大阪市立桜宮高校の問題では、皆が「体罰」と表現している。あまり言葉にこだわるのもよくないと思うけれども、この「体罰」とは何かということを考えてみたい。もちろん、「①学校内で②教員によって③生徒に対して行われる④暴力的行為」はすべて例外なく「体罰」と呼ぶと決めてしまえば、話は楽だし大方は問題ないだろう。でも、実際に「体罰」が行われる時には、様々な事情や経緯があるものなので、もうちょっと考えてみたいのである。
学校には簡単に言って、「教師」と「生徒」がいる。事務職員などもいるが少数だし、保護者や卒業生は常時いるわけではない。この中で「暴力事件」が起こるとしたら、4つの類型があるはずだ。
①教師が教師に対して行う場合
②教師が生徒に対して行う場合 → 体罰
③生徒が教師に対して行う場合 → 対教師暴力
④生徒が生徒に対して行う場合 → いじめ
かつて30年位前だが、③の生徒が学校内で暴れまわる事件が多発した時代があった。その頃は「校内暴力」と呼んでいたが、考えてみれば以上のすべてが「校内暴力」である。だから今は「対教師暴力」などと呼ぶことが多いだろう。一方、①の「教師対教師暴力」というのは、まずはほとんどないだろう。僕も見たことはない。教師だってストーカー事件を起こしたりはするし、暴力事件は絶無ではないだろう。でも、「教師という立場」にあるわけだし、すべての人が大学卒という「高学歴職場」だから、さすがにすぐに手が出るということはない。しかし、だからといって教師は皆仲が良いなどということはもちろんない。手は出さないけれど、「口は出る」わけだ。特に、管理職などによる少数職種、新採用教員などに対する「パワー・ハラスメント」的な言動は、最近は特に多いのではないか。
「教育現場に暴力はあってはならない」などとすぐに言ってしまうが、言われるとその通りだし、「体罰」は学校教育法で禁止されている以上、誰も反論できない。しかし、その結果「物理的暴力」ばかり問題になってしまうとしたらおかしい。今回の事例でも、暴力そのものと同じくらい「主将をやめるか」と強く問われたことが心の傷になったのではないかという指摘もある。②から④のすべての行為を「いじめ」とか「体罰」とか言葉を分ける必要もなく、ただ「暴力はいけない」と言えばいいのではないか。そして、その「暴力」には「人をからかう言動」「人を追いつめる言動」などの「パワハラ行為」を入れる必要がある。昨年夏にいじめ問題について何回も書いていたが、その中で「いじめアンケート」を取るなら、教師の言動も聞く必要があると指摘しておいた。今さら体罰アンケートを取ったりもするようだが、誰の誰に対する暴力であれ同じように聞くべきだった。(ところで、きちんと調査をすれば、生徒同士のいじめや教師の体罰以上に、「対教師暴言」が明るみに出るのではないかと思う。)
ところで、先の定義に関して「①学校内で」と書いておいた。ここが重要な点で、帰宅途中のコンビニ前で喫煙している生徒を見つけたとしても、その場でなぐる蹴るの暴力を振う教員は多分皆無だろう。「周りの目」があるし、学校外では「単なる暴力事件」であることは判っているからである。それが学校内に連れてきて「指導」の場になると、暴力が出てくる場合がある。それは何故だろうか。いろいろ理由はあると思うけど、「力による指導への幻想」もあるし、「言うことをきかない生徒への見せしめ」とか「自分の担当のときに問題を起こしたことへの腹いせ」「今まで期待をかけていたのに裏切られたという思い」などもあるだろう。「先生は怖い」と生徒に認識させて問題行動を減らすというやり方を取ってきた学校では、教員が言葉で説得をしても聞かない状態になっている場合もある。
そしてもう一つ重要な問題は、「家父長意識」である。暴力的指導が逆効果になることは実際は多いのだが、「強い指導」をする教員には生徒は何も言えないから、本人はなかなか認識できない。そして、本人は本当に「問題行動を減らしたい」「部活動を強くしたい」と主観的には思って行動しているのである。その思いのベースには、確かに「愛情」がある。それは「ゆがんだ愛情」「間違った支配欲」であるかもしれないが、本人が生徒に良かれと思っていることは疑いない。本当は愛情も何もなくてただ暴力を振っているだけということは少ないだろう。僕は前から「指導力不足教員」は大した問題ではなく、学校で一番問題なのは「指導力過剰教員」だと言ってきた。今回の教員も指導力は十二分にあるというか、あり過ぎるくらい熱心な教員だったのだと思う。実際生徒の言葉を見ると、熱心で指導力がある先生というような声がある。
部活やクラスなどは、長く一緒に活動しているから「同じ釜の飯」意識が高まってくる。この「クラス一丸」「部活一丸」が面白いと同時に、問題も起こす。ずっと指導してきて、もっと強い部活にするために、どうすればいいか。そのときに、自分が指導者で「上の立場」にあることは疑わない。つまり、部活動が自分が家父長(親)である「擬制的家族」と意識されてくる。そうした場所での暴力は、「体罰」と呼ぶよりも、「行き過ぎたしつけ」と言う名前の「家庭内暴力」に近いのではないか。だから、この問題を考えるときには、教育公務員には体罰は禁止されているなどと言うタテマエ的議論よりも、DVをくり返す男性へのケアをどう進めるべきか、というような議論の方が生産的なのではないかと思っている。(部活動の扱いなどにつき、さらに続く。)
学校には簡単に言って、「教師」と「生徒」がいる。事務職員などもいるが少数だし、保護者や卒業生は常時いるわけではない。この中で「暴力事件」が起こるとしたら、4つの類型があるはずだ。
①教師が教師に対して行う場合
②教師が生徒に対して行う場合 → 体罰
③生徒が教師に対して行う場合 → 対教師暴力
④生徒が生徒に対して行う場合 → いじめ
かつて30年位前だが、③の生徒が学校内で暴れまわる事件が多発した時代があった。その頃は「校内暴力」と呼んでいたが、考えてみれば以上のすべてが「校内暴力」である。だから今は「対教師暴力」などと呼ぶことが多いだろう。一方、①の「教師対教師暴力」というのは、まずはほとんどないだろう。僕も見たことはない。教師だってストーカー事件を起こしたりはするし、暴力事件は絶無ではないだろう。でも、「教師という立場」にあるわけだし、すべての人が大学卒という「高学歴職場」だから、さすがにすぐに手が出るということはない。しかし、だからといって教師は皆仲が良いなどということはもちろんない。手は出さないけれど、「口は出る」わけだ。特に、管理職などによる少数職種、新採用教員などに対する「パワー・ハラスメント」的な言動は、最近は特に多いのではないか。
「教育現場に暴力はあってはならない」などとすぐに言ってしまうが、言われるとその通りだし、「体罰」は学校教育法で禁止されている以上、誰も反論できない。しかし、その結果「物理的暴力」ばかり問題になってしまうとしたらおかしい。今回の事例でも、暴力そのものと同じくらい「主将をやめるか」と強く問われたことが心の傷になったのではないかという指摘もある。②から④のすべての行為を「いじめ」とか「体罰」とか言葉を分ける必要もなく、ただ「暴力はいけない」と言えばいいのではないか。そして、その「暴力」には「人をからかう言動」「人を追いつめる言動」などの「パワハラ行為」を入れる必要がある。昨年夏にいじめ問題について何回も書いていたが、その中で「いじめアンケート」を取るなら、教師の言動も聞く必要があると指摘しておいた。今さら体罰アンケートを取ったりもするようだが、誰の誰に対する暴力であれ同じように聞くべきだった。(ところで、きちんと調査をすれば、生徒同士のいじめや教師の体罰以上に、「対教師暴言」が明るみに出るのではないかと思う。)
ところで、先の定義に関して「①学校内で」と書いておいた。ここが重要な点で、帰宅途中のコンビニ前で喫煙している生徒を見つけたとしても、その場でなぐる蹴るの暴力を振う教員は多分皆無だろう。「周りの目」があるし、学校外では「単なる暴力事件」であることは判っているからである。それが学校内に連れてきて「指導」の場になると、暴力が出てくる場合がある。それは何故だろうか。いろいろ理由はあると思うけど、「力による指導への幻想」もあるし、「言うことをきかない生徒への見せしめ」とか「自分の担当のときに問題を起こしたことへの腹いせ」「今まで期待をかけていたのに裏切られたという思い」などもあるだろう。「先生は怖い」と生徒に認識させて問題行動を減らすというやり方を取ってきた学校では、教員が言葉で説得をしても聞かない状態になっている場合もある。
そしてもう一つ重要な問題は、「家父長意識」である。暴力的指導が逆効果になることは実際は多いのだが、「強い指導」をする教員には生徒は何も言えないから、本人はなかなか認識できない。そして、本人は本当に「問題行動を減らしたい」「部活動を強くしたい」と主観的には思って行動しているのである。その思いのベースには、確かに「愛情」がある。それは「ゆがんだ愛情」「間違った支配欲」であるかもしれないが、本人が生徒に良かれと思っていることは疑いない。本当は愛情も何もなくてただ暴力を振っているだけということは少ないだろう。僕は前から「指導力不足教員」は大した問題ではなく、学校で一番問題なのは「指導力過剰教員」だと言ってきた。今回の教員も指導力は十二分にあるというか、あり過ぎるくらい熱心な教員だったのだと思う。実際生徒の言葉を見ると、熱心で指導力がある先生というような声がある。
部活やクラスなどは、長く一緒に活動しているから「同じ釜の飯」意識が高まってくる。この「クラス一丸」「部活一丸」が面白いと同時に、問題も起こす。ずっと指導してきて、もっと強い部活にするために、どうすればいいか。そのときに、自分が指導者で「上の立場」にあることは疑わない。つまり、部活動が自分が家父長(親)である「擬制的家族」と意識されてくる。そうした場所での暴力は、「体罰」と呼ぶよりも、「行き過ぎたしつけ」と言う名前の「家庭内暴力」に近いのではないか。だから、この問題を考えるときには、教育公務員には体罰は禁止されているなどと言うタテマエ的議論よりも、DVをくり返す男性へのケアをどう進めるべきか、というような議論の方が生産的なのではないかと思っている。(部活動の扱いなどにつき、さらに続く。)
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