2か月ほど前に函館に旅行したが、函館といえば「夜景」と「五稜郭」だろう。ということで、今回の長野県でも「夜景」と「五稜郭」に行ってみようかと思った。「夜景」は「姨捨」(おばすて)である。戸倉上山田温泉から車で少し行くとJRの「姨捨駅」(篠ノ井線)がある。また、その近くに高速道路の姨捨サービスエリアがある。そう言えば、昔車で寄ったことがあり、展望もいいし、伝説の里だと書いてあった。
さて、ガイド本を読むと、姨捨駅や近所の長楽寺が観光の拠点で、そこらへんが「さらしなの里」と言われ、棚田が有名とある。不勉強なことに謡曲にある伝説などといわれても、よく判らない。とりあえず温泉を通り過ぎ、駅を見つけてみるか。ちょっと棚田に入り込んで苦労したが、駅近くに駐車場があるのに気付かず、下って長楽寺へ。そこが棚田を持っていて、棚田に張られた水に月が映る「田毎の月(たごとのつき)」には西行が来て、芭蕉が来た。名月の里で、名勝「姨捨(田毎の月)」と重要文化的景観「姨捨の棚田」に指定されている。はあ、そうですか、不勉強で、よく知らなかった。
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長楽寺にある「姨石(おばいし)」が最初の写真で、これも有名らしい。そこに登ったのが3枚目。そこからの眺めが4枚目。棚田が遠くに見えるが、今の時期だとよく判らない。寺の境内には、主に俳句の碑がいっぱいで、これだけ碑が並ぶ寺も少ないだろう。ここからは月を見るのがいいらしい。場所も判ったから、夜にもう一回来るぞと思ったんだけど、なんだか疲れていて、夕食時に地元の酒「姨捨正宗」を飲んでしまったので、今回はなし。また来て、夜景はその時に見に来よう。
次の日に姨捨駅を再訪。ここはスイッチバックが見られる駅として有名だという。中へ入るには入場券がいるのかと思ったら、無人駅で自由に入れた。さらにホームの端から外に出られた。展望はさすがにいい。列車も来たから、スイッチバックはしてたけど、まあじっくり見て写真を撮るほどでもないのは、そこまで鉄道ファンではないわけ。ホームから降りて、姨捨公園に向かう。
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姨捨公園は長楽寺近くから案内があったけど、前日は行かなかった。むしろ駅から歩いて行くところだろう。大正時代に出来た公園で、「東宮」が来た碑(下の1枚目)があった。この東宮(皇太子)というのは昭和天皇のことだ。「東宮妃良子(ながこ)親王」の碑(下の2枚目)もあったが、これは昭和天皇の皇后のこと。ずいぶん昔の碑だ。ここも夜景の名所だという。「姨捨」の語源も諸説あるようだが、直接には「棄老」の話でもないようだ。楢山節がここかと思いかねないが、ここでは里山で簡単に降りて来てしまえる。「姨」も母ではないという。伯母さんだとか。「大和物語」以来いろいろな本にあるというけど、不勉強でよく知らないなあ。今回は棚田をちゃんと見てないので、今度また来よう。
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小諸でそばを食べようと思って、急いで出かけたが、ちょうど定休日だった。うーん、調べてくるんだった。結局、佐久まで来てしまってデニーズに入ったのはバカみたい。佐久に来たのは、佐久市の南部に「龍岡城」という城跡があるのである。JRの駅名にもなっている。そこは日本で二つしかない五稜郭である。えっ、函館の他に五稜郭があったのか。全然知らない人が多いでしょ。僕も最近知ったのである。もっともほとんど意味がない城だった。1863年に建設を始め、1866年にほぼ完成したという。作ったのは松平乗謨(のりかた)という大名だが、ここが本拠地ではない。三河に領地があり佐久は分領だったが、なぜかこっちに五稜郭を作った。この人物は三河の松平家の分家の一つ、大給(おぎゅう)家の殿様で、幕末に陸軍奉行、老中まで行ったので、幕末史に少し名が出てくる。外国の軍事に関心があったから、こういう星形城を作ったわけだけど、ここには五稜郭タワーがないから、ほんとに五角形かどうか判らない。案内図を見ると、以下の通り。
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桜の名所だというから、いつかまた来てみたい。松平乗謨(1838~1910)は、幕末にはまだ20代で、長い後半生がある。大給恒(おぎゅう・ゆずる)と改名し、赤十字の前身・博愛社の創設に貢献した他、賞勲局総裁として日本の勲章制度確立に功があった。1万6千石の小藩主だったから、本来は華族の等級で4番目の子爵だったが、伯爵に上った。銅像があったけど、写真は撮らなかった。その後、一般道を下仁田まで通って、下仁田ネギを買って帰った。これは煮物鍋物に抜群の太いネギで、関東の冬には欠かせない。時々年末に群馬、長野に行ったときに買ってくる。高速だと藤岡ハイウェイオアシスでいっぱい並んでると思うが、今回は道の駅下仁田で野菜を買って帰った。
さて、ガイド本を読むと、姨捨駅や近所の長楽寺が観光の拠点で、そこらへんが「さらしなの里」と言われ、棚田が有名とある。不勉強なことに謡曲にある伝説などといわれても、よく判らない。とりあえず温泉を通り過ぎ、駅を見つけてみるか。ちょっと棚田に入り込んで苦労したが、駅近くに駐車場があるのに気付かず、下って長楽寺へ。そこが棚田を持っていて、棚田に張られた水に月が映る「田毎の月(たごとのつき)」には西行が来て、芭蕉が来た。名月の里で、名勝「姨捨(田毎の月)」と重要文化的景観「姨捨の棚田」に指定されている。はあ、そうですか、不勉強で、よく知らなかった。
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長楽寺にある「姨石(おばいし)」が最初の写真で、これも有名らしい。そこに登ったのが3枚目。そこからの眺めが4枚目。棚田が遠くに見えるが、今の時期だとよく判らない。寺の境内には、主に俳句の碑がいっぱいで、これだけ碑が並ぶ寺も少ないだろう。ここからは月を見るのがいいらしい。場所も判ったから、夜にもう一回来るぞと思ったんだけど、なんだか疲れていて、夕食時に地元の酒「姨捨正宗」を飲んでしまったので、今回はなし。また来て、夜景はその時に見に来よう。
次の日に姨捨駅を再訪。ここはスイッチバックが見られる駅として有名だという。中へ入るには入場券がいるのかと思ったら、無人駅で自由に入れた。さらにホームの端から外に出られた。展望はさすがにいい。列車も来たから、スイッチバックはしてたけど、まあじっくり見て写真を撮るほどでもないのは、そこまで鉄道ファンではないわけ。ホームから降りて、姨捨公園に向かう。
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姨捨公園は長楽寺近くから案内があったけど、前日は行かなかった。むしろ駅から歩いて行くところだろう。大正時代に出来た公園で、「東宮」が来た碑(下の1枚目)があった。この東宮(皇太子)というのは昭和天皇のことだ。「東宮妃良子(ながこ)親王」の碑(下の2枚目)もあったが、これは昭和天皇の皇后のこと。ずいぶん昔の碑だ。ここも夜景の名所だという。「姨捨」の語源も諸説あるようだが、直接には「棄老」の話でもないようだ。楢山節がここかと思いかねないが、ここでは里山で簡単に降りて来てしまえる。「姨」も母ではないという。伯母さんだとか。「大和物語」以来いろいろな本にあるというけど、不勉強でよく知らないなあ。今回は棚田をちゃんと見てないので、今度また来よう。
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小諸でそばを食べようと思って、急いで出かけたが、ちょうど定休日だった。うーん、調べてくるんだった。結局、佐久まで来てしまってデニーズに入ったのはバカみたい。佐久に来たのは、佐久市の南部に「龍岡城」という城跡があるのである。JRの駅名にもなっている。そこは日本で二つしかない五稜郭である。えっ、函館の他に五稜郭があったのか。全然知らない人が多いでしょ。僕も最近知ったのである。もっともほとんど意味がない城だった。1863年に建設を始め、1866年にほぼ完成したという。作ったのは松平乗謨(のりかた)という大名だが、ここが本拠地ではない。三河に領地があり佐久は分領だったが、なぜかこっちに五稜郭を作った。この人物は三河の松平家の分家の一つ、大給(おぎゅう)家の殿様で、幕末に陸軍奉行、老中まで行ったので、幕末史に少し名が出てくる。外国の軍事に関心があったから、こういう星形城を作ったわけだけど、ここには五稜郭タワーがないから、ほんとに五角形かどうか判らない。案内図を見ると、以下の通り。
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桜の名所だというから、いつかまた来てみたい。松平乗謨(1838~1910)は、幕末にはまだ20代で、長い後半生がある。大給恒(おぎゅう・ゆずる)と改名し、赤十字の前身・博愛社の創設に貢献した他、賞勲局総裁として日本の勲章制度確立に功があった。1万6千石の小藩主だったから、本来は華族の等級で4番目の子爵だったが、伯爵に上った。銅像があったけど、写真は撮らなかった。その後、一般道を下仁田まで通って、下仁田ネギを買って帰った。これは煮物鍋物に抜群の太いネギで、関東の冬には欠かせない。時々年末に群馬、長野に行ったときに買ってくる。高速だと藤岡ハイウェイオアシスでいっぱい並んでると思うが、今回は道の駅下仁田で野菜を買って帰った。