作家の北杜夫がなくなった。ここ数年元気がない感じだったから、こういうニュースを聞く日が割合と近いことは予期しないではなかった。北杜夫は僕らの世代にとって、とても大切な作家なので追悼文を書いておきたい。
ユーモアあふれる“どくとるマンボウ”シリーズや、大河小説「楡家の人びと」で知られる作家、芸術院会員の北杜夫(きた・もりお、本名・斎藤宗吉=さいとう・そうきち)氏が、24日死去した。84歳だった。(読売新聞)
そう、いろいろ書いてるけど結局は「どくとるマンボウ」と「楡家」だった。今はライトノベルとかケータイ小説とか、「ヤングアダルト」という言葉もあって中学生や高校生をターゲットにする小説というのが一大市場で存在する。でも40年前はそうではなかった。それは確かに「児童文学」はあった。しかし、なんだかお説教めいた昔の物語が多かった。現代を舞台にした子供向けエンターテインメントはようやく現れ始めたばかりの時代である。子供向けにリライトされた名作とか偉人伝などはあったが、基本的には「子供向け」を卒業したら、直接「純文学」に進むしかなかったのである。(これは何も本に限ったことではなく、「子供向け」に満足できなくなったら、「大人」のものに背伸びしてチャレンジするというのが、音楽でも映画でも普通のことだった。)でも、漱石の「坊ちゃん」は確かに面白いのだが、「僕らの文学」と思えただろうか。芥川の短編、武者小路の「友情」、「小説の神様」志賀直哉。どこが面白くて「小説の神様」なのか、中高生に判るわけがないではないか。
そこに僕らは発見したのである。「どくとるマンボウ青春記」という素晴らしく面白い本があることを。「どくとるマンボウ」シリーズをどんどん読むが皆面白い。「船乗りクプクプの冒険」「さびしい王様」など「子供向け」の本も面白かった。以後、畑正憲の「ムツゴロウ」シリーズ、遠藤周作の狐狸庵シリーズなど、面白エッセイというジャンルはたくさん出てくるけど、最初に僕らを熱狂させたのは北杜夫。この功績は測り知れない。
高校1年の夏に「楡家の人々」を読んで寝食を忘れるほど読みふけった。こんな面白い小説が日本にもあったのか。「私小説」の伝統ばかり強く、何かうっとうしい日本の文学を避け、皆アメリカやフランスの小説を読んでいた。そういう時代に、これほどの「本格小説」を成功させたのは奇跡である。そりゃあ三島由紀夫や安部公房はいた。僕も背伸びして読んでいた。しかし、人工的な匂いが強い世界だった。今では2年もすれば文庫になるが、当時は名作の評価が固まってから文庫化されるという感覚が残っていて、活躍中の作家はほとんどまだ文庫になっていなかった。手に取れる最新の日本文学が大江、開高の初期作品や三島、北杜夫などだったのである。そういう中で読んだ「楡家の人々」は、戦前日本という異次元の世界をまざまざと再現させてくれた。すぐれた大河小説であり、今思えば一つの成功した「社会史」だった。こういう本を通して、僕は近代の日本のイメージを作っていけたのである。ちなみに、この小説のモデルになった祖父が設立した「青山脳病院」は、後の都立梅ヶ丘病院。2010年に東京都立小児総合医療センターに統合された。
ところで、言うまでもなく北杜夫は斎藤茂吉の二男である。この父親の歌に触れたことが結局は、北杜夫の叙情の根本にあった。そのことは晩年に書いた「茂吉4部作」(「青年茂吉(1991)・壮年茂吉(1993)・茂吉彷徨(1996)・茂吉晩年(1998))を読めばよく判る。今思えば、この4部作が北杜夫の真の代表作であり、斎藤茂吉の文学史上の大きさを改めて思い知る。(岩波現代文庫にある。)でも、その頃はなんだか茂吉に古い日本を感じてしまい(日米開戦時の歌などを読めば特に)、トーマス・マンの影響を受け、青春を登山に明け暮れ、ナチス時代のドイツを舞台にした「夜と霧の隅で」で芥川賞、といった北杜夫の経歴に「現代」を感じてしまったわけである。そういう時代だった。
茂吉の死後、母親の斎藤輝子が元気な高齢女性として評判になり、兄の斎藤茂太もエッセイストして活躍した。現在は北杜夫の娘の斎藤由香がエッセイストとして活躍中。
ユーモアあふれる“どくとるマンボウ”シリーズや、大河小説「楡家の人びと」で知られる作家、芸術院会員の北杜夫(きた・もりお、本名・斎藤宗吉=さいとう・そうきち)氏が、24日死去した。84歳だった。(読売新聞)
そう、いろいろ書いてるけど結局は「どくとるマンボウ」と「楡家」だった。今はライトノベルとかケータイ小説とか、「ヤングアダルト」という言葉もあって中学生や高校生をターゲットにする小説というのが一大市場で存在する。でも40年前はそうではなかった。それは確かに「児童文学」はあった。しかし、なんだかお説教めいた昔の物語が多かった。現代を舞台にした子供向けエンターテインメントはようやく現れ始めたばかりの時代である。子供向けにリライトされた名作とか偉人伝などはあったが、基本的には「子供向け」を卒業したら、直接「純文学」に進むしかなかったのである。(これは何も本に限ったことではなく、「子供向け」に満足できなくなったら、「大人」のものに背伸びしてチャレンジするというのが、音楽でも映画でも普通のことだった。)でも、漱石の「坊ちゃん」は確かに面白いのだが、「僕らの文学」と思えただろうか。芥川の短編、武者小路の「友情」、「小説の神様」志賀直哉。どこが面白くて「小説の神様」なのか、中高生に判るわけがないではないか。
そこに僕らは発見したのである。「どくとるマンボウ青春記」という素晴らしく面白い本があることを。「どくとるマンボウ」シリーズをどんどん読むが皆面白い。「船乗りクプクプの冒険」「さびしい王様」など「子供向け」の本も面白かった。以後、畑正憲の「ムツゴロウ」シリーズ、遠藤周作の狐狸庵シリーズなど、面白エッセイというジャンルはたくさん出てくるけど、最初に僕らを熱狂させたのは北杜夫。この功績は測り知れない。
高校1年の夏に「楡家の人々」を読んで寝食を忘れるほど読みふけった。こんな面白い小説が日本にもあったのか。「私小説」の伝統ばかり強く、何かうっとうしい日本の文学を避け、皆アメリカやフランスの小説を読んでいた。そういう時代に、これほどの「本格小説」を成功させたのは奇跡である。そりゃあ三島由紀夫や安部公房はいた。僕も背伸びして読んでいた。しかし、人工的な匂いが強い世界だった。今では2年もすれば文庫になるが、当時は名作の評価が固まってから文庫化されるという感覚が残っていて、活躍中の作家はほとんどまだ文庫になっていなかった。手に取れる最新の日本文学が大江、開高の初期作品や三島、北杜夫などだったのである。そういう中で読んだ「楡家の人々」は、戦前日本という異次元の世界をまざまざと再現させてくれた。すぐれた大河小説であり、今思えば一つの成功した「社会史」だった。こういう本を通して、僕は近代の日本のイメージを作っていけたのである。ちなみに、この小説のモデルになった祖父が設立した「青山脳病院」は、後の都立梅ヶ丘病院。2010年に東京都立小児総合医療センターに統合された。
ところで、言うまでもなく北杜夫は斎藤茂吉の二男である。この父親の歌に触れたことが結局は、北杜夫の叙情の根本にあった。そのことは晩年に書いた「茂吉4部作」(「青年茂吉(1991)・壮年茂吉(1993)・茂吉彷徨(1996)・茂吉晩年(1998))を読めばよく判る。今思えば、この4部作が北杜夫の真の代表作であり、斎藤茂吉の文学史上の大きさを改めて思い知る。(岩波現代文庫にある。)でも、その頃はなんだか茂吉に古い日本を感じてしまい(日米開戦時の歌などを読めば特に)、トーマス・マンの影響を受け、青春を登山に明け暮れ、ナチス時代のドイツを舞台にした「夜と霧の隅で」で芥川賞、といった北杜夫の経歴に「現代」を感じてしまったわけである。そういう時代だった。
茂吉の死後、母親の斎藤輝子が元気な高齢女性として評判になり、兄の斎藤茂太もエッセイストして活躍した。現在は北杜夫の娘の斎藤由香がエッセイストとして活躍中。