尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

「ゆるし」と「怒り」-「六本木少女地獄」をめぐって⑧

2011年10月28日 00時59分09秒 | アート
 「少女」は何もかもに「昔はすごく怒っていた」。その「全部の怒り」をぶつけて物語を書いていた。(それは「ボクケントミントン」の物語であることが強く示唆されている。)でも、「想像妊娠」したことで「安らかな気分」となり書けなくなる。今は「許し」の話が書きたい。でも「怒っていた時のほうが。ずっといい文章が書けた。」それは多分、私の許しは妥協で、「本当の許しは、心の底から怒っている最中の人間にしか生まれないもの」だと言う。(290頁)

 ここでは何かとても大切なことが語られている。が、それが見ているものに完全に納得できるかは、また別である。僕はこの「許し」は「赦し」の方がいいのではないかと前に書いた。「許す主体」は誰か?親や教師の許可でよいのなら「許し」でいいけど、もう少し宗教的な世界が展開されていると思ったからである。新約聖書には有名な以下のような箇所がある。「ペトロがイエスのところに来て言った。「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」イエスは言われた。「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。」このように「赦し」とは、普通は「罪」があるから必要になるものである。しかし、少女は「怒り」を「許し」に対比させている。「罪」ではなく。これは何故だろうか?そもそも、少女は一体何に怒っているのだろうか?

 いや、それは「何もかも」にと書かれている。この戯曲は象徴的なレヴェルの世界で書かれているから、具体的なことは判らない。少女は引きこもり中なので、いじめとか親の対応への不信とか、何かがあったのかもしれないが、それでは「何もかもへの怒り」にはならないだろう。もう少し深いレヴェルで、少女の存在そのものが脅かされたのである。人生は本来は「無償の贈与」(お返しのいらないプレゼント)なのだが、思春期になると周りから「返さなくても良かったはずのお返し」を暗に要求されてくる。それですぐに返せる人はいいけど、多くの人は「自分には返せない」と思う。いつの間にか「巨額の負債」を負った青春になってしまうのだ。そのような青春そのものの構造から、自分の存在根拠が揺らいでしまい、その存在論的不安から「怒り」が呼び起こされてくるのだと僕は思う。だから少女は、自らの存在根拠を作るために、世界への「無償の贈与」としての「想像妊娠」をするのだ。しかし、そのような「怒り」は見るものに共有されているのだろうか?

 「赦し」に対比されるべきものは本来は「罪」ではないのかと先ほど書いた。では「怒り」に対するべきものは何か?それは本来は「愛」ではないのか。だから、「愛」に基づかない「想像妊娠」では、少女は救われないのだ。では、キリスト教では「愛」をどのように言っているか。よく結婚式で使われるパウロの「コリント人への第一の手紙」に、「愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、不正を喜ばずに真理を喜びます。すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。」という有名な箇所がある。つまり「高慢」や「不正」や「ねたみ」などとともに「怒り」も「愛」に反しているのである。だから「怒り」は「罪」。しかし、「罪」の懺悔ではなく、物語は「世界の創造」へと向かう。「少女」は「想像妊娠」で、「姉」は「父親を自分で作る」ことで。このスリリングな展開が、この劇を面白くしているが、こうしてみると本質的には「反宗教の物語」なのではないかと思う。

 なぜそのような「世界再創造」の物語になるかは、僕の考えでは「姉」も「少女」も父親が不在だからだと思う。具体的な問題として、なぜ父親が不在なのかはわからないが、だからどのような親だったかは語られないが、不在であるそのことだけで子供時代に十分な「無償の贈与」を受けていないのである。具体的な「虐待」を受けていたかどうかは別にして、象徴レヴェルではそれを「虐待」と呼んでいい。これは先行する社会モデルがすべて崩壊し、ただ前方には荒野が広がるのみに見える現代の若者(「不在の世代」と呼びたい)の世界観を表しているだろう。バブル崩壊以後、世の中はだんだん悪くなる一方としか言われてこなかった。「失われた10年」だったはずが、もう20年も失われ続けてきた。この社会的な「父親不在」=「虐待」を受け続けて育った世代は、では実際には「怒り」を内包させているのだろうか?この前書いた上野・古市対談本では、若者の不安感は強いが、同時に現状満足度も高いのだというデータが出ている。これは僕の接してきた経験からも、ある程度納得できる。

 それは「それしか知らない諦め」の世界にいるからだろうか。物質的には恵まれているので、そのことを思えば、十分な贈与を先行世代から受けていると判断しているからだろうか。「怒る」ためにも想像力がいる。「想像力の刃」の研ぎ方が不十分で錆びついているからだろうか?いろいろ考えられるが、この劇は「想像力の刃」を研いで世界に立ち向かったドキュメントなのではないかと思う。しかし、まだ「救い」は書かれていない。もちろん、10代で救われてはかえって困るけど。だから思想のレヴェルでは、様々な萌芽が雑然とばらまかれているというのが実態ではないか。「家父長制」への告発なのかと思えば、一方「ミソジニー」(女性嫌悪)のような感じもする。昔の「エコ・フェミ」みたいな感じもあるし、単なる若い時期の「男性嫌悪」のようなところもある。よく判らないのは、当然作者本人の思想も確立途上にあるからだろう。

 それで書いたこの演劇は、つまりは何なのだろうか?「存在根拠」の揺らぐ生の中で、「怒り」の炎を燃やす少女たち、決して救われないこの二人の悲劇は、現状満足に甘んじるものには通じない。でも、未だ名づけられない不安を抱えるものたちへ向けて発せられている。そのドラマは、今目の前に見えている世界ではなく、何か直接は目に見えない世界で行われた救いと祈りの物語である。作者は現世ではなく、異界の語り部となっている。つまり「幻視者」である。自分の中の「幻視者のレヴェル」にまで下りて行って語られた物語なのである。(六本木について語られる冒頭の243頁の表現などを「現実の六本木」を表していると取ってはならない。これは「幻視された六本木」の表現に他ならない。)しかし、まだ「救い」は訪れない。当然だろう。誰にも、どこにもまだ見えてない。人が本当に自分だけの真実の愛の物語(=救いの世界)を語れるようになるには、それなりの時間がかかるものだ。急がずにゆっくりと、回り道を重ね、様々な風景を見ることにより、ようやく見えてくるものだろう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする