東京五輪で女子体操個人優勝のベラ・チャスラフスカはとても印象的な選手だった。そのことは「クーデルカ展」の記事に少し書いたことがある。僕が小さな時に見た東京オリンピックから得たものについては「TOKYOオリンピック物語」で触れている。そのチャスラフスカが来日したという記事が先週載っていた。
「日本は母国のよう」=チャスラフスカさんが講演
1964年東京、68年メキシコ五輪の体操女子で計7個の金メダルを獲得したチェコスロバキア(当時)のベラ・チャスラフスカさん(69)が8日、都内で講演した。東日本大震災で被災した仙台市を10日に訪問することなどが目的で来日。「日本のことは母国のことのように思っている。被災地で(東京五輪を)覚えている方もいるかと思い、金メダルを持ってきた」と笑顔でメダルを披露した。(時事)
チャスラフスカに関しては、後藤正治「ベラ・チャスラフスカ もっとも美しく」という名著があり、文春文庫に入っている。この感動的な本によって書くのだが、2004年の原著刊行当時、チャスラフスカは非常に厳しい、人生の辛い時期を送っていた。著者は取材対象の彼女に会えなかった。当時は重いうつ状態で精神病院に入っていて、他人と会えるような状態ではなかったと言われている。
きっかけは家庭内の悲劇である。そしてその原因はという風に探っていくと、どうしても1968年8月のプラハの悲劇に行きつく。1964年、22歳で迎えた東京五輪でチャスラフスカは個人総合と跳馬、平均台で金メダルを得た。当時の女子体操界は旧ソ連の全盛時代で、五輪史上最多のメダル獲得者の栄誉を今でも持つラリサ・ラチニナが個人総合で連覇中だった。チャスラフスカはその三連覇を阻んだのである。優美な演技で日本人を魅了したチャスラフスカは、もちろんチェコでも英雄となった。
そして彼女は1968年の「プラハの春」と呼ばれた自由化運動にコミットし、「二千語宣言」に署名した。ソ連式共産党独裁体制が東ヨーロッパ諸国を支配していた時代の話である。自由化を求めるチェコスロヴァキアでは「人間の顔をした社会主義」を目指してソ連からの自由を求めた。これに対しソ連を中心とするワルシャワ条約軍が8月に戦車で侵攻し、共産党幹部をモスクワに拉致して自由への動きをつぶしたのである。
メキシコ五輪は9月に迫っていた。出場も危ぶまれたがなんとか出国を許された彼女は、ソ連選手に対抗心を燃やし個人総合で2連覇を達成したのである。そして陸上選手だった夫とメキシコで結婚した。しかし帰国後の彼女には過酷な人生が待っていた。宣言署名の撤回を迫る当局に対し、あくまでも屈しなかったチャスラフスカは体操のコーチを解任され、何の仕事も与えられなかった。多くの友人が去って行き、夫ともすきま風が吹くようになる。妥協せず生きるチャスラフスカに夫はついていけないものがあり、二人は別れるしかなかったのだ。
やがてソ連で80年代半ばに「ペレストロイカ」が始まり、冷戦が終結し、チェコスロヴァキアは自由を得た。1989年11月、いわゆる「ビロード革命」である。その時、プラハ中心部のヴァツラフ広場で開かれた集会で、広場を見渡すバルコニーから彼女は人々に語りかけた。「もう何回も、人生の中で-私は堂々とした態度と勇気を示さねばなりませんでした-スポーツ選手として、また人間としても。今言わせてもらえるでしょう、私は卑怯者ではないのだと。」
大統領となった反体制劇作家ハヴェルは、彼女にスポーツ大臣、駐日大使、プラハ市長の中から好きなポストを選んでほしいと言ったという。しかし、チャスラフスカは断る。「一介のスポーツ選手」として、長年許されなかった「スポーツクラブでコーチをすること」が望みだったからである。そして、その代わりに無給で医療・福祉担当の大統領顧問を引き受けた。大統領府(プラハ城)に押し寄せる悩める国民の声を、自ら調査し返答する献身の日々が始まった。それは、1992年にチェコオリンピック委員会会長に就任するまで続いた。
しかし、チャスラフスカには思いもかけぬ個人的悲劇が襲い掛かったのである。1993年、街中の酒場で、次男が別れた父親と偶然同席し、行き掛りから争いとなり、倒れた父親は死んでしまった。息子が元夫の殺人で捕らえられ獄舎に囚われたのである。そして、あれほど強く気高かったチャスラフスカの心は、ここで閉ざされてしまった。先の本では誰にも会えぬ状態が続いていたとあるのだが、こうして来日できたのだから外国旅行が可能なほどに回復したのである。そして東京五輪にときに日本刀を贈ってくれた人に会いたいと思い探した。新聞に載りその人物はわかったのである。その刀を通して「共産主義体制下でも日本から力を得ていたのです。」
ベラ・チャスラフスカは歴史に残る素晴らしい体操選手であるとともに、権力に屈せず自由を求めた「フリーダム・ファイター」としても歴史の中で記憶しておかなければいけない人である。ネルソン・マンデラやアウン・サン・スー・チーのように。そして、ここにさらに二つの素晴らしい記憶を付け加えることができる。一つは、人生に起こる悲劇や挫折の体験、重いうつ病からのサヴァイヴァーとして。人はどんなに強い人間にみえても、一人では受け止められない挫折のときがあるのだ。
だがチャスラフスカは「回復」し、人々の中に戻ってきた。そのことは多くの人々に勇気を与えることだと思う。もう一つは、大震災のさなかに来日し被災者を激励し、日本人への愛情を示してくれた日本の本当の友人として。刀を贈ってくれた人は奇しくも福島出身の人だったという。仙台では常盤木学園というところで枝垂れ桜の植樹をした。彼女の植えた桜がいずれ日本で花咲く日が来ることだろう。
★ベラ・チャスラフスカさんは、2016年8月30日に74歳で亡くなった。余命宣告を受けていることは、一月ほど前に朝日新聞に掲載されていた。記事は一部長すぎる段落を変えた。写真は今回アップした。
★2011年当時、五輪の最多メダル獲得者はラリサ・ラチニナだったが、その後アメリカの競泳選手マイケル・フェルプスが抜いたことは周知のとおり。リオ五輪まで計28個。ラチニナは18個で第2位。
★9月2日、および5日に、東京のチェコ大使館で弔問と記帳が行われる。また5日夜には、映画の上映もあるという。詳しくは、チェコ大使館の「チャースラフスカー氏ご逝去に伴う弔問記帳等について」を参照。(2016.9.2)
「日本は母国のよう」=チャスラフスカさんが講演
1964年東京、68年メキシコ五輪の体操女子で計7個の金メダルを獲得したチェコスロバキア(当時)のベラ・チャスラフスカさん(69)が8日、都内で講演した。東日本大震災で被災した仙台市を10日に訪問することなどが目的で来日。「日本のことは母国のことのように思っている。被災地で(東京五輪を)覚えている方もいるかと思い、金メダルを持ってきた」と笑顔でメダルを披露した。(時事)
チャスラフスカに関しては、後藤正治「ベラ・チャスラフスカ もっとも美しく」という名著があり、文春文庫に入っている。この感動的な本によって書くのだが、2004年の原著刊行当時、チャスラフスカは非常に厳しい、人生の辛い時期を送っていた。著者は取材対象の彼女に会えなかった。当時は重いうつ状態で精神病院に入っていて、他人と会えるような状態ではなかったと言われている。
きっかけは家庭内の悲劇である。そしてその原因はという風に探っていくと、どうしても1968年8月のプラハの悲劇に行きつく。1964年、22歳で迎えた東京五輪でチャスラフスカは個人総合と跳馬、平均台で金メダルを得た。当時の女子体操界は旧ソ連の全盛時代で、五輪史上最多のメダル獲得者の栄誉を今でも持つラリサ・ラチニナが個人総合で連覇中だった。チャスラフスカはその三連覇を阻んだのである。優美な演技で日本人を魅了したチャスラフスカは、もちろんチェコでも英雄となった。
そして彼女は1968年の「プラハの春」と呼ばれた自由化運動にコミットし、「二千語宣言」に署名した。ソ連式共産党独裁体制が東ヨーロッパ諸国を支配していた時代の話である。自由化を求めるチェコスロヴァキアでは「人間の顔をした社会主義」を目指してソ連からの自由を求めた。これに対しソ連を中心とするワルシャワ条約軍が8月に戦車で侵攻し、共産党幹部をモスクワに拉致して自由への動きをつぶしたのである。
メキシコ五輪は9月に迫っていた。出場も危ぶまれたがなんとか出国を許された彼女は、ソ連選手に対抗心を燃やし個人総合で2連覇を達成したのである。そして陸上選手だった夫とメキシコで結婚した。しかし帰国後の彼女には過酷な人生が待っていた。宣言署名の撤回を迫る当局に対し、あくまでも屈しなかったチャスラフスカは体操のコーチを解任され、何の仕事も与えられなかった。多くの友人が去って行き、夫ともすきま風が吹くようになる。妥協せず生きるチャスラフスカに夫はついていけないものがあり、二人は別れるしかなかったのだ。
やがてソ連で80年代半ばに「ペレストロイカ」が始まり、冷戦が終結し、チェコスロヴァキアは自由を得た。1989年11月、いわゆる「ビロード革命」である。その時、プラハ中心部のヴァツラフ広場で開かれた集会で、広場を見渡すバルコニーから彼女は人々に語りかけた。「もう何回も、人生の中で-私は堂々とした態度と勇気を示さねばなりませんでした-スポーツ選手として、また人間としても。今言わせてもらえるでしょう、私は卑怯者ではないのだと。」
大統領となった反体制劇作家ハヴェルは、彼女にスポーツ大臣、駐日大使、プラハ市長の中から好きなポストを選んでほしいと言ったという。しかし、チャスラフスカは断る。「一介のスポーツ選手」として、長年許されなかった「スポーツクラブでコーチをすること」が望みだったからである。そして、その代わりに無給で医療・福祉担当の大統領顧問を引き受けた。大統領府(プラハ城)に押し寄せる悩める国民の声を、自ら調査し返答する献身の日々が始まった。それは、1992年にチェコオリンピック委員会会長に就任するまで続いた。
しかし、チャスラフスカには思いもかけぬ個人的悲劇が襲い掛かったのである。1993年、街中の酒場で、次男が別れた父親と偶然同席し、行き掛りから争いとなり、倒れた父親は死んでしまった。息子が元夫の殺人で捕らえられ獄舎に囚われたのである。そして、あれほど強く気高かったチャスラフスカの心は、ここで閉ざされてしまった。先の本では誰にも会えぬ状態が続いていたとあるのだが、こうして来日できたのだから外国旅行が可能なほどに回復したのである。そして東京五輪にときに日本刀を贈ってくれた人に会いたいと思い探した。新聞に載りその人物はわかったのである。その刀を通して「共産主義体制下でも日本から力を得ていたのです。」
ベラ・チャスラフスカは歴史に残る素晴らしい体操選手であるとともに、権力に屈せず自由を求めた「フリーダム・ファイター」としても歴史の中で記憶しておかなければいけない人である。ネルソン・マンデラやアウン・サン・スー・チーのように。そして、ここにさらに二つの素晴らしい記憶を付け加えることができる。一つは、人生に起こる悲劇や挫折の体験、重いうつ病からのサヴァイヴァーとして。人はどんなに強い人間にみえても、一人では受け止められない挫折のときがあるのだ。
だがチャスラフスカは「回復」し、人々の中に戻ってきた。そのことは多くの人々に勇気を与えることだと思う。もう一つは、大震災のさなかに来日し被災者を激励し、日本人への愛情を示してくれた日本の本当の友人として。刀を贈ってくれた人は奇しくも福島出身の人だったという。仙台では常盤木学園というところで枝垂れ桜の植樹をした。彼女の植えた桜がいずれ日本で花咲く日が来ることだろう。
★ベラ・チャスラフスカさんは、2016年8月30日に74歳で亡くなった。余命宣告を受けていることは、一月ほど前に朝日新聞に掲載されていた。記事は一部長すぎる段落を変えた。写真は今回アップした。
★2011年当時、五輪の最多メダル獲得者はラリサ・ラチニナだったが、その後アメリカの競泳選手マイケル・フェルプスが抜いたことは周知のとおり。リオ五輪まで計28個。ラチニナは18個で第2位。
★9月2日、および5日に、東京のチェコ大使館で弔問と記帳が行われる。また5日夜には、映画の上映もあるという。詳しくは、チェコ大使館の「チャースラフスカー氏ご逝去に伴う弔問記帳等について」を参照。(2016.9.2)