小沢一郎元民主党代表と元秘書に関する刑事裁判の問題。元秘書裁判は、重要な供述調書が証拠として採用されなかったのに、「推認」という言葉を多用して有罪となった。それをどう評価するかはいろいろな意見が飛びかっているが、裁判経過をしっかりと追っているわけではないのでここでは評価は控えたい。はっきり言えるのは、小沢氏には政治家としての説明責任がある。というかいずれ説明すると言ったまま、国会(証人喚問や政倫審)に出てこないで記者会見で「恫喝」してるのは頂けない。単なる形式問題ではなく、公共事業に伴う裏金が指摘されているのだから、国会の国政調査権が発動されるべきなのは当然。裁判進行中であるのは関係ない。(小沢氏が師と仰ぐという田中角栄も、金脈問題で首相を辞めるときいずれ調査して説明すると言ったまま、何もしなかった。)(ついでに書くと、元秘書の石川議員に対する「議員辞職勧告決議案」には反対である。)
一方、小沢氏本人の刑事裁判も今月に入り始まっている。小沢氏側は1回目に「裁判自体の取りやめ」を求めた。それを批判する人もいるが、「公訴棄却」という手続きが裁判にはちゃんとあるのだから、何の問題もない。「公訴棄却」というのは、それこそ起訴したこと自体がおかしいと裁判そのものを取り消す手続きである。過去には水俣病患者の川本輝夫氏がチッソともみあいになり傷害罪で起訴された裁判で、77.6.14に東京高裁で公訴棄却の判決が出て、最高裁で確定したケースが有名。検察審査会による強制起訴制度は、僕は問題が多いと考えているので、それに関しては新しい司法判断を求めてもいいと思うのである。(なお、「市民が判断」と書いた新聞が多いが、検察審査会は国家機関で日本国籍を持っていないと選ばれないので、「国民が判断」と書かなくてはおかしい。)
検察審査会という制度は、裁判員制度が出来る前は司法に関して国民が関与できる唯一の制度だった。(最高裁裁判官国民審査は、裁判官の身分に関わるだけで、事件の中身に関与できるわけではない。)だから、この制度はそれなりに貴重なものだ、と僕は思っていた。とは言っても、当時は、「検察審査会が、起訴相当、不起訴不当の議決をした場合、検察は再捜査をしなければならない」けれども、起訴する必要はなかった。だから、検察審査会というのは、あってもなくてもいいような、あまり意味のない制度になっていた。(かつて、日歯連事件で検察審査会は山崎拓元自民党副総裁を起訴相当としたことがあるが、検察はふたたび不起訴にした。)また、ずいぶん昔の話だが、神戸の甲山事件では、不起訴になった人が検察審査会の議決(不起訴不当)をきっかけに再逮捕、起訴され、冤罪を晴らして無罪が確定まで長く苦しい道のりを歩まざるをえなかったという苦い過去の記憶もある。検察審査会は、その成り立ちからして検察が集めた証拠を再評価することしかできない。検察、警察に呼ばれた人の「供述調書」はそれだけでは「証拠価値」はない。裁判で弁護側の厳しい反対尋問にさらされた上、裁判所が証拠採用した後で初めて有罪の立証に使えるというものである。しかし、それに対して検察審査会では被告・弁護側の言い分は全然聞かずに判断するわけだから、どうしても「有罪方向のバイアス」がかかるに違いない。
法が改正され、2回起訴相当の議決があれば、強制的に起訴されることになった。制度改正以後、明石の花火事故の警察署長、JR福知山線事故のJR西日本元社長、小沢一郎議員などが強制起訴になった。ちょっと見ると、「今まで検察が起訴しなかった政財官界の有力者が、国民によって裁きの場に出されることになった。まさに、制度改正の実があった」とも見える。
ところが、どうも僕には疑問が大きくなってきた。国家が独占してきた「公訴の提起権」を検察審査会が手にするようになった。だから、これを「国民の権利の伸長」ととらえることもできるようにもみえる。しかし、裁判員制度だったら、(運用に改善すべき点は多いようには思うが)、裁判でどのような結論を出すこともできる。一方、検察審査会は「不起訴になったものを今度は起訴する」権限しかない。つまり、国家権力の強化に一方的に加担できるようになっただけで、検察制度をチェックする機能はないわけである。これが、もし「誤って起訴された無実の被告の起訴を取り消す」こともできるなら、国民が検察をチェックする権限を得たと言えるだろう。では、検察審査会は「起訴の取り消し」もできるようにすべきなのか?
しかし、よく考えると、これはあまりよい仕組みではない。捜査側の書類を見ただけで「これは冤罪だ」とわかるような事件がどれだけあるだろうか?事後の書類審査だけを行う検察審査会では、無罪の可能性があったとしても、「裁判で証人を呼んでから判断したほうがよい」となるに違いない。じゃあ、検察審査会でも証人を呼んで、それで起訴・不起訴の判断をするようにすべきではないかという意見もあるだろう。しかし、それでは、事実上の一審が検察審査会になってしまう。それなら、起訴・不起訴自体を国民が全部判断する制度のほうがいいんじゃないのか。そういう制度が、外国にはあるところもあるのだ。アメリカでいう「大陪審」である。アメリカでは、重大犯罪の場合、起訴すべきかどうかを国民が判断する。起訴を判断する陪審員23人。裁判の陪審員は「12人の怒れる男」という映画があるように12人なので、大陪審、小陪審と呼び分ける。裁判員制度を導入したのだから、「大陪審」も検討したらどうなのか?
ただ、大陪審は人数も多くて、裁判員制度以上に大変である。実際、大陪審は英米法の概念だが、イギリスはもはややってないらしい。では、検察審査会に変わる制度設計は他にありうるだろうか?僕が考えたのは、検察審査会を廃止し、付審判請求に一本化するというのはどうだろうということだ。
「付審判請求」(ふしんぱん・せいきゅう)というのは、検察が不起訴にした事件のうち、特別公務員暴行陵虐罪や特別公務員職権濫用罪などにある特別措置である。検察官や警察官自体が、捜査で暴行を加えたり証拠を捏造、隠滅していた場合、いくら被害者が告発しても、捜査当局が自分で自分を起訴するのはなかなか難しいので、裁判所に直接起訴を訴えることができるという例外的な制度である。実際、警察官が起こした問題などでずいぶん付審判請求がなされ、請求が認められてもいる。裁判所が審判に付すると結論したら、指定弁護士を検察役に任命して、裁判になるところは「検察審査会の強制起訴」と同じである。
これを他の罪にも拡大して、すべて裁判所で決定する。そして、付審判請求の可否は裁判員制度で国民が判断に加わる。このような「抜本的改正」を行い検察審査会は廃止して裁判員制度に一本化する方が良いのではないか。
一方、小沢氏本人の刑事裁判も今月に入り始まっている。小沢氏側は1回目に「裁判自体の取りやめ」を求めた。それを批判する人もいるが、「公訴棄却」という手続きが裁判にはちゃんとあるのだから、何の問題もない。「公訴棄却」というのは、それこそ起訴したこと自体がおかしいと裁判そのものを取り消す手続きである。過去には水俣病患者の川本輝夫氏がチッソともみあいになり傷害罪で起訴された裁判で、77.6.14に東京高裁で公訴棄却の判決が出て、最高裁で確定したケースが有名。検察審査会による強制起訴制度は、僕は問題が多いと考えているので、それに関しては新しい司法判断を求めてもいいと思うのである。(なお、「市民が判断」と書いた新聞が多いが、検察審査会は国家機関で日本国籍を持っていないと選ばれないので、「国民が判断」と書かなくてはおかしい。)
検察審査会という制度は、裁判員制度が出来る前は司法に関して国民が関与できる唯一の制度だった。(最高裁裁判官国民審査は、裁判官の身分に関わるだけで、事件の中身に関与できるわけではない。)だから、この制度はそれなりに貴重なものだ、と僕は思っていた。とは言っても、当時は、「検察審査会が、起訴相当、不起訴不当の議決をした場合、検察は再捜査をしなければならない」けれども、起訴する必要はなかった。だから、検察審査会というのは、あってもなくてもいいような、あまり意味のない制度になっていた。(かつて、日歯連事件で検察審査会は山崎拓元自民党副総裁を起訴相当としたことがあるが、検察はふたたび不起訴にした。)また、ずいぶん昔の話だが、神戸の甲山事件では、不起訴になった人が検察審査会の議決(不起訴不当)をきっかけに再逮捕、起訴され、冤罪を晴らして無罪が確定まで長く苦しい道のりを歩まざるをえなかったという苦い過去の記憶もある。検察審査会は、その成り立ちからして検察が集めた証拠を再評価することしかできない。検察、警察に呼ばれた人の「供述調書」はそれだけでは「証拠価値」はない。裁判で弁護側の厳しい反対尋問にさらされた上、裁判所が証拠採用した後で初めて有罪の立証に使えるというものである。しかし、それに対して検察審査会では被告・弁護側の言い分は全然聞かずに判断するわけだから、どうしても「有罪方向のバイアス」がかかるに違いない。
法が改正され、2回起訴相当の議決があれば、強制的に起訴されることになった。制度改正以後、明石の花火事故の警察署長、JR福知山線事故のJR西日本元社長、小沢一郎議員などが強制起訴になった。ちょっと見ると、「今まで検察が起訴しなかった政財官界の有力者が、国民によって裁きの場に出されることになった。まさに、制度改正の実があった」とも見える。
ところが、どうも僕には疑問が大きくなってきた。国家が独占してきた「公訴の提起権」を検察審査会が手にするようになった。だから、これを「国民の権利の伸長」ととらえることもできるようにもみえる。しかし、裁判員制度だったら、(運用に改善すべき点は多いようには思うが)、裁判でどのような結論を出すこともできる。一方、検察審査会は「不起訴になったものを今度は起訴する」権限しかない。つまり、国家権力の強化に一方的に加担できるようになっただけで、検察制度をチェックする機能はないわけである。これが、もし「誤って起訴された無実の被告の起訴を取り消す」こともできるなら、国民が検察をチェックする権限を得たと言えるだろう。では、検察審査会は「起訴の取り消し」もできるようにすべきなのか?
しかし、よく考えると、これはあまりよい仕組みではない。捜査側の書類を見ただけで「これは冤罪だ」とわかるような事件がどれだけあるだろうか?事後の書類審査だけを行う検察審査会では、無罪の可能性があったとしても、「裁判で証人を呼んでから判断したほうがよい」となるに違いない。じゃあ、検察審査会でも証人を呼んで、それで起訴・不起訴の判断をするようにすべきではないかという意見もあるだろう。しかし、それでは、事実上の一審が検察審査会になってしまう。それなら、起訴・不起訴自体を国民が全部判断する制度のほうがいいんじゃないのか。そういう制度が、外国にはあるところもあるのだ。アメリカでいう「大陪審」である。アメリカでは、重大犯罪の場合、起訴すべきかどうかを国民が判断する。起訴を判断する陪審員23人。裁判の陪審員は「12人の怒れる男」という映画があるように12人なので、大陪審、小陪審と呼び分ける。裁判員制度を導入したのだから、「大陪審」も検討したらどうなのか?
ただ、大陪審は人数も多くて、裁判員制度以上に大変である。実際、大陪審は英米法の概念だが、イギリスはもはややってないらしい。では、検察審査会に変わる制度設計は他にありうるだろうか?僕が考えたのは、検察審査会を廃止し、付審判請求に一本化するというのはどうだろうということだ。
「付審判請求」(ふしんぱん・せいきゅう)というのは、検察が不起訴にした事件のうち、特別公務員暴行陵虐罪や特別公務員職権濫用罪などにある特別措置である。検察官や警察官自体が、捜査で暴行を加えたり証拠を捏造、隠滅していた場合、いくら被害者が告発しても、捜査当局が自分で自分を起訴するのはなかなか難しいので、裁判所に直接起訴を訴えることができるという例外的な制度である。実際、警察官が起こした問題などでずいぶん付審判請求がなされ、請求が認められてもいる。裁判所が審判に付すると結論したら、指定弁護士を検察役に任命して、裁判になるところは「検察審査会の強制起訴」と同じである。
これを他の罪にも拡大して、すべて裁判所で決定する。そして、付審判請求の可否は裁判員制度で国民が判断に加わる。このような「抜本的改正」を行い検察審査会は廃止して裁判員制度に一本化する方が良いのではないか。