大相撲の第52代横綱、北の富士(本名竹澤勝昭)が11月12日に死去、82歳。1966年9月場所で大関昇進、1970年3月場所に横綱に昇進して1974年7月場所まで27場所務めた。優勝10回、三賞6回(殊勲2、敢闘1、技能3)などを記録している。この時代は僕の小学生から高校生の期間にあたり、僕は北の富士の相撲をよく覚えている。その頃は白黒テレビの野球、相撲中継を男子の多くが見ていた時代だ。もう解説者としてしか知らない人が圧倒的だろうが、僕はやはり現役時代が懐かしい。
「現代っ子横綱」などと呼ばれ、現役時代から歌のレコードを出したり、地元旭川にちゃんこ料理屋「北の富士」を出すなど、ある意味やりたい放題。良い時代だったというべきか。飲み歩いて「夜の帝王」「プレイボーイ横綱」と言われていた。近年は有名人がなくなると、夕方のテレビ朝日のニュースを見るようにしている。「徹子の部屋」に出た時の映像が見られるのである。今回も無敵の徹子さんから「夜の帝王と言われていたんですって?」なんて突っ込まれていて面白かった。
遊び好き、稽古嫌いもあって大関昇進後は一時低迷したが、1969年から3場所続けて13勝2敗(うち2回優勝)で横綱に昇進した。この時は玉の海(大関時代は玉乃島)と同時昇進だった。玉の海は6回優勝しているが、北の富士とは毎場所のように優勝争いを繰り広げた。大横綱大鵬に衰えが見える中、この二人が「北玉時代」と呼ばれたのである。幕内通算で玉の海22勝、北の富士21勝とまさに好敵手で実力は伯仲していた。ところが、なんということか1971年10月11日に、虫垂炎で入院中の玉の海は27歳で急死したのである。術後の肺血栓だった。僕は北の富士より玉の海がひいきだったので、非常に大きなショックを受けたのをありありと覚えている。北の富士は人前もはばからず号泣したという。後にテレビ解説でも玉の海の思い出をよく語っていた。
弟子として千代の富士、北勝海の二人の横綱を育てたのは有名。1998年の理事選で髙砂一門の候補から外れたため、相撲協会を退職してNHKの専属解説者になった。テレビで見ていた人も多いだろうが、最近はお休みの場所が続いていた。2023年3月場所から休んでいたが、2024年7月場所に一度ビデオ出演した。かなり元気には見えたが、いろいろと病気を抱えていると伝えられていたし、僕はもうこれが最後かなと思って見ていた。自分の現役時代を思えば言えないような辛口批評が面白く、舞の海との掛け合いも楽しかった。横綱は初代若乃花、栃ノ海も82歳で亡くなっていて、「82歳の壁」があるようだ。
北の富士で長くなりすぎたので、簡潔に。アメリカのジャズミュージシャン、音楽プロデューサー、作曲家のクインシー・ジョーンズが11月3日死去。91歳。音楽プロデューサーとしてマイケル・ジャクソン『スリラー』などを製作し、売上高世界一のギネス記録を持っている。そのことばかり報道されたが、僕は60年代末から70年代に担当した多くの映画音楽で名前を覚えた。『夜の大捜査線』『冷血』『ジョンとメリー』『カラーパープル』などである。アカデミー賞にも何回かノミネートされたが受賞できず、94年にジーン・ハーショルト友愛賞を受けた。グラミー賞は28回受賞している。生涯に4回結婚している。4人目が女優のナスターシャ・キンスキーで、娘のケーニャ・キンスキー・ジョーンズはモデル。久石譲の名前の由来になったことで知られる。
日本画家の上村淳之(うえむら・あつし)が11月1日死去、91歳。「清らかな花鳥画で知られる」というので検索してみたら、下のような絵がたくさん出てきた。祖母が上村松園、父が上村松篁(うえむら・しょうこう)と3代続く日本画家で、そろって文化勲章を受章したことで知られる。京都市立芸術大で長く教え、副学長も務めた。
文楽の人形遣いで人間国宝にしていされた吉田蓑助(よしだ・みのすけ)が11月7日死去、91歳。人形遣いの桐竹紋太郎の子として生まれ、1940年に6歳で入門。1961年に3代目吉田蓑助を襲名した。94年に人間国宝、09年に文化功労者。多分見てるんじゃないかと思うけど、文楽の人名にはうとく人形遣いまで覚えてない。
俳優の火野正平が11月14日に死去、75歳。1973年の大河ドラマ『国盗り物語』に秀吉役で起用され人気を集めた。その後もテレビ、映画で幅広く活躍した。近年はずいぶん渋い味を出していたと思う。宮崎駿『君たちはどう生きるか』では大伯父役の声優をやっていた。歌手としても活躍したが、それ以上に「元祖プレイボーイ」として名を馳せたことで知られる。
落語家の桂雀々(かつら・じゃくじゃく)が11月20日死去、64歳。1977年に桂枝雀に入門し、上方落語で活躍した。2011年に東京に本拠を移して活動していた。2023年には東京23区すべてで独演会を開くという企画を行い、これは僕も行かなくちゃと思いながら結局行きそびれた。なんかまだまだ20年ぐらい活躍すると思い込んでいたので、見てないことを後悔。
アルゼンチン出身の歌手グラシェラ・スサーナが17日死去、71歳。この人の名前を覚えているのは、相当の高齢者だけだろう。アルゼンチンで行われたタンゴフェスティヴァルで優勝し、菅原洋一に見出されて日本で歌手活動を行った。1973年に出たアルバム『アドロ・サバの女王』は100万枚を突破した。シングルレコードも20枚以上出しているが、その作詞家はなかにし礼、寺山修司、山上路夫、阿久悠、小椋佳、岩谷時子らという豪華さ。高く評価されていたことが判る。21世紀になっても日本でコンサートをしていたが、もう忘れられたのか訃報はマスコミでは報じられなかったと思う。
・アメリカ憲法の研究者で駐米公使を務めた阿川尚之が12日死去、73歳。慶大教授だったが、民間人登用として02年~05年に務めた。父は阿川弘之、阿川佐和子は妹。元駐中国大使の阿南惟茂(あなみ・これしげ)が13日死去、83歳。父は終戦時の陸相阿南惟幾。元駐ペルー大使の青木盛久が9日死去、85歳。日本大使公邸占拠事件時の大使で、4ヶ月間自らも人質となった。
・歌舞伎俳優市川団蔵が19日死去、73歳。尾上菊五郎劇団の重鎮として活躍した。
・元最高検検事、筑波大名誉教授の土本武司(つちもと・たけし)が5月8日に死去していた。この人は検察的な立場の法学者だったが、独自の考えを持つ人だった。そのため死刑廃止集会などにも死刑存置の立場で出席したりする人だった。死刑は認めているが、絞首刑は憲法が禁じる残酷な刑にあたると法廷で証言したこともあった。
・桃山学院大学名誉教授の経営学者、徐龍達(ソ・ヨンダル)が25日死去、91歳。韓国出身で1942年に日本に来て学んだ。しかし、外国籍では国公立大学教授になれなかったため市民運動を起こし、それが1982年の「外国人教員任用法」成立につながった。また外国籍を理由に奨学金を受けられなかったため「在日韓国奨学会」を設立した。
・アメリカの化学者、杜祖健(アンソニー・トゥー)が1日死去、94歳。台湾で生まれ、アメリカに渡ってユタ州立大学教授となった。2004年に千葉科学大学教授を務めた。専門は毒性学、化学兵器で、オウム真理教事件の時に日本の警察当局にサリンの分析法を教えたことで知られる。教団幹部の中川智正死刑囚は自分の論文を読んでVXガスを作ったことを知り、獄中の中川と面会を重ねた。『サリン事件死刑囚 中川智正との対話』(2018)の著書がある。