色川大吉氏が亡くなった。9月7日、96歳。健康に不安があることは大分前から伝えられていた。長命を保って、2010年代にも新著を刊行していたことに驚いていた。しかし僕はもうそれらを追いかけて読んではいなかった。「色川大吉」は僕にとって「青春」の思い出につながる歴史家なのである。僕は色川氏の本を読まなかったら、歴史を学ぶ道に進んでいなかったと思う。自分の人生に非常に大切な意味を持った人として追悼したい。
今思い返してみると、色川大吉という人は歴史学者という枠に止まらない人だった。市民運動家であり、独特の高揚感を読むものにもたらす著述家だった。しかし、そういう顔を見せてくるのは70年代半ば以降で、僕が名前を知ったのはその前である。まず中公「日本の歴史」の第24巻「近代国家の出発」で名前を知った。ただ通史の一巻だから、これで特にどうこうということはないんだけど、小学生から中学生にかけて僕はこのシリーズを熟読したので思い出深い。基本的な日本史の流れはこのシリーズで学んだのである。
高校2年の時に、朝日新聞日曜版「思想史を歩く」という連載で色川氏の文章を読んだ。そこでは三多摩地方の自由民権運動の深い広がりが紹介され、「五日市憲法」を作った明治の青年たちの息吹きが伝わってきた。そこで熱く主張されていたのは「日本に自生的な民主主義への道があったのだ」ということである。今から見れば、当たり前過ぎるかもしれない。しかし、その当時は近隣アジア諸国には民主主義システムの国はなかった。それどころか高度に発展した工業を持つ国も日本しかなかった。
日本の民主主義は外国由来のものであり、「日本はアメリカに民主主義を教えられた」と信じる人も多かった。日本には民主主義の種がなかったというのである。だから、アメリカやヨーロッパを目指すか、それとも社会主義革命を目指すかの違いはあったとしても、「日本の未来」が日本史の中に見つかるとは思えなかったのである。そこに色川氏の文章を読んで、日本で歴史を学ぶ意味はここにあると思ったのである。続いて高校の図書室にあった「明治の文化」を読んだ。そして歴史系学科のある大学を受験した。
(「明治の文化」)
今はお城が好きだとか、戦国武将が好きだとかいうのを「歴史ファン」というらしい。僕も実はそういう意味での歴史マニアでもあった。だが、それだけなら小説や映画が好きだというのと変わらない。「なぜ歴史を学ぶのか」は、「もう一つのあり得たかもしれない日本の可能性」を探し求めることで、「日本の未来を変えるためのヒントを見つける」ということである。色川大吉を初めとする「民衆史」の中に、求めていたものを見つけたと思ったのである。そして歴史の教員になったんだけど…。
1971年に色川氏はユーラシア大陸を自動車で横断する大旅行を行った。その紀行は「ユーラシア大陸思索行」(1973)として刊行された。またチベット旅行が「雲表の国 青海・チベット踏査行」(1988)になった。このように単に歴史学者というより、大旅行家、紀行作家という存在でもあった。同時代の日本人のスケールを越えている。これらの旅行を組織する能力は水俣をめぐる不知火海総合学術調査団にも生きたと思う。その調査報告書「水俣の啓示」上下は分厚くてまだ読んでいないのだが。
(「ユーラシア大陸思索行」)
1980年に色川大吉、小田実らと「日本はこれでいいのか市民連合」(日市連)を結成した。(1995年解散。)当時は毎年のように「右傾化」が言われていた。だから「これでいいのか」となるが、僕はなるほどと思いながらも全面的に参加する気にはならなかった。今色川氏の話を直接聞いたかどうか思い出せないのだが、日市連の集会にも1,2回は参加したような気がする。そこで見聞きしたかもしれない。(色川氏は国分寺市の東京経済大学教授だった。遠いので直接色川ゼミに参加する気はなかった。)
(「五日市憲法」を発見した深沢家土蔵)
主著は「新編明治精神史」(1973)であり、「ある昭和史 : 自分史の試み」(1975)だろう。それらは普通の意味での「歴史書」とはかなり違う。政治経済史に触れることが少なく、歴史に埋もれている「個人」が大きく取り上げられる。「精神史」とあるが、それは「文学」「思想」などの表現を中心にしたもので、フランスのアナール学派のような「心性史」とはズレている。その後「社会史」が主張されるようになると、色川「精神史」が少し褪せた感じがしたものだ。そういうことを含めて、この情熱的な歴史家を再評価することはまだ誰も手を付けていない。残したものが大きすぎて、なかなか全体像が把握出来ないが誰か取り組んでくれないだろうか。
今思い返してみると、色川大吉という人は歴史学者という枠に止まらない人だった。市民運動家であり、独特の高揚感を読むものにもたらす著述家だった。しかし、そういう顔を見せてくるのは70年代半ば以降で、僕が名前を知ったのはその前である。まず中公「日本の歴史」の第24巻「近代国家の出発」で名前を知った。ただ通史の一巻だから、これで特にどうこうということはないんだけど、小学生から中学生にかけて僕はこのシリーズを熟読したので思い出深い。基本的な日本史の流れはこのシリーズで学んだのである。
高校2年の時に、朝日新聞日曜版「思想史を歩く」という連載で色川氏の文章を読んだ。そこでは三多摩地方の自由民権運動の深い広がりが紹介され、「五日市憲法」を作った明治の青年たちの息吹きが伝わってきた。そこで熱く主張されていたのは「日本に自生的な民主主義への道があったのだ」ということである。今から見れば、当たり前過ぎるかもしれない。しかし、その当時は近隣アジア諸国には民主主義システムの国はなかった。それどころか高度に発展した工業を持つ国も日本しかなかった。
日本の民主主義は外国由来のものであり、「日本はアメリカに民主主義を教えられた」と信じる人も多かった。日本には民主主義の種がなかったというのである。だから、アメリカやヨーロッパを目指すか、それとも社会主義革命を目指すかの違いはあったとしても、「日本の未来」が日本史の中に見つかるとは思えなかったのである。そこに色川氏の文章を読んで、日本で歴史を学ぶ意味はここにあると思ったのである。続いて高校の図書室にあった「明治の文化」を読んだ。そして歴史系学科のある大学を受験した。
(「明治の文化」)
今はお城が好きだとか、戦国武将が好きだとかいうのを「歴史ファン」というらしい。僕も実はそういう意味での歴史マニアでもあった。だが、それだけなら小説や映画が好きだというのと変わらない。「なぜ歴史を学ぶのか」は、「もう一つのあり得たかもしれない日本の可能性」を探し求めることで、「日本の未来を変えるためのヒントを見つける」ということである。色川大吉を初めとする「民衆史」の中に、求めていたものを見つけたと思ったのである。そして歴史の教員になったんだけど…。
1971年に色川氏はユーラシア大陸を自動車で横断する大旅行を行った。その紀行は「ユーラシア大陸思索行」(1973)として刊行された。またチベット旅行が「雲表の国 青海・チベット踏査行」(1988)になった。このように単に歴史学者というより、大旅行家、紀行作家という存在でもあった。同時代の日本人のスケールを越えている。これらの旅行を組織する能力は水俣をめぐる不知火海総合学術調査団にも生きたと思う。その調査報告書「水俣の啓示」上下は分厚くてまだ読んでいないのだが。
(「ユーラシア大陸思索行」)
1980年に色川大吉、小田実らと「日本はこれでいいのか市民連合」(日市連)を結成した。(1995年解散。)当時は毎年のように「右傾化」が言われていた。だから「これでいいのか」となるが、僕はなるほどと思いながらも全面的に参加する気にはならなかった。今色川氏の話を直接聞いたかどうか思い出せないのだが、日市連の集会にも1,2回は参加したような気がする。そこで見聞きしたかもしれない。(色川氏は国分寺市の東京経済大学教授だった。遠いので直接色川ゼミに参加する気はなかった。)
(「五日市憲法」を発見した深沢家土蔵)
主著は「新編明治精神史」(1973)であり、「ある昭和史 : 自分史の試み」(1975)だろう。それらは普通の意味での「歴史書」とはかなり違う。政治経済史に触れることが少なく、歴史に埋もれている「個人」が大きく取り上げられる。「精神史」とあるが、それは「文学」「思想」などの表現を中心にしたもので、フランスのアナール学派のような「心性史」とはズレている。その後「社会史」が主張されるようになると、色川「精神史」が少し褪せた感じがしたものだ。そういうことを含めて、この情熱的な歴史家を再評価することはまだ誰も手を付けていない。残したものが大きすぎて、なかなか全体像が把握出来ないが誰か取り組んでくれないだろうか。
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