2017年は文庫版の夏目漱石全集を読み切ろうと思って、9巻の「明暗」まで読んできた。何とか最後の10巻を読みたいと思いつつ、どうも大変そう。自分で決めたことだから何とか年内に読み切ろうと取り組んだけど、案の定2週間ぐらいかかってしまった。何が悲しくて、こんな面倒な本を読んでるんだろうと自分でも思ったけど、一応評論や講演まで読み切った。それを書く前に、どうせなら今年開館した「新宿区立漱石山房記念館」にも行ってみようかと年内最後の開館日、28日に訪れた。
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場所は新宿区の早稲田南町、東京メトロ東西線早稲田駅から10分ほど、今まで「漱石公園」となっていたところに隣接している。前に早稲田散歩で紹介したこともある場所だが、漱石の生誕地と没地は(少し離れているけど)早稲田である。そこに建てられたわけだが、ここにあった「漱石山房」を再現したという部屋がある。それがメイン展示(写真撮影不可)で、まあそれほど大きくない。300円の価値があるかどうかは微妙な感じだが、漱石がここで死んだのは間違いないから一度行く意味はある。
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地下鉄を出ると、早稲田通りを大学と反対方向へ行く。「漱石山房通り」とある道を見つければ、後はずっと道なりに進むだけ。途中に「新宿区立早稲田小学校」がある。震災後に建てられた復興建築で、思わず見とれてしまう立派な小学校である。中へ入れないし、全景を撮れるような場所もないんだけど、東京にいくつか残る歴史的な学校建築だ。しばらく行くと「漱石山房記念館」が見えてくるけど、ガラス張りの建物でちょっとビックリ。カフェも付いてて、そこへは入場料無しで入れる。
さて、全集第10巻だけど、まず「小品」がある。「文鳥」「夢十夜」「ケーベル先生」など定評のあるものがけっこうある。「こんな夢を見た」で始まる「夢十夜」は、近年評価もされているが案外面白いものが少ない。「永日小品」という小さなものが集まった作品も同様。一番いいのは晩年のエッセイ「硝子戸の中」だった。1915年1月、2月に新聞に連載された。漱石が死ぬのは、翌1916年の12月だから、もう晩年である。日常の様々な出来事が軽いタッチで描かれ、ファンならずとも面白いと思う。
今じゃつまらないとしか言えないのは、評論の「文芸の哲学的基礎」とか「創作家の態度」で、100頁ぐらいあるのでウンザリする。言葉が難しいわけじゃないけど、漱石一流の持って回った言い回しが判りづらい。それにバルザックやディケンズなんかじゃ、今の小説論としては物足りない。カフカ、ジョイス、プルーストなんかが出てこないのは当然だが、英文学専門だからトルストイやドストエフスキーもほとんど出てこない。日本の古典も出てこない。まあ漱石研究者以外は読まなくていい。
講演はそれより面白いけど、昔読んだ時感激した「現代日本の開化」があまり面白くなかった。趣旨が今では有名になり過ぎてしまったかも。近代日本の文明開化は「外発的」であり、「内発的」な開化が必要だと論じる。この「内発」「外発」は漱石が言い出した言葉で、思想史上に定着した。1911年の講演で、明治末期にすでに論じていたことに意義がある。学習院で講演した「私の個人主義」が一番面白い。1915年のもので、学習院というエリートに向けて、「個性」の確立を言うとともに、自己と他者の尊重、金力・権力への戒めなどを説く。その姿勢に漱石の真骨頂があると思った。
僕は今まで、漱石では「吾輩は猫である」「坊っちゃん」「草枕」「三四郎」「こころ」しか読んでなかった。だから、この機会に全部読もうと思ったんだけど、読んでみたらつまらないものが多かった。結局、特に近代文学に関心が深い人を除けば、一般的な教養としては先の5つで構わない気がする。でも、今でも「それから」「門」「彼岸過迄」「行人」「道草」「明暗」といった後期の大作群も文庫に入って読まれ続けている。それは何故だろうか。第一は、口語体の読みやすい文章だからだろう。
今では大分古めかしい感じがしてしまうけど、一葉、鴎外、鏡花なんかを思い比べれば、ずっと読みやすい。漢語の表現が難しいだけで、中身的には伝わる。それと都市知識人の小説だという点。そして、マジメな人生小説だという点。背後には「文明批評家としての漱石」がいる。森鴎外や島崎藤村などもそうだけど、良かれ悪しかれ近代日本を背負って文学を書いている。そこに現代人にとっても、考えなければいけない問題が出てくる。
ただし、明治の急激な近代化の中で、欧米のような近代小説を書くのは難しい。表面は近代化しても、心の中は江戸時代みたいな人ばかりでは、「個性」を持った人間どうしの葛藤を描く近代文学にならない。だから、実際の日本人の生活実態よりも、ちょっと不可思議な物語になりがちである。それに議論しすぎだったり、生活に幅がなくて人物の魅力に乏しい。最近書かれている小説がいかに上手かよく判る。様々なタイプの人間が実際の多数存在しているから、面白い展開を書きやすい。
漱石後期の小説のテーマには、「姦通」あるいはそれに類したものが多い。だが自己告白衝動のようなものは感じないから、あくまでもテーマとして選ばれていると思う。産業や政治、法律などの観点からはともかく、文芸という観点からは明治の欧米化により「恋愛」が解禁されたことが一番大きい。江戸時代にも当然恋愛的なものはあるわけだが、基本的な道徳としては「身分」によって結婚も制度化されていた。現代だってある程度はそうなんだけど、一応近代の原則では個人の問題になる。
欧米の倫理観では「神の前に永遠の愛を誓う」のが正しい結婚であり、男女が清らかな愛を育むことは当然である。もちろん欧米だって、そう単純じゃないだろうが、一応「恋愛」が社会的に公認され小説のテーマとして認められる。日本じゃ頭では理解できても現実は難しい。テーマとしては「許されざる恋愛」の方が重大なので、日本の近代小説(だけじゃなく欧米でも)、「姦通」と「身分違いの愛」が無数に描かれた。実際の多くの文士が実生活で「身分違いの愛」や「姦通」を実践したぐらいだ。
漱石の小説もその一つだと思うが、漱石の主人公は悩む。悩みを超えて、身も心も捧げてしまう愛の喜びはそこにはなく、実社会の道徳との関係で悩む主人公が多い。これは日本の「世間」構造にとらわれているからだ。つまり、漱石を通して、近代日本の知識人が欧米的自立ができず、日本の「世間」に呑み込まれていく道筋が描かれる。それが今も意味があると思う人には価値がある。だが、すべての人は時代の制約を免れず、女性と植民地に関する描写は問い返される必要があるだろう。
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場所は新宿区の早稲田南町、東京メトロ東西線早稲田駅から10分ほど、今まで「漱石公園」となっていたところに隣接している。前に早稲田散歩で紹介したこともある場所だが、漱石の生誕地と没地は(少し離れているけど)早稲田である。そこに建てられたわけだが、ここにあった「漱石山房」を再現したという部屋がある。それがメイン展示(写真撮影不可)で、まあそれほど大きくない。300円の価値があるかどうかは微妙な感じだが、漱石がここで死んだのは間違いないから一度行く意味はある。
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地下鉄を出ると、早稲田通りを大学と反対方向へ行く。「漱石山房通り」とある道を見つければ、後はずっと道なりに進むだけ。途中に「新宿区立早稲田小学校」がある。震災後に建てられた復興建築で、思わず見とれてしまう立派な小学校である。中へ入れないし、全景を撮れるような場所もないんだけど、東京にいくつか残る歴史的な学校建築だ。しばらく行くと「漱石山房記念館」が見えてくるけど、ガラス張りの建物でちょっとビックリ。カフェも付いてて、そこへは入場料無しで入れる。
さて、全集第10巻だけど、まず「小品」がある。「文鳥」「夢十夜」「ケーベル先生」など定評のあるものがけっこうある。「こんな夢を見た」で始まる「夢十夜」は、近年評価もされているが案外面白いものが少ない。「永日小品」という小さなものが集まった作品も同様。一番いいのは晩年のエッセイ「硝子戸の中」だった。1915年1月、2月に新聞に連載された。漱石が死ぬのは、翌1916年の12月だから、もう晩年である。日常の様々な出来事が軽いタッチで描かれ、ファンならずとも面白いと思う。
今じゃつまらないとしか言えないのは、評論の「文芸の哲学的基礎」とか「創作家の態度」で、100頁ぐらいあるのでウンザリする。言葉が難しいわけじゃないけど、漱石一流の持って回った言い回しが判りづらい。それにバルザックやディケンズなんかじゃ、今の小説論としては物足りない。カフカ、ジョイス、プルーストなんかが出てこないのは当然だが、英文学専門だからトルストイやドストエフスキーもほとんど出てこない。日本の古典も出てこない。まあ漱石研究者以外は読まなくていい。
講演はそれより面白いけど、昔読んだ時感激した「現代日本の開化」があまり面白くなかった。趣旨が今では有名になり過ぎてしまったかも。近代日本の文明開化は「外発的」であり、「内発的」な開化が必要だと論じる。この「内発」「外発」は漱石が言い出した言葉で、思想史上に定着した。1911年の講演で、明治末期にすでに論じていたことに意義がある。学習院で講演した「私の個人主義」が一番面白い。1915年のもので、学習院というエリートに向けて、「個性」の確立を言うとともに、自己と他者の尊重、金力・権力への戒めなどを説く。その姿勢に漱石の真骨頂があると思った。
僕は今まで、漱石では「吾輩は猫である」「坊っちゃん」「草枕」「三四郎」「こころ」しか読んでなかった。だから、この機会に全部読もうと思ったんだけど、読んでみたらつまらないものが多かった。結局、特に近代文学に関心が深い人を除けば、一般的な教養としては先の5つで構わない気がする。でも、今でも「それから」「門」「彼岸過迄」「行人」「道草」「明暗」といった後期の大作群も文庫に入って読まれ続けている。それは何故だろうか。第一は、口語体の読みやすい文章だからだろう。
今では大分古めかしい感じがしてしまうけど、一葉、鴎外、鏡花なんかを思い比べれば、ずっと読みやすい。漢語の表現が難しいだけで、中身的には伝わる。それと都市知識人の小説だという点。そして、マジメな人生小説だという点。背後には「文明批評家としての漱石」がいる。森鴎外や島崎藤村などもそうだけど、良かれ悪しかれ近代日本を背負って文学を書いている。そこに現代人にとっても、考えなければいけない問題が出てくる。
ただし、明治の急激な近代化の中で、欧米のような近代小説を書くのは難しい。表面は近代化しても、心の中は江戸時代みたいな人ばかりでは、「個性」を持った人間どうしの葛藤を描く近代文学にならない。だから、実際の日本人の生活実態よりも、ちょっと不可思議な物語になりがちである。それに議論しすぎだったり、生活に幅がなくて人物の魅力に乏しい。最近書かれている小説がいかに上手かよく判る。様々なタイプの人間が実際の多数存在しているから、面白い展開を書きやすい。
漱石後期の小説のテーマには、「姦通」あるいはそれに類したものが多い。だが自己告白衝動のようなものは感じないから、あくまでもテーマとして選ばれていると思う。産業や政治、法律などの観点からはともかく、文芸という観点からは明治の欧米化により「恋愛」が解禁されたことが一番大きい。江戸時代にも当然恋愛的なものはあるわけだが、基本的な道徳としては「身分」によって結婚も制度化されていた。現代だってある程度はそうなんだけど、一応近代の原則では個人の問題になる。
欧米の倫理観では「神の前に永遠の愛を誓う」のが正しい結婚であり、男女が清らかな愛を育むことは当然である。もちろん欧米だって、そう単純じゃないだろうが、一応「恋愛」が社会的に公認され小説のテーマとして認められる。日本じゃ頭では理解できても現実は難しい。テーマとしては「許されざる恋愛」の方が重大なので、日本の近代小説(だけじゃなく欧米でも)、「姦通」と「身分違いの愛」が無数に描かれた。実際の多くの文士が実生活で「身分違いの愛」や「姦通」を実践したぐらいだ。
漱石の小説もその一つだと思うが、漱石の主人公は悩む。悩みを超えて、身も心も捧げてしまう愛の喜びはそこにはなく、実社会の道徳との関係で悩む主人公が多い。これは日本の「世間」構造にとらわれているからだ。つまり、漱石を通して、近代日本の知識人が欧米的自立ができず、日本の「世間」に呑み込まれていく道筋が描かれる。それが今も意味があると思う人には価値がある。だが、すべての人は時代の制約を免れず、女性と植民地に関する描写は問い返される必要があるだろう。