集英社文庫の「戦争と文学」を毎月読むシリーズの4回目。9月は1931年に「満州事変」の起こった月で、文庫じゃない全20巻本には「満州の光と影」の巻もある。しかし、文庫になってないので持っていない。(満州以外でも朝鮮、台湾など「植民地」関係の巻が一つも文庫化されずに残念だ。近代日本の「侵略」にこそ向き合うべきだと思うが。)
そこで、「9・11 変容する戦争」というまさに現代を扱う巻を読んだ。前回の「ヒロシマ・ナガサキ」は700頁もあって難渋したが、今回は550頁ほどでずいぶん短い。と思ったら、解説を読んで楠見朋彦の「零歳の詩人」という旧ユーゴスラビア内戦を扱った作品(芥川賞候補)が、文庫化にあたって著者が収録を断ったと出ていた。
(カバー=ホスロー・ハンサンザデ)
今回の作品は全部読みやすかった。辺見庸「ゆで卵」や笙野頼子「姫と戦争と『庭の雀』」なんか、小説としてはかなり変なんだけど、そこは現代小説だから理解しやすいのである。日中戦争や原爆などは、今読むとどうしても「事実」を記録した読み物を求めてしまう。そのドキュメント性が読みにくさの素になる。この巻収録の小説は同時代の文脈で理解出来るから読みやすいわけである。原本が出たのは2011年で、その時点で故人だった小田実、日野啓三、米原万里以外の全作者が今も存命であることも読みやすさの理由になっている。
扱われている内容は、主に2001年の「米国同時多発テロ」や2003年の「イラク戦争」を中心に、湾岸戦争や地下鉄サリン事件、パレスチナゲリラ、アフリカやアフガン内戦などと幅広い。いじめ問題にPKOを絡めた重松清「ナイフ」まで入っている。リービ英雄「千々にくだけて」、シリン・ネザマフィ「サラム」など、日本語を母語としない作家の小説もある。戦争だけでなく、「日本」も変容している。冒頭の「千々にくだけて」では、日本に暮らすエドワードが一年一度母に会うために飛行機でアメリカに向かう。ところがバンクーバーに向かうところで、テロ事件が起こってアメリカ発着の飛行機はすべて運航停止となる。心ならずも足止めされた数日間を描いている。
(リービ英雄)
21世紀の世界を全く変えてしまった2001年の「同時多発テロ」を、アメリカ人でありながら入国できない主人公の心情を通して日本語で表現する。復讐心に燃え立つアメリカに違和感を禁じ得ないエドワードだが、家族が待つワシントンには行けない代わり日本へ向かう便は先に再開される。結局アメリカ行きは諦めて日本へ向かうが、「行く」のか「帰る」のか。アメリカで会う予定の「妹」も「義理の関係」で複雑なアイデンティティの揺らぎが細かく描写される。主人公が思う「千々にくだけて」という表現は、松尾芭蕉の俳句から来ている。しかし、テロで変わってしまった世界を絶妙に表現している。
一方、ラストに置かれている「サラム」は、イランに生まれたシリン・ネザマフィが2006年に書いた小説で芥川賞候補になった。日本で難民申請しているアフガニスタン難民の通訳をアルバイトでやっているイラン人女子学生の話である。難民の少女は文字が書けず、母国ではタリバン政権に迫害されるハザラ人である。言語はダリ語というが、ほぼペルシャ語で通じる。そこで主人公が雇われて、弁護士とともに入管の収容所に向かう。そこで明らかになる悲惨な生い立ち、日本政府の冷たさと無理解。それらを素直にストレートに描いていく。多少日本事情に疎い感じが見え隠れするが、それも含めて「現代の戦争」の実相を明らかにしている。
(シリン・ネザマフィ)
岡田利規「三月の5日間」は、気鋭の劇作家の戯曲として当時評判になり岸田戯曲賞を受賞した。イラク戦争が始まる数日間を渋谷のラブホテルに籠もって過ごしていたカップルがいる。お互いにほぼ知らない関係で、あえてその後も連絡を取らないと決めて別れる。その二人を中心に数人の「語り」の構造が面白い。あえて「世界」から目を閉ざす人々の意識の中に、それでも「世界」が入り込む様を突きつける。しかし、この戯曲の「若者語り」が10年を経て、もう「古くなった」感じがしてしまった。この戯曲が一番時代を感じさせてしまう逆説が面白い。
(岡田利規)
その他、「9・11」や「イラク戦争」ばかりではなく、現代世界を考えさせる作品が集められている。中にはエッセイや評論も多い。中ではパレスチナのコマンドとの交流を描く小田実(おだ・まこと)「武器よ、さらば」が感銘深い。池澤夏樹「イラクの小さな橋を渡って」は当時読んでいるのだが、イラク戦争間近のイラク紀行である。この巻には「中東」のイスラム教国家を何らかの形で扱う作品が多い。「日本語」で表現された「日本文学」であっても、それは避けられない。その他、谷川俊太郎の詩「おしっこ」が面白かった。
(小田実)
ところで、個々の作品以上に刺激されたのが、高橋敏夫の解説で紹介されるネグリ=ハートの「新しい戦争」論だった。イタリアのアントニオ・ネグリとアメリカのマイケル・ハートによる「帝国」と「マルチチュード」で展開された考えである。世界はすでに「グローバル支配権力」が支配する「帝国」になっている。そこでは「帝国内の内戦」または警察行動としての戦争しか起こらない。主権国家どうしが宣戦布告して行われる古典的な戦争はもはやないのである。
そこでは始まりも終わりもない「戦争状態」が続くことになるし、戦闘の場所も限定されない。「新しい戦争」では日常的な戦争状態が永続的に続くことになるというのである。戦闘地域が限定されない「テロ事件」に対するに、大国の「対テロ戦争」という構図がもうずっと続いている。アメリカのアフガン戦争、イラク戦争ばかりでなく、ロシアのチェチェン、中国のウィグル問題も同じ構図である。このような時代にどう立ち向かうべきか。僕にはまだ解が見えない。「9・11」や「地下鉄サリン事件」、イラクやシリアでの日本人人質事件などを思い起こして心苦しいところもあるけれど考えるべき視点がたくさん詰まった本だ。
そこで、「9・11 変容する戦争」というまさに現代を扱う巻を読んだ。前回の「ヒロシマ・ナガサキ」は700頁もあって難渋したが、今回は550頁ほどでずいぶん短い。と思ったら、解説を読んで楠見朋彦の「零歳の詩人」という旧ユーゴスラビア内戦を扱った作品(芥川賞候補)が、文庫化にあたって著者が収録を断ったと出ていた。

今回の作品は全部読みやすかった。辺見庸「ゆで卵」や笙野頼子「姫と戦争と『庭の雀』」なんか、小説としてはかなり変なんだけど、そこは現代小説だから理解しやすいのである。日中戦争や原爆などは、今読むとどうしても「事実」を記録した読み物を求めてしまう。そのドキュメント性が読みにくさの素になる。この巻収録の小説は同時代の文脈で理解出来るから読みやすいわけである。原本が出たのは2011年で、その時点で故人だった小田実、日野啓三、米原万里以外の全作者が今も存命であることも読みやすさの理由になっている。
扱われている内容は、主に2001年の「米国同時多発テロ」や2003年の「イラク戦争」を中心に、湾岸戦争や地下鉄サリン事件、パレスチナゲリラ、アフリカやアフガン内戦などと幅広い。いじめ問題にPKOを絡めた重松清「ナイフ」まで入っている。リービ英雄「千々にくだけて」、シリン・ネザマフィ「サラム」など、日本語を母語としない作家の小説もある。戦争だけでなく、「日本」も変容している。冒頭の「千々にくだけて」では、日本に暮らすエドワードが一年一度母に会うために飛行機でアメリカに向かう。ところがバンクーバーに向かうところで、テロ事件が起こってアメリカ発着の飛行機はすべて運航停止となる。心ならずも足止めされた数日間を描いている。

21世紀の世界を全く変えてしまった2001年の「同時多発テロ」を、アメリカ人でありながら入国できない主人公の心情を通して日本語で表現する。復讐心に燃え立つアメリカに違和感を禁じ得ないエドワードだが、家族が待つワシントンには行けない代わり日本へ向かう便は先に再開される。結局アメリカ行きは諦めて日本へ向かうが、「行く」のか「帰る」のか。アメリカで会う予定の「妹」も「義理の関係」で複雑なアイデンティティの揺らぎが細かく描写される。主人公が思う「千々にくだけて」という表現は、松尾芭蕉の俳句から来ている。しかし、テロで変わってしまった世界を絶妙に表現している。
一方、ラストに置かれている「サラム」は、イランに生まれたシリン・ネザマフィが2006年に書いた小説で芥川賞候補になった。日本で難民申請しているアフガニスタン難民の通訳をアルバイトでやっているイラン人女子学生の話である。難民の少女は文字が書けず、母国ではタリバン政権に迫害されるハザラ人である。言語はダリ語というが、ほぼペルシャ語で通じる。そこで主人公が雇われて、弁護士とともに入管の収容所に向かう。そこで明らかになる悲惨な生い立ち、日本政府の冷たさと無理解。それらを素直にストレートに描いていく。多少日本事情に疎い感じが見え隠れするが、それも含めて「現代の戦争」の実相を明らかにしている。

岡田利規「三月の5日間」は、気鋭の劇作家の戯曲として当時評判になり岸田戯曲賞を受賞した。イラク戦争が始まる数日間を渋谷のラブホテルに籠もって過ごしていたカップルがいる。お互いにほぼ知らない関係で、あえてその後も連絡を取らないと決めて別れる。その二人を中心に数人の「語り」の構造が面白い。あえて「世界」から目を閉ざす人々の意識の中に、それでも「世界」が入り込む様を突きつける。しかし、この戯曲の「若者語り」が10年を経て、もう「古くなった」感じがしてしまった。この戯曲が一番時代を感じさせてしまう逆説が面白い。

その他、「9・11」や「イラク戦争」ばかりではなく、現代世界を考えさせる作品が集められている。中にはエッセイや評論も多い。中ではパレスチナのコマンドとの交流を描く小田実(おだ・まこと)「武器よ、さらば」が感銘深い。池澤夏樹「イラクの小さな橋を渡って」は当時読んでいるのだが、イラク戦争間近のイラク紀行である。この巻には「中東」のイスラム教国家を何らかの形で扱う作品が多い。「日本語」で表現された「日本文学」であっても、それは避けられない。その他、谷川俊太郎の詩「おしっこ」が面白かった。

ところで、個々の作品以上に刺激されたのが、高橋敏夫の解説で紹介されるネグリ=ハートの「新しい戦争」論だった。イタリアのアントニオ・ネグリとアメリカのマイケル・ハートによる「帝国」と「マルチチュード」で展開された考えである。世界はすでに「グローバル支配権力」が支配する「帝国」になっている。そこでは「帝国内の内戦」または警察行動としての戦争しか起こらない。主権国家どうしが宣戦布告して行われる古典的な戦争はもはやないのである。
そこでは始まりも終わりもない「戦争状態」が続くことになるし、戦闘の場所も限定されない。「新しい戦争」では日常的な戦争状態が永続的に続くことになるというのである。戦闘地域が限定されない「テロ事件」に対するに、大国の「対テロ戦争」という構図がもうずっと続いている。アメリカのアフガン戦争、イラク戦争ばかりでなく、ロシアのチェチェン、中国のウィグル問題も同じ構図である。このような時代にどう立ち向かうべきか。僕にはまだ解が見えない。「9・11」や「地下鉄サリン事件」、イラクやシリアでの日本人人質事件などを思い起こして心苦しいところもあるけれど考えるべき視点がたくさん詰まった本だ。