昭和戦中期の首相近衛文麿(このえ・ふみまろ、1891~1945)の旧居「荻外荘」(てきがいそう)の修復が終わり、今週から一般公開された。ここは国の史跡に指定されているが、近現代の指定は非常に珍しい。特に政治家関連の史跡は非常に貴重だ。荻窪駅(JR中央線、地下鉄丸ノ内線)から徒歩15分ほどで、途中に大田黒公園や角川庭園があるので、格好の散歩道。荻外荘は隣接する荻外荘公園から眺めるのは無料だが、中を見るなら300円。水曜休。喫茶室もある。
荻窪駅南口から歩き出す。方向の案内板は充実しているが、道が複雑なのでスマホのナビを使う方がいいかもしれない。駅から一番近い太田黒公園に行き着けば、そこにパンフが置いてある。荻外荘そのものはどこから入るのか迷ったけれど、まずは隣の公園に行って家を見てみる。平屋建ての和風建築で、もとは1927年に建てられた。築地本願寺で有名な建築家伊東忠太の設計である。大正天皇の侍医頭だった入澤達吉の別荘として建てられたもので、1937年に近衛が入手したという。
荻外荘入口には今も「近衛」という表札が掛かっている。近くから見ると、上のような感じ。荻外荘の名前は元老西園寺公望の命名である。玄関には西園寺が書いた額が掛かっていた。近衛は目白に本邸があったが、富士山も望める荻窪が気に入って、入手後はほとんどここにいたという。1932年の東京市拡大(35区)によって荻窪はすでに東京市内だったけれど、実感としては郊外の別荘だろう。しかし甲州街道に近く、車で行動出来る近衛には案外便利な場所だったんだろうと思う。
中に入ると、玄関の方から見ることになる。中国風とされる椅子の応接間もあるが、もう一つ和風の応接間が「荻窪会談」が行われた部屋である。1940年7月19日、次期首相に決定していた近衛が自邸に陸海外の大臣候補を呼んで行った会談である。下の写真左から近衛、松岡洋右、吉田善吾、東条英機。第2次政権発足(7月22日)直前で、吉田は現職の海軍大臣。松岡、東条は時期外相、陸相に予定されていた。ドイツ「電撃戦」を受け、会談では日独伊枢軸強化、日ソ不可侵協定などの方針を決めた。
どうも「杉並に偉人が住んでいて、日本政治の重要な会談が行われた」的な紹介をしている気がするが、今書いたように「日本の歴史を誤らせた」場なのである。「負の歴史遺産」であることを忘れてはいけない。日中戦争拡大の直接的責任者であり、政治的責任は大きい。また敗戦後に戦犯指定を受けて、1945年12月16日に服毒自殺したのも荻外荘。しかし、そのことはほとんど触れられていない。戦後は一時吉田茂が住んでいたこともあるが、その後応接室などは巣鴨の天理教東京教務支庁に移転されていた。今回天理教当局と交渉して、改めて戻した上で「荻窪会談」当時の再現を目標に修復を進めたという。
廊下から外の公園の方を見ると、なかなか良い感じ。南側(公園)が低くなっていて、建物は高台にあるから見晴らしが良いのである。荻外荘から「角川庭園」へ案内に沿って5分ぐらい歩く。角川書店創業者で、歌人・国文学者でもあった角川源義(かどかわ・げんよし、1917~1975)の家だった場所である。庭園的にはあまり大きくなく、時間が少なければ省いてもいいかな。角川関係の資料が展示されているわけでもないが、集会所としてよく利用されているらしい。
そこからまた5分ちょっと歩くと大田黒公園。首都圏では紅葉のライトアップがテレビでよく紹介される所だが、初めて。音楽評論家大田黒元雄(1893~1979)の旧居をもとに作られた回遊式庭園である。大田黒と言われても誰それという感じだが、日本の音楽評論の草分けで文化功労者に選ばれた人。それにしてもこんな立派な庭がよく持てたなと思うと、実は死後に周囲の土地を併せて杉並区が整備した庭園だった。大田黒の父は芝浦製作所を再建した後、全国の水力発電所を経営した大田黒重五郎という戦前の経済人だった。元雄は父の財力で好きな音楽の道に進み、特にドビュッシーを日本に紹介したという。
門を入ると、イチョウ並木が今まさに黄葉していて素晴らしい。グループで来た人は皆「オオッ」と声を発して、スマホを取り出す。人も多くてなかなか撮りにくいのと、もうすでにかなり落葉していて落葉がいっぱい。そっちを撮ると。
紅葉も見頃で素晴らしい。池をめぐる散歩道が紅葉の中心で、ここが無料で見られるのは素晴らしい。
大田黒元雄が住んでいた洋館も公開されている。中にはスタインウェイのピアノが置いてあった。
その後荻窪駅に戻って、丸ノ内線で新宿で下車してSONPO美術館で『カナレットとヴェネツィアの輝き』を見た。一度は見なくて良いかなと思ったんだけど、やはり見に行くことにしたけど、それは別の話。