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尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

映画「煙突の見える場所」とお化け煙突

2018年04月10日 22時44分12秒 |  〃  (旧作日本映画)
 国立近代美術館フィルムセンターが、日本で6番目の美術館、国立映画アーカイブとして独立した。大ホールは「長瀬記念ホールOZU」と命名され、今日から特集「映画を残す、映画を活かす。」が始まった。最初の上映が五所平之助監督の「煙突の見える場所」である。「三浦光雄の映像表現が、今回新たに作製した可燃性オリジナルネガからのダイレクトプリントであざやかに甦った」というので、また見たくなった。2012年に再見してブログにも書いたけど、北千住にあるお化け煙突のモニュメントも見に行ったので、合わせて書いておきたい。
(お化け煙突)
 今回見直して、暗い感じだった画面が確かに鮮やかになって、人物像もくっきりとした。「煙突の見える場所」(1953、スタジオ・エイト・プロ=新東宝)は、やはり五所監督の戦後の代表作だと思う。的確な人間描写が今でも秀逸な、戦後風俗を後世に伝える佳作で、53年のベストテンで4位になっている。(2位が「東京物語」、3位が「雨月物語」の年である。)五所監督は日本初のトーキー「マダムと女房」や無声映画の「恋の花咲く 伊豆の踊子」などを作った。戦後も「今ひとたびの」「大阪の宿」などの傑作がある。「大阪の宿」は最近フィルムセンターで見直して感心した。

 「お化け煙突」というのは、北千住にあった「千住火力発電所」のことである。1926年から1964年まで存在した。様々な映画や小説に出てくる有名な「下町のシンボル」だった。お化けというのは、見る場所により煙突の本数が違って見えるからだ。実際は4本あるのだが、細長い菱形に配置されているため、ところによっては3本2本、さらに全部重なって1本に見える場所さえある。僕は煙突の本数が違って見えるからお化け煙突と言うんだよと親に教えられた。小さい頃に電車から見た記憶がある。9歳の時に撤去されているんだけど、ちゃんと覚えている。

 煙突は1963年に稼働を停止し、翌1964年に撤去された。その時に煙突の一部が3mほど切り取られ、さらに二つにカットして、地元の元宿小学校の滑り台に利用されていた。小学校の閉校後、跡地の帝京科学大学にモニュメントが残されている。北千住駅から西へ歩いて、日光街道を超えて墨堤通りを北へ向かい、帝京科学大学本館キャンパスのところで、隅田川の堤防に上るとすぐ。大きな輪になっていて、その中からスカイツリーが見える。煙突の位置を示すポールもある。
   
 映画の中で登場人物が不思議だ不思議だと言ってるが、東京東部でこれを知らない人がいたとは思えない。東京以外の観客向けなんだろうけど、東京東部生まれとしてはリアリティがないセリフである。しかし、映画ではこの煙突を「見る角度によって、真実は様々な形を取る」ということの象徴として使っている。それが戦中戦後を生き抜く庶民の様々な姿と重なっている。

 東京大空襲で夫とはぐれた田中絹代上原謙と再婚した。仲は良いがすきま風も吹いている。2階は高峰秀子(上野商店街のウグイス嬢で、商店の案内放送を読んでいる)と芥川比呂志(税務署職員)に貸している。その家に突然赤ちゃんが捨てられる。田中絹代の前夫が実はどうやら生きていて、生まれた子供が育てられず勝手に置いて行ったらしい。この子がまたよく泣いてうるさい。夫婦はおろおろ、仲は悪化する。そもそもは誰が悪いか。それは置いて行った前夫が悪い。これを許してはいけない。正義の問題だと意気込むのが芥川比呂志で、自分で休暇を取って前夫を探すという。で、探索を経て見えてきたそれぞれの人生模様はどのようなものか。それこそ「お化け煙突」ではなかろうかという感慨を与えて映画は終わる。
 (田中絹代と上原謙)
 この映画の多少観念的で議論好きなところは、原作の椎名麟三によっていると思う。椎名麟三は今ほとんど読まれていないだろうが、最も早く登場した「戦後派」作家の一人である。戦前は共産党員だった時期もあるが、1950年にキリスト教に入信、以後はキリスト教に基づく作品が多い。共産主義、実存、キリスト教、救いといった主題が最近は文学からも少なくなったけど、椎名麟三の文学は「戦後の香り」をもっとも濃厚ににおわせている作風で、僕は大好きである。
 (高峰秀子と芥川比呂志)
 主要登場人物の田中絹代(1909~1977)、高峰秀子(1924~2010)は日本映画史でも最高の女優たちだから、今もよく上映される。上原謙(1909~1991)は、戦前の松竹で大スターだった。どうも頼りない男がはまり役。加山雄三の父親である。芥川比呂志(1920~1981)は芥川龍之介の長男で、文学座の名優。「ハムレット」で有名になった端正な俳優だった。文学座を脱退して「雲」「円」を作ったが、1981年に61歳で亡くなった。演出や著作も多く、映画やテレビにも出ていたので、親の知名度もあり、弟の作曲家芥川也寸志とともに広く知られた存在だった。早く亡くなったので、若い人は顔が思い浮かばないかもしれない。この映画は音楽を芥川也寸志がやっている。
 4月15日(日)午後4時にも上映あり。(2012年4月3日の記事を改稿)
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「階段映画」の魅力-「貴族の階段」「何がジェーンに起こったか」

2018年02月18日 21時02分56秒 |  〃  (旧作日本映画)
 ここには書いてないけど、実はピョンチャン五輪を見たり、昔の映画を見たりして日々が過ぎている。五輪をめぐる話はいずれまとめて書きたいが、昔の映画の話は書きだすと毎日長くなってしまうからあまり書いてない。フィルムセンターでは、小津の「浮草」のカラー修復版を見たし、五所平之助の「大阪の宿」「朝の波紋」を見た。また、大映女優祭をあちこちでやってたが、今度は大映男優祭も始まる。大体見ているから全部通うわけじゃないが、何本かは見たい。

 ところで新文芸座で「貴族の階段」と「何がジェーンに起こったか」という映画を見たんだけど、「階段映画」というものがあるなあと思った。「怪談映画」はいっぱいあるけど、そっちじゃなくて「階段映画」。映画史的に思い出してみても、階段を利用した名シーンは数多い。まずは「戦艦ポチョムキン」のオデッサ階段。あるいは「ローマの休日」のスペイン広場の階段。
 
 どっちも外の階段だけど、中にある階段が印象的な映画と言えば、まずはヒッチコックの「めまい」か。日本映画なら「蒲田行進曲」の「階段落ち」シーンか。今はCGで宇宙空間の大スペクタクルを見せられるけど、昔の技術だと階段が「上下」の動きを一番見せやすいということか。特に日本だとちょっと前まで「平屋建て」がほとんどで二階も珍しかった。(この前見た脚本家の水木洋子の家も平屋。)だから「階段」の持つ意味も今よりも大きかったに違いない。
 
 さて題名に階段が付いている「貴族の階段」。1959年の吉村公三郎監督作品。武田泰淳の原作を新藤兼人脚本で映画化したものである。原作は持ってるけど読んでない。でも新藤のシナリオはかなりよくまとまっているように思う。間野重雄の美術が見どころがある。ここで「階段」というのは、一種の比喩であるとともに、華族の頂点にある貴族院議長西の丸家の階段をもさしている。ここには滝沢修演じる陸軍大臣が訪れ、密談の後に帰るときに階段を転がり落ちる。
 (「貴族の階段」)
 西の丸公爵(森雅之)は貴族院議長で、後に首相となるから近衛文麿に近いが、近衛は2・26事件で襲撃されてはいない。襲われた牧野伸顕や多くの人のイメージが交じって作られたんだろう。陸軍の皇道派軍人は歴史に闇に消え、貴族が生き残って「階段」を上る。そういう意味の題名だろう。日本では上流階級を描く映画、小説があまりない。歴史研究も遅れていた。

 そういう中で50年代に作られた「貴族の階段」は重要だと思う。吉村監督は1956年の「夜の河」が最高だが、以後も文芸作品の映画化などで安定した力を発揮している。陸軍軍人の娘役の叶順子、あるいは西の丸公爵の娘役の金田一敦子がとても良かった。大映女優陣のトップ級が出てない分、今は忘れられたような女優の力演がかえって効果を挙げていると思う。公爵長男の若き本郷功次郎も初々しい。老練なベテランもいいが、若手も見ごたえがある。

 「何がジェーンに起こったか」は1962年のアメリカ映画。ロバート・アルドリッチ監督。新文芸座はワーナー映画の旧作特集を続けているが、テレビでしか見たことがなかった映画を大スクリーンで見られるとは。1940年代に毎年のようにアカデミー賞にノミネートされていた大女優ベティ・デイヴィスが心が壊れてしまった老いた子役スターを演じてビックリさせたホラー的なサスペンス映画である。ジェーンはかつて大人気の子役だったが、やがて姉が映画女優としてスターになり忘れられた。その姉は謎の自動車事故で車いすの生活となり、今は妹が世話をしている。

 姉は2階の部屋で暮らすが、妹の様子が完全におかしいので、何とか医者に電話したいと思う。妹が外出したすきに、なんとか電話のある1階に下りようとする。車いすで階段に近づき、何とか下りていくが…。2階に住む姉と1階にいる妹は階段でつながっている、あるいは階段で分離されている。障がい者の姉にとっては、階段を下りるということだけで大アクション映画並みのスリルが生まれる。果たして電話まで行けるか。そして医者は来てくれるのか。

 ベティ・デイヴィスは、キャサリン・ヘップバーンに抜かれるまで最多のアカデミー賞ノミネート記録を持つ女優だった。(11回。「青春の抗議」「黒蘭の女」で2回受賞。今はさらにメリル・ストリープが20回という大記録を持っている。)リアルタイムで見たのは「八月の鯨」だけなわけだが、あの時も驚いた。1950年の「イヴの総て」もかなり強烈な役だが、このジェーンという役ほどすごい役でアカデミー賞にノミネートされた人もいないのではないか。ところで、階段を下った姉はジョーン・クロフォードだから、ベティ・デイヴィスの話は「階段映画」には関係なかった。

 多くの家で主人の部屋は1階にある。2階は子どもや客室などのことが多いのではないか。多くの映画で子ども部屋は2階にあったように思う。昔は2階だけ人に貸したりすることもあった。「煙突の見える場所」でもそうだし、山田洋次監督の「二階の他人」でもそう。男はつらいよシリーズでは、寅さんが帰ってくるたびに階段を上って2階の部屋で寝る。「小さいおうち」では2階に特徴があり、子ども部屋も2階。映画の中で階段がどのように描かれてきたか。もっといろんな映画があると思うけど、「階段映画」というジャンルをめぐって。
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もう一度見たい映画・日本編

2018年01月02日 22時42分11秒 |  〃  (旧作日本映画)
 新年早々から暗い話題も何だから、日本や世界の情勢はおいといて少し思い出話を書いてみたいなと思う。映画の記事はよく書いてるけど、当然ながら最近見た映画について書くことが多い。あるいはそれに連動して、監督について書いたリ。だから、数年前に生誕110年だった小津安二郎のことは書いたけど、溝口健二黒澤明の作品についてちゃんと書いたことはないだろう。

 でも溝口や黒澤の作品も、いつもどこかで上映されている。待ってれば大体どこかでやってくれる。というか、大体有名な作品はほとんどDVDになってる。今じゃ家でDVDを見てるのも、映画鑑賞にしてしまうかもしれない。でも僕は昔の映画に関しては劇場で見たいと思う。ビデオやDVDで細かく調べて、何か隠されたメッセージを見つける人もいるけど、そういうことにはほとんど関心がない。昔は映画館で見たら二度と見られなかった。もちろん2回、3回と同じ映画に通えば別だし、ヒット作は名画座で何度もやっていた。それでも映画館で見る以外には見る手段がなかった。

 ところが昔の日本映画は今はかなり劇場で見ることができる。「もう一度見たい映画」は何本もあるけど、そのかなりのものはこの数年で実際に見てしまった。大手の映画会社で作られた作品は、基本的にはフィルムが残っているから映画館がその気になれば上映できる。(でも上映不能なほど素材不良なフィルムも多いし、会社で廃棄してしまった映画も多い。)かつて銀幕で活躍したスターが相次いで亡くなった時など、いくつかある名画座で特集上映が行われた。高倉健とか原節子などが出ている映画などは、少し待ってれば(東京近辺では)見ることができるんじゃないかと思う。

 実際に過去のベストテンを見てみると、ちょうど50年前の1968年では1位の「神々の深き欲望」、続けて「肉弾」「絞死刑」「黒部の太陽」「首」「初恋地獄篇」「日本の青春」「燃えつきた地図」「人生劇場・飛車角と吉良常」「吹けば飛ぶよな男だが」だけど、まあ5年ぐらいすれば大体見られそうな気がする。メンドーだから、今は細かく説明しないけど、監督特集や俳優特集でやってくれる映画が多い。「黒部の太陽」だけは、前はソフト化も名画座上映も不可だったけど、最近はできるようになった。(もっとも10位以下の「強虫女と弱虫男」「青春」「ドレイ工場」「祇園祭」などはほとんど見られない。)

 1958年の「楢山節考」「隠し砦の三悪人」「彼岸花」「炎上」なんかも同様で、50年代の映画はむしろ10位以下も上映の機会が多い。一方で、80年代、90年代の映画の方があまり上映されない。ベストテンで見ると、文芸・社会派作品が多くなるけど、娯楽作品を見ても同様で、東映時代劇任侠映画日活アクション大映の時代劇(座頭市や眠狂四郎など)なんかも上映機会が多い。僕の大好きな日活の「拳銃(コルト)は俺のパスポート」や東映の「0課の女 赤い手錠(ワッパ)」なんかも、新年早々の新文芸座のアクション映画特集の上映作品に入っている。

 ということで前置きが長くなったけど、しばらく劇場上映の記憶がなくて、僕が好きな映画を探してみたい。まず最初に「青幻記」。1973年のベストテンで3位になってる映画で、当時から僕は非常に好きだった。一色次郎原作、成島東一郎監督で、今じゃどっちも知られていないだろう。成島は昔の日本映画ファンなら誰でも知ってた撮影監督で、「秋津温泉」「古都」「心中天網島」「儀式」など忘れがたい映像を残した。この「青幻記」が初めての監督作品。(もう一本「オイディプスの刃」がある。)沖永良部島を舞台に、母と子の悲しい情愛を美しく描き出して忘れがたい。田村高廣、賀来敦子主演。どこかで阪妻と田村兄弟特集でもやってくれればいいんだけど。
 (青幻記)
 次には「あらかじめ失われた恋人たちよ」で、これはDVDが入手しやすいようだが、しばらく見てないので。1971年のATG映画だが、同年のATG映画にはベストワンの「儀式」の他、「書を捨てよ町へ出よう」「曼陀羅」「告白的女優論」「日本の悪霊」「修羅」など問題作、話題作のオンパレードで、この映画も忘れられてしまう。時々どこかでATG映画特集をやると入っていることもある。この映画は田原総一郎清水邦夫の共同脚本、監督という、今からみると驚く顔ぶれ。主演も石橋蓮司加納典明桃井かおりという驚くべきキャスト。桃井かおりは新人だったし、加納はもちろん写真家である。話は聾唖のカップルと一人のチンピラが北陸の海岸を彷徨いゆくさまをモノクロで描く。つのだひろの「メリー・ジェーン」がテーマ曲になっていて、それも印象深い。忘れられない映画。
 (あらかじめ失われた恋人たちよ)
 次は僕の好きな名作で、村野鐵太郎監督の「月山」。岩波ホールで上映されたと思うが、その後あまり上映機会がない。そもそも森敦の原作(芥川賞)が好きで、月山(がっさん)という山も好き。孤独な精神性が忘れられず、僕はとても好きだった。村野監督は大映で「犬」シリーズや「男一匹ガキ大将」など多くの娯楽映画を作った後で、ATGで「鬼の詩」、岩波ホールで公開された「遠野物語」「国東物語」などを作った。だんだんつまらなくなった感じもあるけど、僕はこの「月山」だけは名作中の名作だと思う。どこかで芥川賞映画特集でもないかな。村野監督も再評価するべき。

 他にどんな映画があるだろうか。昔からもう一度見たいとずっと思っていた芦川いづみ主演の「あいつと私」とか「あじさいの歌」なんか、最近になって何度も見てしまった。藤田敏八の「赤い鳥逃げた?」や神代辰巳の「宵待草」なんかも複数回見た。(どうも同時代に見た時ほどの感激はない感じだったが。)鈴木清順や加藤泰などの作品も何度も見る機会があるから最近はパス。

 そんな中で公開以来大スクリーンで見てないのは、ジブリ映画じゃないか。ソフト化され、テレビでもよくやるけど、なんで映画館でリバイバルしないのか。ジブリ映画専門館があってもおかしくないと思うんだけど。英語だけじゃない各国語字幕版を付ければ外国人観客もいっぱい来るだろう。僕が特に大スクリーンで見直したいなと思うのは、何といっても「もののけ姫」。「紅の豚」や「魔女の宅急便」、それに「千と千尋の神隠し」も見直してみたいけど、なんといってもまずは「もののけ姫」かな。

 それと原田真人監督の初期作品。今みたいに大作を任される前の、1997年の「バウンス ko GALS」とか、1995年の「KAMIKAZE TAXI」。後者は原田監督の最高傑作じゃないかと思う。でも、なんとも変な「バウンス ko GALS」って映画、公開が小規模だったから見てない人が多いと思うし、その後もほとんど上映されない。役所広司がカラオケで「インターナショナル」をギャルに向かって歌う傑作シーンが忘れがたい。もう一本、磯村一路監督「がんばっていきまっしょい」。松山東高校の女子ボート部を描く青春映画。田中麗奈が圧倒的に素晴らしい。1998年のベストテン3位になってるけど、全然上映されない。DVDも中古で高くなっている。これこそ多くの人に見てもらいたい映画。
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映画「闘争の広場」と勤評闘争ー映画に見る昔の学校⑧

2017年10月28日 00時47分06秒 |  〃  (旧作日本映画)
 シネマヴェーラ渋谷で「新東宝のもっとディープな世界」という特集。「玉石混交!?秘宝発掘!」と自ら銘打っていて、この機会を逃せば二度と見れそうもない映画ばかり。「もっと」というのは今年3月にも特集があったから。その時は「地獄」「地平線がぎらぎらっ」「明治天皇と日露大戦争」など、映画ファンには有名な作品があったが、今回は存在も知らなかった映画ばかり。

 中でも三輪彰監督「闘争の広場」(1959)はぜひ見たかった。当時まさに渦中にあった「勤評闘争」を扱った映画なのである。勤評のことは後にして、まず映画の情報。三輪彰監督はウィキペディアに載っていた。1923年生まれで、まだ存命である。「煙突の見える場所」(五所平之助)や「たそがれ酒場」(内田吐夢)の助監督を務め、1958年に監督に昇進した。「胎動期 私たちは天使じゃない」(1961)を最後に新東宝を辞めて、ピンク映画やテレビ映画に転じたと出ている。

 主演俳優の沼田曜一(1924~2006)は、「聞けわだつみの声」や「雲流るる果てに」「人間魚雷回天」なんかで弱そうな兵隊役をやってた。熊井啓「深い河」にも出ているが、インパール作戦に参加して生き残った老兵役だった。晩年にやってた民話の語り部活動で知られる。恋人の教師役で三ツ矢歌子、同僚教員で池内淳子などが出ている。どちらも新東宝のスター女優で、池内淳子は後にテレビで活躍した。僕には「花影」「けものみち」などの圧倒的な存在感が忘れがたい。

 当時の新東宝と言えば大蔵貢時代。もともと東宝争議の時にできた会社だが、経営不振が続いて興行主の大蔵貢が1955年に社長に迎えられた。「明治天皇と日露大戦争」を大ヒットさせ、その後はエログロ路線で売った。歌手の近江俊郎の実兄で、近江の監督作品も多く作ったが、それ以上に「女優を妾にしたんじゃない、妾を女優にしたんだ」の歴史的「大暴言」で記憶されている。だから冒頭にまず大きく「製作 大蔵貢」と出ただけで心配になっちゃうわけである。

 だけど、案外この映画はマトモな作りになっていた。(脚本は三輪彰と宮川一郎。)ある海辺の町の小学校。教室が雨漏りする劣悪な環境で、沼田演じる教師・浜中がバケツを取りに行くと、同僚の組合委員長が警察に連行されるところである。長らくもめてきた勤評問題も、ついに刑事弾圧の段階になった。そんな学校で、同僚や子どもたちの様子が描かれるとともに、現場教師と教育行政の間に立つ校長の苦悩教育委員会の割れている状況、文部省からの圧力などもしっかりと描かれている。名作、傑作というほどでもないだろうが、問題は的確に描いている。

 その後の「10割休暇闘争」「保守系保護者との対立」「教師に対する暴力」などの展開を見ると、明らかに高知県の勤評闘争をモデルにしている。高知では教組と親が協力した高校全入運動や教科書無償化運動が取り組まれていた。そんな中で起きた勤評問題は大いにもめ、県教組を中心に「勤評粉砕高知県委員会」も作られた。一日行動のスト突入率99%だった。一方、反対派の保護者は「同盟休校」を行い、山間部などでは教師をつるし上げる事件が起きていた。1958年12月に、激励オルグに訪れた小林武日教組委員長が襲撃されて重傷を負う事件まで起こった。

 この映画では実在の地名は出てこない。当時は九州や四国が舞台でも伊豆や房総で撮影していた映画が多い。多分関東近県の海岸だろうが、海の近くを蒸気機関車が通り、トンネルがある(場所は不明。)学校や教師の家の環境が悪く、これが50年代のリアルかという感じがする。高度成長以前の、戦争に負けた貧しい日本なのである。教組の組織率はほぼ100%だったろう。「非組」など考えられない時代だし、日教組も分裂していない時代、管理職も組合に参加していた時代。

 この映画の中で、苦しい思いをしているのは誰か。まず、主人公の浜中。組合が闘争至上主義で、子どもに寄り添うべきだと批判的である。職場会でも、10割休暇への疑問を述べる。(闘争には参加している。)闘争の中での「良心派」という位置づけか。家族の中でも妹が教育委員長の息子と恋仲で苦慮している。そういう主人公が保守派の「父兄同志会」の殴り込みを止めようとして大けがをする。その事件をきっかけに、教委と教組の間に妥協を探る動きが出てくるという筋書き。

 もう一つは校長や教育委員長。戦後に作られた教育委員会はもともとは地域住民による選挙制だったが、1956年に施行された「地教行法」(地方教育行政の組織及び運営に関する法律)で任命制に変更された。当時「逆コース」と言われた戦後民主主義骨抜きの代表的政策だった。この法律で、教育行政の役割が定められ、そこから「勤務評定」実施という方針になる。(公務員一般の勤評はすでに実施されていたが、教員に関しては職務の特殊性から未実施だった。)

 教育委員長は資産家で良識的な人物に描かれているが、委員の中には公然と保守系政治家と結びついて動く人が出てくる。文部官僚がやって来ると、芸者を揚げて料亭で接待する。そういう場で勤評実施へ圧力をかけるのだ。(官官接待だろう。)組合委員長の検束も、その教育委員が独断で警察に依頼していた。(そんなことができる町なのだ。)最後まで勤評を書かない校長は、料亭に缶詰めにされて無理やり書かされる。校長はこんな制度が出来たら、学校は教育の場ではなく工場になってしまうと訴えるが、政治の問題だからと押し切られ、ついには自殺未遂を図るが…。

 「女性教師」も苦しんでいる。池内淳子演じる教師は嫁ぎ先が組合に無理解で、分会を代表して委員長に差し入れに行ったことが知られて困ってしまう。教員を続けたい池内は、夫と離婚したうえ異動願を出して学校を去っていく。(昔の映画には時々年度内で異動があるのだが、そういう制度だったのだろうか。)人望厚い女性教員が苦労を重ねる映画は多いけど、「二十四の瞳」の高峰秀子、「人間の壁」の香川京子、「はだかっ子」の有馬稲子、ちょっと中身は違うけど「日本列島」の芦川いづみ、「こころの山脈」の山岡久乃など「働く女性教師の苦悩」に連なっている。

 映画内で勤務評定の中身が出ているが、明らかに組合教師の排除を狙ったものである。憲法9条改正を掲げる鳩山一郎内閣の下で、「教え子を再び戦場に送るな」の日教組を最大の敵とした時代。まさに勤評問題は政治的な問題だったのだ。この映画も、保守派の暗躍に批判的な作りになっていると思う。同時に今から見ると、法的な争議権がはく奪されている中で、登校する児童対策も取らずに全組合員でピケをするなど、やはり無防備にすぎるのではないか。
 
 それはそれとして、当時の高知県では、組合に加入している校長たちが「私たち校長は、教師の良心にかけて勤評に絶対反対することを再度表明すると同時に、校長は管理職でなく、教師はもちろん、県民の皆様と共に民主的な教育を守り続けていくことを確信をもって再び声明いたします」と宣言していた時代だった。最後まで勤評を提出しなかった校長は、懲戒免職4名、分限免職10名、さらに教頭への降格など厳しい処分が待っていた。そういう犠牲が戦後教育史に起こったことを多くの人はもう覚えてもいないだろう。しかし、この映画のラストのように、多くの都道府県で「神奈川方式」など、法的に勤評はなくせないが、「実働化阻止」を事実上勝ち取ったところが多い。

 文部省が本来考えていた、昇給や異動に連動する査定、本人に非開示というものではなく、本人開示、賃金との連動無しとなったところが多い。僕が教員になった時も、おおむねそういう感じだった。時々当たる特昇とともに、毎年基本的に全員が同様に昇給するという前提のもと、管理職を含めた「職場性」が成り立っていた。21世紀になって、特に東京都では完全に賃金と連動した勤評が実施されていった。それが教育現場の荒廃につながっている。労働時間は「ブラック企業」と呼ばれ、いじめ報告に追われるような職場になっていくわけである。
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山田洋次監督の映画「小さいおうち」(2014)

2017年09月24日 21時08分41秒 |  〃  (旧作日本映画)
 神保町シアターの倍賞千恵子特集で、山田洋次監督の映画「小さいおうち」を再見した。この特集では倍賞千恵子本人のトークもあったけど、いっぱいで入れなかった。その後全然見ていなかったけど、「小さいおうち」という映画はまた見てみたかった。2014年の映画だから、旧作というには近すぎるけれど、公開当時はここで書かなかった。中島京子直木賞受賞作(2010)の映画化だが、公開時には原作の印象が強く、映画はその「絵解き」のように見えてしまった。

 この映画は、山の手の「赤い屋根のある小さいおうち」に住み込みで働いていた女中、布宮タキの目で、昭和10年代の東京の中産階級の生活を見つめている。年老いたタキ(倍賞千恵子)は「自叙伝」をノートに書いていて、その映像化という体裁である。若い時期のタキを黒木華が演じていて、ベルリン映画祭銀熊賞(最優秀女優賞)を獲得した。「6歳のボクが、大人になるまで」のパトリシア・アークエット、「薄氷の殺人」のルー・グンメイなどを抑え、よく黒木華を見出したと思う。

 黒木華以外は、奥様の平井時子役の松たか子、板倉正治役の吉岡秀隆、タキの大甥(タキの兄弟の孫)で話の引き出し役・健史役の妻夫木聡など、近年の山田映画に出た人が多い。チョイ役だけど、タキの最初の勤め口だった作家夫妻は橋爪功と吉行和子で、ここのところずっと山田映画で夫婦を演じている。そういう「既視感」が、最初に見た時に面白くなかった。

 また妻夫木聡が老いたタキの「自叙伝」を読んで、いろいろとチャチャを入れるのも、結構うっとうしい。今時「十五年戦争」なんて言葉で昭和史を教えている教師があるとは思えない。歴史に関心がなければ、南京大虐殺もほとんど知らないだろう。一方、現代史にある程度関心があれば、「満州事変」(1931)以後の昭和史が「暗黒」一色に塗りつぶされていた、なんて思ってる人はもういないだろう。どうもそんなセリフにも、山田洋次の思い込みのようなものを感じてしまったのである。

 そういう「弱点」は今回見ても同じなんだけど、今回見て公開当時より「現代性」が増している気がした。たった3年しか経っていないけれど、時代が「戦前」に戻ってしまったのか。「五輪」を前に浮かれて儲けをもくろんでいたはずが、あっという間に奈落の底に落ちる。それぞれの段階では、「何とかなる」と思っている。「近衛さんなら大丈夫だ」と根拠なく思い込みながら。男たちは「儲け」から「戦争」へと「男だけの言説空間」を持っている。そこへ入れないものはどうする?

 そこへ入れないのは、「」「子ども」と「二級男子」である。老人男性は「昔取った杵柄」で「戦争熱」をあおる方にへ入れる。だけど、徴兵検査で甲種じゃなかった病弱、障害男性は、戦時体制には不要だ。玩具メーカーの常務、平井家に出入りする社員(というより美大出の芸術家タイプの玩具デザイナー)板倉は、徴兵検査が丙種だから、普通だったら徴兵されない。(日本が「普通じゃない戦争」段階に入って召集令状が届く。)その前後に平井家に「恋愛事件」が起きる。

 この小さな「恋愛事件」をめぐって、小説と映画では少し違いがある。だが基本的なシチュエーションは同じ。もうネタを隠す必要はないから、その解釈を考えてみたい。タキは結局生涯を通して結婚しなかった。晩年に書いた「自叙伝」で、奥様と板倉との間に生じた恋愛感情、あるいは「姦通事件」を示唆した。召集令状が届いたと知らせに来た翌日、奥様は板倉に会いに行こうとする。その意味がピンときたタキは必死になって止める。代わりに自分が手紙を届けると説得し、奥様は手紙を書く。
 (黒木華と松たか子)
 しかし、結局板倉は訪ねて来ず、平井夫婦は昭和20年5月25日の山の手大空襲で亡くなる。子どもは生死不明。タキと平井一家の関わりはそれで尽きてしまうが、タキが亡くなった後で遺品の中から「平井時子」名の手紙が見つかる。タキは奥様の手紙を板倉には届けず、最後まで自分で保存し続けていたのである。それは奇跡的に見つかった平井家の息子によって、数十年後に開封された。

 さて、その意味は何かということになる。タキの行動の「コインの表側」は「女中としての職業的義務感」である。平時ならともかく、周りの目の厳しい戦時中に「姦通の手引き」はできない。雇い主は「旦那様」であり、本来の忠誠心はそちらに発揮されるべきものだ。

 だけど、それはタテマエである。「コインの裏側」には何があるか。一つは「タキも板倉を慕っていた」という解釈。板倉は前日夜に別れる前にタキをハグしている。それは同じ北国出身者としての「同胞愛」のようなものと思えるけれど。もう一つは「タキは奥様に憧れを抱いていた」という解釈である。板倉との恋愛沙汰に煩わされる奥様の様子に心配が募り、自分の考えで手紙を渡さなかった。もう一つは「タキはただ奥様と子どもとの平穏な生活が続くことだけを望んでいた」という解釈。

 いろいろと見方は考えられると思うけど、何にせよ戦後のタキはこの「小さな罪」に殉じたのだと思う。奥様はタキの将来について、自分がきっといい嫁ぎ先を見つけてあげると言っていた。平井家が戦争を生き延びていれば、奥様が勧める縁談をタキは断らなかったに違いない。だけど、自分の行動で奥様は思う人と最後に会えずに戦争で亡くなってしまった。これは自分の罪だとタキは思った。

 僕が今回見て思ったのは、タキは「周りの目」を理由に奥様を止めているということだ。米英との開戦で万歳を叫んで回っている酒屋の主人がいる。彼は板倉の下宿屋の主人と囲碁仲間で、いつか下宿を訪ねた奥様を見ていた。そのことをタキに告げて、時局柄好ましくないのではと脅迫的に告げる。それを聞いて、タキは奥様を止めるわけだけど、これはタキの「小さな戦争犯罪」だったのだと思った。人が誰に会うか会わないか、それが自由にならない。「非国民」の声にひるんだ。タキは戦後何年たっても、この小さな「恋愛事件」での自分の行動を許せなかったのだ。

 そういう見方もできるのではないか。時子の姉の貞子(室井滋)は折々に訪れて妹を諭していく。ある時期までは、山の手郊外に家なんか建てて、都心の名門校(一高、東大につながら中学に入りやすい小学校)への「お受験」はどうするのかと問う。しかし戦時下になると、新宿の中村屋で一緒にお茶を飲んでいた男性は誰なんだと問い詰めに来る。

 庶民にとってそれが戦争だったとすれば、最近の女性週刊誌などが「お受験」よりもく、「不倫」糾弾に熱中する記事が多くなっている気がするのは不気味である。戦争が始まる前に、相互監視、道徳的非難が起こっている。戦争が始まってから、どうして戦争に反対できるだろうか。戦争が始まる前の「非国民糾弾」の時点で、誰が世の中を不自由にしているのかを問わないといけない。
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「赤ちょうちん」「妹」と秋吉久美子トークショー

2017年08月27日 20時27分06秒 |  〃  (旧作日本映画)
 新文芸座で藤田敏八監督の特集上映。藤田敏八(ふじた・としや 1932~1997)は日活最末期の青春映画をたくさん撮っていて、若いころ僕が大好きだった監督だ。8月29日が没後20年目となる。大学時代には「八月の濡れた砂」(1971)を何度も見たと思う。最近はなかなか上映がなく、鈴木清順監督の「ツィゴイネルワイゼン」に出た俳優という印象の方が強いかも。今回は貴重な機会だが、全部見る時間は取れなさそうで残念!
 (藤田敏八監督=愛称パキさん)
 今日は1974年の「赤ちょうちん」と「」の上映後、主演の秋吉久美子のトークショーがあった。秋吉久美子(1954~)は「旅の重さ」(1972)のオーディションで次点になり、チョイ役で出演した。(主演に選ばれたのは高橋洋子で、この前「北陸代理戦争」のトークを聞いた。)その後、松本俊夫監督の「十六歳の戦争」に出演したが公開が遅れ、「赤ちょうちん」が最初に公開された主演映画になった。3月終わりのことで、高校卒業直後に上野の映画館で見た。同時代の青春映画として、実に新鮮で感動して、「」「バージンブルース」の秋吉久美子3部作は全部見た。

 浪人中の僕の最大のミューズだったが、1歳年上ながら、今も当時そのままに見えるぐらい若々しい。見た目ばかりではなく、知的な資質、記憶力なども全くそのまま。トークショーは驚くほど楽しい時間だった。「赤ちょうちん」は「南こうせつとかぐや姫」の「神田川」の次のシングルレコード。大ヒットした「神田川」の映画化権が東宝に取られ、日活は「赤ちょうちん」を映画化した。「神田川」は出目昌伸監督、関根恵子、草刈正雄で映画化されて、東宝風の甘いメロドラマになった。作品的には「赤ちょうちん」の方がずっと上で、キネマ旬報ベストテン9位になっている。(「妹」が10位と2作入選した。)
 
 「赤ちょうちん」は「自分なりの東京物語」だとキネマ旬報で監督が言っていた。その意味が公開時にはよく判らなかった。当時の自分はまだ実家しか知らず、東京各地の微妙な違いが判らない。数年前に再見して、やっと少し判った気がした。それでも今日見ると、細部をかなり忘れている。久米政行(高岡健二)と幸枝(秋吉久美子)が出会って一緒に住み始める。アパートが取り壊しになり引っ越すが、その後も諸事情でいっぱい引っ越しを重ねる。基本的にはその5回の引っ越しを描いた映画である。

 2回目に住んだ幡ヶ谷は火葬場に近くて静かすぎ、3回目の新宿柏木町は神田川沿いで、幸枝は妊娠する。4回目の東京近郊のアパートで子育てをするが、大家の悠木千帆(樹木希林)に意地悪され、5回目は破格に安い葛飾区の家を借りるが、そこはいわくつきだった。もともと「鳥電感」というアレルギー持ちだった幸枝だが、だんだん心を病み、完全に狂ってしまって鶏をムシャムシャ食べる壮絶なシーンになる。そして、幸枝は入院して、政行だけが子どもと引っ越してゆく。

 ストーリーを追うだけでは、この映画の魅力は伝わらない。子どもが生まれた時に22歳だった政行、同棲当時は天草から行方不明の兄を訪ねてきた17歳だった幸枝。この若いカップルが、友人や地域の人々と交流しながら、自分の場所を見つけていけるか。監督から「うまくなるなよ」と言われたという秋吉久美子の、演技のような地のような「独特の存在感」。美人というより、どこにもいそうで、同時にいなさそうなムードが新鮮だったのだ。(客観的な評価は僕にはできない。)

 「赤ちょうちん」の脚本は、中島丈博桃井章(桃井かおりの兄)だが、そのさすらいゆく構成は中島丈博的だと思う。「赤ちょうちん」のヒットで、次のシングル曲「妹」がすぐに映画化された。「妹」と次の「バージンブルース」は内田栄一が脚本を書いている。やはり内田的な世界だなあと思った。公開以来の再見だが、全く忘れていた。清純な青春映画のように思っていたら、全然意味不明の独特な映画だった。ミステリアスとも言える作品で、「赤ちょうちん」以上に、単に名前をヒット曲に借りただけという感じ。

 早稲田で「毎日食堂」をやってた両親はすでになく、秋夫(林隆三)は「毎日食堂」と書かれたトラックで運送屋をしている。そこへ鎌倉で男と同棲していた妹・ねり(秋吉久美子)が転がりこんでくる。相手の耕三は全然出てこない、というかねりが殺したのかもしれない。兄・耕三が行方不明だと妹が探しに来る。どうも真相が判るような判らないような。人物が錯綜するけど、兄の妹への愛情がどうなるか。兄をめぐる女性も複数いるし、どうなるのかよく判らない。

 しかし、まあそれでいいのであって、そのストーリーの判らなさのために、秋吉久美子の「不思議少女」ぶりが一層際立つ。古いものがなくなり(「毎日食堂」は日活内のセットだったが、最後に取り壊される)、なんだか時代が変わる予感の街。そんな時代の空気を秋吉久美子の肉体が象徴している。(本人が語ったところでは、全編「ノーブラ」だったという。あまり意識しないけど。)

 その後、野坂昭如が歌っていた「バージンブルース」を同じコンビで映画化した。ほとんど上映の機会がないが、万引き少女団の秋吉久美子が、郷里の岡山をさすらう。前衛劇団に紛れたり、長門裕之の中年男がくっついてきたりと、僕はなかなか面白かった。だが同じ年に3本も撮っては、評価が低くなってしまう。3作合わせて、70年代半ばを漂うように演じた秋吉久美子は、今見てもその辺で生きているような気がする。そういう女優はその頃に初めて現れたのだった。
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東映映画「従軍慰安婦」(1974)を見る

2017年08月26日 18時25分06秒 |  〃  (旧作日本映画)
 1974年に作られた東映(東撮)の映画「従軍慰安婦」がシネマヴェーラ渋谷で上映されている。26日には主演した女優、中島ゆたかのトークも行われ、立ち見の盛況だった。この映画は長年見ることができないものだった。ウィキペディアに項目があるが、東映にもフィルムがないと書いてある。今回はシネマヴェーラ渋谷側の尽力で、ニュープリントが作られた。大変貴重な機会で見逃せない。

 東映はちょうど任侠映画から実録映画に移り変わった時期だったが、もともとなんでも企画する会社である。今回のシネマヴェーラ渋谷は「東映女優祭り」と銘打ち、男優の印象が強い東映で作られた女優の映画を発掘している。佐久間良子が主演する文芸名作映画は当時から評価されていたが、それ以外にもいろいろ上映されている。(僕は「四畳半物語 娼婦しの」などの初期の三田佳子が非常に素晴らしいと前から思っている。是非見て欲しい映画。)

 ところで、「従軍慰安婦」だけど、石井輝男脚本、鷹森立一監督で作られた群像劇で、当時のプログラムピクチャーの実力をよく示す「なかなかよく作られた女性映画」だった。朝鮮人慰安婦(と明示されないけど、誰でも判る)は一人いるが、ほとんどは日本人娼婦の話で、戦前来何十本と作られてきた「娼婦映画」の定型を踏まえている。貧しさから親に売られ、女衒(ぜげん)を父さんと呼ぶようになる。娼家でだんだんなじんでいくが、親切な先輩もあれば、娼婦どうしのケンカもある。

 というような構造は大体どの映画でも同様だけど、この映画は後半から「戦争映画」になる。時代は昭和13年(1938年)。日中戦争が泥沼化していき、徐州作戦から武漢攻撃と奥地へ「皇軍」が進むに連れ、女たちも前線に送られる。明日の命も知れない男たちを、国策として「慰安」する女たち。中島ゆたか演じる秋子は、故郷に好きな男がいたが家が貧乏で売られてきた。もう二度と会えないと思っていた男だが、軍隊が博多に来た時に見かける。先輩娼婦の親切で会って気持ちを確かめあう。

 男も女も戦地に送られ、秋子はもう会えないだろうと思うが、そこは娯楽映画だから当然また会えると観客も判っている。激戦下に再会し、前回は結ばれなかった彼らも、今度は体でも結ばれるが、そこに敵襲が…。銃弾の不足する中、慰安婦たちも兵とともに戦い、そして倒れていく。まあ、そのような構成は田村泰次郎原作、鈴木清順監督の傑作「春婦伝」なんかと共通している。

 この映画は同時公開予定だった映画が製作中止になって、正式な公開がほとんどなされなかったという。中島本人も、初号試写を見ていないかったので、浅草で母とともに見たと語っていた。併映は網走番外地かなんかで、ほとんど観客もいなかったという。1974年だったら、僕も当時から名前ぐらい知っていても良いはずだが、全然気づかなった。(その後、このテーマへの関心から、こういう映画があるということは知っていた。)そんなようにして、幻になってしまった映画なのである。

 もともと脚本を書いた石井輝男が監督する予定だったらしい。監督した鷹森立一は「夜の歌謡」シリーズなどを手掛け、「キイハンター」「Gメン’75」などテレビもたくさん撮った人。映画は脚本通りだと言うが、顔ぶれで判るように、社会派問題作を作る気などはなからない。「戦争秘話」の娯楽映画ということになる。助演陣は達者で、三原葉子の恰幅のいい先輩娼婦、緑魔子の母を恨みながら病気を隠して働く姿など印象的。いい加減な性病検査をする軍医役の由利徹に場内爆笑。

 ところで、この映画の題名「従軍慰安婦」だけど、この問題にくわしい人なら予想できるだろうが、1973年に出た作家、千田夏光(せんだ・かこう 1924~2000)の「従軍慰安婦」が原作となっている。映画では「当時の政府は彼女たちを『従軍慰安婦』と呼んだ」と冒頭すぐにナレーションされるが、「従軍慰安婦」という用語は千田氏の本で作られた造語である。まだ固定した歴史的用語は確立していないと思うが、今は「日本軍慰安婦」という表現が多いのではないかと思う。

 「慰安婦」にも様々なタイプがあったことが判っていて、この映画のような「日本人娼婦主体で、軍とともに移動して前線の街に設置される」というのは、必ずしも普遍的なものではない。本来は中国戦線の軍紀弛緩による性犯罪の多発から発した問題だし、植民地女性(主に朝鮮人)が多かったことも当時から周知の事だ。だが、戦後の「慰安婦映画」では、そのことは触れられないことが多い。

 侵略戦争を最底辺で支えた女性たちの姿は、ずっと正面から描かれなかった。ベトナム戦争を経て、70年代になったころから、日本人の植民地支配や女性差別が意識されはじめる。慰安婦へのまなざしも、そのような文脈で70年代半ばころから語られはじめた。しかし、千田氏の本も資料的な厳密さには多少問題があるし、原作も映画も全体としては時代的制約を逃れていない。(なお、70年代前半には山崎朋子「サンダカン八番娼館」や森崎和江「からゆきさん」など、南方に売られた日本人娼婦の問題が意識されていた。同じころに千田氏の本や金一勉「天皇の軍隊と朝鮮人慰安婦」などが出た。70年代半ばには「慰安婦問題」は大きな問題と意識され始めていたのである。)

 この映画を見る限りでは、確かに「従軍慰安婦」としか呼べないような「活躍」ぶりなんだけど、それも含めて時代性を感じる。しかし、日本のプログラム・ピクチャーがどのように戦争を(あるいは慰安婦を)描いてきたかは、それ自体が重要なテーマである。非常に貴重な機会だから、関心のある人は見ておくべきだ。
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幸田文「流れる」、原作と映画

2017年07月08日 23時00分27秒 |  〃  (旧作日本映画)
 7月7日に神保町シアターで「流れる」(成瀬己喜男監督、1956年)を見た。神保町シアターが開館10周年を迎え、今までで一番観客が多かった映画として一日だけ特別に上映したのである。すでに2回か3回は見てるんだけど、最後に見てから10年ぐらい経つし、実は幸田文(こうだ・あや)の原作をようやく最近読んだので、ちょっと原作と映画を比べて見たくなったのである。

 「流れる」は小説としても映画としても有名だけど、全然知らない人もいるかもしれないから最初に紹介しておきたい。簡単に言うと東京の花街として有名な柳橋に女中として住み込んだ「梨花」の目から見た芸者置屋の裏面を描く作品である。「梨花」(名前は「異人みたい」と言われて「お花さん」に変えられてしまうけど)は、つまりは幸田文の実体験である。離婚後に父の幸田露伴を看取り、父の話をエッセイで書いて文筆家になったけれど、自分に行き詰まりを感じたんだろう。
  
 小説では「梨花」は夫と子供を続けて失い、自活するために働くという設定になっている。年齢から断られることが多く、職業安定所から紹介されて「つたの屋」にやってくる。戦前から戦後にかけての大スター、田中絹代が演じていて、「あなたは何者?」と言われる役を悠然と演じている。もう田中絹代を知らない人も多いだろう。10年ぐらい前に早稲田松竹で見た時に、若い女性が連れにあの女優は誰と聞いていた。ホントは露伴の娘なんだから、女中にしては品があり過ぎるわけで、そういう感じを田中絹代ならではの名演で演じてる。1909年生まれで、映画当時は44歳。

 「つたの屋」の主人、つた奴はパトロンとも別れて、実の姉にも多額の借金があり、どうも落ち目である。このつた奴は、山田五十鈴が演じていて、ちょっと年増になった芸者の「日々の哀歓」を圧倒的な貫録で演じている。1917年生まれだから、39歳である。川本三郎は昔、銀座並木座で「流れる」を見た時に、女性観客が「ベルちゃん、きれいねえ」と思わず声を挙げたと書いている。特に昔のパトロンともう一度会えるんじゃないかとお化粧して出かけるところなど、素晴らしいとしか言葉がない。

 原作では非常に辛辣に書かれているのが、芸者の家に醜く生まれたことで性格もゆがんだとされる勝代である。つた奴の娘だけど、芸者ではない。前に出たこともあるというけど、芸者に向かないと悟り、今は玄人の家で素人のように暮らしている。落ち目の芸者屋では、嫁にも行けず婿の来手もないと結婚も諦めている。そんな勝代は、映画では高峰秀子が演じているから、そんなに悪くは描かれない。そこは原作と映画の大きな違いで、映画は「滅びゆく者への哀歌」という感じである。

 「つたの屋」にいるのは、若い「なな子」(岡田茉莉子)と年増の「染香」(杉村春子)、それと男と別れて転がり込んでいる姪の米子(中北千枝子)である。一方、原作に出てくる「蔦次」は出てこない。原作では最後に「奥様」になれそうな重要な役どころなんだけど、映画の記憶にないから思わずネットで調べてしまった。でも、要するに映画では省略されたわけである。他にも、三流地に逃げ出していく「なみ江」は原作ではもう直接は出てこないけど、映画では冒頭にほんのちょっと顔を出している。

 この「なみ江」は、つたの屋で虐待され売春を強要されたと伯父が乗り込んでくる。住所から千葉県の「鋸山」と言われている。名優の宮口精二がうまく演じている。それよりすごいのは、つた奴がずっと世話になってきた料亭の主人、組合の幹部でもある「お浜」を演じている戦前の大女優、栗島すみ子。もう僕なんかは名前しか知らない無声映画時代の大スターである。小津の傑作「淑女は何を忘れたか」(1937)を最後に引退して踊りの師匠をしていたのを、成瀬監督たっての要請で特別出演した。これが凄い迫力で、誰も太刀打ちできない。

 こんなにすごい女優の競演映画は、他にちょっと記憶にない。この映画は「日本映画の伝説」になってきた。杉村春子も映画でのベスト級じゃないかと思う。今回よく見ると、女優の立ち居振る舞い、どこまでが監督の演出家は判らないけど、首の傾げ方ひとつとっても、優雅で細かく計算されつくしている。こういう映画は、もう文化財的な「映画遺産」とでも呼ぶしかない。

 その大女優、栗島すみ子演じる古狸が、実は案外と腹黒いことが最後に判明するわけだが、要するに梨花を単なる女中ではないとにらんで引っこ抜いて、芸者屋をたたんで料理屋をやろうと考える。それを映画の田中絹代はきっぱりと断る。だけど、意外なことに原作では、つた奴も承知で「梨花」ぐるみ家を買ったように書いてある。梨花一人で新居を住めるようにしてから出て行くが、必ずしも梨花がこの町を完全に出るようには書いていない。そこらへんも大きな違いである。

 原作は、読んでみると案外読みにくい。幸田文の小説は初めて読むんだけど、こういうのは読みにくいなあという感じの描写である。新潮文庫の高橋義孝の解説に、中で使われる「擬声語」が列挙されている。「がじがじ」「わたわたと」「へぐへぐ」とか、はっきり言って僕には全然判らない。イメージが湧かないのである。つまり、東京に住んでいた幸田文の言葉の感覚が、半世紀以上たつと感覚的にずいぶん判らなくなってしまうのだ。映画を見て、基本的なストーリイは判っているというのに、なかなか読み進まないという本だった。だから昔の本は難しい。原作の方は案外辛らつに柳橋の人々を見つめていて、その冷静な様子もちょっと意外だった。

 ところで「柳橋」という場所は、1999年に最後の料亭が閉鎖され、花街としての歴史は終わっている。江戸時代から存在して、明治にできた新橋を薩長新政府が愛好したのに対し、旧幕的なムードがあったという。隅田川あっての場所だから、川が汚水となり五輪で東京が変わる中、柳橋の命運が尽きたのもやむを得ないのだろう。東京都台東区である。その後訪れてみて、「柳橋散歩ーいまはなき花街」(2018.11.18)を書いた。(2020.5.20一部改稿)
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大林宣彦「転校生」を35年ぶりに見る

2017年06月29日 21時22分18秒 |  〃  (旧作日本映画)
 フィルムセンターで35年ぶりに見た大林宣彦監督の「転校生」(1982)があまりに面白く、つい書いておきたいと思った。この映画は、大林監督の「尾道三部作」の第1作で、当時から大評判だった。映画ファンなら一度は見ているような現代のスタンダードだろう。ところで、画像検索してみると小林聡美じゃない画像が多く出てくる。なんだと思ったら、2007年に大林自身で「転校生-さよならあなたー」という映画がリメイクされているではないか。主演は蓮佛美沙子と森田直幸。長野で撮影され、後半の話はオリジナルだというけど、その映画知らんがな。

 やっぱり「転校生」と言えば、1982年に作られた小林聡美尾美としのり版につきる。でも、当時は僕はこの映画をそんなに好きではなかった。それは大林監督のそれまで作ってきた個人映画や商業映画第一作「HOUSE」が好きだったからだと思う。大林監督はCMディレクターとして有名で、同時に個人で本格的な自主映画を作っていた。「EMOTION=伝説の午後・いつか見たドラキュラ」(1966)、「CONFESSION=遥かなるあこがれギロチン恋の旅」(1968)など独特な長い名前の映画である。郷愁を誘う映像美の世界が素晴らしく、池袋の文芸地下でよく上映されていた。

 いま見ると、もちろん「尾道三部作」もベースにノスタルジーがあると判るけど、特に「転校生」の段階ではちょっと今までの映画のムードが変わった感じもした。もともと山中恒の児童文学が原作だし、現代に生きる子どもたちを等身大に描いている映画だと思った。でも、この映画は男の子と女の子の心が入れ替わってしまうという、つまりは「君の名は。」と同じ設定の「奇想天外」を楽しむ映画だ。

 小林聡美尾美としのりの頑張りが、とにかく素晴らしい。あえて裸のシーンも入れて、それをやり切ったのはすごい。(今なら撮れないんじゃないだろうか。)原作の設定を中学生に変え、「思春期の性のめざめ」の危ういドキドキと真正面から向き合っている。メインの設定は覚えているものの、その後の具体的な展開はほとんど忘れていた。特にラスト近く、瀬戸田島にフェリーで「家出」してしまう展開は全然予想していなかった。「思春期」映画の面白さが満載の場面である。

 女なんだけど実は男の心を持つという役の「斉藤一美」(小林聡美)は、でも「本当は男の子」なんだから、何かにつけ男のような口をきき、女の子になった「斉藤一夫」(尾美としのり)を心配する。その意味で小林聡美の方が「女性の身体を持つ男の子」という難役だろう。もう素晴らしいというしかない。その後の「恋する女たち」(1986)や「かもめ食堂」(2006)、「紙の月」(2014)など、名演熱演というか、ほとんど「怪演」が記憶に残る小林聡美だけど、もう「転校生」に怪演ぶりが表れている。

 今回はATGの2代目社長を務めた佐々木史朗プロデューサーの特集である。大島渚、吉田喜重、寺山修司らの映画で記憶される初期のATG映画だが、佐々木時代になると次の若い世代を積極的に登用した。今回は各監督一作限りだけど、根岸吉太郎「遠雷」、森田芳光「家族ゲーム」、大森一樹「ヒポクラテスたち」、高橋伴明「TATTOO[刺青]あり」、井筒和幸「ガキ帝国」などが上映される。

 「転校生」もサンリオが手を引いて資金難になるところ、佐々木プロデューサーが完成に尽力したということで、大林監督のみならず日本映画の進路にも大きな影響を与えた。尾道と言えば大林映画というイメージもここから作られる。ベストテン3位に選ばれ、大林監督の飛躍をもたらした。(1位は「蒲田行進曲」、2位は「さらば愛しき大地」。僕のベストは小川紳介の「ニッポン国 古屋敷村」。)
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渡瀬恒彦の映画、石井輝雄の映画

2017年05月21日 21時12分59秒 |  〃  (旧作日本映画)
 土日は列島各地で猛暑となったが、僕は二日間とも古い日本映画を見に行った。ところで、2015年は「戦後70年」だったわけだけど、70年を二分すると35年になる。その分かれ目は、なんと1980年である。1970年代までは「戦後前半」であり、1980年代以後は「戦後後半」になる。となると、占領期から高度成長まで、前半期に重大な変化が起こり、80年代後はずっと「バブル」とその崩壊しかなかったような気になる。今回見た映画は、「戦後前半」の終わりごろということになるけど、この自由さは何だろう。

 20日から、池袋の新文芸座は「渡瀬恒彦追悼特集」、渋谷のシネマヴェーラ渋谷は「石井輝雄監督特集」である。けっこう見たい映画の日程が被っているいるが、だからと言って朝から夜まで4本見る元気はすでにない。まあ時々見に行きたいなという感じ。まず、20日は新文芸座で「暴走パニック 大激突」(1976)と「狂った野獣」(1976)を見る。その前に中島貞夫監督、俳優片桐竜次のトークショー。当日来ていた「狂った野獣」に出ていた橘麻紀が飛び入り参加。「狂った野獣」製作時を初め、当時の東映映画人のエピソードが面白い。中島監督はちょっと前に松方弘樹追悼特集で来たばかり。

 今回の2作は、渡瀬恒彦が自分で運転するものすごいカーチェイス映画として有名で、公開当時にも見て、すごく面白かった。最近も時々上映されているけど、見直す機会がなかった。やっぱりすごいなと思うカーチェイスで、どうしてここまでやれたのかと思う。「暴走パニック 大激突」ではドアがぶっ飛んでも運転してるし、「狂った野獣」では大型バスを横転させる。スターの渡瀬が自分で運転している。エアバッグどころか、シートベルトもない時代に、よくそんなことをしたもんだ。
(暴走パニック代激突)(狂った野獣)
 細かい筋を書いても仕方ないけど、「大激突」の方は銀行強盗を重ねる二人組がいて、最後にするつもりの神戸でドジを踏む。相棒は逃げる途中でトラックにひかれ、渡瀬一人が逃げていく。そこへ腐れ縁的愛人の杉本美樹が道連れになり、死んだ相棒の兄室田日出男やなぜかドジな警官役の川谷拓三が渡瀬を追い続ける。それだけでも面白すぎるけど、そこに一般のドライバーの野次馬、暴走族、ラジオ中継車まで出てきて、派手に壊しまくる。ここまで破壊的かつ反警察的な撮影が許されたか。

 「野獣」は銀行強盗に失敗した川谷拓三、片桐竜次が、路線バスを乗っ取る。そこに渡瀬恒彦はじめ、何人もの乗客がいる。運転手は心筋梗塞の持病があり、いつ倒れるかもしれない。渡瀬は一度うまく降りようとするが、荷物のギターケースを持ち出せない。そこに何が入っているのか。渡瀬はケースを取り戻すべく、バスを走って追い、自転車で追い、愛人のバイクで追い、ついには窓から乗り込んでしまう。と思ったら、運転手が死んでしまい、渡瀬が代わりを務めるが…。彼はテストドライバーだったが、目が悪くなってクビになったばかりだった…。バスの大暴走とは世界的にも珍しい。

 「カーチェイス映画」というのは、ピーター・イエーツ監督「ブリット」(1968)から大ブームが起こった。ちょうどその映画も新文芸座で最近見直したばかり。スティーヴ・マックイーンの運転は今も迫力があったが、さすがにちょっと今では物足りない気もした。だけど、サンフランシスコを舞台にしているので、坂道を上り下りするスリルがある。それ以後世界的に大ブームになり、70年代には何本も見た気がする。今もあるけど、最近はGPSもあるし、技術的に進んでしまったので、単純なカーチェイスが少ない。あまりパトカーをぶっ壊すのも、いろいろ問題なんだろう。大体は特撮か、そうでなくてもスタントマンがやる中で、主演スターが自分で全部運転したこの2作の魅力は、日本映画史上に特筆されるべきだ。

 一方、石井輝雄監督特集は、2005年に亡くなった監督の13回忌とうたっている。今回はあまり「代表作」的な作品が少ない。初期の新東宝では「黄線地帯」や「黄色い風土」、東映では高倉健の「網走番外地」第1作や、第3作の「望郷篇」、あるいは千葉真一の「直撃地獄拳」、さらに晩年につげ義春漫画を自主製作した「ゲンセンカン主人」や「ねじ式」…。これらはすべて上映されない。

 それでも見てない映画が山のようにあるわけである。特に僕は69年ごろに大量製作された「徳川異常性愛シリーズ」をほとんど見てない。70年代にも「悪名高い」映画で、さすがにやり過ぎと思われていたと記憶する。当時の名画座でもほとんどやってないと思う。それらの「異常性愛」映画が、それなりに評価されるようになるには時間が必要だったのだろう。

 一本目の「残酷異常虐待物語 元禄女系図」は、1969年に7本も公開された石井作品の最初。オムニバスで元禄の異常な残虐を描くけど…。最初の方はそうでもないんだけど、最後に出てくる小池朝雄の異常なお殿様が凄すぎる。実際に金粉を側室に塗りたくるシーンは異常さぶりが際立つ。次に見た「江戸川乱歩全集 恐怖奇形人間」は1969年の7本目の映画。どっちも、暗黒舞踏の土方巽が出てくる。特に後者では、重要な役どころを演じている意味でも貴重だ。
(恐怖奇形人間)
 「恐怖奇形人間」は、日本映画史上に名高いカルト作品で、さすがにこれは前に見ている。乱歩の「パノラマ等奇譚」や「孤島の鬼」などを中心に、「人間椅子」「屋根裏の散歩者」などをアレンジして作られている。全編、異常な描写の連続と言ってよく、悪夢的なストーリイぶりはものすごい。だけど、前にも思ったけど、説明的な描写が多い。あまりにも雑多にたくさんのアイディアを詰め込んだ筋がちょっと弱い気がする。それにしても乱歩はすごいと改めて思う。

 映画とは関係ないが、この映画では「裏日本」という言葉がしょっちゅう出てくる。今ではほとんど死語だろうが、そういう言葉がムード醸成に一役買うわけだ。なお、どっちも吉田輝雄が主演している。新東宝で菅原文太らとハンサムタワーズで売り出し、その後松竹に移った。「秋刀魚の味」で岩下志麻に思われ、「古都」では岩下志麻と結婚する。木下恵介監督の「今年の恋」では岡田茉莉子の相手役という二枚目だったんだけど、次の東映では石井監督の異常性愛シリーズの常連になった。僕は吉田輝雄の再評価もして欲しいなと思う。
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「最後の博徒」、波谷守之という人-東映実録映画とは何だったのか⑥

2017年05月02日 23時31分16秒 |  〃  (旧作日本映画)
 東映実録映画に関する話の最後。1985年の山下耕作監督「最後の博徒」のモデルになった波谷守之(はだに・もりゆき 1929~1994)という人の話である。この人は不思議な因縁で東映実録映画に深くかかわっている。しかし、それは表面的な関わりではなく、裏の物語なので知らない人が多いと思う。映画では荒谷政之と名を変え、松方弘樹が演じている。波谷の親分、菅谷政雄に当たる菅田猛雄役は、鶴田浩二がやっていて映画の遺作となった。(鶴田は1953年に山口組員に襲撃される事件を経験している。話が複雑になるからくわしい事情はここでは省略するけど。)

 波谷守之という名前はずっと前から知っている。それは正延哲司「最後の博徒」という本を持っているからである。この本は正続ともに1984年に三一書房から出たが、僕が持ってるのは1989年の双葉文庫版である。ずいぶん長いこと読んでなくて、今回探し出してきて初めて読んだ。どうしてこの本を持っていたかというと、これは「冤罪事件」の本だからである。彼の巻き込まれた冤罪事件とは、それこそ「北陸代理戦争」のモデルとなった川内弘襲撃事件なのである。(その話は後で書く。)
 
 波谷は広島県呉市阿賀町で1929年に生まれた。この阿賀という地区は多くのヤクザものを生んだらしいけど、波谷も若くしてヤクザになることを決意した。敗戦時16歳だけど、広島市の親分について勤労奉仕を行っていたという。その親分は原爆で亡くなった。戦後になると、阿賀の土岡博の結成した土岡組に属し、また中国から復員した大西政寛も加入した。最初は強大だった土岡組だが、やがて呉市の政界と結びついた山村組が勢力を増し、土岡組と抗争が起こる。

 さて、この「山村組」こそ、「仁義なき戦い」第一作の「山守組」である。山村辰雄は山守義雄と名を変えられ、金子信雄が名演したのは忘れがたい。実際の山村も、ほぼあのような人物像だったようだ。広能昌三のモデル、美能幸三は縁あって山村組に所属し、1949年に土岡博を襲撃した。(土岡は映画では名和宏が演じた。)その夜、波谷は単身で山村宅に乗り込んだが、その日山村は不在だった。

 広島抗争は複雑なのだが、その頃大西は山村組に接近して、山村襲撃時の拳銃も大西のものだという。大西は映画で梅宮辰夫が演じた若杉のモデルで、実際に警察に密告され殺害された。その後、土岡は賭博罪で服役し、1952年に出所後に山村組所属の佐々木哲彦の若衆により殺害された。佐々木は映画では松方弘樹が演じた役(坂井)である。これにより、土岡組は壊滅状態になってしまい、呉市は山村組が制覇した状態になる。

 その時波谷は親分の復讐をしたくてもできなかった。1950年に起こした拳銃発射事件の懲役3年の実刑判決が1951年に確定していたのだ。親分の死は一か月月以上も知らなかったという。出所した波谷は復讐を計画したが、実行する前に逮捕される。その時、波谷は人生で1回目の冤罪に巻き込まれた。呉市は朝鮮戦争で膨張した山村組の天下になっていて、弁護士も見つからない。その時に唯一弁護に立ったのが、八海事件などで有名な原田香留夫だけだった。冤罪は晴らせたが、この裁判中に痛恨事が起こった。裁判支援をただ一人で続けた実父までが襲撃され死亡したのだ。

 波谷にとって、美能は親分土岡襲撃の仇敵である。だが、土岡の生前に波谷が頼んで、美能を許してもらったことがある。美能も懲役20年以上の刑が確定し、もうそれでいいと思ったのである。しかし講和条約恩赦で美能は1959年に出所する。その後、美能は山村組に反旗を翻し、それが「仁義なき戦い」3部「代理戦争」になる。「仁義なき戦い」に波谷をモデルとした人物は登場しないが、当時の関係者の中では若かった。あまりにも複雑になるので、省略されたのだろう。

 親分どころか父も殺された波谷だけれど、当時は呉市に戻ることもできない。そこで大阪を拠点にし、西日本各地の賭場をめぐる。波谷を「最後の博徒」と呼ぶのは、生涯に賭博以外の「シノギ」を持たなかったからである。普通はそれなりの正業(飲食店や風俗業の経営、土建業など)を持つか、違法な業態(麻薬、覚せい剤、銃などの密輸、みかじめ料など)をすることが多いだろう。まあ、賭博も「違法行為」には間違いないが、それでも「カタギに迷惑をかけない」生き方である。もちろん、イカサマをしない限り賭博は負けることもある。波谷はだから、時には大負けする。だが時には大勝ちする。

 正延著によれば、その賭け方は驚くほど大胆なものである。チマチマ賭けない。あまりにも多額の金を賭けるので、見ている方が正視できないような場となる。だが波谷の胆力は、負けてもそういう賭け方を続ける。そこに波谷のファンも現れ、多くの支援者を生んだ。そういう人々に支えられていくうちに、子分として付き従うものもできたが、普通の組にはしなかった。そして、呉に戻って父の敵を討つことが、真に父の意向に沿うのかと思うようになる。これ以上若い者を死なせていいのかと。

 そのころ、第二次広島抗争で収監中だった美能の出所が近づいていた。波谷は美能を呉に帰してはいけない、呉で組織を再建すればまた抗争が起きると考え、美能が収監されていた北海道に向かう。そこで何回も面会し、組織を再建せずにカタギになるように説得した。最終的に美能は波谷の説得に応じたのである。その時、刑務所内で書いていた美能の手記が、やがて飯干晃一によってまとめられ、映画の原作となる。仁義なき戦いシリーズの生みの親は、波谷と言ってもいい。

 やがて、波谷は菅谷政雄の盃を受けることになるが、それも普通の子分というよりも一種の相談役のような関係だったようだ。そして、川内弘殺害事件では、波谷組に所属しながらも他の組にも出入りしていた組員が実行犯の中にいた。その組員が本当の指令者を隠すために、波谷の指令と「自白」した。その「自白」がいかにいい加減なものかは、「最後の博徒」に詳しく書かれている。だが、裁判長は検事の偽証を真に受けて、波谷に懲役20年を言い渡し、その判決は控訴審でも維持された。

 毎日を記録することもなく「博徒」として生きてきた波谷には、「アリバイ」を思い出すことがなかなかできなかった。アリバイ主張は控訴審になってからだった。しかし、それは全く顧慮されなかった。そこで最高裁への上告審では、かつて彼を弁護した原田香留夫に加え、後藤昌次郎、西嶋勝彦、佐々木静子ら数々の冤罪事件を担当した弁護士も加わり、大弁護団が作られた。1984年4月24日、最高裁第三小法廷は原判決を破棄し、裁判を名古屋高裁に差し戻した。1985年12月に、名古屋高裁は波谷に無罪を言い渡した。アリバイの成立が認められたのである。

 冤罪で拘束されていた波谷は、もう一つの冤罪事件を明るみに出したことでも知られる。それは同じ場所で収監されていた、山中温泉殺人事件と呼ばれた事件である。1972年に起きたその事件では、一審、二審で死刑を宣告されていた。それなのに全国的には全く知られず、支援運動も全くなかった。波谷がそれを知り、多額の差し入れなどを命じていた。やがてその事件は知られていき、大きな問題となった。その結果、最高裁は事件を破棄し、差し戻した。1・2審死刑で最高裁が破棄して無罪となった事件は、6件目である。無罪が宣告されたのは、1990年7月27日のことだった。

 そこまで他人の冤罪に打ち込んだのは、間違いなく波谷自身も冤罪だったからだろう。このように、裏で「仁義なき戦い」にも「北陸代理戦争」にも不思議な因縁で関わったのが、波谷という人物だった。そのような人がいたというのも、戦後史、そして日本の冤罪事件史の一コマだということである。なお、映画の最後で、獄中の松方弘樹が面会に来た鶴田浩二に、カタギになるしかないという場面がある。つまり、波谷が菅谷に言うわけである。この場面は、裏にあった事実を知ると、非常に重いものがこもっている。そのシーンが鶴田浩二の長い銀幕人生の最後のシーンなのである。
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東映映画と「ヤクザ」世界-東映実録映画とは何だったのか⑤

2017年05月01日 23時02分02秒 |  〃  (旧作日本映画)
 具体的な映画作品を離れて、映画と組織暴力との関わりを簡単に書いてみたい。今はもう考えられないようなことが、当時はいろいろとあったということである。そもそも芸能界はヤクザとの関わりがもともと深かった。「芸人」もヤクザと似たような存在だと昔は思われていたらしい。特に地方の興行界は大体ヤクザ組織が仕切っていたと言われる。映画館も同じである。

 そういう話はいっぱいあるけど、僕もそんなに関心はないし、そういう話をたくさん読んでるわけじゃない。でも東映映画を論じるときには落とせない観点だと思う。映画が登場した時から、撮影所でセットを組んで撮るのと同じぐらい、それらしい風景を探してロケをすることが大事だった。現代劇はもちろんだけど、時代劇だって富士山を背景にして戦ったりしている。

 今じゃロケでは各地の「フィルム・コミッション」が調整してくれる。行政が関わってボランティアを集めてくれたりする。だけど昔はそんなものがなかったから、スター目当てに集まる群衆を整理するには、地元のヤクザ組織に頼んだわけである。まあ何事につけ「ショバ代」がかかった時代であり、建築現場や株主総会にヤクザの手を借りた時代だから、映画のロケにヤクザが関わるのも当然だった。

 しかし、東映の場合はそれだけでは済まない。そもそも東映時代劇の中心スターの一人が美空ひばりだった。歌手としてと活躍したのと同じぐらい、50年代のひばりは東映の娯楽時代劇の大スターだった。そして美空ひばりと言えば、神戸芸能社所属のスターで、その社長は田岡一雄だった。もちろん山口組三代目組長である。ひばりは東映と専属契約を結んでいた。
(時代劇の美空ひばり)
 これでは東映に山口組の影響力が及んでも不思議ではない。ちなみに、美空ひばりが小林旭と結婚を望んだ時、使者にたったのが田岡社長だった。まだそこまで気持ちが高まっていなかった旭も断り切れない。結局、結婚式を挙げるがひばり側の事情で婚姻届は未提出のままだった。その後、ひばりが短い結婚生活をあきらめて離婚を望んだ時も、旭は直接会えずに田岡社長が伝えに来た。それじゃ断れない。旭の方はまだ未練があったということだけど。

 その後、60年代に入ると東映は「任侠映画」を作り始める。これは当時の岡田茂社長が受ける映画を作るために「不良性感度」の高いものを企画したことによる。そういう社の意向を受けて、のし上がってきたプロデューサーがいた。それが俊藤浩滋(しゅんどう・こうじ)である。前に書いたけど、夜の社交界として有名だった「おそめ」のママ、上羽秀の連れ合いである。店での付き合いから映画界につながりができた。(俊藤と前妻の間の娘が藤純子である。)

 この俊藤の大の幼なじみに、菅谷政雄(すがたに・まさお 1914~1981)がいた。元神戸の愚連隊のボスで、当時は山口組の№4の地位にあった大物ヤクザである。俊藤も若い時はかなりヤクザと近かったらしいが、組織に入っているわけではない。だけど、菅谷を通して、ヤクザ組織のことを知る立場にあった。任侠映画では、賭場のシーンや襲名披露などの儀式の描写が欠かせない。その場面のリアリティを高めるために、本物のヤクザの協力も必要だったのである。(なお、なべおさみ「やくざと芸能界」には、なべが菅谷に連れられて賭場の見学をするエピソードが出てくる。)

 菅谷はオシャレで知られ、自分のことをボスと呼ばせた。映画ファンでもあった。敗戦後の神戸では、「国際ギャング団」を組織していた。当時、二代目山口組若衆だった田岡一雄が朝鮮人組織ともめた際には、仲裁に入ったという。だから、その後三代目を継いだ田岡の盃を貰ったとはいえ、内心では同格意識があったのかもしれない。昔の映画に詳しい人は判ると思うけど、この菅谷政雄は田中登監督の「神戸国際ギャング」のモデルである。(あるいは加藤泰監督の「懲役十八年」も同様。)
(「神戸国際ギャング」)
 田中登(1937~2006)は日活の監督でロマンポルノで名を挙げた。「㊙色情めす市場」や「実録阿部定」で評価されて、東映に招かれて菅原文太、高倉健最後の共演の大作「神戸国際ギャング」を任された。僕は彼の日活作品が好きだったので、期待はいやが上にも高まったのだが…。でも、この映画はどう見ても失敗作としか言いようがなかった。なかなか難しいものだ。1975年10月公開。

 さて、長々と菅谷政雄のことを書いてきたけど、この人こそ前回書いた「北陸代理戦争」のモデル、川内弘の「親分」に当たる人物なのである。菅谷組は当時1200人と言われる山口組最大の人員を誇る大組織だったという。それは各地の有力組織を本部直参の組に格上げしなかったということでもある。これほど大きな組織になったため、同じ枝(ヤクザの系列)内で衝突も起こる。川内組もそんな衝突を起こしていた。しかし、それだけでなく映画ファンだった菅谷からすると、田岡親分や自分が映画になるのはともかく、自分の下である川内弘が映画になることが勘気の原因だとする説もある。

 ホントにそんなことが原因になり得るのか。だけど、川内組長を襲撃・殺害した実行犯(その日のうちに逮捕され、証拠も自白も間違いない)が菅谷組系だったことは間違いない。「映画の奈落」では、川内組から菅谷に復讐する「暁の7人」と自分たちで呼んだ暗殺グループができたことが書かれている。警戒が厳しくどうしても襲撃できないでいるとき、たまたま駅で菅谷と遭遇し、菅谷の方から声を掛けたという話が出てくる。自分は事件に関係ないと言ったということだけど…。
 
 川内殺害事件は、ヤクザ世界を震撼させたとよく書いてある。どうしてかというと、菅谷組は川内組長を確かに「破門」していた。だが、この世界で最大の処分は「絶縁」であるという。この違いは、高校の特別指導に当てはめてみれば「退学処分」と「無期謹慎」のようなものらしい。つまり、破門は無期の縁切りだけど、「反省」によっては解除がありうるということだ。その意味で破門したものを親分の側から殺害を命じるということはあってはならない。
 
 その事件後、今度は菅谷が山口組から「絶縁」される。今度は菅谷の方が絶縁だから、もう取り返しがつかない。だが、菅谷は組を解散せず、そのまま組織を維持したが、1978年になって別の事件で収監された。1981年に出所後、田岡一雄に詫びを入れてカタギになった。その時はガンで闘病中で、その年の秋に亡くなった。(田岡一雄も同年7月に死去している。)幼いころに、寺の和尚から「煩悩!」と一喝されて以来、「ボンノ」が愛称になったことで知られる「伝説のヤクザ」だった。

 このような菅谷と俊藤が幼なじみだったわけである。俊藤は任侠映画から実録映画への路線変更を納得できなかった。「仁義なき戦い」には名を連ねているが、その後の実録映画にはほとんど関わっていない。先の「神戸国際ギャング」を初め、大作「日本の首領」シリーズなどを作り続けた。この「日本の首領」シリーズのプロデューサーには、田岡一雄の息子、田岡満も加わっている。これではスターたちが山口組関係者と飲み明かしていても何の不思議もないだろう。そういうことが許された時代だったということである。
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映画「北陸代理戦争」をめぐってー東映実録映画とは何だったのか④

2017年04月30日 21時59分15秒 |  〃  (旧作日本映画)
 東映実録映画の話に戻って。実録映画の「スワンソング」とも言われる「北陸代理戦争」(1977)は、日本映画史上でも最凶レベルの「呪われた映画」である。公開当時に(多分銀座並木座で)見たと思うけど、その後長いこと見る機会がなかった。シネマヴェーラ渋谷で40年ぶりに見たんだけど、それももう2週間前である。早く書こうとは思ったけれど、どうせなら伊藤彰彦「映画の奈落 完結編 北陸代理戦争事件」(講談社+α文庫)を読み直してからと思ったのである。
 
 この映画があまり上映されなくなってしまったのは、上映直後にモデルになった川内弘組長(映画では川田登)が映画と同じように殺害されるという事件が起こったからだ。そこには東映映画の深い因縁が幾重にも絡んでいて、その問題は後で語ることにする。川内組長は毎日のように同じ喫茶店にコーヒーを飲みに行っていて、そこで襲撃された。ところで、2カ月前に公開された映画でも、名前こそ変えられているものの、その喫茶店で襲撃されるのである。

 先の書の初めの方で、そのシーンは実際の喫茶店を実物大に採寸して、東映京都撮影所内に再現したセットで撮影されたと書かれている。僕はこの本を前に読んでいるにもかかわらず、このシーンでは「現実の喫茶店でロケされた」と思って見ていた。監督の深作欣二の著書にもそう書いてあるというから、思い込みというのは恐ろしいものだ。僕も本を読み直さなかったら、同じような間違いを書いたに違いない。自分でもビックリである。だけど、それほどうまく編集されている。

 当時の東映映画の主力とされていた「実録映画」は、もうかなり陰りを見せていたが、東映はまだ作ろうとしていた。「実録」とある以上、実際の抗争事件をモデルにする。完全な実話ではない。それでは問題が起きるから、フィクションということにして、名前を変え事件経過も再構成する。実在人物の話を誰か作家にリライトしてもらって、「原作小説の映画化」という体裁にすることも多かった。だけど、映画になりそうな題材もだんだん少なくなる。そこに福井の川内弘を紹介されたのである。

 脚本の高田宏治が川内に会い、インタビューをする。その時の録音テープが高田のもとに残されていて、先の伊藤著「映画の奈落」はそのテープを使って入念な検討がなされている。そこから脚本の完成までの苦労、さらに撮影時のトラブル、とにかく大変なこと続きだった。トラブルのすべてを書いていてはとても終わらない。そもそも当初は菅原文太主演で「新仁義なき戦い」シリーズになるはずだった。だけど、文太は病気療養ということで、松方弘樹が主演になった。当時、文太は「トラック野郎」シリーズも大ヒットし、確かに多忙だったろうけど、実録映画に飽きていたのかもしれない。

 社内で脚本を問題視する声も上がるし、福井県警からはロケの協力が得られない。それにかつてない大雪に見舞われ、ロケはさっぱり進まない。助演の渡瀬恒彦は、ロケの最初で車が横転して大けがをして降板した。松方弘樹の連れ合いとなる高橋洋子は、市川崑の「悪魔の手毬歌」と掛け持ちで、死体となって水に浮くシーンで風邪をひいてしまった。「北陸代理戦争」撮影時には38度の発熱状態。もともと「深作組」とは「深夜作業組」の略だと言われるぐらいの深作でもさすがに追いつかない。

 当時の大手映画会社では、系列映画館に定期的に新作映画を供給し続けなければならない。前作品がよほどの大ヒットでもしない限り、封切りの日時は最初から決まっている。この場合は2月26日である。ところが2月になっても全然撮影が進まない。もう仕方ないから、中島貞夫監督に頼み込んで、B班を作って撮れるシーンを頼み込む。そういうことは昔のプログラムピクチャーでは時々あったことだけど、この映画ほど追い込まれた状態での依頼も珍しいのではないか。

 だから、細かく見るとタッチの違いもあるのかもしれないが、中島貞夫も深作と並んで実録映画を中心的に担っていたし、見ていて違和感は全くない。追い込まれて撮っている感じもそれほど感じない。もともと映画自体が、追い込まれて窮地に立つヤクザたちの物語なので、かえって迫真力が増したかもしれないと思うほどである。そうやって、困難な撮影が終わったのが、2月22日。今の感覚で言えば、ウソとしか思えない日付だ。全国公開の4日前まで撮影していたなんて…。

 まあ、あまりにも大変な公開までの日々は「映画の奈落」を読んでほしいと思う。だけど、やはり本だけでは実感が得られない。映画を見直して、記憶の中では北陸の冬の寒々した印象ばかりが残っていたのだが、案外ユーモアもある。というか、今見ると、そのやり過ぎ的なシーンが笑わずにいられない。冒頭、川田は約束を守らない親分の西村晃を雪に埋めて、その周りを車で回って脅している。(実際の撮影は土管の中に西村が入り、その周囲を雪で囲ったという。)そこから、すごい迫力である。

 だけど、このように「親を親とも思わない」ヤクザ像は掟破りである。実際にいたとしても、公然と描いているのは危険とは言える。しかも、過去の抗争事件ではなく、当時の川内組は現実に抗争を抱えていた。今では考えられないが、東映は「山口組三代目」などの映画を実名で作っていた。警察側とのあつれきはずっとあって、高倉健主演の山口組シリーズはヒットしながらも2作で中止される。「北陸代理戦争」も、モデルとなった福井県では上映されなかったのである。

 映画の筋はかなり複雑なので、ここでは省略する。山口組と目される「全国制覇を目指す組織」は、北陸進出をねらって内紛があると仲介役となる。弱小側は強者に助けを頼んで「代理戦争」となる。だけど、この映画内の川田組長は、けっして大組織の走狗とならず、敗れても敗れても大組織を追い出そうと抵抗する。それはフィクションだからで、現実とは違うはずだが、現実にも映画撮影開始の日に、川内弘は所属する山口組系菅谷組を破門されたのである。

 その問題は別にして、映画内ではその抵抗ぶりが面白い。そして、川田を助ける女の側の描き方。姉の野川由美子は川田の命乞いのため、対立する親分の女となる。その妹の高橋洋子は、傷を負った川田の看病をするうちに関係が芽生え、川田をはめた実の兄を殺害する。その激しい女の激情が、この映画のもう一つの魅力になっている。先の伊藤著によれば、いままで「実録映画の終末」と言われてきたこの映画は、実は脚本の高田宏治が後に書き続ける「鬼龍院花子の生涯」や「極道の妻たち」シリーズにつながる女性映画の先駆けとも言えると評価している。

 今見ても、その熱気に驚くような映画だけど、この映画はヒットしなかった。もう実録映画も飽きられていたし、宣伝の時間もなかった。ハナ肇、地井武男らの助演も印象的なので、本来はもっと評価されても良かったと思う。だが、公開2か月目に川内弘組長殺害事件が発生して、映画そのものが事件を誘発したのではないかとまで言われた。そこまで言えるかどうかはともかくとして、とにかく一種触れてはならない映画のように扱われてきたのは間違いない。伊藤氏の本が出て、ラピュタ阿佐ヶ谷で特集上映が行われた数年前まで、ちゃんと上映されなかったと思う。思っていたよりも、陰惨な映画ではなく、出来は良かった。そのことを記録しておきたい。
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「部活映画」の作られ方-部活映画の構造③

2017年04月26日 22時46分12秒 |  〃  (旧作日本映画)
 「部活映画論」のまとめ。主に高校(時には中学)の部活動を描いた映画はかなりある。多くは原作のマンガ、小説があり、時には実話がもとになる。そういう映画にはどういう特徴があり、そこから日本の学校について何が判るか。昔の映画を中心に含めて、ちょっと考えてみたい。

 まず、大きく二つに分けられる。一つは部活を中心にした青春娯楽映画で、もう一つは部活の活動そのものではなく、部活を通して「学校社会」を描く映画である。昨年の大みそかに再見して、ここにも書いた山下敦弘監督「リンダ リンダ リンダ」などは後者の代表。軽音楽部の中がもめてて、文化祭にも出られそうにない。そんなやる気なさげの日常と、それでもやりたい部員の日々が「地方の青春」をあぶりだしていく。部活そのものを描く映画ではないが、「文化祭映画」ではある。

 部活を描くんだから、その映画には高校生ぐらいの俳優がたくさん出てくる。20代初めぐらいの俳優が出ることもあるけど、それはちょっときつい感じがする。アイドルグループがまとまって出演することも多い。マンガやラノベは作者も読者も若い層が中心だから、テーマに部活が扱われやすいのだろう。だけど、学校のシステムを知らずに書いてることが多いから、実際の学校とは違うことも多い。まあ、一種の青春ファンタジーなんだから、あまり目くじらを立てるほどのこともないと思うが。

 学校なんだから「授業」があるはずである。みな留年せずに進級。卒業しているようだから、授業にも出ているはずだ。当然試験も受けている。本当は部活や恋愛以上に、試験が悩みの生徒も多いと思うけど、それはほとんど出てこない。同様に親もあまり出てこないことが多い。ケガをしたり、部活の人間関係に悩んだりするようなときに、初めて出てくることが多い。現実をすべて描いていると時間が足りなくなるから、特に娯楽映画の場合、青春もの以外でも「省略」が多くなる。

 部活の種類は、最近は運動部より文化部が多い気がする。あるいは「珍しい」活動が取り上げられることが多い。矢口史靖の「ウォータ―ボーイズ」「スウィングガールズ」は、その珍しさを巧みなコメディに仕立てた作品で、部活映画というより「作家性」が評価された映画だろう。運動部、特に団体競技を扱う映画は昔はある程度あったと思うが、最近は少ないと思う。2016年の「青空エール」は、野球部と吹奏楽部を合わせて取り上げているが。サッカーでは(6人だった時期の)SMAP総出演の「シュート!」(1994)がある。(連休中に神保町シアターでレイトショー。)

 50年代、60年代のテレビ普及以前の時代には、スポーツ映画がかなり作られていた。長嶋茂雄主演の「ミスター・ジャイアンツ 勝利の旗」(1964)や「若ノ花物語 土俵の鬼」(1956)のような映画である。テレビがなければ、大画面で人気スポーツを見たいだろう。今はネットで動画をすぐみられるし、スポーツの技量も上がっているから俳優が演じることもできない。テレビなどで「密着ドキュメント」をいっぱいやってるから、それらをネットで見ればいいわけだろう。

 「部活映画」は一種の「バックステージもの」である。つまり「舞台裏」である。高校野球などは全試合がテレビの地上波で中継されているから、わざわざ映画で試合を見る意味はない。意味があるなら、裏で指導者との関係、ポジション争い、ケガや進路の悩みなんかをじっくり描く場合だろう。だから、運動部の場合でも、試合に至る「舞台裏」ものになる。部活映画の「バックステージもの」の最高峰は、1990年のベストワン作品、中原俊の「櫻の園」だろう。学園の創立記念日に毎年演劇部はチェーホフの「桜の園」を上演する。その日、演劇部に何が起こったか。
(「櫻の園」1990年版)
 吉田秋生のマンガが原作だが、ここでは「桜の園」の上演にはほとんど意味がない。毎年の恒例行事だし、有名な戯曲だから、舞台そのものを見せる意味はない。上演を前にタバコが見つかるという、むしろ「生活指導」をめぐる物語と言ってもいい。それに対し、平田オリザ原作、木広克之監督「幕が上がる」はまさに演劇部をめぐる部活映画になっている。ただ、そうなると「部活」そのものと部活外の事情がないまぜになることによる「作品性」が問われてくる。文章で描かれた原作を、実際に生身に人間が演じなくて行けない。アイドル映画でもあり、部活映画でもあるところが難しい。

 「劇中劇」がそんなに素晴らしいなら、われわれも劇中劇だけ見ればいいのではないか。部活の裏でどんなことが起こっていたかは、大会での評価には関係ない。一方、裏のドラマが面白いなら、そっちだけでもいい。そこらへんが部活映画の難しいところで、両者がともに進行しながら最終盤にクライマックスがやってくるという風にうまく行くことはなかなかできないだろう。

 そうなると「ダンス部」系の活動は、一番うまく行く可能性が高い。音楽部系は「アフレコ」でうまい演奏に変えることができる。いくらアイドル俳優が頑張っても、大会レベルの演奏や合唱をするのは難しい。実際に「ハルチカ」は他の高校の演奏が使われている。だけど、「チア☆ダン」では配役された俳優たちが実際に踊っている。それも確かにうまくシンクロナイズされている。そこが本物の青春っぽいわけである。50分近い演劇部の出し物に比べてダンス、伝統芸能系は出し物の時間が短い。

 ところで、部活映画で見えない問題がある。一つは大会の運営である。大会出場校は交代で受付などの実務を担っているはずだ。大会でも審判の役割が回ってくる部活もあるだろう。そういう面はまず出てこないで、大会にただ出ているだけみたいなのは、どうなんだろうか。もう一つは「集団主義」である。部活映画を見ている限り、それは前提そのものだから、あまり感じない。部活も学校の一部で、日本の学校に根強い集団主義を持っている。だが、勝利のためには「友情」を乗り越える必要も出てきて、「集団性」の二律背反になることがある。それは「チア☆ダン」のケースである。

 部活でも、より個人性の強い活動もある。そういう活動をもっと扱っていくとどういう映画になるだろう。「写真甲子園」というのがあるが、それを映画化しようという企画が進んでいる。それはどんな映画になるだろう。陸上競技でも走高跳の選手を扱う「チルソクの夏」(2004、ベストテン9位)は見てない人が多いかもしれない。これは下関を舞台に、韓国のプサンとの陸上競技大会に出た女子選手と韓国の男子選手の交流を描いている。下関出身の佐々部清監督らしい企画だけど、このように個人競技を扱えばテーマを深める可能性が出てくる例だと思う。

 高校生を扱う映画では、部活でなくても「部活性」を帯びてくる。「ビリギャル」はある種「受験勉強部」の活動というような内容で、本人のやる気と指導者、家族のあり方など物語の構造は「チア☆ダン」とほぼ同じである。「セトウツミ」であってさえ、「帰宅部」の映画とでも言えるような特性を持つ。そこに個人性と集団性の狭間で生きていくしかない人間のありようを見て取れる。
(「セトウツミ」)
 あれこれ書いてきたけど、青春のノスタルジーでもなく、集団主義の強調でもなく、「新しい自分の発見」につながるようなもの。「部活映画」にいま望まれるのはそんなものだと思う。「でんげい」で実際に描かれているのは、そうした「自分の発見」のようなものだった。ドラマでもまだまだ新しいものを作れるだろう。誰しもが経験した「学校」という装置は、これからも日本社会を映し出す鏡になる。授業だけでは輝けない生徒のもう一つの顔。それを表現する試みとして「部活映画」の可能性があると思う。
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東映実録映画とは何だったのか③-タブーはどう描かれたか

2017年04月22日 23時38分13秒 |  〃  (旧作日本映画)
 社会の裏側で「汚れ仕事」を行っている私的な暴力組織はどこの社会にもあるだろうと思う。そんなものはないという国があったとしたら、それは「公的な組織」(軍や秘密警察など)が汚れ仕事を引き受けているということだろう。ソ連やユーゴスラビアが崩壊してしまうと、ロシアやセルビアにも「組織暴力」がはびこるようになった。中国も経済開放を進めたら、同じようになった。

 どこの社会にも、売春や違法薬物などがあるものだけど、それ以上に「体制内」で問題が起こった時にそれを秘密裏に処理する「汚れ仕事」が必要とされたということだ。また、そういう組織には、一般社会で受け入れられないような「はみ出し者」が集中して、独特の対抗文化が形成される。だから、それらの組織には「社会的なタブー」がいっぱいあるもんだけど、実録映画ではどう描かれただろうか。

 そういうタブー的なテーマは本当は娯楽映画ではまず描かれない。だから「タブー」なわけだけど、この頃の東映実録映画ではかなり触れられている。もともと「仁義なき戦い」などは現実の抗争をもとに映画化したわけで、それ自体が一種の「タブー破り」だった。主人公は手記を著した美能幸三(映画では広能昌三=菅原文太)なので、抗争の中で反対の立場だったものには不満が大きかった。

 しかし、大ヒットしたことで、東映はある種「面白ければなんでもいい」的に企画を進めていく。もともとそういうスタンスが強い会社で、「良識派」からは非難されることが多かった。そこで大ヒットした深作欣二監督などは、製作にかなりの力を持ったと思う。もっとも深作欣二は「軍旗はためく下に」(1972)で、単なる反戦平和を超えた反軍から、さらに反天皇制をも見据えた映画を作っていた。実録映画はあくまでも「娯楽映画」の枠内にとどまり、さすがにそこまで深い思想的な映画は作れなかった。

 日本では長い間、暴力団が政界や実業界、あるいは興行界とは深い関係を持っていた。その後ずいぶん変わっていくし、法律の改正で今はなくなったようなことも多い。例えば「総会屋」という存在。松方弘樹主演の「暴力金脈」(1975、中島貞夫監督)では、足を洗った松方が総会屋になって東京進出を目指すが、それに因縁のヤクザ梅宮辰夫が付いてくる。丹波哲郎が大総会屋を演じていて迫力がある。会社の裏に不正ありと嗅ぎつけると「総会屋」の出番となる。誇張も多いだろうが、「そういう時代だったのか」的な作品である。もっともコミカルな作品でタブーに挑戦する感じは少ない。

 強大な権力との癒着そのものを直視する映画はない。(「日本の黒幕」という大作はそういう部分もあるかもしれないけど見ていない。)だけど、警察との癒着は「県警対組織暴力」(1975、深作欣二監督)で描かれた。菅原文太の警察官と松方弘樹の組長が「友情」で結ばれ、そこに組織暴力根絶を目指す県警本部のエリート梅宮辰夫が赴任する。いつもはヤクザを演じた俳優が警察側になる。だけど違法な取り調べなど、やってることはほとんど同じである。ヤクザとも付き合って「情報」を得ている、それなくして暴力団捜査はできないという「現場」的な感覚とあくまでも違法な組織征圧を目指すトップとの対立を鋭く描いている。相当の力作で面白く見られるけど、文太個人の問題に矮小化していて本質を突いているとまでは言えない。岡山の話とされ、梅宮が石油会社に天下るラストが印象的。

 一方、組織暴力の問題は、どこの国でも「差別」と深い関係を持っている。アメリカの場合は、イタリア系移民やアフリカ系、今はさらにアジア系などの民族問題を避けて通れない。日本の場合でも「差別」や「貧困」が背景にあって、暴力集団に参加したという人も多いはずである。そういう面もあまり本格的には描かれなかったけど、朝鮮人差別を直視した映画として「やくざの墓場 くちなしの花」(1976、深作欣二監督、笠原和夫脚本、キネ旬8位)がある。これは娯楽映画としては突出していて、当時は大きな話題となった。この映画も主筋は警察と暴力組織の癒着を描いている。渡哲也主演で、今回は上映がなかったので細かいことは覚えていない。

 「日本暴力列島 京阪神殺しの軍団」(1975、山下耕作監督)は、「朝鮮人」という言葉こそ出てこないが、冒頭に大阪・鶴橋の描写があり、「血」が強調されるので、判る人には容易に民族問題を背景にしていることが判る。これは山口組全国制覇の先駆けとなった「柳川組」をモデルにしていて、実際に組長は朝鮮人だった。組織内には日本人もいたが、内部で微妙ないさかいもあったと描かれている。ただし、この映画のテーマは民族問題ではなく、「大組織に使い捨てされる悲哀」である。小林旭の東映初主演映画。(なお、実録映画のモデルとなっている昭和20,30年代は、韓国との国交前で、「在日韓国人」という呼び方はしなかった。70年代半ばは「朝鮮人差別問題」と呼んでいたと思う。)

 また「沖縄」の問題は、「沖縄やくざ戦争」(1976)、「沖縄10年戦争」(1978、どちらも中島貞夫監督)が描いている。また深作欣二が実録映画以前、というか沖縄復帰以前でもあるが、「博徒外人部隊」(1971)を撮っている。いずれも沖縄進出をもくろむ本土のヤクザ組織と地元の「ウチナンチュー」意識を持つ組織との対立・抗争を描いている。見慣れた俳優たちが、沖縄を強調するのはさすがにちょっと違和感がある。(ヤクザ役俳優が警官役をやるのは、映画の配役なんだからどうってことないけど。)それと復帰直後で沖縄側にヤクザ映画のモデルとされることへの反発が強かった。武器の供出元として米軍が出てくることはあっても、基地問題や沖縄戦もあまり触れられない。

 このように成功の度合いはともあれ、実録映画は結構多彩なテーマに果敢に挑んでいた。しかし、こうしてみると、「問題」は描かれていない。これはさすがにタブーが強かったのか。「利権」とヤクザの関わりは、その後大きな問題となるが、実録映画製作時には同時代すぎたのかもしれない。実録映画そのものが、敗戦から30年ほど経って、過去の抗争が「歴史」になってきた地点で作られている。高度成長も終わり、戦後初期が一種ノスタルジックに語られていく風潮の中で存在したのである。「同和対策」問題は当然、1965年の同和対策審議会答申以後の問題だから、まだ対象化は難しい。

 もっとも山下耕作監督「夜明けの旗」(1976)がこの時代に東映で作られている。山下監督は、時代劇、任侠映画の名作をいくつも作ってきた監督だが、実録映画も何本か作っている。それらは「伝記映画」の色彩が強い。「夜明けの旗」も副題が「松本治一郎伝」とあり、不世出・不屈の反差別運動家だった解放同盟委員長の松本治一郎の正統的な伝記映画である。この映画はある種、大組織の動員を当て込んだ企画でもあるけれど、熱気ある大作になっている。その後ほとんど上映の機会がなく、今では見ていない人が多いと思うが、必見ではないか。大手の会社で製作された映画では、一番問題を直接訴えている映画だろう。だから東映映画人に問題意識はあったのである。
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