尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

大林宣彦監督「青春デンデケデケデケ」

2020年07月27日 22時37分16秒 |  〃  (旧作日本映画)
 大林宣彦監督の追悼上映の続き。「青春デンデケデケデケ」(1992)と「時をかける少女」(1983)だが、後者は見なかった。2017年に国立フィルムセンターで「再タイミング版」を見てるので、今回はまあいいかと思ったのである。筒井康隆原作を尾道で映画化したもので、同時代的にはすごく面白かった。しかし、趣向は覚えているので再見したら案外面白くなかった。原田知世の記憶が改変されてしまって、尾美としのりが可哀想。「ラベンダーの香り」も今じゃ珍しくもないが、あの頃はほとんど誰も知らなかったのである。

 「青春デンデケデケデケ」は、公開当時に2回見てるので3度目になる。非常によく出来た青春映画で、いい映画を見たなという気持ちを見る者に残す。芦原すなお直木賞受賞作の「完全映画化」で、物語にある適度なセンチメンタリズムやユーモアはほとんど原作由来である。尾道シリーズなど冒頭に「A movie」と表示されるが、この映画にはない。原作があって、石森史郎(ふみお、「旅の重さ」などの脚本家)のシナリオがあって、原作の舞台となった香川県観音寺市でロケをした。プロの技量を十分に楽しめる幸福な映画だ。

 主人公(語り手)である「ちっくん」こと藤原竹良林泰文)が高校時代にロックバンドを作った思い出を振り返った物語である。ロックバンドじゃなくても、高校時代に何かに打ち込んだ経験を描くという意味で「部活映画」的な構造を持っている。というか、「軽音楽部」として正式に学校で活動できるようになって、高校3年の文化祭(燧灘祭=すいたんさい)がハイライトになる。「王道文化祭映画」の最高峰レベル。(ヘタレ文化祭映画の最高峰は「リンダ リンダ リンダ」。)
(練習シーン)
 今回一番驚いたのは、ちっくんと一緒に最初にバンドを作ることになる白井清一浅野忠信だったこと。全然知らなかった。浅野忠信の名前は、多分「幻の光」(是枝裕和、1995)や「PiCNiC」(岩井俊二、1996)あたりで認知したと思う。今調べると、それ以前に僕の見ていた映画に結構出ているじゃないか。しかし、この物語で白井清一よりも重要なのは合田富士男大森義之)の存在だ。お寺の息子で、時には父に代わって法事を務める。

 世慣れていて、エロ本をちっくんに貸したり、檀家を通していろんな話を知っている。エレキギターを買うために夏にバイトするが、その工場も合田が見つけてくる。その手腕は周囲でも認められていて、男だけでなく女生徒も恋愛相談を持ちかけている。物語の中のユーモラスなエピソードには大体彼が絡んでいる。スクーターに乗って、丸刈りの合田が法事に出掛けるシーンなど、通りすがりの誰彼に話しかけながら、ちっくんと話し続ける場面がとてもいい。お寺を練習に使う目算もあって、合田の参加がキーになる。夏休みの思い出にと同級生の女の子が海に行こうと誘うシーンも、裏に合田の企みがあった。
(自宅近くの海でデート)
 ドラムに岡下巧を吹奏楽部から引き抜いて、バンドが出来る。白井のエピソードとして「八百屋お七みたいな」引地めぐみ、岡下のエピソードとして、石川恵美子の好きな三田明美しい十代」を演奏するシーンなど、それぞれのメンバーを生かしながらの語り口がうまい。みんな原作にあるわけだが、実際の映像や音楽が加わると説得力が増す。これが映画にするという意味だろう。祖谷渓(いやだに)の小歩危(こぼけ)に合宿に行くシーンも、映画を見たときは行ってなかった場所だが、今見ると行ったなあと懐かしく思い出す。「かずら橋」はほんとうに怖かった。
(合宿シーン)
 大林監督の初期作品のような特撮を駆使した映画ではないが、編集で見せる映画でもある。カメラはパンや移動で激しく動き、それを自由自在に編集している。音楽の使い方もうまく、見る者を青春の懐旧に浸らせる。一体何カットあるのかと思うぐらい、上手に編集している手腕も見どころだ。原作の舞台でもある観音寺第一高校でロケできたのも大きいだろう。故郷の人々が映画製作に協力していることも、暖かなムードを醸し出している理由だと思う。そして、最後の感傷がまた多くの人に自分の青春を思い出させる。ところで、僕の世代には古いイメージのベンチャーズだが、ちょっと前の世代にはこれほど大きな衝撃だったのである。
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大林宣彦監督「HOUSE」「ねらわれた学園」

2020年07月26日 22時42分08秒 |  〃  (旧作日本映画)
 新文芸坐で大林宣彦監督の追悼上映を断続的にやっている。先月は「さびしんぼう」「野ゆき山ゆき海べゆき」を書いたが、今月は「HOUSE」「ねらわれた学園」と「時をかける少女」「青春デンデケデケデケ」の2本立てを2日ずつ上映である。まずは最初の2本だが、どちらも公開直後に見て以来だ。「公開直後」と言っても、若い頃はほとんど名画座で見ていたから、多分どこかの名画座で見たんだと思う。1977年の「HOUSE」は大林監督の商業長編映画のデビュー作だが、見た時にすごく面白いと思った。その年の自分のベストワン映画だった。
(HOUSE」)
 1977年7月30日公開だったから、ほぼ43年ぶりに再見したことになるが、確かに今も面白かった。「特撮」を駆使して、ひたすら楽しい映像を作っている。こういう「遊び感覚」だけで作られた映画は初めて見た気がしたんだと思う。日本でもパロディやブラックユーモア、オシャレ感覚の映画はそれまでにもあった。しかし、パロディやブラックユーモアは、事前の知識があってこそ楽しめるところがある。「HOUSE」は若い観客が見て、ただ楽しめる映画に作られているのである。
(「HOUSE」)
 もっとも「HOUSE」が1位というのは、今から客観的に振り返れば過大評価だろう。77年は「幸福の黄色いハンカチ」(山田洋次監督)の年で、第1回日本アカデミー賞はじめ、キネ旬、毎日映コンなど映画賞を独占していた。僕はこの映画があまり好きではなかったが、3位の「はなれ瞽女おりん」(篠田正浩監督)や2位の「竹山ひとり旅」(新藤兼人監督)の方が上だと思う。近年になって見直したが感銘深い映画だった。「HOUSE」は21位で、11位以下には「黒木太郎の愛と冒険」(森崎東)や「北陸代理戦争」(深作欣二)などが入っている。

 「HOUSE」に関する情報はネット上に多い。「カルト的映画」なんだろう。ポップ感覚あふれるホラー映画で、77年じゃ少し早過ぎたんだと思う。当時18歳の池上季実子が主演だが、美少女ぶりに圧倒される。しかもなんとヌードシーンがある。実に自然で美しい描写で、僕は忘れていたのでちょっと驚いた。大林監督は少女を使っても、ヌードを見せるときがある。今の方が難しいかもしれないが、すごく美しいシーンだと思った。

 池上演じる「オシャレ」他7人の少女が田舎のお屋敷で悲劇に見舞われる。まあ「ホラー」というか、笑っちゃう展開だから、一緒になって楽しむ映画だと思う。他の6人は大場久美子松原愛神保美喜などだが、残りの3人は女優としては残らなかった。少女趣味的な「ガーリー・ムーヴィー」は後に多くの女性監督によって作られるが、「HOUSE」は12歳だった監督の娘、大林千茱萸(ちぐみ)のアイディアを生かした「ガーリー」な感覚が楽しい。同時に大林監督のオトナとしての売れ筋感覚も発揮されている。ずいぶん遊び的描写があるのに、88分と短いのも良い。
(「ねらわれた学園」)
 1981年の「ねらわれた学園」は薬師丸ひろ子主演のアイドル映画として作られた。眉村卓のジュニア向けSFの原作を角川映画が映画化した。大林監督の長編5作目で、テーマ曲となった松任谷由実守ってあげたい」が流れてくると、時間が戻って若い頃がよみがえる気がする。もっとも映画としてはたいしたことがないが、まあ若い時なら楽しく見られる。SFだし、ほぼ全編特撮で楽しく作られている。薬師丸ひろ子は健闘しているが、「時をかける少女」の原田知世と同じく、若すぎて池上季実子ほどの魅力を感じられなかったのが残念。
(「ねらわれた学園」=第一学園)
 話は超能力で学園支配をねらう「金星人」たちに対し、同じく超能力者である薬師丸ひろ子が立ち向かう。ただそれだけの物語で、その学園が何故ねらわれるのか、全く判らない。「HOUSE」はオリジナル脚本だから、7人の美少女たちがどういう順番でどうなるかは判らない。でも「ねらわれた学園」は話が単純すぎて、昔見た時も映像しか楽しめなかった。でも映像は楽しいのである。東京で撮影されているが、ロケハンの重要性も感じさせる。舞台の「第一学園」は、都庁が建つ前の空き地に特撮で合成したという。

 校長を原作者の眉村卓がやっている。担任の先生は岡田裕介で、今は東映会長である。当時の東映社長岡田茂の息子で、東宝の「赤ずきんちゃん気をつけて」の主役に(親と無関係に)スカウトされた。70年代当初は青春映画によく出ていた。悪の手先になるクラスメイト有川は手塚真で、手塚治虫の息子だが映像クリエイターとして活動している。稲垣吾郎、二階堂ふみ主演で、手塚治虫の「ばるぼら」の映画化作品が公開を控えている。大林作品は特別出演や友情出演がいっぱいで、探すのも楽しい。名前を忘れている人が多く、後で検索することになる。「HOUSE」では池上季実子の父を作家の笹沢佐保がやっていた。
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「千と千尋の神隠し」のアニミズムー宮崎駿を見る③

2020年07月06日 17時07分54秒 |  〃  (旧作日本映画)
 宮崎駿監督の「千と千尋の神隠し」は、2001年7月20日に公開され爆発的に大ヒットした。日本映画史上最高の興収額308億円を記録している。(2位の「君の名は。」は250億円。)興収ベストテンで宮崎作品が半数の5作品を占めている。観客動員数でも、2352万人で歴代1位である。(2位は「アナと雪の女王」。)作品的な評価も高く、ベルリン映画祭グランプリアカデミー賞長編アニメーション映画賞を受賞するなど、世界的に評価が高かった。

 それも納得の素晴らしい出来映えで、「千と千尋の神隠し」は宮崎駿監督の最高傑作だろう。アニメーション技術が非常に高く、経費も時間も掛けられるようになったスタジオジブリの最高の達成である。もともと子どもを意識した企画だったこともあり、適度なセンチメンタリズムが見る者の心に響く。「トンネルの向こう」あるいは「橋の向こう」に「異界」があるという、ファンタジー映画の定番設定だが、誰の夢にも出てくるような懐かしさに満ちている。

 「異界」に迷い込んだ親子のうち、両親はなんと豚に変えられてしまい、少女がその呪いを解くために闘うのである。ファンタジー的にはよくある成り行きだけど、傑作なのは迷い込んだ先の「油屋」という湯屋だ。ここは「八百万の神様」が疲れを癒やしにくるところなのである。訳が判らない設定だけど、日本の夏の高温多湿を知っていれば、神様だってお風呂に入りたいよねえと納得してしまう。そして少女「荻野千尋」は魔女の「湯婆婆」(ゆばーば)に名前を奪われて「」という名になって支配されてしまう。

 千は何故か助けてくれる「ハク」の協力で、湯屋で働くようになる。そして不思議な成り行きで、ハクが奪ってきたハンコ(魔女の契約印)を湯婆婆の双子の姉である銭婆(ぜにーば)に返しに行く。水の中の鉄道を行く場面は最高にロマンティックで情感にあふれていると思う。そして戻ってきて、「ハク」の本当の名前を突然思い出す。謎の少年にして、蛇の化身である「ハク」は、千尋が幼いときに落ちたことがあるコハク川の神様、「 饒速水小白主」(にぎはやみこはくぬし)だったのである。何だか全然判らないけど、感覚的に通じるものがある。

 それはアニミズム的な感覚だろう。すべてのものに神が宿るという自然崇拝的な世界観である。「八百万の神」という発想は、そもそも多神教の文化だ。「もののけ姫」にも、そのような自然崇拝的な感性が見られたが、「千と千尋の神隠し」は子ども向けという枠を超えてアニミズム讃歌を繰り広げている。一神教文化の国でも受け入れられたのを見ると、世界の人々の心の奥には自然崇拝的な心性が残されているんだろう。

 あまり図式的に理解する必要もないと思うけれど、「」は「荻野千尋」の漢字表記を分解されてしまうことで支配される。日本では中国から「文明」を受け入れて、名前も中国の文字を幾つか組み合わせて作るのが普通である。アニミズムの世界に「文明」がやってきて、名前を通して支配される。そのような歴史を象徴するような感じがする。主な舞台となる「油屋」は、地下にボイラー室があって各室に湯を供給している。その様子は一種のお城的だけど、今までの作品にある「都市国家」とまでは言えない。細部に至るまで「日本的な感覚」で作られた作品だと思う。

 なお、最初に両親は「つぶれたテーマパーク」かと思って廃墟の街に入り込む。かつてバブル時代にあちこちに作られたテーマパークは、20世紀末からどんどん潰れていった。実際に日本のあちこちに、潰れた観光施設や温泉旅館、リゾートホテルの廃墟が存在する。自由に入り込めるところは基本的にはないけど、外から見ると時間の流れ、諸行無常を感じるものだ。そんな場所が「異界」に通じているという感覚は多くの人に通じると思う。
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「もののけ姫」の反人間主義ー宮崎駿を見る②

2020年07月05日 21時06分30秒 |  〃  (旧作日本映画)
 1997年7月12日に公開された宮崎駿監督の「もののけ姫」は当時の興行記録を塗り替える大ヒットを記録した。その後「千と千尋の神隠し」がメガヒットになったので、何となく「もののけ姫」の印象が薄くなっているが、1998年の正月になっても上映されていたのである。この映画を最初に見た時は、その衝撃的なテーマ設定映像の美しさダイナミックな展開に感動を覚えた。その年の自分のベストワン映画である。キネ旬ベストテンでは2位に選出されている。

 この映画を見直して、その難解さに驚いた。難解というか、ただ展開をドキドキしながら楽しむことは出来る。しかし、一体この登場人物は歴史上でどういう役割を担う人なんだろうかとか、動物と人間のあるべき関係宗教性と祟りの問題などを考え出すと、理解が難しいのである。多くの人は、この映画はすごいと感じながらも、筋書きを説明出来ないんじゃないだろうか。子ども向けの適度なセンチメンタリズムも見られない。妥協なく自己の世界観を貫徹している。

 1984年の「風の谷のナウシカ」がキネ旬ベストテン7位になって以来、宮崎アニメはずっとベストテンに入選してきた。「天空の城ラピュタ」(1986、8位)、「となりのトトロ」(1988、1位)、「魔女の宅急便」(1989、5位)、「紅の豚」(1992、4位)と続いている。その間、高畑勲監督の「火垂るの墓」(1988、6位)、「おもひでぽろぽろ」(1991、9位)、「平成狸合戦 ぽんぽこ」(1994、8位)もあったわけだから、当時はそんなに意識していなかったけれど、単に日本やアニメ映画というだけではない世界映画史上の奇跡の時代に立ち会っていたのである。

 1995年には近藤喜文監督の「耳をすませば」が公開されたが、宮崎駿作品は5年間作られていない。(なお近藤監督はそれまで宮崎、高畑作品で作画監督などを務めていた。1998年に亡くなったので、「耳をすませば」が唯一の監督作品である。)そして宮崎監督が満を持して発表したのが、「もののけ姫」である。最初はいつの時代か判らない。明らかに日本列島のどこかであるが、「タタリ神」となったイノシシが出てくるなど、古代かと思う。しかし主人公のアシタカが西へ旅立つと、やがて「たたら製鉄」で銃を作るムラが出てくるので、中世だったのである。

 中世の非農業民の世界を描いていて、それは当時大きな注目を集めていた中世史家・網野善彦の影響だった。また「たたら製鉄」を行うムラ(というより「城塞都市」と呼ぶべきだろう)では明らかにハンセン病者が労働力の担い手として重要な役割を果たしている。ムラを束ねるリーダーのエボシ御前と呼ばれる謎の女性は、病者に差別心を持っていない。日本では1996年の「らい予防法」廃止まで、ハンセン病患者の「隔離」が法律上続いていた。「もののけ姫」公開の一ヶ月前に、僕はFIWC関東委員会の「らい予防法廃止一周年集会」を開催していたのである。

 僕は溝口健二や黒澤明の古い名作映画を敬愛しているが、「もののけ姫」製作時点で40年以上も経っていて、「雨月物語」や「七人の侍」の中世社会像に違和感が大きくなっていた。それは自分が歴史教員だからという特殊要因が大きい。「もののけ姫」の新しい中世社会像を見て、それだけで高い評価をしたのである。またハンセン病問題を取り上げたことで(それは説明されないので、判らない人もいるだろうが)、それも僕にとって大きかった。この映画を作るに当たって、宮崎監督はハンセン病療養所多磨全生園を訪れて参考にしていた。

 宮崎作品はそれまで、どこと明示されていない場合が多いが、ヨーロッパ的景観を描くことが多かった。「となりのトトロ」は例外だが、「もののけ姫」は本格的に「日本の歴史と格闘した」という意味で特別の重みがある。この映画の「たたら製鉄の村」は実はヨーロッパ風の「城塞都市国家」であって、「カリオストロの城」や「天空の城ラピュタ」の系譜にある。しかし、ここでの労働の描写が「千と千尋の神隠し」の湯屋につながって行くのである。

 内容的に言えば、一応アシタカという「旅する青年」のイニシエーション(通過儀礼)である。そこにエボシという謎の女性が出てくる。では題名の「もののけ姫」とは何だろうというと、山犬に育てられたサンという娘のことである。エボシが謎の男たちと進める「シシ神殺し」(森の開発)を、アシタカとサンがいかに止められるか。それがメインテーマだが、事が終わってもサンは人間を信じることが出来ない。深いアンチヒューマニズム(反人間主義)に驚く。

 映像の力は圧倒的だが、シシ神とかタタリ神とは何なのかは全く判らない。エボシをどう評価するべきかも、もともと歴史上の人物を一面的に評価は出来ないけれど、なかなか難しい。このような「女性大名」的な存在は皆無とは言えないが、やはり空想的存在だろう。細かく検討して行くと、映画で描かれている内容の前提が崩れてしまうかもしれない。それでも、ここまで「日本的なるものと格闘した作品」は思い浮かばない。ベストテンは運だけど、この年はカンヌ映画祭パルムドールの今村昌平監督「うなぎ」とぶつかってしまった。ファンタジーではなく、実際の日本の庶民を描いた方が強かった。
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「風の谷のナウシカ」の予言性ー宮崎駿を見る①

2020年07月04日 17時43分23秒 |  〃  (旧作日本映画)
 映画館が再開しても、席を半分に絞るなどして興業も振るわない。そんな状況を見て、スタジオジブリの旧作4本を低価格で上映するという企画が始まった。そして4本全てが興行成績ベストテンに入った。中でも宮崎駿の傑作が1位から3位を独占している。公開から時間も経って大スクリーンで見てない世代も多いだろう。この機会に見直したい人にも親切な価格設定だ。 

 僕はもともと「ジブリ映画専門館」や「寅さん映画専門館」が欲しいと思っていた。今回に続き、是非他の作品も上映して欲しいと思う。また日本語字幕付英語吹替・日本語字幕版なども上映して欲しい。作品的には一番好きな「紅の豚」や「魔女の宅急便」も見直したいところだが、それより高畑勲追悼上映を何故やってくれなかったのか。夏には是非「火垂るの墓」のリバイバル上映を求めたい。「平成狸合戦 ぽんぽこ」も見直したい。

 今回宮崎駿作品の「風の谷のナウシカ」「もののけ姫」「千と千尋の神隠し」を再見した。基本的に映画は映画館以外では見ないので、ずいぶん久しぶりになる。「風の谷のナウシカ」(1984)だけは、その後80年代にもう一回見ているが、30年以上も前のことになる。今では公開当時に映画館で見たという経験も貴重なのかもしれない。3本まとめて感想を書こうと思っていたが、長くなりそうなので分けることにしたい。まずは「ナウシカ」から。

 「風の谷のナウシカ」(1984)はまだジブリ作品ではない。しかし徳間書店が製作の中心なので、実質的にはジブリ作品的である。上映当時に完成度やメッセージ性が評判を呼んで、普段アニメ映画をほとんど見ない僕も見に行った。当時はまだ日本映画は会社システムで上映されていた時代だが、この映画は「洋画扱い」で、一本立てロードショー上映された。キネマ旬報ベストテン7位に入選したが、これは長編アニメーション映画として初めてである。

 スタッフのクレジットが冒頭に出てくる。声優のクレジットはラストだが、役名が出ない。これらは「80年代的」な感じ。その頃の映画は、まだそんな風だった。今みたいに映画の終わりに延々とクレジットが出るようになったのはいつからだろう。この映画は「SFアニメ映画」という「ジャンル映画」に属している。「もののけ姫」や「千と千尋の神隠し」も同じかもしれないが、物語の作りは安易なジャンル分けが出来ないほどの独自な世界を形成している。それに比べれば、ナウシカは思想的独自性は高いが、世界の構造はジャンル的な「お約束」が認められると思う。
(オウムを如何にして止めるか)
 そのため最初に見た時は、評判ほど優れているとは思えなかった。しかし、「風の谷のナウシカ」は不思議なほどに「予言性」を秘めた映画である。1995年になって、僕は「オウム(王蟲)の暴走を如何にして止めるか」の映画だったことに気付いてビックリした。今回見たら、「マスクをしないと生きていけない世界」で「マスクが要らない世界をどう取り戻すか」という映画だったと気付いた。今後も新たな困難に直面した時に、「予言の映画」として立ち現れるのではないか。

 宮崎駿の映画に関しては、多くの人が様々に論じているので、今ここではその世界構造を新たに読み解こうなどとは思わない。ただ久しぶりに見た感想を書き留めるだけだが、今回見て「世界的なパラダイム転換」を象徴する映画だと思った。映画の最初の方で、「風の谷」に軍事大国トルメキアが侵攻してくる。70年代までだったら、「トルメキア侵攻にいかに抵抗するか」が中心テーマになるだろう。「サウンド・オブ・ミュージック」はその代表的な映画である。

 しかし「風の谷のナウシカ」では、トルメキアへの抵抗が主題にはならない。すでに世界は滅んでいて(千年前の「炎の七日間」)、「腐海」に呑み込まれつつある。その中で「自然を制圧して世界を救う」のか「自然と共生して世界を救う」のかが焦点になる。「反ファシズム」から「エコロジー」へという、我々の世界認識のパラダイム変換がここにあった。

 宮崎駿の映画は全部「飛ぶ教室」だと思っているが、ナウシカほど風を良く読んで世界を飛べる少女はいない。(「魔女の宅急便」では魔法を使えるが、ナウシカは風を読む。)まさに「風の歌を聴け」である。村上春樹の小説と宮崎駿の映画が、ほぼ同じ頃に世界中で受け入れられたのは何か共通性があるのではないか。「世界を救う少女」であるナウシカは、その後現実に現れたマララ・ユスフザイグレタ・トゥンベリの遙かなる先駆けだった。
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大林宣彦監督の「さびしんぼう」「野ゆき山ゆき海べゆき」

2020年06月19日 22時36分49秒 |  〃  (旧作日本映画)
 大林宣彦監督が亡くなって、本来なら遺作「海辺の映画館~キネマの玉手箱」が公開されていたはずだが、緊急事態宣言で延び延びになっている。追悼上映の企画もなかなか立てられないが、新文芸座で「さびしんぼう」と「野ゆき山ゆき海べゆき」上映されている見に行った。
(「さびしんぼう」)
 「さびしんぼう」(1985)は、間違いなく大林監督の最高傑作レベルの作品だ。ロマンティックノスタルジックな作風は全作品に見られるが、この作品はもっとも心に残る出来映えじゃないか。全編に流れるショパン「別れの曲」が見終わった後にも心の中で響き続ける。「尾道三部作」の最後とされるが、内容もあって尾道風景が一番見応えがあるのもいい。主演の富田靖子のスケジュールが年末に2週間空いていて、それで急きょ製作されたというが、往々にしてそういうときに傑作が出来る。
(「さびしんぼう」)
 「さびしんぼう」とは大林監督の造語だが、自分では全作品が「さびしんぼう」だとも言っている。「人を愛することは寂しいことだ」と大林監督は語っていると言う。「うまく説明できないけれど、なんとなく誰にでもニュアンスが伝わる」というタイプの言葉だ。この題名も素晴らしい。お寺(実在の西願寺でロケ)の息子、井上ヒロキ(尾美としのり)は趣味のカメラ越しに女子校でピアノを弾いている美少女(後に橘百合子という名前と判る)に恋してしまい「さびしんぼう」と名付ける。寺では口うるさい母とおとなしい父と暮らしているが、ある日部屋に突然「さびしんぼう」と名乗る少女が現れたのだった。

 この「さびしんぼう」と百合子を含めて、富田靖子は「一人四役」だと出ている。あと二つは何だ? エピローグに出てくる「百合子に似た妻」と「二人の間の娘」だという話。ヒロキをめぐる高校のエピソードはユーモラスで、特に校長室のオウムのシーンは笑える。ノスタルジックなムードを基調にしながら、ユーモアが点在していてバランスがいい。「さびしんぼう」は16歳当時の若き母だった。誰もが思い当たる「日常生活の中で年を取っていくこと」と「忘れがたい青春の思い出」のイメージを鮮やかに描ききる。切なく、寂しいけれど、それが生きていくことなのだ。すべての「親と子」に見て欲しい傑作。

 「野ゆき山ゆき海べゆき」(1986)は佐藤春夫わんぱく時代」を原作にしている。実は「さびしんぼう」も山中恒原作だったと今回見るまで忘れていたが、両作とも原作を大幅に変更している。「さびしんぼう」は傑作だったことの再確認だったが、「野ゆき…」は今回見直して再評価が必要だと思った。公開当時は「わんぱく時代」の映画化だと宣伝され、子どもたちの活躍映画だと思って見た。豪華助演陣の大人俳優が多数出ているが、何しろ出ずっぱりの子役は当時は知らない人ばかり。主演(お昌ちゃん)は鷲尾いさ子、須藤総太郎は林泰文だが、やはり大方はその後も知らない。
(「野ゆき山ゆき海べゆき」)
 この映画はカラー(豪華総天然色普及版)とモノクロ(質実黒白オリジナル版)の二つが作られた。木下恵介による日本初のカラー映画「カルメン故郷に帰る」も白黒も作られたが、この作品でなぜ二つ作られたかは知らない。今日はカラー版を見たが、多分前に見たのはモノクロだった。子どもたちのわんぱく戦争が延々と出てきて、それがあまり弾けない。大人の事情との絡みもあまりうまく行っていない。やはり映画の完成度としては失敗作ではないか。公開時に見た時もそう思ったが、今回見てもその評価は大きくは変わらなかった。
(「野ゆき山ゆき海べゆき」)
 ただ戦時下に時代を設定し、大胆に「反戦映画」的な作りにしている。「わんぱく」以上に、「女郎に売られる」お昌ちゃん奪還作戦が綿密に描かれていて、大人社会への痛烈な眼差しがある。子役の演技に頼れない分、自由な脚色(山田信夫)と編集(大林宣彦)によって、時間空間を自由に操作している。テーマ的にも技法的にも晩年になって作った「反戦映画」の先駆的作品と見ていいのである。「花筐/HANAGATAMI」が大人版だとすると、「野ゆき山ゆき海べゆき」は子ども版である。その意味で再評価が必要だと思う。川を滑り降りるシーンなど自然描写も忘れがたい。
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宍戸錠と日活アクション

2020年01月22日 22時51分46秒 |  〃  (旧作日本映画)
 俳優の宍戸錠(ししど・じょう)が亡くなった。1933.12.6~2020.1.21 86歳だった。1月21日に死亡しているのが発見された。「エースのジョー」と言われても、実人生で不死身じゃないのは当然だが、かつての日本映画黄金時代を支えた男優たちがどんどんいなくなっている。やはり女優のほうが長命だ。
 (若い頃と最近の画像)
 宍戸錠はずいぶんいろんなテレビに出ていた。ウィキペディアを見ると、大河ドラマに6回も出ている。ヴァラエティ番組にもけっこう出ていたが、僕にとっては「日活アクション」を体現したような俳優だった。俳優ランクでは石原裕次郎小林旭が上だったが、彼らはもっと違った俳優イメージをまとっている。だから作家矢作俊彦が作った日活アクションの名場面集映画「アゲイン」(1984)でガイド役を務められるのは、宍戸錠だったのである。「アゲイン」という映画はもう一回見てみたいもんだ。

 宍戸錠は軽やかな銃さばき孤独な殺し屋が性に合う。そのような身体性を獲得していた希有なアクションスターだった。自ら豊頬手術を受けて、ハンサム俳優から悪役の出来る顔に変えたのは有名な話。その結果、日活アクションの「思想性」を体現する俳優となった。50年代から60年代末にかけて営々と作られた日活アクションは、「人は何のために戦うのか」に関して独自の思想を獲得した。東映の時代劇や任侠映画、あるいは東宝の社長シリーズやゴジラシリーズ、はたまた独立プロで作られていた「良心的左翼映画」の数々。いろいろな映画が作られていたけれど…。

 50年代半ばに製作を再開した日活映画だが、当初はヒットに恵まれず苦労した。日活を救ったのは芥川賞受賞作の石原慎太郎太陽の季節」の映画化(1956)だった。その映画で石原裕次郎が見出された。その結果、当時「太陽族」と呼ばれた「不良少年もの」が識者の非難を浴びながら量産されてゆく。その中で独特の設定が確立され、登場人物のイメージが作られていった。いつまで「不良」でもいられないから、例えば船員となって港町をさすらう。悪いボスが麻薬の密輸などを企み、藤村有弘や小沢昭一がおかしな中国語をあやつり香港の組織を代表する。

 横浜や神戸、あるいは時には函館や長崎などで、さすらうヒーローがどこかへ消えて会えない運命の女を捜す。どこにあるともしれない無国籍空間のクラブへ行くと、女は悪いボスに囚われている。そこで大乱闘になるが、卑怯にも主人公を闇討ちするような悪漢に対しては、悪役側であるはずの宍戸錠が銃弾をお見舞いする。なぜなら「プロフェッショナルな殺し屋」の誇りに掛けて、主人公と一騎打ちをするために敢えて主人公を救うのである。もちろん「お約束」により最終的に宍戸錠が破れるとしても、印象深い「不敵な敵役」を演じていたのである。

 このように「組織」に雇われていたとしても、宍戸錠は自分自身のために戦う。正義の側に立つ主人公であっても、正義の組織のために戦うのではなく、自分の誇り、自分で決めた生き方を貫くために戦い続ける。そのような「個人主義」的なヒーローを日活アクションは描き続けた。70年代初期に日活が従来の映画作りから「ロマンポルノ」路線に転換した後で、日活アクションの再評価が進んだ。渡辺武信の「日活アクションの華麗な世界」がキネマ旬報に長期連載され、池袋の文芸坐がオールナイト上映を連続して行った。大学生になっていた僕もずいぶん見たが、その結果「日活アクション」の論理と倫理が身についてしまうことになった。「組織」に身を捧げても必ず裏切られるというように。

 映画という大衆文化は、作り続けているうちに独自の思想的純化を遂げていく。例えば東映任侠映画だったら「総長賭博」、同じく実録映画だったら「仁義の墓場」のような映画である。日活アクションだったら、「拳銃(コルト)は俺のパスポート」や「殺しの烙印」が思い浮かぶ。「拳銃は俺のパスポート」は、組織に雇われ対立組織のボスをまさにプロの技で消した主人公が、今度は組織に裏切られて追われる姿をモノクロのシャープな映像で描いた。あくまで「個」の才覚で生き抜く主人公は、もちろん宍戸錠。

 一方、鈴木清順監督の「殺しの烙印」はパロディが極まりすぎて、社長から「判らない」と宣告されて監督が解雇された。世界映画史上、お蔵入りしたり無断で切り刻まれた映画は無数にあるけど、映画会社から映画内容だけでクビになったのは鈴木清順だけではないか。「殺し屋」など、日本の現実世界では現実性がない。(暴力団が対立組織のボスを殺すのにカネで殺し屋を雇ったら、非難を浴びるに違いない。)だから日活アクションは時間と共に、単なるお約束映画が多くなる。そこで逆手に取ったパロディ化も起こる。そんなときの「自意識過剰気味」の殺し屋こそ、エースのジョーの出番である。殺し屋ランキングをめぐって殺戮が繰り広げられる「殺しの烙印」こそ、宍戸錠にしか出来ない「米を炊く匂いが大好きな殺し屋」だった。
(「殺しの烙印」)
 もう一つ、この間書いたばかりの芦川いづみ主演作品、「硝子のジョニー 野獣のように見えて」も忘れられない。この映画は芦川いづみの映画であり、男優としてはアイ・ジョージと宍戸錠のダブル主演になる。もともと「硝子のジョニー」はアイ・ジョージのヒット曲である。ただそれを借りただけで、北海道を転々としながら堕ちてゆく男を演じた宍戸錠も忘れがたい。やはり宍戸錠は他に比べることの出来ない独自の存在だったと思う。
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内田裕也、スクリーン上のロックンロール

2019年06月14日 23時21分02秒 |  〃  (旧作日本映画)
 今週は新文芸座(東京・池袋)で行われていた内田裕也の追悼上映をずいぶん見た。ちょうどキネマ旬報社から「内田裕也、スクリーン上のロックンロール」という「最後の超ロングインタビュー」も出版されたばかり。「ロックの日」(6.9)の発売である。これがもう圧倒的に面白くて、読み始めたら止められない。熱くたぎる汗が本の外まで飛んでくるような本だ。映画を見てない人でも面白いと思うけど、見てたら面白さが倍増、三倍増する本だ。70年代、80年代にこういう映画があったのである。
 
 最初の出演作「素晴らしい悪女」や「クレージーだよ 奇想天外」は疲れてて見逃した。また「コミック雑誌なんかいらない!」と「十階のモスキート」は混んでたので待つのが嫌で見逃すことにした。その後、滅多にない機会だから頑張ることにして、先の本も買っちゃった。60年代はナベプロの関係で、若大将シリーズやクレージーキャッツ、ザ・ドリフターズの映画なんかにも出ていた。

 本格的な劇映画出演は「不連続殺人事件」(曽根中生監督、1977)だった。先の本によると、元々はもっと大物俳優に声をかけていたという。坂口安吾の原作は日本ミステリー史上最高傑作レベルだが、映画は140分もあって長すぎる。公開時に見たし原作も映画の前に読んでいた。撮影が新潟の豪農の家として有名な「北方文化博物館」だったのは驚いた。もう何十年も前に訪れた思い出がある。事件の真相も忘れていたけど、有名な原作だから途中で思い出した。内田裕也は中心的な人物の一人で、前衛画家の役。原作を追うのに精一杯の展開だけど、内田裕也は存在感を発揮している。ロマンポルノの俊英曽根監督のATG作品だが、非常に成功しているとまでは言えないだろう。
 (「不連続殺人事件」)
 その後、日活ロマンポルノ作品にたくさん出ている。「実録不良少女 姦」(藤田敏八監督、1977)や「少女娼婦 けものみち」(神代辰巳監督、1980)は細部は興味深いが、もう昔だなという気もする。神代辰巳の「嗚呼!おんなたち 猥歌」(1981)は今もすごく面白い。もっとも今じゃ描けないような性暴力満載の映画だ。売れないロック歌手という設定も面白い。マネージャー役を現実にも親しかった安岡力也がやってる。二人でレコード店で宣伝に出かけるが、誰も聞いてない。どこかと思うと、遠くに「ほうとう」の看板が見えるので甲府だなと思った。本で読むとその通り。キャバレーで歌うと、「与作」をやれと言われて裕也が「与作」を歌うシーンが印象的。妻子がいて、愛人をソープで働かせ、さらに何人も強引にやっちゃう主人公はひどいヤツだが、内田裕也の存在感が半端じゃない。キネ旬5位。

 今回見た初めて見た「共犯者」(きうちかずひろ監督、1999)。全然知らなかったけど、竹中直人主演の「カルロス」の続編。監督は「ビー・バップ・ハイスクール」の原作漫画家だが、ハードボイルド系の映画を何本か監督している。2018年の「アウト&アウト」も良かった。暗さ全開のハードボイルドで、救いがどこにもない。蕎麦屋の店員だったのに、ひょんなことから知り合って銃撃戦まで付いてくる小泉今日子が最高。その相手の殺し屋が内田裕也で、アメリカ人ギリヤーク兄弟の兄の方。寡黙な殺し屋だが、しゃべるときは怪しい英語を連発する。全編暗い画面で展開する最高のハードボイルド。

 伊藤俊也監督の「花園の迷宮」(1988)は、江戸川乱歩賞受賞の原作の映画化。東映京都に作られたセットがすごく、この頃はまだそんなことが出来たんだと感慨深い。島田陽子と裕也が知り合った映画。横浜の洋館風の娼館で、相次ぐ不審な殺人。主人の島田陽子の他、黒木瞳、江波杏子、工藤夕貴ら女優陣の配役がすごい。豪華なセットの一番下で、石炭をくべ続ける窯焚きが内田裕也。最下層なのに、実は映画の鍵を握る。映画としての成功度以上に、なんだかキャストを見るのが楽しい。

 若松孝二監督が3本。「餌食」(1979)はアメリカ帰りのロック歌手が日本で浮いて犯罪者になる。「水のないプール」(1982)は実際の事件にインスパイアされた性犯罪映画で、公開時に見たときから好きじゃないけど、やっぱりすごい映画だと思う。麻酔薬で眠らせて女性を強姦していく地下鉄職員の役である。この冷たい感触の映画が確かに時代を映している。内田裕也が監督に持ち込んだ企画だというが、はまり役すぎて怖い。
 (「水のないプール」)
 「エロティックな関係」(1992)は、公開当時予告編を何度も見たけど、初めて見た。もともと「エロチックな関係」(長谷部安春監督、1978)という映画があり、そのリメイク。レイモン・マルローという人のミステリーを翻案して、ロマンポルノ風にしたのが前作。裕也は売れない私立探偵で、依頼に応じて浮気調査しているうちに罠にかけられる。その元映画をパリに移して、助手に宮沢りえ、依頼者にビートたけしというすごい配役。映画的には不自然すぎる(パリで日本人ばかり)が、要するに若い宮沢りえをフィルムに残しておきたいという企画だったらしい。その意味ですごく貴重だ。
 (「エロティックな関係」)
 インタビューを読むと、勝新太郎若松孝二北野武ら、とんでもない熱量を持った人と映画を作ってきたことが判る。日本でコンサートした外国タレントの大部分とケンカしたと豪語するのも凄い。もちろん日本人でも酒やケンカの日々で、そのような60年代、70年代の伝説を後世に伝える本でもある。いい気分になる映画ばかり見て育つと世の中を間違う。こんなトンデモナイ映画がかつて作られていたことを21世紀にも伝え続けるのも意味があるだろう。
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「美と破壊の女優 京マチ子」と京マチ子映画祭

2019年02月26日 23時14分05秒 |  〃  (旧作日本映画)
 筑摩選書で出たばかりの北村匡平美と破壊の女優 京マチ子」は映画女優論としても、戦後社会論としても大変優れた本だ。折しも角川シネマ有楽町で「京マチ子映画祭」が開催中で、連動した企画になっている。60年代までは日本映画界に「5社」と呼ばれた会社があった。松竹、東宝、東映、日活はそれなりに続いているが、大映は角川に買われて名前が完全になくなった。しかし角川は市川雷蔵若尾文子など大映が持っている古い映画で大々的な映画祭を開催している。京マチ子も戦後の大映が世界に誇った大女優である。

 この本を読むと、あるいは映画祭のラインナップを見ると、僕はその全部ではないけれどかなりの映画を見ているなと思う。でも自分でこのような本を書こうとは思ったことはない。日本の女優では、原節子田中絹代、あるいは高峰秀子山口淑子などが論じられることが多い。巨匠の映画を支えてきて、日本映画のイメージを作ってきた女優たちだ。「満州映画協会」の大スターからハリウッド女優に転身した山口淑子などは時代を考える意味で非常に興味深い存在だ。だけど、同じぐらい興味深い京マチ子は僕の問題意識に上ってこなかった。

 京マチ子は黒澤明の「羅生門」、つまりヴェネツィア映画祭グランプリにより日本映画で初めて世界に認められた作品に主演した。続いて溝口健二「雨月物語」でヴェネツィア映画祭銀獅子賞、衣笠貞之助「地獄門」でカンヌ映画祭グランプリと世界で評価された作品に主演して「グランプリ女優」と呼ばれた。もちろんそんなことは知っていたが、僕は今まで「羅生門」は黒澤、「雨月物語」は溝口と監督で見ることが多くて、「京マチ子の映画」として意識しなかった。

 OSK(大阪松竹歌劇団)のダンサーから大映にスカウトされて「肉体派ヴァンプ女優」として売り出される。世界的作品に出たことから、映画祭向けに企画された「名作」で日本を背負う役柄を演じる。非常に興味深いが、戦後の占領下での「肉体派」の役割、そして「グランプリ女優」に求められた所作。それらを著者はじっくりと論じてゆく。京マチ子の変幻自在な演技の裏にあったものは何か。京マチ子の顔だちや演技の分析は鋭く、社会史として大変すぐれた作品だと思う。

 しかし、「真実の京マチ子」の章を読むと、実像が大きく違うことに驚く。1924年生まれの京マチ子は90歳を超えて今も存命だけど、原節子のように神話化された女優にならなかった。スキャンダルもないまま、生涯独身を貫いている。スキャンダルによって、あるいは結婚相手や子どもによって記憶される女優もいるが、京マチ子は映画界の全盛期とともに(その後も舞台やテレビで活躍したけれど)、知名度も低くなってきたかもしれない。古い映画をよく見る人を除けば、若い人だと顔が思い浮かばない人が多いだろう。著者の北村匡平氏は、1982年生まれで東京工業大学准教授とある。世代的に直接知らない時代なのによく研究している。

 その後、文芸作品、国際的作品、演技派女優らと分析が続く。最後に山本富士子若尾文子と競演した「闘う女」を論じている。それらの映画、「夜の蝶」「女の勲章」「女系家族」などは昔はほとんど上映されなかったが、近年古い日本映画を専門的に上映する映画館が東京に出来て、僕も見ることができた。ものすごく面白いので驚いたが、これらの作品の京マチ子はもう貫禄たっぷりの役柄である。戦後の映画全盛期を駆け抜けた名女優の歩みをとことん追求した本。

 京マチ子映画祭は、1日5回上映で3月21日まで続く。会場の角川シネマ有楽町は、ビックカメラ有楽町店の8階だが、昔のそごうデパート。ここを舞台にしたヒット曲の映画化「有楽町で逢いましょう」も上映される。他社作品の「甘い汗」(1963)は女優賞独占の傑作だが上映がないのはやむを得ないか。大映作品では「あにいもうと」の上映がない他、本でも大きく取り扱われている「牝犬」「馬喰一代」「穴」「大阪の女」「夜の蝶」などの上映がないのが残念。「羅生門」「雨月物語」「赤線地帯」「鍵」などの名作の他、貴重な映画の上映が多い。

 この本を読んで、京マチ子が小津安二郎、溝口健二、成瀬己喜男、黒澤明の日本映画の4巨匠の映画にすべて出演した経験があった貴重な女優だと改めて気づかされた。
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熊井啓監督「サンダカン八番娼館 望郷」

2018年11月14日 23時01分13秒 |  〃  (旧作日本映画)
 国立映画アーカイブで映画美術監督木村威夫(たけお)の特集をやっている。そこで、熊井啓監督の「サンダカン八番娼館 望郷」(1974)を久しぶりに見た。原作は大宅壮一ノンフィクション賞を受賞した山崎朋子の「サンダカン八番娼館」(1972、文春文庫に新装版)で、当時多くの人に読まれた。70年代に歴史を学んだ学生なら多分全員読んでるだろう。日本の近代史を考えるときに必ず知っておくべき本と映画だから、ここでも書いておきたいと思う。

 熊井監督はこの前書いた「忍ぶ川」(1972)に続いて、1973年の「朝やけの詩」をはさみ、1974年にこの映画で再びベストワンになった。世界的にも高く評価され、田中絹代ベルリン映画祭で最優秀女優賞を受け、アカデミー賞外国語映画賞にノミネートされた。僕は若いころに2回は見ているが、田中絹代に「神演技」を見た。無声映画時代から日本を代表する大人気女優で、何本か監督もした。この素晴らしい演技が永遠に残されたのは喜ばしい。

 映画はほぼ原作通りに進行するが、原作者にあたる女性史研究家三谷圭子栗原小巻)が創作されている。三谷は海外に売春婦として出稼ぎしていた「からゆきさん」の歴史を探るため、天草で調査をしていた。人々の口は重く、収穫もなく帰ろうとしていた時、食堂で北川サキ田中絹代)という老女に出会う。老女の家を訪ねると、あまりのボロ屋敷ぶりに絶句するが、一緒に茶を飲み、話をするうちに心の交流が始まってゆく。

 三谷は一週間後に再びサキを訪ね寝食を共にするが、昔話は避けられる。しかし村の行商人(山谷初男)が三谷を夜這いに襲った日から、話をしてくれる。「男にひどい目に合わされた」ことで共感されたのだろう。民衆史の「オーラル・ヒストリー」(口述による歴史)で一番難しいのは対象者との信頼関係構築だ。この映画はそこに焦点を当てていることが特徴である。過去の過酷なドラマだけではなく、田中絹代のシーンがあることで深みがぐんと増している。

 サキの過去は壮絶なものだった。父が死に母が叔父と再婚して居場所を失った兄とサキ(高橋洋子)は出稼ぎに行くことになる。サキは海外に行けると承諾するが、「売春婦への身売り」だとは知らなかった。英領ボルネオ(現在のマレーシアのサバ州)の港町サンダカンに連れていかれたサキは、15歳になると強制的に客を取らされた。最初の客はマレー人で、言葉も何も判らないままレイプされた。ゴム園助手の日本人秀夫(田中健)と愛しあったこともあったが、結局は裏切られる。
 (若い時期のサキ)
 日本の軍艦が上陸するとサンダカンの娼婦もひとり30人のノルマを課せられる。そのさなかに廓主の太郎造(小沢栄太郎)が急死するが、娼婦から成り上がった「伝説の人」キク(水の江瀧子)が急場を救う。貴族院議員が訪問すると、体裁が悪いから閉鎖しろと言われる。キクの死後、やっと故郷に帰ったがそこでも受け入れられず、今度は満州へ行く。結婚して子どもも産まれたが、引き上げで夫を失った。大日本帝国の先兵のように「海外進出」して行ったサキの一生だった。

 これは典型的な「棄民」である。サキは「男は信用できない」という人生訓を持つが、国家に関しては何も言わない。一度も寄り付かない息子が送ってくるわずかな金で最貧の暮らしを送っている。三谷を受け入れたことで、村の恥が暴かれるのではないかと村人からも疎外されている。国家に棄てられ続けたサキの姿に底辺民衆の真実がある。また「軍隊と売春」には深い関わりがあることも判る。「国家」を相対化できず「恥」の感覚に囚われ続ける民衆像は今も重い。

 ただ映画的に言えば、「スター主義」的な作りになっている。栗原小巻高橋洋子に対するに、田中絹代という大女優を配し、その絡みでほぼ映画が成り立っている。重いテーマだから社会派的に見えるが、女優のクローズアップを中心にした女性映画である。伊福部昭の音楽も、ここぞというところで鳴り響く。高橋洋子の「初店」シーンでも、マレー人のタトゥーがおどろおどろしく描写される。熊井啓作品に時々見られるセンチメンタリズムやセンセーショナリズムが感じられる。そこが今見ると残念だと思う。

 ところで、僕は木村威夫と言えば、どうしても鈴木清順作品を思い出してしまう。しかし、今回の上映リストを見ると、熊井啓監督ともずいぶん仕事をしていたなと思った。同時代で見ていた時には、監督や俳優、あるいはテーマに気を取られて美術監督を意識しなかった。この映画でもサンダカンの娼館街や天草の貧乏暮らしの家など、素晴らしいを通り越して圧倒されてしまうセットである。日本映画でこのようなことができた時代だったんだなと感じ入った。
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熊井啓監督「忍ぶ川」を再見して

2018年09月14日 22時49分07秒 |  〃  (旧作日本映画)
 池袋の新文芸座でやってる加藤剛追悼特集で「忍ぶ川」と「子育てごっこ」を見た。今井正監督の「子育てごっご」は多分初めてだけど、熊井啓監督の「忍ぶ川」は1972年5月の公開時に上野東宝で見た。併映作品は庄司薫原作の「白鳥の歌なんか聞こえない」で、僕はそっちも見たかった。でもやっぱり目的は「忍ぶ川。ものすごく評判が高かったので、土曜日に高校の放課後に見に行ったのである。それから46年も経過したとは我ながらビックリだ。

 それ以来いつかまた見たいと思っていた。時々どこかで上映されていたが、いつも都合が悪いのである。熊井啓監督が亡くなった時の追悼特集でも見られなかった。今回は是非見たいと思っていたら、途中で電車が停まってしまった。何かそういうめぐりあわせの映画もあるもんで、今回もダメかと思ったら、何とか予告編上映中に座ることができた。ここで書く気はなかったんだけど、その完成度の高さに感銘を受けたので書いて置きたいと思った。この年のキネマ旬報ベストワン毎日映画コンクール映画大賞である。(なお「旅の重さ」がベストテン4位だった。)

 改めて思ったのは、技術スタッフ(撮影、美術、録音、照明等)の素晴らしさである。撮影(黒田清已)や美術(木村威夫)のすごさは、高校生にも深い印象を与えたが、今回見て録音(太田六敏)の素晴らしさに感銘を受けた。調べると、映画録音の大家で、その後も熊井啓監督の「サンダカン八番娼館 望郷」、増村保造監督の「大地の子守歌」「曽根崎心中」、村野鐵太郎監督の「月山」など、高い録音技術が今も思い起こされる70年代の名作を担当している。音楽の松村禎三は有名な現代音楽家で、高校生の耳にも新鮮だった。抒情的なギターの旋律が印象的。

 主演の栗原小巻(1945~)は異様なまでに美しい。俳優座の舞台が中心になって、80年代以降の映画、テレビの出演が少ない。俳優座も退団していて、最近は公の席で見ることもない。だから若い人は「コマキスト」という言葉まであったことを知らないだろう。(吉永小百合ファンは「サユリスト」だった。)僕には正統派美人すぎて、特にファンじゃなかった。(僕の世代だと、秋吉久美子やキャンディーズなどが身近だった。)「忍ぶ川」の名演、熱演は素晴らしいの一言。主人公ならずとも心奪われる。こんな人がいるかと思いつつ、是非ともいて欲しいものだと思う。毎日映コン女優賞は取ったけれど、キネ旬はなんと日活ロマンポルノの伊佐山ひろ子が受賞してしまった。

 僕は事前にキネマ旬報に掲載されたシナリオ(長谷部慶治、熊井啓)を読んで非常に感動した。映画より良かったぐらいだと思う。「忍ぶ川」はもちろん、三浦哲郎芥川賞受賞作(1960年下半期)の映画化である。50年代後半には石原慎太郎、開高健、大江健三郎などが登場していたわけだが、「忍ぶ川」は時代離れした苦学生の恋愛私小説だった。熊井啓は「帝銀事件 死刑囚」でデビューし、「日本列島」「黒部の太陽」「地の群れ」と作ってきた。どれも骨太の作品ばかりで、第5作に純愛小説を映画化したことには懸念の声も多かった。
 (三浦哲郎)
 映画を見ると、ナレーションを多用し、字幕も使っている。そこに「文学臭」があって、映画の流れを損なうように昔見た時は思った。カラー映画が中心になっていた時代に、美しいモノクロ映像も評判になったが、それも現代離れした古風な感触を与えた。名作だとは思ったけれど、「旅の重さ」や「白い指の戯れ」のような、まさに同時代を生きる青春映画の方が魅力的だったのである。

 三浦哲郎もその後発表する長編や短編の名作がまだ書かれてなかった。でも今見れば、「白夜を旅する人々」に集大成された「家族の悲劇」が「忍ぶ川」の本質だと判る。単なる純愛私小説じゃない。生きがたさを抱えた主人公二人の魂の再生の物語だ。熊井啓の資質と離れた作品なのではなく、「忍ぶ川」も「日本列島」のような暗い抒情をたたえた社会性を持っていた。映画で脇を固めた信欣三永田靖滝花久子岩崎加根子なども印象的だったが、長くなるからもう止める。

 具体的な筋を書いていないけど、原作が有名だから省略する。作者は青森県八戸出身で、映画でも「青森へ帰る」と言っているが、雪の駅は「西米沢」と見える。米沢市協力と出るので、ラストの結婚シーンは米沢でロケされたんだろう。また原作者は「てつお」と読むのが正しいが、映画内では親が「てつろう」と呼んでいる。
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映像と物語-映画「旅の重さ」の魅力③

2018年06月24日 23時22分55秒 |  〃  (旧作日本映画)
 映画「旅の重さ」は何よりも映し出された風景が美しい。それだけを見ていると「旅の軽さ」と言いたくなるぐらい、見ている者の心も解放される。そういう意味じゃ、この映画を支えているのは撮影であり、それ以前に「ロケハン」(ロケーション・ハンティング、ロケ出来る場所を探すこと)だ。ロケ場所に関しては、「居ながらシネマ」というサイトの「旅の重さ」(2013.7.26)の記事が詳しい。こんなに探してくれて大感謝。映画館のシーンが愛媛県八幡浜市でロケされたというのは、これで知った。ラストで少女が居つく港がどこかもこれで判った。関心のある人は直接探して下さい。

 撮影の坂本典隆は松竹の70年代、80年代の名作を多数手がけた。経歴はよく判らないけど、検索すると斎藤耕一監督の前作「約束」が最初にクレジットされている。斎藤監督のベストワン作品「津軽じょんがら節」や山根成之監督の「さらば夏の光よ」、「突然、嵐のように」、前田陽一監督「神様のくれた赤ん坊」など忘れられない名作を撮影している。1972年のキネ旬ベストテンは、4位が「旅の重さ」、5位が「約束」だった。斎藤監督、坂本カメラマンのコンビが素晴らしい成果を残した年だった。3月に公開された「約束」は涙なくして見られない名作で、斎藤耕一監督が続いて「旅の重さ」を撮ると聞いて、皆映画ファンはきっと傑作になると信じて見に行ったのである。

 斎藤耕一監督(1929~2009)は流麗な映像で知られた監督で、検索して調べるとクロード・ルルーシュに例えられたと出ている。そうだった、そうだった、「和製ルルーシュ」とか言われていた。ルルーシュは1966年に「男と女」がカンヌでパルムドールを取り、フランシス・レイの音楽も素晴らしく世界的に大ヒットした。「パリのめぐり逢い」「白い恋人たち」(グルノーブル冬季五輪の記録)と似たようなタッチの作品を続々と作って、パリのオシャレ映画に思えて日本でも人気が高かった。でも同じような映画が多くて、そのうち飽きてしまった。81年に大作「愛と哀しみのボレロ」が大ヒットしたが、その後はどうしたかと思ったら、2015年に「アンナとアントワーヌ」という映画が作られた。
 (斎藤耕一監督)
 ルルーシュのたくさんの映画もほんの数作しか記憶されないように、斎藤耕一監督の映画も「約束」「旅の重さ」「津軽じょんがら節」の3本になってしまうだろう。1974年に高倉健、勝新太郎、梶芽衣子「夢の競演」で、ロベール・アンリコ「冒険者たち」のような物語をねらった「無宿」(やどなし)を作った。大期待して待っていたんだけど、どうも失敗作としか言いようがなかった。「竹久夢二物語 恋する」(1975)や「凍河」(1976)あたりまでは見た記憶があるが、その後も何本も作ったけど見てないと思う。それより60年代に松竹で作っていた「思い出の指輪」「虹の中のレモン」「小さなスナック」「落葉とくちづけ」などの「歌謡映画」の再評価が必要かなと思う。

 映画監督は助監督から昇格した人が多いが、斎藤耕一は「スチル・カメラマン」(ポスターやマスコミ宣伝用の写真を撮る人)出身である。中平康監督の「月曜日のユカ」などの脚本も手掛けた。自分の映像イメージと違う映画に失望し、1967年に自費で「囁(ささや)きのジョー」を作った。これはスタイリッシュなノワール映画で、ブラジル行きを夢見る殺し屋の物語である。それなりに面白かったように覚えてるが、物語が弱く映像で見せようとする点は斎藤映画の共通点だろう。映像派や社会派は、世の中の変化や技術の発展であっという間に古くなってしまう。80年代になると、斎藤に限らず70年代に活躍した監督の多くが不調になるのは時代的要因が大きい。

 1972年の「約束」「旅の重さ」が心に残るすぐれた出来になったのは、脚本の石森史郎(ふみお)の功績も大きい。石森は日活、松竹、そしてテレビで数多くの娯楽作品を書いてきた。映画では「博多っ子純情」や「青春デンデケデケデケ」などがある。「約束」は88分、「旅の重さ」は90分と、今の映画に比べれば非常に短い。もちろん系列映画館では二本立てで公開されていた時代で、もう一本の映画と合わせると3時間超になるわけだ。デジタル時代と違って貴重なフィルム撮影だから、無駄を省きドラマをくっきりと印象付けるシナリオの役割が大きい。「旅の重さ」のきびきびとした進行はシナリオの功だと思う。

 さて最後に原作。数奇な運命で世に出た覆面作家、素九鬼子(もと・くきこ)のデビュー作である。70年代に何作書かれたが、当時は正体不明とされた。「大地の子守歌」「パーマネント・ブルー」はそれぞれ原田美枝子、秋吉久美子主演で映画化され、70年代の映画ファンには忘れられない名前だ。読んだことはないんだけど、映画を見ると全部四国、瀬戸内海が舞台。実際に作者は愛媛県出身で、東京から見ると風景も珍しい。この原作を石森が脚色し、映像派の斎藤監督が新人女優で映画化する。企画としてうまく行く要素がそろっていた。

 フォトジェニックなシーンが続き、何だか日本映画じゃないような気分で見ていた。でも僕は当時から思うんだけど、「旅の重さ」って何だろう。普通の人にとって、旅は日常より軽い。旅行に行くと、つい食べ過ぎて後悔したりする。気持ちが軽くなって浮かれてくる。旅から戻って日常生活が始まるのがうっとうしい。それが普通だと思うが、映画の主人公はあっけらかんと家出して、何となく年上の男の家に居つく。そこで暮らせば、それが日常だ。やっぱり日常の方が重いんじゃないか。そうも思うけど、もっと大きな目で見れば、人は皆生まれて死ぬまでの旅をしている。時には軽々と場所を変えられるが、どこにいても「旅の重さ」なのかもしれないなと思ったりする。
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高橋洋子と吉田拓郎-映画「旅の重さ」の魅力②

2018年06月23日 23時37分27秒 |  〃  (旧作日本映画)
 映画「旅の重さ」の話、続き。この映画の魅力はオーディションで選ばれた主演女優の高橋洋子の存在感である。同じオーディションを秋吉久美子も受けていて、次点だった。本名の小野寺久美子名義で、ちょっと出ている。最後に少女が居つく漁師の村で、読書の大好きな不思議少女をやっている。その役もそうだし、その後初主演した松本俊夫監督「十六歳の戦争」、あるいは実質的なデビュー作「赤ちょうちん」など初期の秋吉久美子は繊細で不安定な役柄が似合った。

 高橋洋子(1953~)は2017年に全国公開された「八重子のハミング」で28年ぶりに主演した。もう若い人には忘れられた名前かもしれない。昨年シネマヴェーラ渋谷の東映実録映画特集で「北陸代理戦争」のトークショーを聞いたが、とても元気で記憶もしっかりしていた。ウィキペディアによると、都立三田高校卒業後、文学座の演劇研究所にいた時にオーディションに合格した。「旅の重さ」の翌年には朝ドラ「北の家族」のヒロインに選ばれた。74年には熊井啓監督「サンダカン八番娼館 望郷」で、「からゆきさん」役の田中絹代(ベルリン映画祭女優賞)の若いころを演じた。テレビにもたくさん出ていたし、僕の大好きな神代辰巳監督「宵待草」のヒロイン役も忘れがたい。 

 70年代には女優として大活躍していたが、1981年には「雨が好き」で中央公論新人賞を受賞して作家としてもデビュー。83年には自身で監督して映画化した。著書もたくさんあり、結婚もして、女優を引退したわけじゃないけど幸せに生きてきたということだろう。実人生が証明したように、高橋洋子には健康的で打たれ強いイメージがある。その強さが「サンダカン八番娼館 望郷」や「北陸代理戦争」でも生かされていた。「旅の重さ」の少女の、家出して男の家に居つくという突飛な行動を無理なく見せる若い肉体の存在感があった。映画を見ているうちに、なんだか誰かに似ているような気がしてきた。誰かと思ったら、カーリングの藤澤五月。えっ、全然違うかな?
 
 この映画の高橋洋子は生き生きとして強い。映画館で痴漢にあっても、逆襲して食事をおごらせる。さすがに真夏の四国を歩き回って最後には倒れるが、それでも独特のエネルギッシュさがある。(今の目で見れば熱中症という感じだ。)そんなすごい美人じゃないけど、映画でずっと見ているうちに親しみが湧いてくる。70年代に活躍した若い女優は秋吉久美子桃井かおりなども同様で、容姿だけで言えばクラスメートにだってもっと美人がいたかもしれない。でもこんな生き生きした親しみやすさは映画内でしか接するものじゃなかった。それにクラスメートのヌードは見れないけど、70年代の女優は映画内で胸も見れた。(高校生には重大。)

 この映画の魅力はいくつもあるが、よしだたくろう吉田拓郎)の音楽も大きいと思う。それまでの映画音楽をよく作っていた人よりも親しみやすい。それが成功かというと、ちょっと軽すぎる感じもある。映像や俳優と「対決」するような音楽じゃなく、映像に伴走して俳優を包み込むような音楽。でもそれが見ている若い観客には親しみやすい。吉田拓郎というのは、映画が作られた72年に「結婚しようよ」「旅の宿」がヒットした新進フォークシンガーである。71年には「広島フォーク村」や中津川の「フォーク・ジャンボリー」の活躍が伝説的に伝わってきていた。映画でテーマ曲になっている「今日までそして明日から」は71年7月に3枚目のシングルレコードとして出た曲だった。

 当時ベストテンの上位になった映画では現代音楽の作曲家が意欲的なスコアを書いていた。72年ベストワンの「忍ぶ川」では、松村禎三の音楽に一番感動した。物語や俳優以上に音楽にビックリしたのである。71年に1位、2位となった大島渚「儀式」、篠田正浩「沈黙」はどちらも武満徹の音楽で、非常に重要な力を発揮している。僕はそのようなアートシネマで現代音楽を知ったのだが、この映画の音楽はだいぶ違った印象がある。今回上映の作品を見ても、ゴダイゴ(青春の殺人者)、ムーンライダース(サチコの幸)、井上堯之(アフリカの光、太陽を盗んだ男)、頭脳警察(鉄砲玉の美学)などが音楽を担当している。映画も音楽も新しい時代になったのである。

 吉田拓郎自身も「フォークシンガー」というカテゴリーで登場してきたが、今思うとちょっと違っていた。72年に六文銭のメンバーだった四角佳子(よすみ・けいこ)と結婚、同時に「僕の髪が肩まで伸びて 君と同じになったら 約束通り町の教会で結婚しようよ」などと抜け抜けと歌った「結婚しようよ」を大ヒットさせた。いわゆる歌謡曲と違う、後に「ニュー・ミュージック」などと呼ばれるようになる曲が商業的に大ヒットした最初の例だった。その後「神田川」(かぐや姫)、「学生街の喫茶店」(ガロ)、「心の旅」(チューリップ)などが僕の高校時代に大ヒットした。

 まるで「旅の重さ」のテーマとして作られたかと思うほど、「今日までそして明日から 」は映画内容にあっていた。「私は今日まで生きてみました 時には誰かの力を借りて 時には誰かにしがみついて 私は今日まで生きてみました そして今私は思っています 明日からもこうして生きてゆくだろうと」 「生きてきました」じゃなくて「生きてみました」と歌う感覚が映画の少女に近い。ラストで驚くような決断をするわけだが、それも「明日からもこうして生きてゆくだろうと」と歌って相対化される。これが若き人生の感覚だった。今思うと、そんなことを言ってることが若さなんだろうが、僕にはなんだか発見のような気がしたのである。(ワールドカップを見ながらのんびり書いてると、監督や原作の話に行かずの長くなってしまった。もう一回。)
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映画「旅の重さ」(1972)の魅力①

2018年06月22日 23時28分58秒 |  〃  (旧作日本映画)
 神保町シアターで「七〇年代の憂鬱 退廃と情熱の映画史」という特集上映が行われている。同時代で見ていたものとしては、あれがない、これもないなどと言いたくなるけど、とにかく興味深い映画17本が選ばれている。長年再見したかった「あらかじめ失われた恋人たちよ」も見たけど、71年の「前衛」的なムードには共感するものの、やっぱり失敗作だったなあと思った。一方、久方ぶりの「旅の重さ」はもう4回目ぐらいだと思うけど、やはりすごく面白かった。上映はとっくに終わっていて、見たのも2週間ぐらい前なんだけど、書き残しておきたい。

 1972年に作られた斎藤耕一監督作品。スタッフやキャストのことは2回目に回して、1回目は物語を中心に書きたい。この映画はまさに同時代に同年代の物語として見た。簡単に言えば、16歳の少女が夏休みに家出して、四国遍路を続けるうちに様々な体験をする話である。少女は名前も出て来ないが、16歳というから高校1年か2年である。この映画が作られた年に、僕は高校2年生で夏に中国地方を一人旅した。最初に見た時からもう主人公に感情移入してしまい、自分のために作られたロード・ムービーのように思った。同じように特別な思い入れを持つ人も多いだろう。

 この映画を久しぶりに見直して特に感じたのは「風景の美しさ」である。海や山の景色が美しいのは当然だけど、どこにでもありそうな田園風景が美しい。日本の田舎がこんなに美しかったのか。それは当時の僕に「発見」だった。まさに「ディスカバー・ジャパン」。この標語は当時の国鉄の観光キャンペーンで、日本経済が高度成長する一方で「公害」が深刻化した70年前後に話題を呼んだ。また1972年は「連合赤軍事件」の年だ。あさま山荘事件や山岳ベースでのリンチ殺人事件が大きな衝撃を与えた。政治の季節が終わり、共同体や柳田国男への関心が強まっていた。僕もそんな文脈で「日本の地方の風景」を見つけたのではなかったか。

 72年になかったものコンビニ自販機スマホ。自販機は当時もあったけど、この映画では使われない。調べたら70年に100万台を超えたと出てたが、多分大都市が中心だったと思う。僕も旅行中に飲み物がなくて困った記憶がある。コンビニは1974年にセブンイレブン1号店が東京にできた。黛まどかの四国遍路記を見れば、今じゃコンビニのないお遍路は考えられない。スマホはもちろんないけど、公衆電話はあるわけだが、主人公は母親に時々手紙を書いている。それが映画で朗読されて効果をあげている。家出をしたけど、手紙でつながっている。それが70年代である。

 72年にあって今はないもの500円札。これは岩倉具視の肖像だった。安宿に泊まると、一泊300円と言われる。お風呂は別で30円。いくら安いと言っても、今とは物価水準がひとケタ違う。ちょっとした支出は500円札で済む。町中の小さな映画館で痴漢に会う。痴漢はともかく、こんな感じの映画館は今は少ない。(愛媛県の八幡浜だということ。)しかし、小さな日用品は変わっていても、今も理解はできるものが多い。旅芸人の一座、魚の行商人、今はほとんど見なくなっただろうが、それでも理解できる。

 理解できないのは少女の決断。大きなエピソードとして、途中で会う旅芸人一座のシーンと病気で倒れて魚の行商人(高橋悦史)に助けられるシーンがある。旅芝居が面白い、自分も入っちゃおうかというのは判る。少女は父親と住んでいない。事情は分からないけど、母親の男関係が嫌になって少女は家を出た。そんな暮らしの中で、三國連太郎演じる座長の存在感にひかれるのも「父親への憧れ」なのだろうか。しかし少女は女性の座員(横山リエ)と親しくなり、同性愛を体験する。揺れるセクシャリティが何だか自然に理解できてくる。

 いろいろあって体力的にも精神的にも限界になった少女は道端で倒れる。そこを助けてくれたのが不愛想な行商人だった。これは気づいてみたら男の家で寝かせられていたので、選択の余地はない。初めはすぐに出発する気で一度は男の家を出るが、まだ回復が十分でなくまた倒れる。再び男の家に戻るが、今度は男が帰ってこない。突然船に乗って漁に出ることもあるというが、どうも違うらしい。なんだか博打で警察に捕まってたらしい。ほとんど話らしい話もせず、どういう人間か謎を秘めているが、この男に少女は惹かれてゆく。そして居ついてしまって「夫婦」のようになってしまう。これが判るようで判らない。昔からよく判らない。

 だけど判らなくていいんだと思う。完全に判ってしまう物語は浅い感じがする。この少女のラストの決断が判らないから、この話は忘れられなくなっていると思う。家出をするのは判る。そこで異性と出会うのも判る。しかしたいして風采も上がらない男の家に何となく居ついてしまう。これは判らないけど、そういう生き方もあるんだということだ。僕のまわりにだって、何となくえっという感じで結ばれてしまったカップルもいくつかあった。そういうもんかとも思うが、少女の「年上に惹かれる」心性が納得できるかということか。その後どうなって行くのか、ずっとうまく行くとも思えないが、それでも人生にはそんな選択も起こり得るということが若い僕には鮮烈なメッセージだった。
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映画「砂の女」(勅使河原宏監督)を見る

2018年04月24日 22時47分22秒 |  〃  (旧作日本映画)
 池袋の新文芸座で「白黒映画の美学」という特集上映をやっている。このレベルの企画だともう全部見てる映画なんだけど、見直したい映画が組まれてたので、22日に「おとし穴」と「砂の女」、23日に「泥の河」と「麻雀放浪記」を再見した。どれも面白く見たけれど、ここでは「砂の女」にしぼって書いておきたい。「砂の女」(1964)はもちろん安部公房原作の大傑作を映画化したもので、内外で非常に高く評価された。キネ旬1位、毎日映画コンクールやブルーリボン賞の作品賞、カンヌ映画祭審査員賞、アカデミー賞外国語映画賞ノミネートといった具合である。
 
 原作を読んだのも、映画を見たのも、もう何十年も前だから、具体的なシーンは忘れているところも多い。でも、基本的なアイディアは忘れようがない。映画を見ている間中、見ている観客にも砂が入ってくるかのような圧迫感に襲われる。圧倒的な映画だなあと思った。今回は撮影監督を重視した特集なので、撮影は瀬川浩という人かと思った。監督の勅使河原宏(てしがはら・ひろし)と組んで「おとし穴」「砂の女」「他人の顔」を撮り、その後は武田敦「沖縄」や深作欣二「軍旗はためく下に」などにクレジットされている。光と影のコントラストが強調され、砂の映像の迫力がすごい。

 昆虫採集を趣味とする教師(岡田英次)が休暇を取って砂丘にやってくる。砂丘に住むハンミョウを探して、新種を見つけたいのである。休んでいるうちに終バスを逃して、村人から砂の下にある家に泊って行くように勧められる。そこは砂にのまれて夫と子どもを失った女(岸田今日子)が一人で住んでいた。縄梯子を下りて家に下りていくが、翌朝には梯子が上げられて帰れない。女は毎夜「砂かき」を続け、村人がそれを引き取る。代わりに「配給」を村からもらって暮らしている。男は何とか脱出しようと試みるが、蟻地獄の底みたいな家だから出ていけない。
(岡田英次と岸田今日子)
 こうして「砂の女」に囚われた男はどうなるか。二人の関係は? という展開は原作と大体同じだから、ここでは書かない。原作を読んでるだけじゃわからない、「砂」の官能的なまでの存在感が映像で捉えられている。女が「砂は湿気を呼ぶ」というと、男は初めのうちは信じない。湿気を避けるためと言って、女は砂かきが終わると裸で寝ている。岸田今日子はいつものフシギ感が全開で、何とも言えない魅力というか魔力というか、砂が絡みついてくる感じがすごい。「アラビアのロレンス」とは違って、やはり湿潤な日本の風土を象徴する砂なのである。

 安部公房(1924~1993)は60年代初期まで日本共産党に所属していたが、初期のころから「社会主義リアリズム」とは全然違う作風だった。シュールレアリスムやSF的な作風から、カフカと比較されたりした。不条理文学と呼ばれ、世界的に評価が高かった。68歳で亡くなったが、生前からノーベル賞有力と言われ、受賞目前だったとされる。でも、マジック・リアリズム的な描写ではなく、「砂」も「女」も「集落」もいかにもありそうな日本の現実を描いている。そこが怖い。読んでるときには非現実感もあるが、映像で見ると納得させられてしまう。(静岡県浜岡町で撮影された。)

 「砂かき」は毎日続く。取っても取っても、また新たに崩れてくる。そんなことをして何の意味があるのか。男は自分には仕事があると最初は言う。そのうち、こんなことをしていないで、東京へ行こうとまで女に言う。僕も若いときに読んだ時は、これは「シーシュポス」だと思った。ギリシャ神話に出てくる、岩を積んでは崩れてくるという罰を受けた話である。つまり「徒労」である。これに対し、違った見方を出しているのが河合隼雄氏の「中年クライシス」である。

 「砂かき」を徒労と呼ぶなら、かつて男が仕事にしていた教師の仕事は徒労じゃないのか。医者や弁護士は人もうらやむ名誉も報酬も高い職業だけど、やっぱり何十年もやっていれば同じような仕事にウンザリしてくるんじゃないか。だから、大体の人がやってる仕事は、お金をもらえる以外にどんな意味があるのか、だんだん判らなくなる。そんな気持ちは40代、50代ぐらいの人の多くが持っているんじゃないか。それが「砂の女」の隠された意味だというのである。そして、誰にも何の意味があるか判らない、世の中で一番どうでもいいような「砂かき」こそ、世界の最前線で戦う「前衛」なんだという。これは教育や福祉に携わる人なら、なるほどそうかと思えるんじゃないか。

 こうして、「囚われの男」の物語から「世界の最前線」の物語に読み替える時、「砂の女」の新しい意味が立ち上がってくると思う。ほとんど岡田、岸田の二人の映画だが、村人の代表みたいな三井弘次もすごい。ずるい感じの役柄には絶品で、小津や黒澤の多くの映画に出た名優である。また武満徹の音楽が素晴らしい。武満は多くの映画音楽を担当しているが、特にこの頃「怪談」など代表作を作っている。武満徹の「砂の女」への貢献は大きい。

 監督の勅使河原宏(1927~2001)は、華道の草月流を一代で築いた勅使河原蒼風の長男。50年代には記録映画を作っていたが、1961年に安部公房原作のテレビドラマ「おとし穴」を初の長編として製作した。筑豊の炭鉱を舞台に労働組合の分裂を背景にしているが、社会派というより、前衛的不条理劇の印象が強い。その後、「砂の女」「他人の顔」「燃えつきた地図」と安部公房三部作を監督したが、圧倒的に「砂の女」の完成度が高い。(アカデミー賞の監督賞にもノミネートされた。日本人では「乱」の黒澤明と二人しかいない。)

 父の死後、草月流後継となった妹、勅使河原霞が一年で急死したため、1980年に草月流三代目家元を継いだ。その後も「利休」など映画も作ったけれど、華道や映画だけでなく、舞台美術や陶芸など総合的な芸術活動を展開した。戦後日本では破格のスケールの芸術家だったけれど、「前衛」的な芸術運動のプロデューサーという意味でも非常に重要な役割をになっていた。映画監督として、あるいは他の活動についても、全体像の再評価が必要じゃないかと思う。
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