019」というのに行った話を前に書いた。『多和田葉子、高瀬アキの「晩秋のカバレット2019」』(2019.11.20)だが、その頃に多和田葉子の本も読んでみた。実は何冊か持っていたのである。聞きに行く前に片付けるつもりが案外時間が掛かった。パスしてもいいかなと思ったけど、あまりに不思議な世界だから紹介しておきたい。

 多和田葉子(1986~)は東京生まれで早稲田大学を出た時の専攻はロシア文学だった。その後ハンブルクの書籍取次会社に入社し、1986年からハンブルクに在住し、その間にハンブルク大学大学院の修士課程を終えた。2006年からベルリンへ移り、30年以上ドイツに住んでいる。永住権も持っていて、ドイツ語でも創作活動を行っている。日本人作家としては非常に珍しい存在だとと言える。

 1993年に「犬婿入り」で芥川賞を受賞。その後、泉鏡花賞、谷崎潤一郎賞、野間文芸賞、読売文学賞など日本の主要な文学賞を次々と受賞。そればかりか、シャミッソー賞クライスト賞など、どういう賞か知らないけれどドイツの文学賞も受けた。その後「献灯使」が全米図書賞翻訳部門を受けるに至って世界的な名声を得ることになった。今最注目の作家の一人と目されている。

 今まで読んでいたのは「犬婿入り」(講談社文庫)だけだが、これが面白かったのでその後も何冊か文庫本を買っていた。でも内容をすっかり忘れているので、探し出して再読してみた。どうも不思議で変な話なんだけど、リズム的にスラスラ読めて面白い。普通のリアリズムみたいに始まって、奇譚になってゆく。芥川賞受賞者で多和田葉子の前後には、辻原登小川洋子辺見庸奥泉光笙野頼子保坂和志川上弘美目取真俊など現代日本文学を支える作家が集中している。僕もよく読む作家が多いが、新人賞である芥川賞受賞作の完成度ではベストレベルじゃないかと思う。
 
 今回は続いて「聖女伝説」(1996,ちくま文庫)、「尼僧とキューピッドの弓」(2010、講談社文庫、紫式部賞)、「雪の練習生」(2011、新潮文庫、野間文芸賞)、「献灯使」(2014、講談社文庫)と読んだ。前の2作は僕にはよく判らなかったので省略。というか後の2作もよく判らないんだけど、その判らなさがぶっ飛んでいるので、そこに関して書いておきたい。まず「献灯使」だけど、これは言うまでもなく大昔の「遣唐使」のもじりだ。多和田文学には「言葉遊び」が非常に多いが、単なるダジャレじゃなくてもっと切実な使われ方をしていることが多い。

 2011年の大震災に続き、数年後に日本は再び大地震に襲われ再び大規模な原発事故も起きる。日本はほとんど壊滅し、政府も「民営化」されてしまい、「鎖国」状態になる。日本から外国へ行く飛行機や船は途絶し、外国からも来れない状態が長い。東京も人が住めなくなり「23区」は無人状態。そんな「近未来」に生きる人々を描くのが「献灯使」で、その意味は小説内に説明がある。その世界では何故か生まれる子どもが虚弱化し、一方で老人が逆に元気になる。だから100歳を越えても死ねない老人が、弱っちいひ孫の面倒を見ている。家族は崩壊していて、娘は食料が豊富だという沖縄へ移住したが、その後沖縄とも交通が途絶しているから会えない。

 そんなバカなという感じだが、そういう「逆転世界」を描く「ディストピア(反ユートピア)小説」はかなり多い。この小説のアイディアは、放射性物質の特性に関しては無理筋だろう。放射性物質が大量に放出されて人々の体質を変えてしまうというわけだ。だが、それほどの大量被ばくがあっても、放射性物質の性格上、影響はアトランダムになるはずで、その影響は体力がすでに弱い老人から現れるだろう。子どもは弱くなり、老人は強くなるなんて、そんな放射線の影響は考えられないが、それを言ったら多くの小説は成り立たない。そんな「奇想」を思いっきり広げた小説で、ベースにある人間社会に対するペシミズム(悲観主義)が今は人々を引きつけるのだ。

 続いて「雪の練習生」だが、これは僕は今までに読んだ数多くの小説の中でも、飛び切り変テコな設定の小説だ。それでもスイスイ読ませる筆力は確かで、間違いない傑作。これは恐らくは世界に一つしかない「シロクマ」の3代にわたる自伝である。シロクマをめぐって人間が書いているんじゃなくて、シロクマ自身が書いている。まあシロクマ自身が書けるわけないから、多和田葉子が成り代わって書いてるわけだが、そんな変な小説がこの世にあったのか。

 最初はソ連にいたシロクマ「わたし」で、サーカスの花形から転じて作家となった。いや、シロクマが会議に出たり、文章を書くという世界なのである。そして娘の「トスカ」、その息子の「クヌート」と話は続いてゆく。これは何なんだ。ソ連や東ドイツの「社会主義体制」に対する風刺なんだろうか。そういう側面もあるだろうが、それ以上に「動物から見た人間社会」の風刺的面白さだろう。動物文学は多いけど、大体は人間が動物を書いている。動物が人間を書いているのは、この小説の他に読んだことがない。そして後書きを読んでビックリ。後書きには「後書きから読むな」と注意書きがある。この注意には是非従うべき。読んでみて、この不思議な感触の世界を思う存分楽しむべきだろう。
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滝口悠生の小説を読む

2019年11月09日 22時07分17秒 | 本 (日本文学)
 滝口悠生の小説を読んで、すごく面白かった。近年の芥川賞受賞作家だが、まず名前は「たきぐち・ゆうしょう」である。1982年10月18日生まれ。文庫本には「東京生まれ」とあるが、ウィキペディアを見るとそれは八丈島。でも一歳半で埼玉県入間市に移り、埼玉県立所沢高校卒業、早稲田大学第二文学部退学と出ている。父親は「古文教師」と不思議な表現になっているが、都立高校の国語教員かなんかなのだろうか。今までに5冊の短編集と一冊の長編「高架線」が刊行されている。

 3つの短編集が文庫化されていて、その3冊を読んだ。僕は芥川賞作品ぐらいは読んでおきたいと思っている。昔は単行本で買ってたけど、読まないうちに数年経って文庫化されたりする。読んでない本はいっぱいあるから、待ってればいいと思うようになった。最近、山下澄人しんせかい」が文庫に入って、第157回(2017年7月)の沼田真佑影裏」まで文庫に入っている。

 滝口悠生は「死んでいない者」(2015)で、154回芥川賞(2015年下半期)を受けた。本谷有希子異類婚姻譚」と同時受賞。その前回が羽田圭介スクラップ・アンド・ビルド」と又吉直樹火花」。その次が村田沙耶香コンビニ人間」だった。この5人の中では、滝口悠生が一番地味というか、知られてないんじゃないかと思う。でも読んだらすごく面白くて、他の文庫本も読んでみようと思った。

 「死んでいない者」(文春文庫)という題名は、「死んでしまって、もういない者」と「まだ死んでいなくて、生きている者」という両義的な解釈ができる。どっちなんだろうと思ったら、読んでみたら両方の意味がそのまま描かれていた。ある高齢男性が死んで、通夜と葬儀に多くの家族・知人が集まる。子ども、孫、ひ孫世代までいる。故人には子どもが5人いて、孫は10人にもなる。ある世代には、このぐらいの子どもがいたもんだった。孫の一人(女)は外国人と結婚したので、通夜の席には夫のダニエルと3歳の男児も来ている。東京から遠くない農村地帯で、葬儀会場は地区の公民館を使う。
「生きていない者」
 そんな感じで始まるので、最初は人名が判らない。家系図を載せてくれと思うが、そのうちあまり気にならなくなる。「楡家の人々」のような、家族をもとに社会と時代を描き出す本格小説じゃないのである。葬儀を舞台にして、人間の記憶を考える短編なのである。180ページほどしかないけど、読後感はすごく大きな世界に触れた感じがする。家族が多いから、登場人物も多くて視点がどんどん変わる。最初はなじめないが、そういうもんだと思って次第になれてくる。故人の妻は亡くなっているが、子どもや孫は生きている。しかし、中には「行方不明」や「引きこもり」で不在の者もいる。
(滝口悠生)
 もう高齢の大往生だから、その場に哀しみはない。それそれが人生を思い出すような場である。年長者が朝まで棺を見守ることになり、その前に皆で近くの温泉施設に行く。ダニエルも誘われていき、初めて湯あたりする。「外国人の義理の孫」という立場のダニエルの思いが語られる。

 孫の一人は中学から不登校になるが、理由が親にも判らない。いろいろあって、最後は祖父の家に行って物置で暮らしていた。時々は祖父の食事を作ったりもしていた。そのことは親は知らないけど、実は10歳離れた妹は時々携帯電話で連絡を取っていた。葬儀に来なかった兄に電話すると、通夜振る舞いの残りを持ってきてと頼まれる。年の近い世代が集まって、祖父の家に行く。特に事件も起こらないシーンの中に、自分にもそんな場面があったような気がしてくる。故人が友人たちと行っていた近くのスナックのママ(と思われる)を主人公にした「夜曲」が併載。そこで彼らは「時の流れに身をまかせ」を歌っていた。若い世代には誰の歌かも判らないけど、曲は伝わっていた。

 特に大きな「事件」が小説の中で起こるわけでもないのに、何となく自分の人生も思い起こしてしまう「死んでいない者」。それより取っつきやすいのが、一つ前の小説「ジミ・ヘンドリクス・エクスペリエンス」(2015、新潮文庫)だろう。「青春小説」の枠組みで書かれている。最初はなんだか判りにくいが、どうも大学生がバイクで東北へ行って事故を起こす。無事だったけど、それが2001年。その時「房子」はアメリカへ行っていて、行方不明。この房子の正体が判った頃から、小説は俄然面白くなってくる。ちょっと普通の常識では許されないような関係である。今は2015年、東北で会った人々の消息を尋ねる。この小説は「9・11」と「3・11」が小説で重要な日付として出てくる。

(ジミ・ヘンドリクス・エクスペリエンス)
 東北をバイクで旅する道中を描きながら、過去と現在を往復している。映画を撮ると言って大学へも行かなかった友人のこと。ずっと合っていたんだけど、結局映画は完成せず、最近は会うことも少ない。30過ぎれば、それなりの自分の生活があって、誰も若い日の友人と会う時間がなくなる。「房子」が消えた後、大学生協のバイトで知った先輩に恋してしまう。その頃ジミ・ヘンドリックスを真似てギターの練習をしていた。ある日、野外でギター練習中に先輩の彼女に会ってしまうシーンは忘れがたい。

 「ジミヘン」の前の著者2冊目の短編集が「愛と人生」(2015、講談社文庫)で、野間文芸新人賞を受けた。野間賞は芥川、三島と並ぶ新人三賞の一つで、これで新人と認められたと言える。帯に『「男はつらいよ」の世界が小説になった』と出ている。一体何なのかと思ったら、本当に寅さん世界の登場人物が自分の思いを語っているのだった。こんな不思議な小説は読んだ記憶がないような感じ。作品設定が不思議なのはいくらも読んでるが、これは誰もが知る「男はつらいよ」、つまりは脚本の山田洋次作品の二次的解釈のような世界である。
「愛と人生」
 特に不思議なのは、さくらと博の息子である満男は「満男」と書かれるのに、「美保純」が役者の名で出てくること。美保純の役名は「あけみ」で、裏の印刷屋のタコ社長の娘である。そんな人が出てたのかと思う人もいるだろうが、1984年の第33作「夜霧にむせぶ寅次郎」から1987年の第39作「寅次郎物語」まで準レギュラーで出ていたという。僕はその頃の作品はほとんど見ていないので、全然知らない。小説中に「美保純が」とか出てくるのが実におかしい。

 「寅次郎物語」にはテキ屋の父が死んで「寅次郎を訪ねろ」と言われた子どもが出てくる。その子の内面にも入っていく。「テキ屋」は「敵屋」だと思い込んでいたとか。エンタメ作品の寅さん世界を「純文学」してみましたというような趣向で、けっして読みやすい小説じゃないけど、そのフシギ感は触れてみる価値がある。「かまち」と「泥棒」という短編が併載されている。落語や山田かまちが語られる不思議な感触の作品。若い世代の作家として、今後も注目していきたい人だ。
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津原泰水を発見せよ ファイナル

2019年10月04日 21時09分28秒 | 本 (日本文学)
 小説家津原泰水(つはら・やすみ)を紹介するシリーズ、「津原泰水を発見せよ」を6月半ば以後、4回書いてきたけど、まだまだ作品が残っていた。たくさんの文庫本を買ってしまったので、読み切ってしまおうと頑張って9月で終わった。まだ書くのかと思われるだろうが、「ファイナル」ということで。

 何で津原泰水を読んでいるのか?時間が経って忘れている人が多いだろうから、一応思い出しておく。津原氏がツイッターで、幻冬舎刊の百田尚樹「日本国紀」を批判する投稿を続けたところ、同社から刊行予定だった「ヒッキーヒッキーシェイク」の文庫化が中止になった。加えて、幻冬舎の見城社長が同書の実売部数を明かす投稿を行った。そんな「騒動」で「津原泰水って誰?」という関心が高まったためか、三省堂書店本店文庫売り場に津原コーナーが作られた。(9月末にはまだあった。)僕も少し買ったら、とても面白かった。で、もっと買ってしまったわけである。(ちなみに「ヒッキーヒッキーシェイク」は早川文庫から刊行され、売れているようだ。こんな面白い本を幻冬舎は上手に売れなかった。)

ルピナス探偵団の誘惑(2019.6.19)
「ブラバン」、ビターな青春小説(2019.6.30)
凄いな「ヒッキーヒッキーシェイク」(2019.7.19)
奇書「瑠璃玉の耳輪」(2019.7.21)

 今までに以上の4回を書いた。もう2ヶ月前なのか。以上の4冊は長編が多い。「ルピナス探偵団」シリーズは短編連作だが、他は津原氏には珍しい長編小説だ。実は「11」(イレブン、2011、河出文庫)の冒頭に入っている「五色の舟」が凄い傑作で、代表作だとよく出ている。だから割と早く読んでみたんだけど、確かに驚くべき小説だった。内田百閒や小松左京に続く「くだん」小説でと言っても、知らない人には伝わらないな。「異形の家族」と裏表紙に出ているが、ここまでトンデモ小説とは思わなかった。

 「11」はパトリシア・ハイスミスの「11の物語」の影響で付けた題名だという。確かにハイスミスに負けないような短編が集まってるが、僕はこの「五色の舟」を最初に読まない方がいいと思う。作品設定もなかなか飲み込めないし、文章も判りにくい。だんだん判ってきて、これは凄いぞと思ってくるけど、いくら傑作と言っても最初に「五色の舟」を読んじゃうと付いていけないかも。だけど津原泰水の本領は幻想・怪奇・SF的な短編にある。そこで時間的に早く書かれた「綺譚集」(2004、創元推理文庫)から読む方がいい。そっちも「天使解体」「サイレン」という人を遠ざける小説から始まっているが。
 
 「綺譚集」の「聖戦の記録」や「ドービニィの庭で」などは、読む人の世界観を間違いなく揺さぶる小説だ。こんな小説を書く人が今の日本にいるんだと知って欲しいと思う。時に読みにくさはあれど、世界の深さを存分に味わえる短編小説群は、津原ワールドの真髄だ。そっち方向の最大の問題作は「バレエ・メカニック」。はっきり言って、何が何だか判らない。SFであり、幻想小説であり、シュールレアリスム小説でもあるが、まさに「電脳小説」。なんで日本語で書かれた小説に、「ボヴァリー夫人」や「ソロモンの歌」(トニ・モリスン)と同じぐらいの時間が掛かるのか。でも判ってくると、もうビックリの世界だ。「11」と「バレエ・メカニック」はともに表紙に四谷シモンの人形が使われている。

 「ヒッキーヒッキーシェイク」もちょっと似ているけれど、そっちは途中から読みやすくなる。「バレエ・メカニック」は最後の最後までよく判らないが、それでも魅力がある。こんな読みにくい小説ばかり書いているのかというと、もちろんそんなことはない。エンタメ作家として、とても多くのジャンルを自在に書き分けている。もとは「少女小説」を書いていたこともあり、新潮文庫に3冊ある「クロニクル・アラウンド・ザ・クロック」シリーズは入手しにくいかと思うが、「青春ロックミステリー」という読んだことのない小説だ。ギターの知識がないと、判りにくいが。「たまさか人形堂」も人形をメインテーマにした連作で読みやすい。少し薄味だと思うが、人形愛をうかがうことが出来る。

 そんな「読みやすいエンタメ」系で一番面白かったのが「歌うエスカルゴ」(2016、ハルキ文庫)だった。もとは「エスカルゴ兄弟」の名前で出ていたというが、知ってる人はほとんどいないだろう。これは滅多に読めない面白本で、傑作ユーモア青春グルメ小説である。讃岐うどんの店に生まれた主人公が、伊勢うどんの店に生まれた娘と知り合う。それをロミオとジュリエットばりに盛り上げてゆく。メインストーリーは、出版社に就職したつもりの主人公が、「らせん」に取り憑かれた写真家が開くエスカルゴ料理専門店に「出向」させられる話。三重県松坂に、大規模なエスカルゴ養殖を試みる鉄工所の社長がいる。そこへ「研修」に行き、伊勢うどんのソフィー・マルソー似の姫に出会うわけだ。

 これは素晴らしく面白いコメディ映画になるだろう。テレビでもいいんだけど、けっこうエスカルゴもレアな食材だし、出てくる話もテレビ向きの範囲を飛び出る傾向がある。やはり映画かなと思う。主人公が工夫するエスカルゴ料理が実に美味しそうだ。だがそれ以上に、あぶらげにチーズを入れて焼いただけのつまみなどがメチャクチャおいしそう。僕はエスカルゴを食べたことないんだけど、日本で安く出てるのはまがい物だそうだ。本当はおいしい貝なんだとか。エスカルゴ店を開く前は、吉祥寺の立ち飲み屋だったという設定もよく出来ている。登場人物が皆少し変なのも笑える。角川春樹事務所の「ハルキ文庫」なんて知らないかもしれないけど、こんな小説が埋もれていたとは。
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西東三鬼の超面白本「神戸・続神戸」

2019年09月01日 22時53分18秒 | 本 (日本文学)
 社会的なテーマや映画などを置いて、どうしても紹介しておきたい面白本。西東三鬼(さいとう・さんき)の「神戸・続神戸」が6月末に新潮文庫で刊行された。僕は前に読んでたけど、もう一回読みたいから買った。本文だけなら180頁程度、430円という値段だから、買うかどうか悩むほどじゃない。日本文学史上、屈指の面白本だが、一種の「奇書」でもある。再読して、多少今では問題を感じた描写もあったけれど、自由な風が吹き抜ける読後感は今でも素晴らしい。

 西東三鬼(1900~1962)は、昭和期の著名な俳人。訳あって戦時中を神戸に過ごした時の回想が「神戸」で1954~56年に「俳句」誌に掲載された。好評で「続神戸」が書かれ、「神戸・続神戸・俳愚伝」として没後の1975年に刊行された。1977年に早坂暁脚本、小林桂樹主演でNHKのドラマになり、その時に「冬の桃」(1977)として再刊された。僕が読んだのはその本。その後、書名を元に戻して2000年に講談社文芸文庫に入り、今度は「俳愚伝」をカットして改めて刊行された。今回は作家の森見登美彦氏が「発見」したようで、長い解説が付いている。

 西東三鬼、本名斎藤敬直は岡山県津山の生まれで、元々は歯医者である。兄のいた東京で資格を取り、卒業後は兄がいたシンガポールに渡った。もともと歯医者は生きる糧で、自由・放浪の気質なのである。帰国して、歯科医のかたわら、患者の勧めで33歳で初めて俳句を始めた。無季の新興俳句運動に共鳴し、あちこちの句誌に投稿をし、やがて「京大俳句」を中心に戦争をテーマにした句を多く作った。1938年には結核で危篤になるが奇跡的に回復し、それをきっかけに歯医者をやめて商社に務めた。そして1940年に「京大俳句事件」と呼ばれる新興俳句弾圧に巻き込まれ起訴猶予となった。
(西東三鬼)
 そんな人生上の屈託を抱えて、1942年に商社を辞め妻子も置いて、単身神戸に移り住んだ。本人の書くところでは、「東京の何もかもから脱走」である。住むところもないけれど、東京の経験ではバーに行けばバーの女の住むアパートが見つかる。これはと思う女を見つけて三宮のバーに行き着き、「奇妙なホテル」が見つかった。そしてそこは奇天烈な人々が住み着いた不思議な空間だった。森見氏の解説から引用すると、「エジプトのホラ男爵ことマジット・エルバ氏」「純情にして奔放な娼婦・波子」「比類なき掃除好きの台湾人、基隆」「お大師様を信仰する広東人・王」「風来坊の冒険家・白井氏」等々で、国籍性別を超越した奇人変人の巣窟である。

 淡々と語られるが、一人一人のエピソードが長編小説になりそうな濃密さ。「死と隣り合わせの祝祭」だった日々。神戸にはドイツの潜水艦の水兵がいて、ホテルの女性目当てに男たちが訪れてくる。もう米海軍が制海権を持っていて、日本に寄港したまま帰れないのである。そんなことがあったんだ。戦時下に貴重な黒パンや缶詰を持ってドイツ人がやってくる。しかし、やがて神戸も空襲されるであろう。予感した三鬼は神戸の外れに洋館を見つけ、そこに移り住んだ。思い出のホテルはやはり焼けてしまう。そして戦後の話が「続神戸」で語られる。米軍占領下の神戸も興味深いけど、やはり「滅びの予感」とともに奇人たちが助け合った「神戸」の方が面白い。

 「神戸・続神戸」では、港町神戸の最底辺に生きる内外人が分け隔てなく描かれている。「自由こそ最高の生甲斐」(「続神戸」前説)と考える著者の真骨頂である。まさに「自由を我等に」(ルネ・クレール監督の1931年作品)である。いろいろとあったにせよ、著者が戦時下の東京にはいられずに、神戸へ「脱走」したのは「運命」だっただろう。そして、この美しき奇書が生まれた。もうすぐ運命が彼らを飲み込んでしまう前に、愛すべき哀しき奇人たちと宴をともにせん。無類の面白本で、知らない人もいるだろうから書いておきたくなったわけ。
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奇書「瑠璃玉の耳輪」ー津原泰水を発見せよ④

2019年07月21日 23時59分38秒 | 本 (日本文学)
 「原案/尾崎翠」(おざき・みどり)と書かれている津原泰水の「瑠璃玉の耳輪」(2010)という小説がある。刊行当時の「このミステリーがすごい」で18位に入っているけど、完全に忘れていた。2013年に河出文庫に入っているのを今回発見したんだけど、なかなか奇想の擬古的「探偵小説」で、こんなのがあったのかとビックリした。津原泰水はまだ読んでない本が何冊もあって、「発見」が続きそうだ。

 「擬古的」と書いたのは、舞台となった1928年(昭和2年)当時を再現するような文章で書かれているということだ。大体「プロログ」「エピログ」という目次がもう古めかしい。横浜中華街と言わずに、「南京町」と書かれる。そこには「売笑婦」がいて「阿片窟」がある。「見世物一座の女芸人」、「女掏摸」(すり)、「変態性欲の炭鉱主」、「放蕩の貴公子」…そして「東京探偵社」の「女探偵」とくる。もう江戸川乱歩か、それとも夢野久作久生十蘭だろうかという、夢のような昔の大ロマンなのである。

 どうしてそうなるかと言えば、「尾崎翠原案」に理由がある。尾崎翠(1896~1971)は戦前に新進作家と期待されたが、心身の変調で鳥取に帰省し文学活動は沈黙ぜざるを得なかった。70年代頃から再評価が進み、代表作「第七官界彷徨」などの独自な感性が注目された。今はちくま文庫や岩波文庫に収録されていて簡単に読める。この「瑠璃色の耳輪」は、阪東妻三郎プロダクションの脚本募集に応じた脚本だそうだ。結果的に映画化されなかったが、手元に残されていて全集に入った。それを当時の雰囲気を残した物語として作り直したのが本書である。

 熱海の緑洋ホテルに櫻小路伯爵一家が滞在している。岡田検事一家も滞在していて、女探偵として有名な岡田明子は櫻小路家の放蕩息子公博に魅惑された。だが彼は偶然見かけた謎の洋館の美女に心奪われてしまった。一方、東京に戻ると岡田明子名指しで、「瑠璃玉の耳輪」をした三姉妹を見つけて欲しいという依頼を受けた。依頼主も謎めいていて、探す理由も説明されない。しかも見つけた少女たちは一年後に連れてきて欲しいという。「瑠璃玉の耳輪」は父親が昔取れないように取り付けたものだという。左耳に瑠璃玉がはまった白金のピアスのようなものをしているらしい。

 岡田明子は熱海から帰路に、公博が南京町で入り浸っている美女がいて、それが耳輪をしているという噂話を聞いていた。女の格好では潜入できないので、明子は男装して「岡田明夫」として潜入する。ところがやがて「明夫」は自立的に活動する「もう一つの人格」になってゆく。単なる探偵ものというよりも、揺れ動くセクシャリティが時代を超えている。というか、もちろん現代の小説なんだけど、そこら辺のムードは原案にあったらしい。(未読だが。)そして幻覚に苦しむ描写も出てくるが、それはその頃評判だったドイツ映画「カリガリ博士」の影響らしい。幻覚、多重人格など、複雑怪奇極まる。

 そしてラスト、見つかった三姉妹の耳輪はいかにして外れるのか。それはあっと驚く仕掛けである。そして耳輪は何を意味したのか。それこそ世界平和を揺るがす秘密があり、櫻小路伯爵一家の絡んだ大陰謀だったのである。ということで最後は一応の大団円に収まるけれど、この話は一体なんなんだろうか。それは文庫の最後にある「尾崎翠フォーラム」での著者の講演に示唆されている。津原氏によれば、この物語は「南総里見八犬伝」に対応するのだという。なんで千葉の話が鳥取の人がと思うと、実は安房里見家は江戸時代初期に鳥取県倉吉市に移され跡継ぎが無く改易された歴史があった。鳥取県民にとって八犬伝は身近だったというのである。詳しいことは直接。
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凄いな「ヒッキーヒッキーシェイク」ー津原泰水を発見せよ③

2019年07月15日 22時39分50秒 | 本 (日本文学)
 津原泰水ヒッキーヒッキーシェイク」(ハヤカワ文庫JA)は凄い本だ。今こそ多くの人に読まれるべきだ。この本が例の本。幻冬舎から2016年に刊行され、文庫化が予定されていながら、津原氏が「日本国紀」を批判して(かどうか)企画が流れた。それを早川書房で文庫化したわけである。帯には「この本が売れなかったら、私は編集者をやめます。」と早川書房の「塩澤快浩」名の「宣言」が書かれている。前代未聞の帯だが、なかなか売れてるようだから、塩澤さんも辞めないで済むだろう。

 この本の「ヒッキー」というのは、「引きこもり」のことである。著者はあとがきで「みずからのヒキコモリ時代を僕に語り、あるいは書き送ってくださいました、元ヒッキーズ、現ヒッキーズ諸氏に、最大限の敬意と感謝を捧げます」と書いている。「引きこもり」を描いているからと言って、決して社会問題や教育問題の本じゃない。すごく面白いエンターテインメントだが、ジャンル不明。狭い意味ではミステリーでもSFでもない。視点がどんどん変わるから、読みやすいとも言えない。判りにくいわけじゃなくスラスラ読めるんだけど、全体構造が不明なのである。
 
 ちょっと裏表紙を引用するとー。「人間創りに参加してほしい。不気味の谷を越えたい」ヒキコモリ支援センター代表のカウンセラーJJは、パセリ、セージ、ローズマリー、タイムという、年齢性別さまざまな4人の引きこもりを連携させ、あるプロジェクトを始動する。疑心に駆られながらも外界と関わろうとする4人だったが、プロジェクトは予想もしない展開を見せる。果たしてJJの目的は金か、悪意か、それとも? 現代最高の小説家による新たな傑作。

 これでも判らないけど、それは要するに作品内部でも登場人物には判ってないという設定なのである。ラストになれば全部判る。途中までは、ヴァーチャルなアイドル創造みたいなプロジェクトかな、パソコンの話が結構面倒くさいなという感じ。途中で「架空の動物」を故郷の「猿飛峡」に創り出すという「ふるさと創生」みたいな話も出てきて。さらに「ジェリーフィッシュ」なる謎の「ヒッキー」の創ったウィルスの話になって。これは一体どうなるのと思うが、話がスピーディで面白いからどんどん読んでしまう。そしてラストになって「現代の黙示録」とでもいう構想にまとまって驚いてしまう。 

 題名だけど、これは「ヒッピーヒッピーシェイク」という歌から取ったと書いてある。イギリスのバンド、スウィンギング・ブルー・ジーンズによる1963年のヒット曲だというけど、僕は全然知らない。津原氏も1964年生まれなんだから、同時代的には知る由もない。またクラウス・フォアマンという人の装画「Hikky Hikky Shake」の制作と「同時進行」だったとも書かれている。フォアマンはザ・ビートルズの「REVOLVER」のジャケットを描いた人で、また解散後に「ジョン・レノン氏やジョージ・ハリスン氏の活動を支えたエレクトリック・ベース奏者としても名高い」ということだ。
(フォアマン装画による単行本)
 このJJという謎めいたカウンセラーは、本名「竺原丈吉」という。姓は「じくはら」と読む。「天竺」の「竺」だと説明してるけど、こんな名字あるか。(慣れるまで、目がつい「笠原」と読んでしまう。)ヒッキーたちも「乗雲寺芹香」(じょううんじ・せりか)、「刺塚聖司」(いらつか・せいじ)、「苫戸井洋佑」(とまとい・ようすけ)とトンデモ名前ばっかり。ところが、途中であるエピソードが出てくる。竺原の高校時代の友人で作中で重要な役割を果たす「榊才蔵」の娘「径子」(みちこ)の話だ。「径子」という主人公が出てくるホラー小説が評判となり映画化もされた。そのため「径子」という名前に負のイメージが付いてしまった…。

 この本の中には現実に起こった事件を思い起こす出来事がいろいろ出てくる。最後になると「ポスト3・11」小説の様相も現れてくる。「径子」の話も現実の出来事を思わせるが、そのとこで傷ついた人がいただろうとは気が回りにくい。この小説の遊びのようなネーミングも、つまりその名前で傷つく人がいないだろう突飛な名前を付けたんだと途中で気づく。凄く深い配慮があったのだ。

 竺原はカウンセラーとして「引きこもりがいなくなったら失業しちゃう」などホンネなのか偽悪的な挑発なのか判らない言動をする。そんな竺原の過去はどんなものだったか。それが明かされるとき、この小説の深いたくらみに感動が湧き起こる。僕にはなんだかよく判らない部分も多いんだけど、「凄い」ということは判る。まあ映画「2001年宇宙の旅」みたいなもんか。(なお、登場人物の「パセリ」「セージ」「ローズマリー」「タイム」は言うまでもなく「スカボロ・フェア」である。僕がサイモン&ガーファンクルの歌で知った時には、ハーブの名前だとは全く知らなかった。)
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「ブラバン」、ビターな部活小説-津原泰水を発見せよ②

2019年06月30日 21時17分47秒 | 本 (日本文学)
 まあボチボチと津原泰水を読んでいる。「11 eleven」(河出文庫)という凄い短編集を読んだけど、これはちょっと大変な作品だから後回し。一般的には一番受けたらしい「ブラバン」(新潮文庫)を先に書きたい。2006年に刊行されて、ベストセラーになったって言うけど、覚えてないなあ。2009年に文庫化され、今でも入手しやすい。これを読むと、津原泰水をという作家の手強さがよく判ると思う。

 「ブラバン」という小説は、広島県広島市にある高校のブランスバンド部員、及び顧問教員を描いている。スポーツ系の「部活小説」に比べて、「文化部小説」は少ない。それが貴重だけど、この小説の特徴は「過去」だけでなく、25年後の「現在」の方が中心となっていることだ。だからビターな部活小説になっている。経歴を見ると、津原氏は実際に広島県の高校在学中にブラスバンド部に在籍していた。高校時代の方は自分の体験も生かされているだろうけど、現在の方はどうなんだろう。

 語り手である他片等(たひら・ひとし)は「1980年度入学」で「St.B」。これは「弦バス」つまり「コントラバス」の略語。「現在は赤字続きの酒場を経営」である。こういう登場人物と担当楽器一覧が最初に付いてる。それを何度も見直さないと判らなくなる。他片は同級の皆元優香に誘われ吹奏楽部に入る。もともとは軽音に入るつもりだった。だけど皆元が指をケガして「弦バス」ができなくなって他片を誘った。「他片」なんて名字がホントにあるのか知らないけど、「たひら」は「たいら」で「平家」だと言ってる。(他片と皆元は昔なら敵同士とある。「たいら・ひとし」と読めば「日本一の無責任男」の主人公。)
 (津原泰水)
 結局他片は軽音楽同好会と掛け持ちすることになった。そんなことができるのか。できたんだけど、やり方は本書で。そして結成したバンド「パーシモン」のことはほとんど語られない。メンバーの名前もない。完全にブラバンに特化した叙述だ。それは東京から来ていて途中で転向した上級生「桜井ひとみ」がブラバンを再結成しようと言い出したから。今は環境省で蛙の保護を手がけていて、広島によく来る。そして広島にいる研究者と結婚することになった。その披露宴で演奏してくれと言い出したのだ。酒場をやってて他の人の情報もつかみやすい他片に話が持ち込まれたのである。そこでアイツは今どうしてるあの頃のアレは何だったんだろうという物語が起動する。

 強い部活であれ、弱い部活であれ、一生懸命だった高校時代だけ熱く描いて、最後にエピローグでちょっと「その後」を加える。これが一番感動させる仕掛けだろう。「ブラバン」はそうじゃない。盛り上がると何か起こり、過去と現在が入り交じる。高校時代の重要事物何人かにはなかなか連絡が付かない。付いても音楽を続けている人はいない。楽器もない。ホントにプロになった人もいないではないけど、そういう人はもう呼びようがない。よほど優れた能力の持ち主じゃない限り、どんな部活でも高校で終わりか、せいぜい大学止まりだ。思い描いていた理想とは違う人生。結局ほとんどの人はそうだった。

 この小説は音楽、というか楽器の細部に詳しい。一般向けとしてはやり過ぎかと思うほど、楽器の事情が語られる。同時に過去の部活内の人間関係もあからさまにされる。部活、青春、美しく描かれがちだが、「ブラバン」を読むと恥ずかしいことばかり思い浮かぶ。ひどいことをずいぶんやってる。コンクールもうまく行かないし。でも、そればかりじゃない。1981年2月にローマ教皇、ヨハネ・パウロ2世が来日して広島の平和公園で平和と核兵器廃絶を訴えた。その演説を主人公は友人と一緒に授業を抜け出して聴きに行く。そしてその強いメッセージに感動する。学校に戻ったとき担任にばったり会ってしまうが、その時の対応もちょっといい話。このローマ教皇のシーンだけでも読む価値あり。

 「ブラバン」は小説としては、少し読みにくい。登場人物が多すぎて頭が混乱するし、楽器の事情も細かすぎる。人間関係が過去と現在で錯綜し、一覧表を見直してもよく判らん。でも、これは全部作者の仕掛けである。もっと人物を整理し、「感動」的に書くことはすぐできただろう。でも、現実の世界では、いろんなものが入り組んでいる。簡単じゃない。何年も経って、初めて判ったことも多い。誰と誰が付き合って…とか、本人たちには重大だけど他人である僕らはよく判らない。当然だろう。そういうことの積み重ねの後で、僕らは「人生」に触れた感じがする。「ブラバン」はやっぱり高校時代から25年以上経った人が読むべき本なんだろう。
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斎藤美奈子「日本の同時代小説」を読む

2019年02月09日 22時46分29秒 | 本 (日本文学)
 新年になってからは溜まってたミステリー小説を読みふけっているけど、少し飽きたので違う本を。2018年11月に岩波新書から刊行された斎藤美奈子「日本の同時代小説」を読むことにした。斎藤美奈子(1956~)は、『妊娠小説』『紅一点論』など初期のものがすごく面白かった。ずっと読んでるわけではないが、最近の小説をいっぱい読んでる人には違いない。この本はいろんな評価があるようだけど、まずはこういう本は必要なんじゃないかと思った。 

 冒頭に出ているけど、中村光夫日本の近代小説』『日本の現代小説』という岩波新書がある。僕も若い時に読んで、すごく勉強になった。というか、作家や作品の名前と位置づけを知って、ブックガイドとして利用した。その後、そういう本がないから1960年代以後が書かれていない。そこでこの本の登場。ものすごく沢山の本が出てくる。昔と違って、今はエンターテインメント系、つまり直木賞作家にも触れないといけない。「ノンフィクション」として登場した作品も取り上げられている。こういうブックガイドがあると、若い世代の見通しが広くなるだろう。

 昔は作家のグルーピングが簡単だった。「私小説」とか「プロレタリア文学」とか。戦後文学もそれにならって、「戦後派」「第三の新人」「内向の世代」などと言われた。でも70年代以後は一人一派で、まとまってない。70年代後半に戦後生まれの男性作家の大爆発があったと書かれている。中上健次、村上龍、三田誠広、立松和平、村上春樹らで、名前は広く知られているし、僕も登場直後から読んでる人が多い。でも一人ひとり別で「派」にはならない。だから作家ごとにまとめるのは難しいので、作品ごとに論じるとしている。

 60年代、70年代なんかだと作品評価は定着しているし、「名作」なら大体読んでる。21世紀になると、有名なのは読んでるけれど、芥川賞候補レベルだと読んでないのが多い。21世紀の日本文学が、「戦争と格差社会」「ディストピアを超えて」と題されている。僕もこんなに「広義の戦争小説」が書かれていたかと驚いた。女性が子どもを産まないから少子化になったみたいなことを言う政治家にぜひ読ませたいと思った。日本の若い世代は戦争に駆り出されていたんだから、結婚も出産もできない。それはもちろん昔のような「戦争」ではない。でも若者たちは格差社会をギリギリで生き抜くしかなかったのかと暗澹たる思いがする。そこが一番の読みどころ。

 ただし、そういう話は小説論というよりも、小説のテーマを通して時代を読むみたいになる。「小説社会学」という感じだ。そういう風に考えると、落ちている問題がある。最大のものは「同時代小説」と銘打たれていること。70年代に安部公房大江健三郎を読んでいた若い世代(自分もそうだけど)は、同じようにATGで大島渚吉田喜重の映画を見ていた。あるいはつげ義春のマンガや唐十郎のテント芝居にも触れていた。それは「文学」じゃないから仕方ないとしても、谷川俊太郎大岡信も、別役実清水邦夫も出て来ない。「小説」だけで時代を語ることがもう無理な時代になっていたのである。「同時代小説」だけど、この本は「同時代文学」でも「同時代精神史」でもない。

 70年代後半に若い男性作家が続々と登場したけれど、若い女性作家の登場は80年代になる。その代表が山田詠美吉本ばなな。その後、芥川賞や直木賞に女性作家が続々と登場するようになる。言われてみると、確かに男女で小説家になるタイムラグがあったなと思う。でも僕は思うんだけど、70年代半ばには池田理代子竹宮恵子萩尾望都らの少女漫画家が評判になっていた。荒井(松任谷)由実中島みゆきらもデビューしていた。マンガや音楽の方が早かった。そこで思い出すのは、名前も全く触れられていないけど、評論家中島梓(1953~2009)が78年に栗本薫名義で書いたミステリー「ぼくらの時代」で江戸川乱歩賞を受賞したこと。その後長大なグイン・サーガを書いて早世した。いろんな意味で先駆者じゃなかったか。

 最後に出て来ない作家を簡単に。70年代は「戦後派」や「第三の新人」の集大成的作品が書かれたが、安岡章太郎庄野潤三も全く出ていない。堀田善衛も出て来ない。佐多稲子も戦前の「キャラメル工場から」が出てくるけど、70年代に書かれた「樹影」「時に佇つ」には触れない。最高齢作家の野上弥生子(1885~1995)の100歳の傑作「」(1985)も時代離れしすぎているからか出て来ない。三浦哲郎辻邦生加賀乙彦辻井喬色川武大日野啓三尾辻克彦(赤瀬川原平)野呂邦暢李恢成辺見庸目取真俊花村萬月などは全く出てない。
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「消滅世界」と「抱く女」②

2018年12月03日 22時41分00秒 | 本 (日本文学)
 「消滅世界」に続いて、桐野夏生「抱く女」の話。この小説は1972年9月から12月の4か月間の東京を舞台にしている。主人公は東京の大学に通う20歳の女性。名前は「三浦直子」というが、今の感覚では「女子大生」の名前らしくない。逆算すると直子は1952年生まれとなり、2018年には66歳になっている。桐野夏生は1951年生まれで、一年違う。自分の経験を描く描写もあるだろうが、「自伝」じゃないということだろう。解説の村田沙耶香が生まれる7年前のことである。

 吉祥寺の雀荘が冒頭に出てくる。吉祥寺のS大学に通うとあり、桐野夏生の経歴を見れば成蹊大学法学部卒業である。成蹊大学は吉祥寺にあるので、そういう設定かなと思う。(ちなみに1954年生まれのシンゾー君とはキャンパスですれ違っていたかも。)直子は大学に行く気がなくなって、今しか遊べないんだと思って、毎日のように麻雀に通っているがそれも空しい。72年春に「連合赤軍事件」が発覚し、「学生運動」は一挙に下火になった。そんな状況が影響している。

 60年代にはまだ強かった「純潔」意識(結婚まで処女を守るのが当然という考え)は、60年代末の世界的な「文化革命」の中で急速に変わっていた。直子もすでに何人かと性交渉を持ったが、そのことで傷つくことも言われる。吉祥寺のジャズ喫茶でアルバイトする友人に会いに行くと、町中で男たちから卑猥な言葉を浴びせられる。まだ「セクハラ」という言葉もなく、「男女雇用機会均等法」もなかった。言葉や法律だけでは社会は変わらないが、まだそれ以前の時代だった。

 直子の周囲には「運動家」もいた。もちろん「新左翼」の「セクト」(党派)に入っているという意味である。(新左翼というのは、共産党を「既成政党=旧左翼」と批判してより左側に結成された左翼党派のこと。)しかし新左翼の中にも女性蔑視があると直子は思う。偶然参加した「ウーマン・リブ」(女性解放運動)のコミューン開きでも、違和感を持ってしまう。「抱く女」というタイトルは、ウーマン・リブで唱えられた「抱かれる女から抱く女へ」に由来している。

 この小説は直子を通して「女の怒り」を描く。彼女の人生は新宿でアキというジャズシンガーにあって、大きく変わってゆく。しかし、もう一つ大きなテーマがある。70年代初頭の「後退期」に「」が身近に迫ってくるのだ。「自殺」したり、殺しあったり、「パレスチナの大地」に飛び立ったり…。ラスト近くになると直接「内ゲバ」が直子の家族に降りかかってくる。今はあまり語られないが、特に「革マル派」と「中核派」の「革共同」(革命的共産主義者同盟)から分裂した党派対立は多くの死者、重傷者を出した。その凄惨な殺し合いは、変革を求めた時代を完全に終わらせてしまった。

 自分自身は1972年秋には高校生だった。この時代の数年間の年齢の違いは大きく、僕は「遅れてきた青年」だった。それでも大学時代にはまだ「内ゲバ」の残り火があり、その恐怖感は想像できる。「抱く女」はまずは女性の生き方を語るが、読んでいくうちに70年代の重苦しい雰囲気が身に迫ってくる。「性と政治の革命」が時代のテーマだったが、どちらも志ならず「挫折」した。そのことが今の日本に影響している。それにしてもノンポリである直子にも、思うことは多かったのだ。

 当時の東京を知っているなら、小説全体に半端ない臨場感が満ちていると思うだろう。本当に息苦しいまでに、時代の空気をまとっている。しかし、その息苦しさはもう先のない絶望からではなく、もがきながらも何か新しいものへチャレンジする強さも持っていたと思う。解説の村田沙耶香は、「この本は、過去の物語ではない」という。「直子の痛みは私たちに引き継がれている。この痛みは大切なバトンなのだ。」「抱く女」は2015年発表で、「消滅世界」と同じ。両者を読むと、世界は変わったようでもあり、同じように病んでいるようでもある。

 桐野夏生(きりの・なつお)は1993年に「顔に降りかかる雨」で江戸川乱歩賞を受賞した。それ以前にジュニア小説などを書いていたようだが、僕は読んでない。だからミステリー作家として僕は読んできた。1999年の「柔らかな頬」で直木賞を受けた。一応エンタメ系作家として活動を始めたわけだが、「OUT」「グロテスク」「魂萌え」「東京島」と次第にミステリーを超える活動担ってきた。僕が読んでいたのはその頃までで、しばらく読んでなかった。見事な描写力で読みごたえがある。しかし、作中人物がタバコ吸い過ぎだなあと改めて思った。
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「消滅世界」と「抱く女」①

2018年12月02日 21時16分45秒 | 本 (日本文学)
 村田沙耶香「消滅世界」(河出文庫)と桐野夏生「抱く女」(新潮文庫)が相次いで文庫化されたので、続けて読んでみた。「抱く女」の解説を村田沙耶香が担当しているというつながりがある。両書ともとても面白くて読みやすい。あっという間に読めると思うけど、中身は深い。あちこちで立ち止まる。現代日本で、特にセクシャリティを考えるときに必読の作品だ。

 まず「消滅世界」から。村田沙耶香(1979~)は2016年に「コンビニ人間」で芥川賞を受賞した。「消滅世界」はその前作で、2015年に発表された。さらに前作は「殺人出産」、最新作は「地球星人」で、どっちもまだ読んでないけど、名前を見ただけでもすごそうだ。とにかく今このような小説を書いてる人がいるということは、好き嫌いを超えて知っておくべきだ。そう言わざるを得ないほど、「消滅世界」はぶっ飛んでる。正直言えば、僕には気持ち悪くて受け入れがたい。

 それでも傑作だし、面白く読める。その作家的力量は明らかだが、こういう発想はどこから出てくるのか。「消滅世界」では人々はもはやセックス(男女の性交渉)によって子どもを作ることはない。「人工授精」で妊娠するのである。(普通の夫婦であっても。)というか、夫婦間に性交渉はあってはならない。それは「近親相姦」とみなされてタブーとされる。信頼でつながれた家族間に、セックスのような面倒で汚いものを持ち込んではならない。

 どうしても「コイビト」を持ちたいなら、それは家庭外なら許される。それでも「ヒト」の恋人を持つ人は年々少なくなっていて、キャラクターなどの「コイビト」(それは今の世の中の概念では、「恋人」ではないと思うけど)を持つ人が多くなっている。主人公の「雨音」は両親の「交尾」で生まれた「人類最後」(?)の人間で、「近親相姦」としていじめられるし、母親にも嫌悪感を持って育つ。そんな雨音はヒトにもキャラクターにも「コイビト」がいる珍しい存在だ。

 雨音の一回目の夫は、夫婦でありながら映画を見ていてキスしてきた「変態」だった。離婚したのち、再婚するが二人とも「コイビト」がいる。しかし夫とコイビトの関係がうまくいかなくなり、悩んだあげく「実験都市」の千葉県に移住することを決意する。実験都市では子どもたちは集中的に教育され、夫婦間の人工授精も一元的に管理されている。男も人工子宮を付けて妊娠する実験が続けられている。男女の別なく子どもを産めるなら、大人は全員「おかあさん」である。すべての子どもは集中的に育てられるから、子どもたちは大人を見れば「おかあさん」と慕い寄ってくる。
 
 映画「カランコエの花」について書いたときに、養護教諭の教え方に疑問を持ったと書いた。セクシャル・マイノリティに関して授業をして、「思春期になれば誰かを好きになる。それって素敵なことだ。そして中には好きになる対象が同性の人もいる。それも素敵なことだと思う」って言うようなことを語る。つまり「ロマンティック・ラブ神話」を自明視して、その中に今まではヘテロセクシャルだけが入ってたけど、これからはホモセクシャルも組み入れる。それが「LGBT理解」だとすると、「ロマンティック・ラブ」神話そのものを受け入れられない人にはかえって抑圧の増大にならないか。

 村田沙耶香は世の「ロマンティック・ラブ神話」を解体させる戦いの最前線にいる。この小説が面白く出来ているのは間違いない。また「ペット」「犯罪」など無くなるはずのないものを周到に小説世界から排除して、読んでる間は何となく納得させてしまう手腕は大したものだ。しかし、小説は言葉で書ける範囲内で何を書いてもいいけど、「消滅世界」まで行くと正直僕には気持ち悪い。

 斎藤環による解説を読むと、この小説は「ユートピア」か「ディストピア」か、女性の間で論争になったと出ている。「ユートピア」(理想社会)と「ディストピア」(反ユートピア、恐怖社会)は正反対のようでいて、実はコインの裏表だと思うけど、この小説に限っては明らかに「ディストピア」。それは「性」(であれ何であれ)を集中的に管理するという社会そのものに「恐怖」しか感じない。そういう意味で、僕は恐ろしい社会だなと思った。
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必読感動本、岩城けい「Masato」

2018年10月06日 22時47分04秒 | 本 (日本文学)
 久しぶりに先が気になってどんどん読んだ。いろいろと思うこと、感動するところが多く、多くの人に読んで欲しいと思った。そんな本が岩城けいMasato」だ。2105年に出て、坪田譲治文学賞を受賞した。2017年10月に集英社文庫に入った時に買ったままだった。なんだかほんのちょっと前に買った気がするけど、もう一年経っていた。スラスラ読めるし、もっと早く読めばよかった。

 主人公は日本から父の仕事でオーストラリアに引っ越した小学生、安藤真人。その男の子の視線で物語が進行する児童文学だから、とても読みやすい。日本にいたらもう6年生なのに、英語が判らないからと現地の学校の5年生に入る。中学生の姉は高校受験を控えて日本人学校に通うのに、真人は「英語ができるようになると便利」と現地の学校に行くことになる。日本の友だちとは学年も違ってしまうし、英語は全然判らない。学校じゃ「スシ、スシ」といじめてくるヤツがいる。

 「Masato」が「マサァトゥ」と呼ばれると、自分じゃないみたい。突然外国でいじめられっ子に転落した真人が、何とか居場所を見つけて「マット」と呼ばれるようになるまでの苦闘。だけど、何とかそうなったときには家庭での居所がなくなる。ネイティヴの少年英語を駆使できるようになったとき、もう自分の気持ちは英語の方がうまく言える感じ。日本語で聞く親に対し、英語で答える。もともと「英語ができるようになって欲しい」と親が現地の学校に行かせたのに、現実に英語ができるようになると「日本語で言いなさい」と怒られる。この矛盾に真人は戸惑う。

 サッカースクールコンサート(というけど、劇の公演)、あるいは日本から連れてった柴犬のチロ(これが泣かせるエピソード)なんかを通して、真人は大きく成長していく。それは同時に親との葛藤の始まりだった。一体真人はどういう選択をするのか。姉は日本に戻って、「山岡女子学園」を受験する。「山女」は制服も可愛くて、大学にもつながってて、就職率もいい。親たちは英語を話せると何かと便利だと言う。真人は思うんだけど、山女って英語に似てる

 岩城けい(1971~)は大学卒業後にオーストラリアに住んでさまざまな職業に就いた。2013年になって「さようなら、オレンジ」を発表し、太宰治賞、大江健三郎賞を受けた。この本は出た時に読んで非常に感銘を受けた。実際に長年オーストラリアに住んでいる実体験があるので、具体的な細部の記述がすごくリアル。夏と冬の逆転した季節感、日本人社会の実態、現地の学校のようす。どれもすごく面白いけど、やはり「学校教育のあり方」をめぐる違いが一番考えさせられる。計算問題も答えだけじゃなくて、なんでそうなるかの説明が大事なのである。

 も一つ、「英語ができる」と日本じゃ簡単に言うけど、それはどういうことかという問題。日本語での思考能力、自我発達の前に外国の小学校に通わせれば、当然「子どもとして生き抜く」ために現地の言葉で自我を形成して行ってしまう。親はテレビで海外で見られるNHKを見てしまい、現地のテレビを見ない。だからクラスのテレビやアイドルの話題に真人は付いていけない。日本で持ってたゲーム機も、電圧が違うから使えないので日本に置いてきた。ホント最初の頃の真人はチロだけが頼りだ。そんな状況をどう乗り切るかの、これはサバイバル冒険小説でもある。

 これは今いろいろと悩んでいる中学生、高校生、あるいはその親にはぜひ読んで欲しい小説だ。そして学校の教師、教育を論じたい政治家や日本の英語教育に関係している人、まだ読んでない人は是非読まないといけない。「国際化」や「英語」の意味について、じっくり考えるきっかけになると思う。こういう時って、英語でこういうんだという発見もいくつもある。
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小野正嗣の小説を読む

2018年09月27日 22時57分54秒 | 本 (日本文学)
 芥川賞直木賞を受賞した作品ぐらい、文庫になれば読んでみたい。新人賞だから、気に入ればその後も読んでいく作家になる。最近の作品が何冊かまとまったので読んでみたが、直木賞では青山文平「つまをめとらば」が面白かった。芥川賞では柴崎友香「春の庭」の趣向、羽田圭介「スクラップ・アンド・ビルド」の勢いも悪くはないけど、第152回受賞作、小野正嗣「九年前の祈り」がすごく面白かった。ついでに他の文庫本もまとめて読んでしまった。 

 小野正嗣(おの・まさつぐ、1970~)は、作家ではあるけど、それ以前にフランス文学者で、立教大学教授である。そして今はすっかり「日曜美術館」の司会者のイメージが定着した。前任の井浦新が歴代最長の5年間も務めていたので、最初はどうかなと思わないでもなかったけれど、いつの間にか「藤田嗣治アタマ」の小野正嗣になんとなく馴染んでしまった。

 小野正嗣の小説は「」と呼ばれるリアス式海岸の海辺の村が舞台となっている。全部読んでるわけじゃないけど、どうも全部がそうらしい。中上健次の紀州の「路地」や、大江健三郎の四国の森、あるいはフォークナーの「ヨクナパトーファ郡」を思い出したりするわけだが、激しいドラマの世界と言うより、マジックリアリズム的な手法も駆使して「世界の果て」が描かれている。

 著者自身が大分県蒲江町(現佐伯市)の出身で、そこが舞台になっているのである。「蒲江」(かまえ)は大分県の一番南で、宮崎県に面したところ。今は北にある「佐伯」(さいき)と合併したが、小説では佐伯にあたる「町」と比べるように「浦」の過疎化が語られている。「日豊海岸国定公園」の一部で美しい海岸線が広がっている。「マリンカルチャーセンター」なんかの施設も作られている。小野氏は佐伯鶴城高校から東大に入り、フランス留学中に小説を書き始めた。

 芥川賞受賞作「九年前の祈り」(2014)は、発達障害の子を抱えて「浦」に戻った若い母親「さなえ」の物語。彼女の結婚相手は日本文化に関心を持つカナダ人で、日本で暮らしていたが離婚した。その子希敏(ケビン)はものすごく可愛くて天使のようだけど、扱いが難しい。町にJETプログラム(外国語指導助手など)で来ていたジャックが町おこしのカナダツアーを企画し、さなえも参加したのが9年前。年長の女たちばかりに交じって外国へ行き、そこでジャックの友人と知り合う。

 こういうことを書いていても、この小説の魅力は伝わらない。その旅行でリーダー格だった渡辺ミツの子どもが大学病院に入院しているという。さなえもお見舞いに行こうと考えるというだけのような話なんだけど、ケビンの存在感が半端じゃない。いつも干渉がましい母親の描写も圧倒的にリアル。地方の町の人間関係がリアルに描かれ、そこに泣き叫ぶケビンちゃん。リアリズム小説なんだけど、カナダに話が飛んで「九年前の祈り」の意味が判るとそういう話かと思う。

 ところが他の短編も読むと、最後の方になって短編が全部つながっていたことが判る。実は「九年前の祈り」でお見舞いに行こうとしていた相手、「タイコーさん」こそ、この連作小説の影の主人公だった。そうなって初めて著者のたくらみが判るが、実はその人こそ著者にとって「書かなければいけない人」だったのだ。最後の付録である芥川賞受賞スピーチを読むまで判らないけど。なるほどと深い感動が湧き起こる。そんな連作小説集だった。

 一番面白かったのは、2002年の三島由紀夫賞受賞作「にぎやかな湾に背負われた船」。その前に書かれた「水に埋もれる墓」(朝日新人文学賞)と一緒に文庫化されている。なんだか判らないような「にぎやかな湾に背負われた船」こそ、マジックリアリズム的手法も使いながら、「浦」の歴史をさかのぼり「満州」や「朝鮮人強制連行」まで巻き込んで「もう一つの日本現代史」を紡ぐ。語り手は「浦」の駐在の中学生の娘で、複雑な人間関係を的確にさばいてゆく。

 他にも「獅子渡り鼻」(講談社文庫)、「残された者たち」(集英社文庫)が文庫化されている。どっちも子どもが主人公格で出てくる。なかなか面白いんだけど、この2冊はどうも消化不良な感じ。長くなるから細かく書かないけど、どの小説でも過疎化した「浦」で奇妙な出来事、奇妙な人々が不思議なドラマを繰り広げる。その他いくつかの小説があるが単行本では読んでない。三島賞、芥川賞は新人賞で、その次にある谷崎潤一郎賞や野間文芸賞などはまだ受賞していない。その意味ではまだ代表作は書かれていない。今後に期待して読んで行きたいなと思う作家だ。
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