尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

追悼・野坂昭如

2015年12月10日 22時59分34秒 | 追悼
 野坂昭如が亡くなった。12月9日没、85歳。長く闘病中だったから驚きは少ないけれど、この数年だけで、小沢昭一菅原文太愛川欣也などが続々と亡くなってしまった。「ある世代」が消え去りつつあるのだ。「ある世代」とは、つまり「焼け跡闇市世代」である。そして、野坂昭如という人も、「火垂るの墓」の「反戦作家」として語られてしまう。選挙に立候補という話題も、1983年衆院選で田中角栄の選挙区から出たことが主に語られる。間違いではないけど、野坂昭如が突然立候補を表明して大きな話題となったのは、1974年の参院選東京地方区である。この時の野坂の選挙運動は大きな話題となり、選挙戦最後の日の新宿の演説は「辻説法」というLPレコードにもなった。僕はこれを持っているのである。そして今、何十年ぶりに聞いてみた。先に挙げた小沢、菅原、愛川などは皆、この日の新宿に駆けつけた面々である。そのレコードの写真には小沢昭一が映っている。
 
 野坂昭如という人は、「中年御三家」と言われた(まあ、自分たちで勝手に言った)歌手でもあった。他の二人は、小沢昭一と永六輔。(念のために書いておくと、徳川御三家をもじって最初に御三家と言われたのは、橋幸夫、舟木一夫、西郷輝彦で、70年代になって野口五郎、郷ひろみ、西城秀樹を「新御三家」と呼んだ。「中年御三家」はそれのパロディ。)これらの人々も「中年」だったんだと感慨深い。今の人は、「黒の舟唄」は長谷川きよしの、「バージンブルース」は戸川純の歌だと思っているかもしれないが、これは野坂昭如の歌だったのである。(選挙演説最後には、「黒の舟唄」を大合唱している。)だけど、やっぱり「マリリン・モンロー・ノーリターン」こそ、野坂昭如のいちばんの持ち歌なんだろう。「このようはもうじきオシマイだ…」である。さらに「ジンジンジンジン、血がジンジン…」「男と女の間には…」などと、訃報を聞いた時から頭の中でリフレインしてしまっている。

 野坂昭如という人は、20代からテレビ界で活動し始めたが、当初は非常に怪しげな人物だった。大体、黒いサングラスなんか、当時は怪しいイメージ。出した本は「プレイボーイ入門」(1962)で、怪しげな人物としてマスコミに登場した。最初に書いた本も「エロ事師たち」(1966)というブルーフィルムを作っている男の話。これは同年に今村昌平監督の「人類学入門」として映画化され主演の小沢昭一の代表作となるが、小説も傑作で今も新潮文庫に生き残っている。そして、1968年1月に「火垂るの墓」「アメリカひじき」で直木賞を受賞。新人賞である直木賞作品がいつまでも代表作と言われるのは不本意だろうけど、後にたくさん書いた小説は、多忙の故か、関心の広さの故か、あまり大評判になった小説が少ない。読んでないものが多いが、当時の時事的な興味が薄れた現時点でどう評価すべきか。

 僕は高校時代に新潮文庫の「火垂るの墓・アメリカひじき」を読んだ。その本には6編の小説が収録されていたが、中で「焼土層」という小説が気に入って、シナリオ化しようとしたことがある。まあ中途で挫折したが、なんだか映画向きで映像が頭の中で見えるような気がしたのである。「エロ事師たち」も思い切って読んでみて、とても面白いし、単なる「エロ小説」ではなかったことに驚いた。当時文庫に入った「真夜中のマリア」などという小説も読んだ。このパロディも面白かったけど、まあスラスラ読めるだけだったかもしれない。これらを読み始めて判ったのは、この人は怪しげなイメージ、セックスやプレイボーイで売ってきたけど、サングラスは照れ隠しのようなもので、本質は戦争を心から憎み、「国家権力」に警戒感を持つ人物だということである。

 1974年という年は、前年の秋に第3次中東戦争が起き「石油戦略」が発動され「オイルショック」が起きた翌年である。物価は3割ぐらいあがってしまい、後の首相・福田赳夫が「狂乱物価」と呼んだ。当時、自民党内では田中角栄首相に対し、福田赳夫や三木武夫の反主流派が対抗していた。そして、74年夏の参院選では田中首相による「金権選挙」が繰り広げられた。そういう参院選に野坂昭如が立候補したのは、まさに「時宜を得た」というか、僕には至極当然のわかりやすい行動だった。じゃあ、僕も選挙を手伝ったのか、投票したのか。いやいや、僕は選挙権がまだない浪人生でありました。

 最初に評価されたのは作詞家として。「おもちゃのチャチャチャ」でレコード大賞作詞家賞を取っている。伊豆の伊東温泉「ハトヤ」のコマーシャルも野坂の作詞。これは関東圏では誰でも知っている曲である。父・野坂相如(すけゆき)は内務官僚で、新潟県副知事をした。新潟県知事選や参院選に出たこともある。(いずれも落選。)妻と二人の娘はそろって「宝塚」で、実はそういう環境の人だったけど、だからこそ反俗を貫いたと言えるんだろう。
 
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大村智博士の偉大なる業績

2015年12月10日 01時29分21秒 | 社会(世の中の出来事)
 2015年の「ノーベル医学・生理学賞」(この呼称については後述)を受賞した北里大学特別栄誉教授の大村智博士という人は、現代日本には稀な巨大なる偉人だと思う。多くの人がそう思ってるだろうが、改めて書いておきたい。その授賞理由に挙げられた「イベルメクチン」による「オンコセルカ症」(河川盲目症)治療については、一年に2億とも3億とも言われる人々の役立っているという。オンコセルカ症は2025年までに、またリンパ系フィラリア(象皮症)は2020年までに、「公衆衛生上の問題ではなくなる」と大村博士はノーベル賞講演会で述べた。このイベルメクチン投与療法が始まって25年を記念して、北里大学には彫刻が建てられている。ということで、過日彫刻を見に行ってみた。
   
 この彫刻は2005年に建てられたもので、台座の文章を見ると「アベルメクチン」と表記されている。ウィキペディアによると、アフリカのブルキナファソの彫刻家による「オンコセルカ症の大人を導く子供の像」である。同様の彫刻が、WHOやブルキナファソにあるWHOオンコセルカ症制圧プログラム、製薬会社のメルク社などに建てられているそうだ。北里大学はどこにあるか僕も知らなかったけど、東京都港区の白金にある。地下鉄白金高輪から徒歩15分くらい。あるいは渋谷と田町を結ぶバスが大学前に停まる。今、大学は工事をしていたが、交番の横を曲がっていくのが一番この彫刻には近いと思う。大学前の壁には大きく受賞の幕が掲げられ、道にも受賞を喜ぶ垂れ幕が下がっていた。
  
 日本人2氏ノーベル賞のニュースを聞いたのは、函館の旅行中だった。特に大村博士のニュースは、当初は北里大学から中継していたが、その後「大村氏に関係した美術館から中継します」と変わった。いやあ、この大村さんという人は、なんと美術館を建ててしまったのだとか。次の日の新聞を見たら、そこには温泉もあるんだとか。(「韮崎大村美術館」と「武田乃里 白山温泉」のサイト参照。ちなみにこの温泉は源泉掛け流しの日帰り温泉で、なんと蕎麦屋まで出来ている。)さらに、大学院に行く前は都立の定時制高校の教諭(都立墨田工業)だったという。驚くような話がどんどん伝わってきた。

 僕はこの大村智という人を知らなかった。知ってましたか?知ってても全然不思議ではなかった。何故ならば、2012年の文化功労者に選ばれていたから。あるいは、2014年度の朝日賞にも選ばれていたから。さらにちょうど一年ほど前の東京新聞に大きく報道されていたから。これを全部読み逃したとは思えない。たぶん読んで、その時はすごい学者がいると思っても、そこで忘れてしまったのだろう。そういう記事はエライ学者の紹介というトーンだし、美術への貢献はほとんど触れていない。アフリカでどんなに多くの人々を救って来たかという関心も伝わらない。こういう他分野の人の業績は新聞やテレビが伝えないと、なかなか僕たちは知らないことになる。でも、国際、科学、文化、社会などマスコミでも多くの分野にまたがって活躍した人は、なかなか全体像を伝えにくいんだろうと思う。

 今、美術への貢献と書いたけど、これは単に美術館を開いたというだけの事ではない。特に「女性画家」に関心を持ち、女子美術大学の理事長を2期務めている。さらに病院にも多くの絵を飾っているとのことで、単に特許料が入ったから絵のコレクターになったと言うだけでは済まない情熱ぶりである。もともと山梨大学の学生時代はスキー部と卓球部の主将で、国体選手。墨田工業定時制教諭時代も、卓球部を都大会準優勝に導いたという。「知育」「体育」「徳育」というけれど、これに「美育」がなくてはならないと昔言われた思い出がある。大村博士ほど、この「4つの力」を兼ね備えた人も珍しい。これほどの「巨人」が同時代の日本にいたことを知らなかったなんて…。

 ところで、僕が一番感心してしまったのは、以上の事柄ではない。科学者として成功しながら、芸術にも深い造詣を持つという人は他にもいただろう。でも、経営が悪化していた北里大学を救うため、大学教授を辞め、北里研究所理事となり、経営学と不動産学を学び、経営基盤を作り上げたのである。この話には心底ビックリした。並みの人ではないと知りながら、これほどの事は普通できない。巨額の特許料が入れば、自分も美術館を作るかもしれないが、自ら学園の経営者になるとは思えないし、それで成功できるとも思えない。この大村智という人物は、まことにけた外れのスケールの人物のように思われてならないが、多分「運と努力」でなしとげたとご本人は言うのだろう。

 ところで、この人を調べていて驚くことはさまざまあったのだが、オンコセルカ症とはつまり「フィラリア」なのである。フィラリアとは寄生虫の一種の総称で、その中にオンコセルカ症や象皮症がある。ところで、もともとイベルメクチンとは牛の寄生虫に対する薬だった。(世の中にいいことばかりはなく、イベルメクチンを与え過ぎ残留濃度が高い牛肉は規制の対象になるらしい。)その薬が十分の利益を上げたので、アフリカでの活動に関しては米メルク社が無償で配布しているわけである。ところで、フィラリアって言えば昔は犬の病気だった。昔の犬はよく病気ですぐに死んでしまった。昔飼っていた犬もフィラリアで死んだ。「犬糸状虫症」が正式名だという。最近は犬も長生きして、フィラリアで死ぬ犬なんかいないなあと思っていたのだが、それもイベルメクチンの恩恵なのだった。そうだったんだ。

 さて、そもそも「定時制教員をしながら大学院へ通う」ということは、今では許されない。(通信制や出張派遣による場合は別だが。)夜しか授業がないんだから、昼は大学院へ通えば生徒のためにもなるだろうというのは、今では「職務専念義務違反」と言われてしまう。処分の対象である。そもそも、「全定併置」はよろしくないというのが都教委の考えだというのは、ちょっと前に書いた通り。三部制の教員は「朝から夕方」「昼から夜」の2タイプの勤務になるから、当然のこととして夜勤務の教員も昼間も授業がある。かくして、大村先生のような人は二度と出ない。残念ながら、今の日本では。

 ところで、最初に触れた呼称の問題。朝日、毎日、東京などは「医学生理学賞」と書くけど、読売と日経は「生理学・医学賞」と書いているんだそうだ。(東京新聞12.8による。)原文をみると、“The Nobel Prize in Physiology or Medhicine"なんだそうだ。つまり訳すと「生理学」が先の方が正しい。だけど、「フィジオロジー」と言ってもよく判らない。ある種の「意訳」で「医学生理学賞」としてきたらしい。確かに日本ではこの方が判りやすいのも否めない。ここでも一応「医学生理学賞」としておく次第。
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