尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

三遊亭圓朝の怪談を読む

2018年09月12日 23時01分35秒 | 本 (日本文学)
 角川ソフィア文庫から三遊亭圓朝の怪談が2冊出たので、この猛暑の夏に読んでみようかと思った。「怪談牡丹灯籠・怪談乳房榎」(ぼたんどうろう・ちぶさえのき)と「真景累ヶ淵」(しんけいかさねがふち)の2冊である。三遊亭圓朝(1839~1900)は幕末から明治にかけての大落語家で、落語中興の祖と言われる。怪談噺など新作を多く作り、特に「牡丹灯籠」は速記による口演が刊行され、明治の言文一致運動に大きな影響を与えたとよく言われる。

 森まゆみ「円朝ざんまい」は読んだし、映画で見たり桂歌丸の噺は聴いた。でも読んで面白いのかなと思って、読んだことは一度もなかった。岩波に「牡丹灯籠」は入ってたけど、他は文庫になかったことも大きい。今回三大怪談噺がすぐ読めるようになったから、勢いで全部読んじゃうかと思った。で、さすがに言文一致だから読みやすい。今でもスラスラ読める。「舞姫」や「たけくらべ」より間違いなく判りやすい。しかし、圓朝の怪談は「近代文学」じゃなかった

 それは壮大なる因縁話であり、勧善懲悪の因果がめぐりゆく目くるめくような迷宮だった。そもそも怪談ではなかった。一番怖い「牡丹灯籠」でも、実はという種明かしが最後にあった。とにかく長い「真景累ヶ淵」になると、途中で筋がこんがらがってきて、誰が誰とどんな関係にあるのか全然判らない。ラストで急転直下、すべての因果が全部解決されるが、それは何だか強引な解決だなと思う。「累ヶ淵」というのが、実は鬼怒川のことだというのも驚いた。羽生(はにゅう)というところで展開するので、埼玉県羽生市かと思ったら茨城県常総市にある地名で、それもビックリ。

 「牡丹灯籠」が名前も一番知られているだけあって、完成度は高い。よく知られている幽霊噺だが、実はそれからあとの物語が延々とあるのには驚いた。江戸の根津に住む浪人、萩原新三郎のところに恋焦がれたお露と女中のお米が毎夜通ってくる。それほど恋してしまったら、今なら両想いなんだから問題なく結ばれるだろう。でも身分社会の悲しさ、そうそうすぐには結ばれない。だからと言って、なんですぐに死んでしまうのか。昔の物語だと「恋の病」ですぐに死んじゃう。

 「乳房榎」は怪談には違いないが、因縁の恐ろしさをつくづくと知らされるような物語。どの噺もそうだが、悪人に見込まれると、善人は弱い。悪に付け込まれることから、物語が始動してゆく。「乳房榎」は今年春に見に行った板橋区赤塚にあるが、もうただの小さな木という感じ。その木から出る樹液を塗ると乳の出が良くなるという評判の木。一番短い噺だから、誰が誰だか判らなくなる前に解決するのがいい。これが一番読みやすい。

 圓朝を読んでいて何だか前にも読んだような気がした。思い出すと、岩波文庫から出ているマルキ・ド・サドの「恋の罪」である。サディズムの名前だけ有名で、読んでない人が多いだろう。僕も澁澤龍彦訳の文庫をずいぶん持ってるけど、読んでなかった。大分前だが「恋の罪」を読んだところ、面白くはあるが「因果はめぐる糸車」の連続で飽きてしまった。近代以前の物語はこういうのが多い。「自我」を持った人物どうしの葛藤ではなくて、すべては「因果」で理解される世界なのである。世界の半分は今もそういう世界に生きていると思う。

 ところで、「牡丹灯籠」では幽霊対処法を名刹の和尚に聴く。その寺が「新幡随院」(しんばんずいいん)という。「幡随院」と言えば「幡随院長兵衛」で有名。新が付くのは架空なのかと思ったら、実在していた。幡随院は神田から浅草に移って栄えたが、関東大震災で焼失し、1937年に小金井市に移った。一方、新幡随院の方は谷中にあって栄えたが、やはり震災後の1935年に足立区東伊興に移った。えっ、僕の家の近くではないか。ここには「牡丹灯籠の碑」がちゃんとあった。綱吉の生母桂昌院の墓もある。「新幡随院法受寺」と呼ぶ。
   
(最初が牡丹灯籠の碑、3枚目が桂昌院の墓)
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確かな感動本、「手のひらの音符」を読む

2018年07月28日 22時21分04秒 | 本 (日本文学)
 藤岡陽子「手のひらの音符」(新潮文庫)という本が新聞に紹介されていて、面白そうだった。最初の方は服飾業界の話から、京都の子ども時代の話へ移り、なんだか舞台が身近じゃない感じがする。でも読んでるうちに登場人物たちの構図が判ってくると一気読み。なるほど評判になるだけある。これは今を生きている人に送られた、とても大切なバトンのような本だ。受け取ったバトンを次の人に渡したくなるから、ここで簡単に紹介しておくことにする。

 瀬尾水樹はもう40代半ばの服装デザイナーで、「服のマクドナルド」をめざした会社を退社し、自分なりに納得できる服作りを続けてきた。それなりに評価されてきたんだけど、会社が服部門から撤退することを決めてしまう。そんなときに高校時代の男子学級委員、堂林憲吾から携帯電話がかかってくる。高校時代の担任の先生、上田遠子先生が重病で入院しているという。家が貧しく、高卒で就職することしか考えていなかった水樹に、進学を勧めたのが先生だった。もう内定も出ていたのに、三者面談で進学を母に勧め、そのことで今の人生があるのである。

 子ども時代の水樹は京都郊外の団地で暮らしていた。近くに住む森嶋家の子どもたちとは幼なじみで、兄の徹、森嶋家の三兄弟と祭りに行ったりするのが楽しみだった。一番上の正浩、同い年の信也、そして発達障害でいじめられている悠人。だが森嶋家に悲劇が訪れ、同級生の森嶋信也は心を閉ざしてしまう。高校も一緒だった信也は忘れがたい人だったが、東京の学校に受かった水樹の上京前日に会ったまま、ある日ふっつりと一家ごと消えてしまった。以後一回も会ったことがない。大切に思ってくれる人もいたけど、結局水樹は独身のままだった。

 といろいろ書いても、大事なことは伝わらない気がする。時間と空間を行ったり来たりしながら、水樹の人生を通して読者はずいぶんたくさんのことを感じることになる。「日本のものづくりのありかた」なんかもその一つ。「教員という人生」もある。「親の生き方」も出てくる。水樹の母と森嶋家の母の生き方は違ってくるが、どっちがいいとは言えない。水樹は家が貧しいから、金銭的苦労を掛けたくなくて進学は諦めていた。だけど先生から進学を勧められた母はむしろ喜んだ。自分の子に才能を見出してくれて、そんな子どもにお金を出せるのが親の喜びだったのだ。

 やはり「いじめ」も出てくる。悠人へのいじめと水樹自身へのいじめ。その時の森嶋信也の行動。「リレー」を通して語られる「全力で生きること」の大切さ。そう言えば、幼い彼らは周囲になじまない悠人に対して、「ドは努力のド、レは練習のレ、ミは水樹のミ」とうたっていたのだった。この小説が特に重要なのは、「ヤング・ケアラー」の問題を取り上げていることだ。悠人を抱えて生きていく信也だけでなく、実は堂林も壮絶なケアラーとして生きていたのだ。信也、堂林、遠子先生をつなぐものがあったのである。それにしても消えてしまった信也はどこに?
(藤岡陽子)
 藤岡陽子(1971~)という人は、同志社大学を出て報知新聞のスポーツ記者になり、その後タンザニアのダルエスサラーム大学に留学。帰国後に看護専門学校を出て看護師になった。ここだけでも相当珍しい経歴だが、その後看護やスポーツに関わる小説を書き始めた。デビュー作の「いつまでも白い羽根」(2009)はドラマにもなった。「手のひらの音符」は2014年の本で、2016年に文庫化されていたが、最近になって話題を呼んでいる。題名がいま一つ内容とミスマッチな感じで、これじゃ音楽の話かなと思ってしまう。ラストの忘れがたい感動はぜひ多くの人に読んで欲しい。
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ヤン ヨンヒ「朝鮮大学校物語」

2018年07月24日 23時17分15秒 | 本 (日本文学)
 映画「かぞくのくに」を作った映画監督、ヤン ヨンヒ(梁英姫、1964~)の「朝鮮大学校物語」(角川書店)を読んだ。1983年に東京の朝鮮大学校に入学した大阪出身の「パク・ミヨン」の物語である。著者本人なのかなと思って読んでいくと、もちろん本人の経験もあると思うけど、ちょっと違うなという描写も多い。そもそも著者は兄3人が「帰国者」(帰国運動で朝鮮民主主義人民共和国に帰った人)だが、作中のミヨンは姉が「帰国」している。だんだんラストに近づくとはっきりするが、ミヨンは著者が「こういう生き方ができたらよかった」という姿なんだと思う。

 短いプロローグ、エピローグの間に、1年生から4年生までの4年間が描かれている。ミヨンは入学当初から、自由を求めていて学校の厳しい規則になじまない。もともと大阪の朝鮮学校時代も演劇や映画に夢中で、演劇雑誌「テアトロ」を購読して部屋に持ち込んでいる。東京でも「大劇場のミュージカルからアングラ劇団のテント芝居まで、観まくる生活を送ればいい」と思ってやってきた。そんな人が朝鮮大学校にいたのかと思うが、親が総連幹部で朝鮮学校へ行ったが内心ではもう演劇少女だったということだろう。

 先輩に連れられて、俳優座劇場で上演されたウェスカーの「料理人」を見に行く。主演が在日朝鮮人で本名で出ていると言われて驚く。多摩地区の小平にある朝鮮大学校から、俳優座劇場のある六本木まで、ずいぶん遠い。全寮制で門限が8時だから、日曜の昼間の公演を見たら、すぐ帰らないと遅れる。でもどうしても公演後の飲み会に付き合ってしまう。そして案の定遅れるが、食べてないから男子朝大生しか行かないというラーメン屋に入る。そこで武蔵野美術大の学生、黒木裕とふとしたことから知り合う。(ムサビは朝大の隣にある。)

 この小説にはいろんな読み方がある。「朝鮮大学校」という「秘境」に紛れ込んだレポート。80年代初期、朝鮮人女性が日本人の男子大学生と知り合って、対等の恋愛関係は成立するか。そんな環境で、当時の東京のようすも描かれる。ミヨンと黒木裕はある日曜日に、長いこと見たかったフランス映画「天井桟敷の人々」を池袋の文芸坐に見に行く。そういう描写も非常に興味深かった。しかし、この小説の最大の読みどころは、3年時の卒業旅行だろう。

 もちろん「祖国訪問」に行くのである。ピョンヤンには10年前に別れた姉がいる。姉は音楽家で、同じ仕事の夫との間に娘も生まれた。大阪の母のもとには聞きたいというクラシック曲のリクエストが来る。(クラシックは最近許可になったとか。)CDはないというから、まずCDラジカセから買っていくが、入国時に係官をもめることになる。しかし、そんな姉はピョンヤンにいないと告げられる。中朝国境の新義州に転居したという。なんで? 何があったの? その事情は次第に判ってくるが、一体ミヨンは姉と会えるのか。ここで見聞きする「祖国」の真の姿、恐るべき階級社会、秘密社会の様子が一番心に響くところだ。

 そして4年生、卒業してどうする? 著者履歴を見れば、実際の著者は卒業後に大坂朝鮮高級学校の国語教員となっている。(国語とはもちろん朝鮮語である。)その後に退職し、演劇や映画に関わり、ニューヨークに留学する。つまり、小説中のミヨンとは違う。本人ができなかったことをミヨンがやっているんだろう。ヘイトスピーチに見られる日本社会の差別、朝鮮人社会に根強い男性中心的な世界観など、いろんな問題が詰まってる。だけど、何より読んで元気になる本だと思う。著者の兄は一人が亡くなったが、まだ二人が「北」にいる。こんな本を書いて大丈夫かというと、もう批判する映画を作っているわけで、「有名過ぎて家族に手を付けられない存在」になるしかないと言っている。だからみんなできるだけ買って、読んでみましょう。
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葉室麟「天翔ける」と松平春嶽

2018年05月18日 23時47分44秒 | 本 (日本文学)
 2017年12月23日に惜しくも亡くなった時代小説作家、葉室麟の「天翔ける」(角川書店)を読んだ。発行日は12月26日付で、没後に出た本は他にもあるけど、遺作と言ってもいいだろう。この小説は幕末の賢候と言われた大名、越前福井藩松平慶永(号は春嶽)を描いている。小説という意味では、「天翔ける」はあまり面白くない。幕末史の解説みたいな話である。でも、この本は「明治150年」にあたって、多くの人に読まれて欲しい本だから簡単に紹介しておきたい。

 葉室麟には直木賞受賞の「蜩ノ記」(ひぐらしのき)のような素晴らしい作品がある。最近も直木賞候補作「秋月記」を読んだけどすごく面白かった。それらに比べると、フィクション度の低い「天翔ける」は、少し歴史に詳しい人なら知ってる話ばかりじゃないかという感じ。幕末を描く小説では、薩長の側から見た英雄史観が多い。薩摩藩の西郷隆盛大久保利通、あるいは長州藩の高杉晋作、薩長を結び付けたとされる土佐藩脱藩の坂本龍馬などがよく主人公として描かれる。

 一方、佐幕側の英雄として、新選組もよく出てくる。また、幕府を超えた発想ができた勝海舟などの開明的幕臣もかなり扱われる。立場の違いを別にして、確かに興味深い人生を送ったこれらの人々は、身分的には皆「下級武士」と言っていい。上層の大名レベルでは、「最後の将軍」徳川慶喜以外はあまり出てこない。もちろん、薩摩の藩主の父(国父)島津久光や会津藩主松平容保(かたもり)などは脇役として必ず出てくる。でも幕末を一番騒がせた長州藩の殿さまの名前と言われても、すぐには出てこないんじゃないか。(毛利敬親である。)

 幕末史に「四賢侯」と言われた人がいる。薩摩藩の島津斉彬、土佐藩の山内容堂、宇和島藩の伊達宗城(だて・むねなり)、そして越前福井藩の松平春嶽である。歴史の教科書にもちょっとは出てくると思うけど、どんな人でどんな人生を送ったのか、詳しく知ってる人は少ないと思う。小説の主人公は「過激」というか「極端」な方が面白い。マジメで穏和な人は主人公になりにくい。以上の4人の中でも、豪快な酒豪で腹黒い山内容堂は土佐藩ものに悪役として出てくるけど、開明派の春嶽はあまり出てこない。そんな人を主人公にしたことが面白い。
 (松平春嶽)
 松平春嶽(1828~1890)は御三卿の一つ、田安家の8男に生まれた。10歳の時に福井藩主が後継ぎを残さず急死して、後継に立てられた。(越前松平氏は、家康の次男結城秀康から続く徳川一族の名門である。)まあ細かな出来事は省略するけど、13代将軍家定は病弱で後継ぎ誕生の可能性がなく次をどうするかがもめた。ペリー来航以来の「国難」時代に、血統よりも能力を重視するべきだと考え、島津斉彬や松平春嶽は後継に一橋慶喜(水戸藩主徳川斉昭の7男で、御三卿の一橋家を継いでいた)を推した。斉彬の家臣西郷隆盛や、越前藩の橋本左内などが裏で活躍したが、井伊直弼が大老となり14代将軍には紀州藩の徳川家茂が選ばれた。

 井伊直弼は一橋派の大弾圧に踏み切り、「安政の大獄」で春嶽は強制的に隠居させられ蟄居となった。また家臣の橋本左内が捕らえられ殺された。左内を失ったことが生涯の悔いになった。それがこの小説のキーポイントになっている。しかし、この小説で面白かったのは、結局は慶喜は「小才子」であり、「私」を捨てられない人物だったと描かれることだ。それに対し、若くして亡くなった14代将軍家茂の方が誠実この上ない人柄だった。井伊直弼も「私」を押し出す人物で、安政の大獄こそが幕末のテロリズム時代の幕を開けてしまった。直弼と慶喜、島津久光などは皆「天下」よりも「私」を優先させたとする。

 薩長による内戦路線、慶喜の幕府独裁路線に代わる「雄藩連合による開国路線」を春嶽はめざした。それが歴史的に可能だったかはともかく、「別の明治維新はありえたか」は「明治150年」の今こそ考えるべき問題で、今も意味がある。それは「天皇制絶対主義」以外の近代化がありえたのかということでもある。それにしても、なんと多くの有能の士が無念のうちに倒れていったか。その多くはテロによるものだ。150年前の日本はテロリズム社会だった。「そんな時代もあったね」と今の日本人は言えるけど、150年後のシリアやイラクでも同じように言えると思いたい。
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漱石文学の読み方+漱石山房記念館-漱石を読む⑩

2017年12月29日 23時23分46秒 | 本 (日本文学)
 2017年は文庫版の夏目漱石全集を読み切ろうと思って、9巻の「明暗」まで読んできた。何とか最後の10巻を読みたいと思いつつ、どうも大変そう。自分で決めたことだから何とか年内に読み切ろうと取り組んだけど、案の定2週間ぐらいかかってしまった。何が悲しくて、こんな面倒な本を読んでるんだろうと自分でも思ったけど、一応評論や講演まで読み切った。それを書く前に、どうせなら今年開館した「新宿区立漱石山房記念館」にも行ってみようかと年内最後の開館日、28日に訪れた。
   
 場所は新宿区の早稲田南町、東京メトロ東西線早稲田駅から10分ほど、今まで「漱石公園」となっていたところに隣接している。前に早稲田散歩で紹介したこともある場所だが、漱石の生誕地と没地は(少し離れているけど)早稲田である。そこに建てられたわけだが、ここにあった「漱石山房」を再現したという部屋がある。それがメイン展示(写真撮影不可)で、まあそれほど大きくない。300円の価値があるかどうかは微妙な感じだが、漱石がここで死んだのは間違いないから一度行く意味はある。
   
 地下鉄を出ると、早稲田通りを大学と反対方向へ行く。「漱石山房通り」とある道を見つければ、後はずっと道なりに進むだけ。途中に「新宿区立早稲田小学校」がある。震災後に建てられた復興建築で、思わず見とれてしまう立派な小学校である。中へ入れないし、全景を撮れるような場所もないんだけど、東京にいくつか残る歴史的な学校建築だ。しばらく行くと「漱石山房記念館」が見えてくるけど、ガラス張りの建物でちょっとビックリ。カフェも付いてて、そこへは入場料無しで入れる。

 さて、全集第10巻だけど、まず「小品」がある。「文鳥」「夢十夜」「ケーベル先生」など定評のあるものがけっこうある。「こんな夢を見た」で始まる「夢十夜」は、近年評価もされているが案外面白いものが少ない。「永日小品」という小さなものが集まった作品も同様。一番いいのは晩年のエッセイ「硝子戸の中」だった。1915年1月、2月に新聞に連載された。漱石が死ぬのは、翌1916年の12月だから、もう晩年である。日常の様々な出来事が軽いタッチで描かれ、ファンならずとも面白いと思う。

 今じゃつまらないとしか言えないのは、評論の「文芸の哲学的基礎」とか「創作家の態度」で、100頁ぐらいあるのでウンザリする。言葉が難しいわけじゃないけど、漱石一流の持って回った言い回しが判りづらい。それにバルザックやディケンズなんかじゃ、今の小説論としては物足りない。カフカ、ジョイス、プルーストなんかが出てこないのは当然だが、英文学専門だからトルストイやドストエフスキーもほとんど出てこない。日本の古典も出てこない。まあ漱石研究者以外は読まなくていい。

 講演はそれより面白いけど、昔読んだ時感激した「現代日本の開化」があまり面白くなかった。趣旨が今では有名になり過ぎてしまったかも。近代日本の文明開化は「外発的」であり、「内発的」な開化が必要だと論じる。この「内発」「外発」は漱石が言い出した言葉で、思想史上に定着した。1911年の講演で、明治末期にすでに論じていたことに意義がある。学習院で講演した「私の個人主義」が一番面白い。1915年のもので、学習院というエリートに向けて、「個性」の確立を言うとともに、自己と他者の尊重、金力・権力への戒めなどを説く。その姿勢に漱石の真骨頂があると思った。

 僕は今まで、漱石では「吾輩は猫である」「坊っちゃん」「草枕」「三四郎」「こころ」しか読んでなかった。だから、この機会に全部読もうと思ったんだけど、読んでみたらつまらないものが多かった。結局、特に近代文学に関心が深い人を除けば、一般的な教養としては先の5つで構わない気がする。でも、今でも「それから」「門」「彼岸過迄」「行人」「道草」「明暗」といった後期の大作群も文庫に入って読まれ続けている。それは何故だろうか。第一は、口語体の読みやすい文章だからだろう。

 今では大分古めかしい感じがしてしまうけど、一葉、鴎外、鏡花なんかを思い比べれば、ずっと読みやすい。漢語の表現が難しいだけで、中身的には伝わる。それと都市知識人の小説だという点。そして、マジメな人生小説だという点。背後には「文明批評家としての漱石」がいる。森鴎外や島崎藤村などもそうだけど、良かれ悪しかれ近代日本を背負って文学を書いている。そこに現代人にとっても、考えなければいけない問題が出てくる。

 ただし、明治の急激な近代化の中で、欧米のような近代小説を書くのは難しい。表面は近代化しても、心の中は江戸時代みたいな人ばかりでは、「個性」を持った人間どうしの葛藤を描く近代文学にならない。だから、実際の日本人の生活実態よりも、ちょっと不可思議な物語になりがちである。それに議論しすぎだったり、生活に幅がなくて人物の魅力に乏しい。最近書かれている小説がいかに上手かよく判る。様々なタイプの人間が実際の多数存在しているから、面白い展開を書きやすい。

 漱石後期の小説のテーマには、「姦通」あるいはそれに類したものが多い。だが自己告白衝動のようなものは感じないから、あくまでもテーマとして選ばれていると思う。産業や政治、法律などの観点からはともかく、文芸という観点からは明治の欧米化により「恋愛」が解禁されたことが一番大きい。江戸時代にも当然恋愛的なものはあるわけだが、基本的な道徳としては「身分」によって結婚も制度化されていた。現代だってある程度はそうなんだけど、一応近代の原則では個人の問題になる。

 欧米の倫理観では「神の前に永遠の愛を誓う」のが正しい結婚であり、男女が清らかな愛を育むことは当然である。もちろん欧米だって、そう単純じゃないだろうが、一応「恋愛」が社会的に公認され小説のテーマとして認められる。日本じゃ頭では理解できても現実は難しい。テーマとしては「許されざる恋愛」の方が重大なので、日本の近代小説(だけじゃなく欧米でも)、「姦通」と「身分違いの愛」が無数に描かれた。実際の多くの文士が実生活で「身分違いの愛」や「姦通」を実践したぐらいだ。

 漱石の小説もその一つだと思うが、漱石の主人公は悩む。悩みを超えて、身も心も捧げてしまう愛の喜びはそこにはなく、実社会の道徳との関係で悩む主人公が多い。これは日本の「世間」構造にとらわれているからだ。つまり、漱石を通して、近代日本の知識人が欧米的自立ができず、日本の「世間」に呑み込まれていく道筋が描かれる。それが今も意味があると思う人には価値がある。だが、すべての人は時代の制約を免れず、女性と植民地に関する描写は問い返される必要があるだろう。
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水村美苗「続明暗」を読む

2017年12月03日 21時21分01秒 | 本 (日本文学)
 漱石の「明暗」に続いて、水村美苗が書いた「続明暗」を読んだ。けっこう夢中で読んでしまったので、早く書かないと忘れてしまう。書いても「明暗」を読んでない人にはあまり意味がない。1990年に出たこの本が文庫化された時に買ったまま、僕もずっと読んでなかった。はっきり書いてしまえば、これは「明暗」よりずっと面白い。漱石がもう少し元気で、「明暗」を完成させていたとしても、多分これほど面白くはないだろう。そのことには著者も自覚的で、筋の展開を劇的にして心理描写を少なくするなど現代の読者に受け入れられるように書いたと言っている。

 「続明暗」が出た時点で、水村美苗(1951~)という作家はまったく無名と言える存在だった。親の仕事の都合でアメリカで育ち、エール大学で学んでいる。その後もアメリカで日本文学を教えていて、日本の文壇とは無縁だった。夫は経済学者の岩井克人で、1885年に「ヴェニスの商人の資本論」で一般にも知られるようになった。僕も岩井の名は知っていたが、「続明暗」が出た時点まで水村の名は知らなかった。(二人が夫婦だということも今回調べて初めて知った。)
 (水村美苗)
 「続明暗」はまるで漱石が描いたような文体で書かれている。現在の日本語に接しない環境だからこそ、何十年前の文章の世界に入っていけたのかもしれない。漱石がよく使う当て字も、ところどころで使っているが、さすがに漱石ほど目立たないように書いている。今じゃ校正でチェックされるはずだから、あまり目立ってもおかしいということかもしれない。

 しかし、一番ビックリしたのは文体模写ではない。漱石が「明暗」の中に書き散らした伏線を限りなく回収する手際の良さである。ほとんど完璧に近いと思う。「明暗」の最後で、主人公の津田が病後の転地療養を理由に温泉に行く。そこには結婚前に親しかった清子も療養に来ていた。そのことを津田に知らせ、旅行のお金も出してくれたのは、会社の上司の夫人である「吉川夫人」である。湯河原と思われる温泉宿で、いよいよ津田は清子に再会した。

 という、オイオイ、一体どうなるんじゃというところで作者病没のため未完になったわけである。で、いろいろあるんだけど、温泉宿へ津田の妹秀子と津田の友人小林が連れ立って乗り込んでくる。もうこの二人に出番はないのかと思っていたら、水村美苗はこんなところで使っている。じゃあ、どうしてこの二人が来るのかと言えば、その論理構成には寸分の隙もない

 一応書いてみると、津田の妻、お延が吉川夫人から事の真相を告げられる。夫人の構想では、それをもって「良き妻の教育」につなげるつもりが、お延はショックを受けて放心してしまい、いろいろあるが結局自分で湯河原に乗り込むことにする。そうなると、翌々日にいとこの岡本嗣子の見合いに出かける用事が果たせないので、下女のお時に命じて翌日になったら電話で延子が風邪をひいてしまって行けないと連絡させる。延子を信頼している嗣子は、延子の見舞いに訪れ、お時から真相を聞き出す。岡本は驚き、津田が育った叔父の藤井家に行くと、そこに小林もいる。岡本が見合いのため湯河原に行けないので、津田の妹秀子と事情を知る小林が湯河原行きを引き受けざるを得なくなる。

 「明暗」を読んでない人には全然判らないと思うけど、これは実にすぐれた「明暗」理解だろう。それぞれの登場人物の立場と人柄を合わせ考えると、漱石がどう書いたかは判らないけど、おそらくこのような展開になるべき必然性がある。そういう凄みをこの展開に感じた。また、「明暗」の冒頭の方に出てきてそのまま忘れていた、病院で清子の夫関に偶然会う場面。それを清子との会話に生かす。実際にこのようなことを言えるかどうかは判らないし、当時の新聞小説では不可能ではないかとも思うが、実に慧眼だと思った。(書いてしまうことにするが、関は性病治療に行ったのではないか、その病気が清子の流産の原因ではないかと津田は想像するのだ。)

 まあ、そう言った筋書きの作りはともかくとして、この「続明暗」によってこそ、漱石晩年の試み、「エゴイズム」追及という小説が誕生した気がする。それも湯河原の自然描写を背景に、人間ドラマも絡んで実に読みごたえがある。そして最後に延子を通して「則天去私」を語らせる。これが漱石のねらいだったか。最後まで強い緊張を持って、作中の人々は物語世界を疾走し、ラストで一応の決着を見る。それが「続明暗」で、漱石ファンに限らず多くの人がセットで一度は読んでみる価値がある。

 あえて言えば、当時有夫の女性と親しくするのは刑法上の疑いを招くことをもっと強調するべきではないか。「姦通罪」があり、夫が訴えれば刑務所行きである。そこまでのシーンはないけれど、津田には揺れる心もある。だが津田を思いとどまらせるのは、社会的制裁への恐れだったかもしれない。周りの人々もそのことをもっと心配したのではないかと思う。なお、最後に津田がどうなるかは書かれていない。津田を死なせる決着もあったと思うけど、作者はあえて延子に試練をくぐらせる。男性作家の漱石は違ったラストを用意したかもしれない。

 水村美苗はその後、「私小説」「本格小説」「新聞小説」という題名の長編を書いて、押しも押されもせぬ大作家になっている。「日本語が亡びるとき」という評論も大きな評判を呼んだ。どれもこれも読んでないけど、今度ぜひ続けて読んでみたいと思った。非常に読みごたえがあったので、その後の本も読みたくなる。
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「明暗」-漱石を読む⑨

2017年11月28日 21時24分43秒 | 本 (日本文学)
 夏目漱石全集を読んできて、やっと最後の長編小説である。188回連載されて、ついに未完に終わった「明暗」。未完ながら最長の小説で、600頁を超える。読み終わるのに6日掛かったので、だんだん最初の方を忘れてしまう。中身の方も「大菩薩峠」か、カズオ・イシグロ「充たされざる者」かと思うぐらい、自己増殖的にひたすら長くなっていく。だけど読みにくいわけではなくて、スラスラ読める。

 朝日新聞に1916年(大正5年)5月26日から12月14日にかけて連載された。漱石は1916年12月9日に亡くなっている。49歳10か月。1917年に刊行された、まさに100年前の物語である。漱石はずいぶん昔の作家のように思うけど、同じ1867年生まれの幸田露伴は1947年まで生きて80歳で亡くなった。今より寿命が短い時代とはいえ、第二次大戦後まで生きていたっておかしくなかった。

 この小説を読む限り、仮に完成していても「失敗作」なんじゃないかと思う。人生にとって大事なものは何か。「お金」と「結婚」と言ってしまえば、今もおおよそ同じだろう。今では「結婚しない」という人生も昔より広がっている。でも広い意味での「」は人生を根本的に成立させているものだろう。「お金」は普通は仕事をして得るが、裕福な家に生まれれば不自由しない。でも結婚してしまうと、一時的に実家にいるよりビンボーになったりすることもある。そういう夫婦の話。

 津田延子と結婚して半年ほど。周りは津田は妻を大事にし過ぎている、結婚して変わったと言われている。それで幸せなら、はたがとやかくいうことじゃないと思って読んでいくと、必ずしも夫婦がうまく行っているわけじゃないことも判ってくる。そんなときに津田が病気をして手術が必要になる。以前の病気が残っていたもので、大きな手術ではないとはいえ、仕事やお金の苦労がある。

 津田は京都にいる父から毎月の仕送りを受けていた。賞与で返すという約束だったが、それを果たさなかったので父は金を送れないと言ってきた。手術の費用もあるし、どうしようか。延子も両親が京都に住み、東京のおじ岡本家で育った。両家の父は京都で知人で、たまたま京都へ行ったいた時に延子は津田を知った。というようなことがだんだん判ってくるけど、それでもなんだか判らない。小林という津田の学友が現れ、貧しい育ちの彼は朝鮮へ勤めると決心して彼の外套を貰いに来る。

 このように小説を半分読んだところでは、「お金」をめぐる物語なのかなあと思う。ところが実は違っていて、途中から再び三度、漱石お得意の「三角関係」が前面に出てくる。津田には、延子との結婚前に結婚を考えていた女性があった。(もっとも大正時代だから、自由に会えるわけじゃない。もちろん肉体的な関係などない。)しかし、その清子は突如彼のもとを去り、津田の学友でもある関と結婚してしまった。その不審に悩んでいた時に延子が現れたということらしい。

 この間、彼の病室には、彼の妹の秀子が現れ大げんかになる。また夫婦の仲人でもあり、津田の会社の上司でもある吉川の夫人も現れ、津田を病後の療養との名目で温泉行きを進めお金もだしてくれる。そして同じ温泉にいま清子が逗留していると告げる。吉川夫人は彼のいない間に、延子を彼にふさわしい妻にすると請け合う。どうもおかしな話なんだけど、この一種の陰謀家、吉川夫人は生きている。作者の思惑を超えて、その度はずれたお節介によって物語を動かしていく。

 でも他の人物、特に小林や妹お秀は、いくらなんでもこんな人はいないだろう。日本人は大人同士で大議論することなど少ないのに、「明暗」では他の漱石の小説にもまして、皆が大論戦を繰り広げている。しかも、漱石の小説では珍しく、立場の違う様々な人々の内面が描写されている。今じゃ、神様でもないのに作者はどうして何でも知ってるのかと思われてしまうが。一般には日本の近代小説は「私小説」で作者自身と同一化した主人公が苦労する話が延々と続くことが多い。

 もっと総合的に社会を描き出す小説、まあフランスやロシアで書かれたような大長編小説が作家にとって目標だった。だが、いくつか書かれた本格小説もあまり成功していない。そもそも「社会」がちゃんと成立していないと、つまり「個性」を持った人間が社会にいっぱいいないと、長い小説は面白くならない。そしてそういう小説を楽しんで読む読者層が存在しないと、小説家が生きていけない。、朝日新聞の読者に男性の知識人層が多かった事もあると思うが、なにしろ「明暗」は理屈っぽい。漱石自身も多分そうなんだろう。それがこの小説にとっては致命傷だと思う。

 どうでもいいんだけど、100年前と今では様々な違いがたくさんある。昔の小説を読むと、「携帯電話がなんでないんだ」と言いたくなることがある。ケータイさえあれば解決しそうな悩みで苦しんでいることが多い。もっともインターネットが発達したことでまた違った悩みが現れ、それが物語にもなっている。それと津田が入院しても「健康保険」がないから、金策を心配しないといけない。やっぱり皆保険制度は大切なものだなあと思った。保険があれば、この物語もかなり変わってくる。

 漱石が死んだ後も何回か連載されているから、少し書き溜めてあったんだろう。でも、今後の展開を書き残したノートなどはなかった。どうなるのかは判らない。70年以上経って、水村美苗が「続明暗」を書いた。文庫本を買ってあったけど、「明暗」を読んでないのに続編を読んでも仕方ないからずっと放っておいた。続きが気になるから、続いて読み始めたので、それはこの次に書きたい。津田が向かうのは、湯河原温泉である。湯河原に津田と清子がそろうところから、「続明暗」が開始される。
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超絶面白本、西加奈子「サラバ!」を読みふける

2017年11月13日 23時06分40秒 | 本 (日本文学)
 ここ数日、西加奈子(1977~)の直木賞受賞作サラバ!」(小学館文庫、上中下)を読みふけっていた。とんでもなく面白くて、心の奥にズシンと響いてくる。すごい小説である。原著が2014年に出た時、直木賞確実と言われてものすごい評判だったけど、あまりに分厚くて文庫になったら読もうと思った。今回文庫になったら上中下3巻もあるではないか。買う時にうっかり中巻を買い忘れるところで、店員さんが注意してくれて助かった。(僕は文庫は買って読みたいと思うし、ちゃんと書店で買いたいなと思っている人間である。)合計1,860円+税。絶対に高くない。

 この本は基本的には、圷歩(あくつ・あゆむ)、後に両親が離婚して母方の姓を名乗った今橋歩という男性の37年間の自伝という体裁で書かれている。著者は女性なんだから、ホンモノの自伝のはずがない。でも、ここで書かれている小学校低学年でエジプトに住んだ時の描写なんか、とても想像だけでは書けないだろう。調べてみると、やっぱり著者は1977年にイランで生まれ、後にエジプトにも住んでいた。大阪の人間という点も共通している。もっとも歩は東京の大学に進むのに対し、著者は関西大学卒業。実際の体験が入っていても、やはり想像力で書かれた同時代の精神史である。

 書きたいことはいっぱいあるけど、一応ストーリーを簡単に。歩は(もちろん本人は知らないことだけど)イスラム革命直前のイランに生まれた。父親が石油会社の海外駐在員だったから。革命で帰国して大阪に住むが、4歳上の姉・貴子が小学校で「問題児」となり、いじめられる。母親は娘とうまくいかず、歩に期待する。歩は幼いころから自分を消して周囲に溶け込むように生きるすべを身につけ、幼稚園、小学校を楽しく暮らすけど、父はまたエジプト勤務となってカイロに赴く。初めてのエジプトは何しろ匂いが強烈で、トイレもすごい。豪華なマンションに住んで日本では考えられない暮らしをする。日本人学校で友だちもできるけど、それ以上になぜか気があった現地の少年、ヤコブと固い友情を結ぶことになる。ここまでが上巻で、「サラバ!」の由来は上巻の最後に出てくる。

 ここまででもちょっとすごい幼児体験だけど、だんだん両親に不穏なムードが漂い始め、突然の離婚で帰国することになる。姉は相変わらず日本の中学で孤立し、歩は孤立しないように柔道を始めようとして母親の強い反対で、サッカーを始める。中学のサッカー部と男女交際、私立男子校に入って、須玖(すぐ)という友人と出会い、本や映画や音楽の世界を知る。だが、そこに1995年の阪神大震災、続く地下鉄サリン事件が感受性の鋭い須玖の心を閉ざしてしまう。一方、姉・貴子は前に住んでいたアパートの大家を中心にした宗教(のようなもの)で、神様のように奉られたあげく、マスコミにうさん臭いと取り上げられ、心を閉ざすようになる。ここまでが中巻の前半。

 後半で彼は東京へ来て、さまざまな体験をしながらライターとして暮らすようになる。何人もの女性と関係を持つが、やがて別れがやってくる。そして、姉はどうなる、歩の家族は、と話はずっと続くわけだけど、一応それは自分で読んでもらうことにしてストーリー紹介は止める。下巻になると、ええっと思う展開もあるけど、けっこう「こうなるな」と思うところも多い。上中で拡散した伏線を回収して、この壮大な物語にまとまりを付けるにはどうなるか。(ヒントを書いておくと、2011年に日本とエジプトで何が起こったか、思い出してほしい。)それでも姉の関わった「サトラコヲモンサマ」の名前の由来にはぶっ飛んだ。最後の頃に出てくる父母の離婚の理由も読まないと判らない。

 読んでみて、よくもまあ女性にして、思春期の男子の気持ちがここまで書けたなあと思った。中学時代なんか思い当たることが多い。基本的に歩は容姿に恵まれ、姉は恵まれなかった。いじめられっ子の姉のことを知られたくない歩は、がんばって「フツー」を演じて、本心を消すように生きて来た。その甲斐あって、容姿に恵まれた歩はモテるのである。大学1年の時なんか、手あたり次第。それも30過ぎると終わってしまう。その終わり方はビックリだけど、若さや容姿で勝負できる時期なんか、あっという間に過ぎてしまうのである。パートナーやセクシュアリティの問題も大きなテーマである。

 だけど、やっぱりこの本の一番大きなテーマは「家族」と「宗教」だと思う。社会や政治、男女関係、学校、労働、文化など様々な問題が出てくるけど、人間にとって一番大きいのはやっぱり「家族」なんだと思う。僕も(世界中のすべての人と同じように)、気が付いてみれば今の時代に生きていた。気が付いたら日本語で話し、考えていた。人間は与えられた条件の中で生きていくわけだが、同時代を生きる人なら世界に何十億、日本でも1億以上いる。でも、同じ家族に生まれた人は限られる。親は選べないから、これも気づいてみれば親子になっていた。

 歩の人生を読むと、小さいころはこんな大変な家はないという感じ。姉はとんでもないし、母も自分勝手である。父親だってかなり変で、ここまで変な一族に囲まれた末っ子のアユムくん、よくやってるじゃないかと拍手を送りたいぐらいである。でもだんだん歩クンもおかしくなってくる。家がもっと裕福なら、自分がもっと容姿に恵まれていたら…と考えない人は少ないだろう。その恵まれた境遇にいるはずの歩。だが、彼は自分は家族の被害者だと思って生きていた。実際小さなころはそうなのである。一番幼い彼にできることなんかない。しかし、そうやって「被害者として、声を潜めて生きる」ことが彼の心をむしばんでしまう。「歩」と名付けられたけれど、彼はずっと自分で歩いていなかった。

 姉の心を閉ざしていたものは何か。よく判らないんだけど、何か切実に信じられるものを求めては、裏切られ続けていく。そんな姉が自ら歩み始めるとき、「信じる」って何だろうと深く考え込む。それは「宗教」かもしれない。実際、父は出家して仏門に入るし、歩の子どもの頃の親友ヤコブはエジプトのコプト教徒だった。エジプトでは朝の祈りの時間を知らせる「アザーン」で起きるし、姉は一時は宗教の教祖のようになる。歩はまったく宗教に関わらないけど、これほど宗教に近い人生を送って来た日本人も少ないと思う。そういう彼を通して、僕らも「神」または「運命」をとことん考える。

 僕にももちろん多くの「出会い」があり、多くの「サラバ!」があった。いつもは忘れているけれど、その一つ一つはやっぱり「奇跡」だった。誰にでもきっといくつも思い当たることがあると思う。出会ったり、別れたりを繰り返しながら、最後には全員と「死」という別れで「サラバ!」である、僕らの人生。でも、その中で多くの奇跡も起こったではないか。それは「神」がいるのか、単なる偶然か、そんな問題はどっかへ追いやって、僕らは歩の人生を通して、僕ら自身の人生の「奇跡」を静かに見つめてみようか。それが「サラバ!」を読んで心を揺さぶられた僕が思ったこと。

 僕は西加奈子さんの本を読むのは初めて。「サラバ!」以前は、そういう名前の作家がいるな程度の認識で、西野カナがエッセイ書いてるんかと昔は思ってた。これからちゃんと読みたくなってきた。なお、本の中にユダヤ教コプト教が重要な役割で登場する。イスラム教キリスト教との関係を説明する注があった方がいいんじゃないかと思う。一神教であることは共通で、神は同じである。コプト教はキリスト教の一派で、451年の公会議で主流派と分かれた。主にエジプトで人口の1割程度の信者がいる。エチオピアやアルメニアの正教会と近い関係にある。ユダヤ教は旧約聖書しか認めないが、イエスを神の子として新約聖書を認めるのがキリスト教。イエス(イーサー)も預言者と認めるけど、ムハンマドが最後に現れた預言者と信じるのがイスラム教。
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トンデモ小説「道草」-漱石を読む⑧B

2017年11月05日 21時21分22秒 | 本 (日本文学)
 「こころ」と一緒に、漱石全集第8巻の後半に入っているのが「道草」という小説である。次がいよいよ未完に終わった「明暗」だから、「道草」は漱石にとって完成された最後の長編小説ということになる。だけど、これは非常にとんでもない小説だった。今読むとビックリすることばかり。漱石の「自伝的作品」と言われているけど、読んでいても全然面白くならない事にも驚いた。

 「道草」は1915年(大正4年)6月3日から9月14日まで朝日新聞に連載された。漱石がイギリスから帰り、東京の駒込に住んだ1903年(明治36年)頃が描かれている。もう少し後の出来事も書かれているらしいけど、多少のフィクション化が施されているものの大体は自伝的なものと言うことになっている。漱石は幼いころに養子として他家で育てられた時期があるが、その頃の養父、養母が別々に彼のところに金をせびりにやってくる。(養父と養母は大昔に別れている。)

 もうその養家とは完全に切れているはずなのに、やってくると金を渡さずにいられない。姉とその夫、兄もこの問題で相談するけど、世に成功しなかった人ばかりで充てにならない。主人公の健三は、実生活上に役に立たない男で、妻との日々も冷え切っている。そういう日々が克明につづられていくけど、こんな話が面白いわけがない。冷徹なリアリズムで、自己とその周りの人物を描写するというのも、大事なことではあるだろう。でもなんでこんな話を書くのか、まったく判らない。

 小説そのものはけっこう読ませるんだけど、読んでる方が不快になるのである。多分この小説が書かれた時代とは、女性問題などに関するコードが完全に違っているんだろうと思う。「満韓ところどころ」に全く中国人側の視点がないように、「道草」にも女性読者に読まれるという意識が全くないんじゃないだろうか。妻が教養がない、バカだといった感じの表現で貫かれている。

 一例を挙げると、「93」から。
 四五日前少し強い地震のあった時、臆病な彼はすぐ縁から庭に飛下りた。彼が再び座敷へ上って来た時、細君は思いもかけない非難を彼の顔に投げつけた。
 「あなたは不人情ね。自分一人好ければ構わない気なんだから」
 なぜ子供の安否を自分より先に考えなかったかというのが、細君の不平であった。とっさの衝動から起った自分の行為に対して、こんな批評が加えられようとは夢にも思っていなかった健三は驚いた。
 「女にはああいう時にも子供の事が考えられるものかね」
 「当り前ですわ」
 健三は自分がいかにも不人情のような気がした。(引用終わり)

 このとき漱石には三人の女児があった。女の子が三人続いたのである。その時の健三は「一番目が女、二番目が女、今度生まれたのもまた女、都合三人の娘の父になった彼は、そう同じものばかり生んでどうする気だろうと、心の中で暗に細君を非難した。しかし、それを生ませた自分の責任には思い至らなかった。」地震が起きたのは、三女が生まれてすぐの時期だった。

 自宅に小さなわが子が三人、それも一人は生まれたばかりの子どもがいて、地震が起きて「とっさの衝動」で自分の事しか考えないというのは、むしろ不幸なこととしか思えない。普通の人間としての感情が素直に出てこない状態である。いや、人間には究極的なエゴイズムがあるから、本当に家が壊れるぐらいの地震だったら、それはどうなるか誰にも判らないかもしれない。でも、普通は子どもの事を考えるでしょう。少なくとも、こういうことを文章にはしないに違いない。

 漱石の家庭生活については、昔からいろいろ言われている。漱石夫人「悪妻説」というのが昔からある。特に教育もなかったので、日本最高級の知識人である夫からすれば、それはつまらないことも多かったんだろう。昔の人の事はよく判らないので、これ以上書いても仕方ない。漱石は特に自分が女性差別主義者だと思ってなかっただろう。「世の通念」のままだったのだと思う。夫婦間や親兄弟がうまくいかないというのは、別に珍しいことでも何でもないけど、今じゃ読めないという話。

 漱石は1896年6月に、中根鏡子と結婚した。熊本時代である。鏡子は1877年生まれだから、ちょうど10歳年下になる。没年はなんと1963年で、85歳でなくなった。第二次大戦後まで生きて、僕と時間が重なるというのに驚き。それにしても、東京五輪の前年まで生きてたのか。漱石との間には、筆子、恒子、栄子、愛子、純一、伸六、ひな子の2男5女が生まれた。

 鏡子の父、中根重一は、結婚当時貴族院書記官長をしていた。今で言えば、参議院事務総長で、まあそれほどすごい高級官僚というほどでもないけど、一応安定した地位にあった。でも4年で、政変に伴い辞職。その後投資に失敗して窮迫したように「道草」で描かれている。貴族院書記官長というのは、全部で9人しかいなくて、前任が金子堅太郎。中根が2代目で、4代目に柳田国男が務めたことで知られている。大体、その後に貴族院議員にしてもらった人が多いのに、中根は選ばれなかったと「道草」に書かれている。
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「こころ」ー漱石を読む⑧A

2017年10月31日 22時29分48秒 | 本 (日本文学)
 夏目漱石全集を読むのも久しぶり。選挙もあったけど、10月の読書はジロドゥや安藤鶴夫なんかにけっこう時間がかかった。いよいよ「こころ」である。まあ「こゝろ」なんだろうけど、ここでは「こころ」と表記する。1914年(大正3年)の4月20日から8月11日まで朝日新聞に連載された。ウィキペディアを見ると、2016年現在、新潮文庫で歴代1位の716万部を発行したと出ている。

 「名作」として知られ、若い時に読むべき人生の書のように言われている。もちろん僕もこれは読んだ。正直言うと、名作かもしれないけど好きになれないと思った。それは今回も大体同じ。案外そういう人が多いんじゃないだろうか。でも、今回改めて読んでみて、判りやすい文章、構成の妙、伏線のうまさなど、やはりこれは名作だなあと読んでいて感心した。

 適当にページをめくってみて、例えば鎌倉で「私」が「先生」と出会って、それから東京で先生の家を訪問するようになる6章。「私はそれから時々先生を訪問するようになった。行くたびに先生は在宅であった。先生に会う度数が重なるにつれて、私はますます繁く先生の玄関に足を運んだ。」そのちょっと後の会話。「今度お墓参りにいらっしゃる時にお伴をしてもよござんすか。私は先生といっしょにあすこいらが散歩してみたい」「私は墓参りに行くんで、散歩に行くんじゃないですよ」

 まあ、今じゃ「よござんすか」なんて、落語かなんかでしか聞かない。先生に対しても「いらっしゃる」なんて敬ってもらうことはほとんどないだろう。地の文でも「繁く」なんて使わない。「会う度数が重なるにつれて」も、今の言葉としては固い。「何度も会うようになると」程度の表現になるだろう。でも、意味は十分に通じる。100年前の会話だけど、完全に意味は了解可能である。そして、そのちょっと固い感じになってしまった古風なムードとリズムが心地いい

 「こころ」の筋書きについては、ほとんどの人が知ってるだろう。だから、ここでもすでに知っているものとして書くことにする。今の場面、「先生」は毎月雑司ヶ谷墓地にある墓に参っていることを指している。これは誰の墓か。この時点では明らかにされない。第3部の長い長い手紙の中で、自殺した友人Kの墓だと明かされる。しかし、この小説の語り手である「私」は、かなり早い時点ですでに「先生」が死んでいることを明らかにしている。だけど、その事情は明かされない。

 「先生」の人生、あるいは「先生」夫妻のありようには、どうも謎めいたところが多い。第一、「先生」というけど(実名は明かされない)、最後の最後まで無職の人物だった。大学は出ているから、漱石がそうだったように、旧制中学の教員ならすぐになれたはず。だが、彼は一度も世に出なかった。今なら「引きこもり」かなという感じだが、何らかの事情があるようだ。そういう謎めいた雰囲気のもとで、物語全体がグルーミー(憂鬱な)ムードに覆われ、霧が立ち込めたような感じがする。

 その謎がすべて解かれるのが、第3章の「先生」の手紙。その意味で、この小説は一種の「倒叙ミステリー」とも言える。普通のミステリーは殺人(あるいは何らかの謎)があり、その犯人探しを目的に物語が進行する。だけど、もう冒頭で犯人が判ってしまうタイプのミステリーもある。それじゃ物語にならないだろうと思うかもしれないけど、そんなことはない。現実の殺人事件なんかを見ても、例えば相模原の障害者施設襲撃事件なんかが典型だろうが、「犯人は誰か」ではなく「動機をどう考えるか」こそが問題で、真に恐ろしいということが多い。

 「こころ」という小説は、いわば「先生自殺事件」なんだけど、自殺だから「犯人」は判ってるわけだが「動機」が判らない。「先生」の謎めいた一生の奥深くに潜む「動機」こそが「謎」だった。そしてそれは「友人K自殺事件」が伏線で、実は「連続自殺事件」だったことになる。その「先生」の決意を固めさせたのが、明治天皇の死であり、それに続く乃木大将の「殉死」だった。

 乃木希典は1912年9月13日に死んだ。異様な衝撃が日本中に走ったわけだけど、そのことは僕には「歴史的知識」としては知ってるけど、もちろん実感はない。1867年生まれの漱石は、根っからの「明治人」だから、明治の終焉に大きなショックを受けたことは当然だろう。乃木が校長を務めていた学習院で学んだ「白樺」派の文学者、例えば武者小路実篤なんかは日本人が乃木大将を偉人として尊ぶのを嘆いてバカにしている。トルストイやロダンなどが「人類的偉人」なのである。20年ほどの世代差があると、感じ方が全然違うわけだ。

 その意味で、「先生」がなんで死んだかという一番重大な問題が、僕には今ひとつピンとこない。Kの自殺をどう考えようが、乃木大将が死のうが、もう彼しか頼りにする人がいない妻を残して先に逝くほどの理由になるのか。ならんだろ、全然、と今の人ならほぼ全員がそう思うんじゃないだろうか。そこに疑問があるわけだけど、じゃあ「先生」が死ななければいいのか。「先生」が何かの職についていればよかったのか。そうでもないだろう。友人Kの死を背負って、一生世に出ずに終わった。そして最後は乃木大将殉死の報を受けて、長い長い手紙を残して世を去る。そこに「感動」がある。

 そういう仕掛けなんだから、それを批判しても仕方ない。だけど、現実には相当無理がある設定だろう。手紙で語られるKとの交際は、「同じ人を好きになってしまった」問題である。これは今でもいっぱいあるだろう。「先生」が正直に行動できない理由はとてもよく判る。妻にも打ち明けられないのも、実によく判る。だけど、そういうことはずべて飲み込んで、そのうえで学問や教育に一生を捧げて優れた業績を上げる。そんな人も決して稀ではない。要するに「先生」はそこまでの人物ではなかった

 先生が世に出ないで済むのは、一定の財産があったからである。「私」が大学卒業後にすぐ職に就かないのも、同様。「私」は大学卒業をありがたがる田舎の両親に対して、大学を出た人なんか何百人もいると言っている。しかし、全日本で数百人なんだから、特別すごいエリートだった。「先生」が出た時はただの「帝国大学」。1897年に京都帝国大学ができて、東京帝国大学となった。主人公はもう東京帝大時代の卒業である。卒業式には天皇が訪れる。1912年に卒業した主人公は、天皇の病気が公表されてビックリした。当時は6月卒業だったので、天皇を見たばかりだったのである。

 「こころ」は何回か映像化されている。新藤兼人監督が1973年に映画化したが、それより市川崑監督が1955年に映画化した日活作品が名作だと思う。「先生」に森雅之、妻が新珠三千代、Kが三橋達也、妻の母が田村秋子、「私」が安井昌二、女中が奈良岡朋子というキャスト。これは見ればこれしかないだろうと思う顔ぶれで、本を読んでいても映像が俳優の顔で浮かんでしまう。セットもよく出来ていて、一見に価値ある映画になっている。
(市川崑監督「こころ」)
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「行人」-漱石を読む⑦B

2017年10月01日 22時33分34秒 | 本 (日本文学)
 夏目漱石を読むシリーズで「行人」を読み終わった。数日前になるから忘れないうちに書いちゃいたい。文庫本で430頁もあるから、「吾輩は猫である」や「明暗」と並ぶ巨編である。でもあまり取り上げられないし、読んでる人も他の作品に比べれば少ないんじゃないか。でも会話が多いうえドラマチックな映像的描写も多く、案外読みやすい。なかなか重要な作品だと思う。

 「行人」は1912年12月から1913年11月まで朝日新聞に連載された。ただし、途中で胃潰瘍のため、5カ月の中断期間があった。1912年の7月30日に明治天皇がなくなり、大正と改元された。だから、漱石では「彼岸過迄」が明治最後の作品で、「行人」が大正時代に書かれた最初の作品となる。

 内容は4部に分かれていて、「友達」「兄」「帰ってから」「塵労」の4章。当初は後に長野二郎という名前だと判る人物が、高野山に友だちと行こうとして大阪に行く。一緒に行く友達の「三沢」を待ってる間、東京の実家でかつて書生だった「岡田」という家に泊まる。ということで、何が起こるのか判らないんだけど、実はこの二郎は語り手であって、真の主人公は兄の一郎だということが判ってくる。

 三沢がなかなかやってこない間、二郎は長野家で「下女」をしている「お貞」の結婚相手に会う。岡田とその妻「お兼」(昔長野家に仕えていた)が進めている縁談である。こういう風に最初は「結婚」をめぐる社会小説かと思うと、今度は三沢が大阪で入院していると判る。その病院で入院している女をめぐってあれこれと語り合う。そんな感じでなんだか判らないんだけど、大阪が舞台。

 そこへ2章になって、兄夫婦と母が大阪へやってくることになる。この際どこかを訪れようと、和歌の浦に行くことになる。このように名所が出てきて、そういう面白さもある。だんだん判ってくるのは、兄夫婦の不和。兄の妻「直」には一女があるが、結婚前から二郎と知り合いらしく、兄は自分になれず、弟には親しんでいると疑っているらしい。そこで兄は弟に、妻を連れ出して心の内を確かめてくれと言い、二人で和歌山へ行く。ところが突然集中豪雨になって、帰りの電車が不通となり市内に一泊せざるを得ない。天候の急変と兄嫁との関係が絡み合い名場面になっている。

 その後、東京へ帰るが、家じゅうが兄を敬遠している感じで、学究肌の兄もみなに親しまない。二郎は実家を出ることにする。妹の「お重」も出てくるが、結局兄の一郎をどう理解するか。癇癪持ちで、父親さえ接しあぐねている。二郎は三沢を通じて、兄を旅行に連れ出してもらおうとする。そして、同行のHさんから来た長い長い手紙で物語は突然に終わってしまう。

 どうも病気がはさまって、やっぱり構成がよくない。でも、悩む本人の語りではなく、周りの人物の目で描かれるので、だいぶん本格小説っぽい感じがする。それに大阪や和歌山、あるいは東京でも舞楽の会に行くなど、動きがあって面白い。当初は主題が「結婚」のように進行していて、兄夫婦、それに二郎や友人の三沢、妹のお重などずいぶん人物も出てくるので、そういう風に結婚をめぐって展開するのかなと思う。だが、やっぱり途中で転回してしまう。

 それは兄の一郎の「悩める知識人」という問題である。これは漱石にもそういう部分があるから書けるんだと思う。大きく言えば、急激な近代化の中で、自分の拠り所を持てない知識人の自我の悩み。だけど、現実には周りに人間がみな愚かに見えて、自分の悩みを判ってくれないと思い、周囲の人物を疑っていく。それは明らかに精神疾患に近いと思われる。彼の学問そのものが、外国のものを日本の現状を無視して受けいれるものだった。そういう中で精神のバランスを失っていったのだ。

 都市知識人の苦悩、というよりも、初老期の被害妄想あるいはうつ病に近い感じを僕は受けたけど、それが結構よく書けている。ただし、その救いが宗教にあるかもと思うようなところに、時代の限界があるかもしれない。案外面白く書けてて、割と読みやすいけど、やっぱり基本的にはもう古いような気はする。
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「満韓ところどころ」-漱石を読む⑦A

2017年09月23日 22時30分01秒 | 本 (日本文学)
 ちくま文庫版漱石全集第7巻には、小説「行人」と紀行「満韓ところどころ」、随筆(病床回顧)「思い出すことなど」が入っている。「行人」だけで430頁もあるから、そこで挫折しそうなので、後ろの二つから読むことにした。書かれた順番ではそっちが先なんだし。両方合わせて230頁程度の作品。
 
 ということで、一応書いておくんだけど、これは「記録」という感じ。「思い出すことなど」はともかく、「満韓ところどころ」は全く面白くない紀行だった。こういう文章を漱石が書いていることは大昔から知っていた。「満州」「韓国」の当時の状況を、日本の知識人がどのように見ていたのか。非常に貴重な記録なんじゃないかと思い込んでいたけれど、まったく違った。

 時期的なことをまとめておくと、1909(明治42)年9月2日から10月14日まで、満州と韓国(大韓帝国)を旅行した。帰国後、10月21日から12月30日まで「満韓ところどころ」を朝日新聞に連載した。小説をみると、1908年に「三四郎」、09年に「それから」。10年の「門」執筆中に、胃腸病で入院した。まさか翌年死にかけるとは思ってなかったろうが、前年の旅行時も胃腸の不良が続いた。

 歴史的には、1904年に日露戦争、1905年のポーツマス条約で、日本はロシアが租借していた遼東半島を獲得した。また、ロシアの東清鉄道の奉天以南も獲得し、1906年に南満州鉄道株式会社(満鉄)が設立された。総額2億円のうち、日本政府が半額の1億円を現物出資した「半官半民」の会社である。単なる鉄道会社ではなく、事実上「満州」(中国東北部)の植民地経営を行う会社だった。漱石の帰国直後の、10月26日には、前韓国統監伊藤博文がハルピンで暗殺された。翌1910年が「韓国併合」なので、漱石はその直前の貴重な時期に旅をしていたことになる。

 だけど、「満韓ところどころ」にはそういう緊張感がどこにもない。というか、そもそも韓国旅行の部分が出てこない。連載が長くなり、12月30日になったから「もうやめ」と書いてある。なんだなんだという感じで、せめて出版時に「韓」の字を削るべきだっただろう。ただし、「社会的緊張感」はない代わりに、漱石がゼムなる仁丹みたいなものをいつも服用しながら、時には見学を休んでいる。体調不良に関する「緊張感」ならずっと続いている。こんな旅行しなけりゃ良かったのに。

 じゃあ、なんで行ったのかというと、一高時代以来の大友人、中村是公(1967~1927)が第2代満鉄総裁を務めていたからである。漱石は、是公を一高以来「ぜこう」と呼びならわしていた。多くの人がそう呼んでいたけれど、本当の読み方は「よしこと」という。これは読めない。東京帝大法科大学を卒業後に大蔵省に入り、台湾総督府時代に民政局長の後藤新平と知り合い腹心となった。

 後藤新平は初代の満鉄総裁になり、中村是公を副総裁に据えた。1908年、後藤が第2次桂太郎内閣の逓信大臣になると、是公は41歳の若さで第2代満鉄総裁になり、満鉄史上一番長い5年間を務めている。1913年に原敬によって満鉄を追われ、その後は貴族院議員、鉄道院総裁、東京市長などを務めた。この経歴は、ずっと後藤新平絡みの政官界人生だったことを示している。今はもう「漱石の友人」として知られているだけだろう。その是公が漱石を呼んだわけである。

 漱石の友人、知人、かつての弟子などがこの紀行にはたくさん出てくる。そのことの意味もいろいろ論じられている。是公は多くの日本人にはいまだ知られざる「日本人による植民地の発展」を見せたかったが、漱石は一種の「同窓会旅行」のように書いた。そこに何か意味を求めるかどうか。だけど、昔の友人や熊本時代の教え子なんかが、なんでこの時代の「関東州」に集中していたのか。

 すべてセッティングされ、お金も出してもらえる(と書いてある)「主人持ち旅行」。結局この紀行がつまらないのは、そういうことだと思う。自由に民衆の中に入っていくことはない。そういう体力もないけど、そういう発想もないと思う。それは当時の旅行というものの限界だろう。「日本人の活躍ぶり」ばかりが出てくるのも、やむを得ない。そういうとこばかり周っているんだから。セッティングされた名所めぐり。中国や北朝鮮に招待されて書かれた紀行が、昔いっぱいあったけどなんだかそんな感じ。

 「露助」や「チャン」と言った「差別語」も出てくる。中国人民衆が汚いとか、苦力(クーリー)を下に見るような表現も出てくる。それをどう見るか、さまざまな説があるようだけど、言葉を使う仕事なんだから、そういう言葉を安易に使っては困るように感じた。そもそも体調もあって、それほど乗っていた気がしない旅行記である。たった数年前に戦争があったばかりの、旅順の古戦場も訪ねている。

 日本はロシアとの大戦争を戦い、関東州を獲得した。この文章を素直に読む限り、漱石は「国家の発展」に肯定的な「帝国の作家」と言える。漱石は一高、東大を卒業、英国に留学もした「一流のエリート」である。当然、学校時代の友人もエリートである。そういう人が外地にたくさん出ていた。内地を食い詰めた人が植民地に流れる時代ではなかった。創設間もない満鉄を中心に、実務エリートが外地に集められていた時代なんだろう。そういう人の声を記録するのも意味はあるが、この紀行はそこまでの中身がない。もう少し体調が良ければ、もっと意味あるものになったかもしれないが。
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「門」と「彼岸過迄」-夏目漱石を読む⑥

2017年09月14日 22時34分30秒 | 本 (日本文学)
 この間、ちくま文庫版漱石全集第6巻の「」と「彼岸過迄」を読んでいた。どちらもなかなか手ごわくて、一向に面白くならない。部分的には面白いんだけど、漱石というのは今読むとずいぶんつまらないんだなと痛感するような巻だった。「」は「三四郎」「それから」と続く前期三部作の最後、「彼岸過迄」は「行人」「こころ」と続く後期三部作の最初とされている。だから読まないといけない。
 
 「」は1910年の3月から6月、「彼岸過迄」は1912年の1月から4月に朝日新聞に連載された。「門」執筆中に胃腸病で入院し、その後、伊豆に転地療養中に大喀血して一時危篤におちいる。いわゆる「修善寺の大患」である。だから、1911年には講演や随筆などはあったが、小説は書かれなかった。「彼岸過迄」が再起第一作ということになる。

 「」は野中宗助という男と妻御米(およね)の貧しい生活をじっくり描いている。彼はかつて京都の大学で学んでいたが、友人の安井の「内縁の妻」だった御米を奪うような形で一緒になった過去がある。そのため親類、友人関係を失い、広島や博多を転々としてきた。かつての同窓生にあって、ようやく東京に戻って官吏をしている。年の離れた弟小六がいるが、親は早く死に親戚のもとで暮らしていたが、それも難しくなり宗助には頭が痛い。というような生活が事細かに語られる。

 それは結構読ませるところなんだけど、いくら文章で読ませても主人公の魅力がここまで乏しいと、読んでるうちに嫌になってくる。それに彼らに子どもが3回できたが、いずれも育たなかった。それは彼らが「罪」を負っているからだと思い込んでいる。だが、もともと安井は「妹」として御米を紹介していたんだし、お互いに好きになっちゃえば仕方ないじゃないか。宗助・御米は今も仲良くしているみたいだから、それでいいじゃないか。今の目からはそうも思うけど、宗助だけでなく安井も大学をやめてしまったので、その原因を作ったという負い目があるのである。

 山の手の坂のある町で、坂下の借家に彼ら夫婦が、坂上に大家の坂井が住んでいる。ひょんなことから坂井と交際が始まり、そこも面白いんだけど、良いことも悪いことも「偶然」起こる。そして坂井から安井の消息を聞いて、そこから悩みが深くなる。一人で悩んで妻にも何も言わず、鎌倉の禅寺に籠ってしまう。そこがどうしようもなくつまらないところで、どうなってるんだと思ってしまう。

 「それから」で夫ある妻に対する恋愛を書いて、その続編的「門」では友人から奪った女と暮らす主人公が悩む。子どももできない。これでは「姦通は道徳に反するから不幸になります」と言いたいのかとさえ思う。小説は道徳じゃないんだから、そういうことになってはいけない。当時は二人が幸せになっては新聞小説的にまずかったのか。それとも漱石は悩める主人公が好きなのか。何にせよ、あまり面白くない展開の中で突然修行を始めるなど、小説的興趣としてはガッカリの最後が待っている。

 「彼岸過迄」(ひがんすぎまで)は、1月に始めた連載を彼岸過ぎまで書くという程度の意味らしく、話の中にお彼岸のシーンはない。6つの短編が相互に関連を持つように作られたというけど、どうも視点が変わるだけで、あまり成功しているとも思えない。第2編の「停留所」はちょっと探偵小説的な面白さはある。都市小説というか、市電を描く交通小説という感じ。主人公は友人の伯父に就職を頼むけど、私的な仕事でもいいと言うと「尾行」を依頼される。まあ多少面白い。

 後半になると、その時の友人須永の人生、いとこの千代子との関係とか生い立ちの問題が語られる。それも面白くはあるが、結構長いうえに、主人公須永が思った以上にはっきりしない性格で読んでいて嫌になってくる。二人で柴又へ行って帝釈天に参って「川甚」で鰻を食べて語り合っている。ストーリイ以外の、そういう細部の事情が、今になると「東京小説」として興味深い。

 もう一つ、「門」「彼岸過迄」に共通するが、「外地」が大きな意味を持ち始めている。日露戦争で多額の負債を負った日本では、戦後に不況が来て大学を出てもなかなか良い働き口がない。働いていない主人公がよく出てくるが、「高等遊民」という言葉と別に、単に大卒にふさわしいだけの求職が少なかったという面もあるんだろう。そういう中で、ある人々は朝鮮、満州、さらには蒙古へ出かけてゆく。そういう事情が風説のように語られている。そこに「帝国」の生活が反映されている。
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「三の隣は五号室」-長嶋有を読む③

2017年09月07日 21時33分23秒 | 本 (日本文学)
 長嶋有の「三の隣は五号室」(2016、中央公論新社)は実に面白い。そして変わっている。とても重要な傑作だと思う。2016年の谷崎潤一郎賞を(絲山秋子「薄情」とともに)受賞した。(ちょっと今回も文学賞の話をしてしまうが、ある新聞記事に「日本の主要な文学賞」として、芥川龍之介賞や三島由紀夫賞が挙げられていて驚いたことがある。「プロ野球で活躍した選手に与えられる主要な賞として新人王がある」なんて書いたら、新聞記者失格だろうに。主要な文学賞だったら、谷崎賞や野間文芸賞ということになるはずだ。谷崎賞は一生に一回だけみたいだが。)

 「三の隣は五号室」は、読んでいる間に「こういう小説はかつて読んだことがない」と思わせる小説だ。よく考えてみれば、新作小説なんだから「かつて読んだことがない」のは当たり前ではないか。確かに村上春樹「騎士団長殺し」という小説をわれわれは初めて読むわけだし、筋を知ってるわけじゃないから、どうなるんだと思って読む。不思議なこともいっぱい起こるけど、「主人公にいろいろ不思議なことがあった」という意味では、「1Q84」や「海辺のカフカ」と同じとも言える。

 っていうか、小説とは大体「主人公にいろいろあった」という物語である。(「いろいろあった」は清水義範の「国語入試問題必勝法」から。)ところが、この「三の隣は五号室」は違うのだ。ロベール・ブレッソンの映画「ラルジャン」は、お金が人と人の間を渡っていく様を描いている。しかし、「三の隣は五号室」は移りゆかない。「五号室」に限られている。五号室に居住する人間たちは移り変わっていくが、視点は部屋に留まっている。お金じゃなくて、ATMをずっと見つめているような小説なのである。

 1960年代に横浜市の北のどこか、坂道にある町に建てられた「第一藤岡荘」(真ん前に「第二藤岡荘」がある。その五号室は間取りが普通じゃない。それは間取り図が本に載っているから、くわしくはそれを見て欲しい。玄関を入ると、右にトイレ、左に風呂がある。玄関から二手に分かれて、左に四畳半、右がキッチン、どっちを通ってもさらに奥の六畳の部屋に行く。そして、四畳半とキッチンの間も障子があって行き来できる。なんて書いても判らないと思う。本を読んでるうちに少し判ってくる。

 書評を読むと、「間取り図を見るのが好き」という人がけっこういるらしくてビックリ。僕なんて見てもあまり判らないし、興味が湧いてこない。まあ、いろんな人がいるんだなあと思うけど、そんな小説が面白いか。大々的な社会変化を直接描くわけじゃないけど、時間をかけて多くの人を見ているうちに、世の中の変化も見えてくる。人々の様子もさまざまだ。そして、そこに「部屋」を通した「小さな謎」が集積していく。「部屋」っていうものは、いろんな「フシギ」に満ちているものだ。

 例えば、ここのお風呂はなぜか少しづつお湯が漏れてしまうらしい。何でだろう? という問題は読んでいる僕らには示されるが、多くの住人たちは不思議に思いながら、次の家に移ってゆく。単身赴任で住んでいた人もいれば、10年以上この部屋に住んで子どもも生まれた夫婦もいる。60年代には大家の息子が麻雀に明け暮れたが、21世紀になるとこの部屋にイラン人が住んだ時もある。秘密を抱えた謎の男もいれば、テレビをめぐる話題もある。何だろう、この懐かしさはと最後に思う。

 「三輪密人」「四元志郎」「五十嵐五郎」「六原睦郎・豊子夫妻」「七瀬奈々」「八屋リエ」と第一話に出てくる人名もおかしい。七瀬奈々なんているかよ。でも、まあ判る。これはこの部屋に入った順の数字なんだろうなと。おかしいけど、これがなければ、読者もそうだし、作者だって誰が誰だか順番がこんがらがるに決まってる。そして、最初に住んだ藤岡一平が卒業すると、次は二瓶敏雄・文子夫妻だった。70年から82年まで住んだ人。これだけ住むと、二瓶夫妻によって「変わった」ことが多い。ねじ式の水道蛇口は二瓶夫妻がレバー式に変えた。(でも阪神大震災以前だから、下に下げると水が出る。)以前の蛇口は捨てられず、水道の下に置かれ続け、誰も手を付けなかった。

 なんて話が面白いのかと言われそう。確かに大した話じゃないんだけど、僕らの生活はそういった小さなエピソードでいっぱいのはず。その積み重ねが、「日常」というもんだなとつくづく思う。でも読んでみないとこの面白さは伝わらないかも。この小説を読む前に、「電化文学列伝」(講談社文庫)という変てこな書評エッセイを先に読んだ方がいいかもしれない。これは小説内に出てくる電化製品にまつわるエッセイなんだけど、おかしいことこの上ない。もちろん家電に関心がなくても読める。こういう「トリビア」へのこだわり方が、「三の隣は五号室」のような破格の作品に結晶したんだと思う。
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「夕子ちゃんの近道」-長嶋有を読む②

2017年09月06日 21時11分23秒 | 本 (日本文学)
 「長嶋有を読む」2回目は、第一回大江健三郎賞を受賞した「夕子ちゃんの近道」(2006、講談社文庫=品切れ中)。これはとても面白い傑作だった。大江健三郎賞というのは、大江氏一人が選考して選ぶ文学賞で、2007年から2014年まで8回続いて終了した。大江氏が「可能性」を認めた作家と作品に授与する賞で、新人にも与えられたが新人以上の賞という感じだった。中村文則「掏摸」(すり)が4回目に選ばれ、賞金の代わりに外国で翻訳出版するルールなので、アメリカで評判になるきっかけを作った。第一回に「夕子ちゃんの近道」を選んだ眼力は書評を見るとよく判る。

 大江賞の話で長くなってしまったが、「夕子ちゃんの近道」もまた変な小説だ。不思議な人々が不思議な設定で出会う。主人公は大学を出て30前後かと思うが、なにゆえにか古道具屋「フラココ屋」の2階に住み始める。店の名前もキテレツだけど、下宿でも何でもない倉庫みたいな部屋に住むには、それなりの理由というもんがあるはずだ、普通。そして多分何かありそうなんだけど、小説では語られない。そこが不思議なところで、じゃあ「観察者」に徹しているかと思うと、そうでもない。

 「店長」(幹夫)も不思議な感じで、やる気があるのかないのか判らない。そこに「瑞枝」さんという「常連客」のような、買わないから「客」じゃないけど、しょっちゅう来ている人がいる。店の裏に大家さんが住んでいて、息子は離婚してドイツに行ってる(から出てこない。)孫が二人いて、長女の「朝子」は美大に行ってて、卒業制作で箱を作り続けている。その妹の「夕子」は定時制高校に通っている。

 夜間定時制に通う理由も説明されない。ある日店長に呼ばれて道具を「本店」(店長の実家のことだけど)に持っていくと、電車に乗ったら夕子も乗っている。(夜の高校だから不思議はない。)ところが帰りの電車に乗ると、降りた駅の隣駅から遅い電車に夕子が乗ってくる。駅を降りると、付近の道に詳しくない主人公に「夕子ちゃん」が別の「近道」を教えてくれる。これがまた変な道で、竹やぶを超えて行ったりする。それが「夕子ちゃんの近道」という全体の題名になった話だけど、実は「夕子ちゃん」には秘密もあった。後で振り返ると題名にも仕掛けがあるのである。

 その後、フランスから店長の「元カノ」(?)「フランソワーズ」という日本語が達者で相撲が大好きな女性が登場する。北の湖を「トシミツ」と名前で呼ぶぐらい好きだった。祖父が亡くなり、お金もあって皆を五月場所に招待してくれる。(けど、本人がその日に行けなくなる。だからフランソワーズ以外で見に行く。)フランスにもぜひ来てよ、旅費ぐらい出すという。最後に「パリの全員」という章があるから、ホントに皆でパリに行くのである。(ここは非常に楽しい終章になている。)

 その後、朝子さんの展覧会に行ったり、夕子ちゃんに大波乱があったりしながら、日々は過ぎていく。フラココ屋に何となく集う人々の、いろいろある日常も少しづつ変わっていく。「過去」を全然語らないことで、このフラココ屋の日々が貴重な感じがしてしまうけど、そこもまた「うつりゆく日々」の中にある。ただ何気ない毎日を記録したような小説だけど、でもそこに貴重な日々が立ち現れる。主人公も変わっていかざるを得ない。そして、「あの頃」が貴重なものになっていくのである。

 いろいろな仕掛けがあるのだが、そういうことは考えずに読める。淡々と始まりながら、だんだん「なんだか深い」という気がしてくる。それは僕らの日常と同じなんだろう、多分。スラスラ読めるけど、でもあれは何だったんだろうと思うような小説だ。(ところで、相撲を見に行って、元貴闘力を見て、店長が「俺、昔、競馬場で貴闘力をみたことあるよ」というのがおかしかった。貴闘力(大嶽親方)はギャンブル依存症で身を持ち崩し、相撲協会を解雇されることになったわけで。)

 2008年の「ぼくは落ち着きがない」(光文社文庫)も簡単に。この小説はある高校の「図書部」の面々を「望美」の目から描いている。題名に「ぼく」とあるから、この「望美」って男子かと思うと、やっぱり女子。図書部っていうのは、図書委員がさぼると本を借りられなくなると、本好き、図書室好きのメンバーが何年か前に「図書部」という部活を作ったという設定。実際に長嶋有さんは「図書局」なるものをやってたという。もちろん運動部どころか、どの文化部よりももっとユルイのは当然。

 そんな図書部で、「部長」とか、不登校になる「頼子」とか、「ナス先輩」という名前の後輩とか、さまざまなメンツが繰り広げる日常の日々。って、フラココ屋みたいな図書室だなあ。そして、そのタルイ日々の中に、読書ってなんだ本ってなんだという本質が、高校生目線で描かれていく。この小説も「仕掛け」があり、さまざまな人物が最初はよく飲み込めないけど、久しぶりに読んだら最初の時よりずっと面白かった。「高校部活小説」ではないのだ。「ジャージの二人」や「夕子ちゃんの近道」を先に読む方がいい。(なお、望美と頼子に関しては、「祝福」(河出文庫)にある「噛みながら」という続編というか、スピンオフに簡単に書かれている。えっ、そうなんだという設定。)
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