中山千夏『活動報告』(講談社、2017.11)という本を読んだ。今まで気づいてなかったけど、これは中山千夏の自伝的三部作の最後の本らしい。最初が『蝶々にエノケン』という「天才子役」が見た昭和の芸人たち。次が『芸能人の帽子』というアナログテレビ時代の「芸能人」時代。そして最後の『活動報告』は1980年から1986年までの参議院議員時代の活動を振り返っている。
「中山千夏」という人を知らない人もいるだろう。知ってる人でも様々なイメージがあると思う。この人は最初「天才子役」だった。僕は長いこと知識としてしか知らなくて、最近になって中平康監督「現代っ子」とか千葉泰樹監督「がめつい奴」といった映画を見て、その子役姿を確認できた。本当は舞台の活動が中心だが、もちろん見てない。僕は子役時代の中山千夏を全然知らない。
僕が知っているのは、その後の20歳前後からの歌手やタレントとしての活動から。それまでの商業演劇時代にしっくりこないものを感じて、1968年に専属契約を離れてフリーになった。そのため舞台の口はかからなくなり、テレビでの活動が中心になった。長い髪が魅力的で、「あなたの心に」という歌もヒットした。僕は中学生だったけど、周りでも誰でも知ってるテレビタレントだったと思う。「あなたの心に風があるなら」と続く「あなたの心に」はその頃から大好きで、今も時々口ずさむ。
その中山千夏がどうして参議院議員になったのか。その活動を当時得票した「162万人」に対して報告するのがこの本である。僕はその162万人の一人だった。僕は今まで国政選挙を一度も棄権していないけど、投票した候補はかなりの割合で落選している。投票した候補者が当選した稀少な例が中山千夏さんだけど、僕が行使した中でも一番有意義な一票だったと思う。当時よく参加していた死刑廃止の集会で、ずいぶん講演を聞いた。こんなに身近な思いで接することができた国会議員は他にいない。(その当時刊行された「国会報告」も、僕も少し読んだと思う。)
中山千夏は、テレビタレントから「作家」や「市民運動家」になっていった。テレビではどうしても、男性司会者のサブのような役割を割り振られていたが、それでも見ている側はこの人は少し違うと感じたと思う。「自分の考えがある人だ」といった感じは伝わってくるのである。それはその頃文化放送の社員アナだった落合恵子さんも同じだった。深夜放送「セイ・ヤング」で「レモンちゃん」なんて呼ばれて人気が出ていたけど、聞いてれば「この人はそれだけの人ではない」と何となく感じる。その後「作家」として活動し、さらにさまざまな活動を始めてゆくのは周知のとおり。
「生き方を決めたウーマンリブ」という章があり、その言葉がすべてを表わしている。「ウーマンリブ」とは1970年にアメリカで始められた女性解放運動で、世界的に非常に大きな衝撃を与えた。60年代末に世界で起こった反体制運動、革命運動の中にも男性優位、女性蔑視があったと告発したことが驚きだったのである。まだ「フェミニズム」という概念がなかったころで、日本では一種の風俗的現象として扱われた感もあった。(「リブ」とは解放=liberationの略である。)
中山千夏さんもその「ウーマンリブ」に触れ、「人生の方針が決まる」「政治の必要性を知る」。そんな中山千夏を具体的な政治の世界に引っ張り込んだのは、雑誌「話の特集」の矢崎泰久だった。「話の特集」はごった煮的な不思議な面白雑誌で、当時はそんな雑誌がけっこうあった、中山千夏もその雑誌に書いていた。1977年の参院選は「保革伯仲」と呼ばれる結果になったが、そのことを見越して「我々が候補を全国区に多数立ててキャスチングボートを握ろう」と考えた人がいた。中山千夏はキャスチングボート(投票の際にどっちに付くかで結果を左右するグループのこと)という言葉も知らなかったけれど、女性として代表になることになった。
その時に作られたのが「革新自由連合」(革自連)という政治団体だった。その成り立ちをめぐる五木寛之、青島幸男、竹中労などの動きはどうもよく判らない。著名人10人を全国区に立てるという方針はいろいろあって挫折する。情報はマスコミにどんどん漏れてしまい、皆がしり込みする。何とか10人立てたものの結果は惨敗。当選したのはすぐに革自連を離れてしまった(多分もともと選挙の看板に利用しただけの)横山ノック一人に終わった。ちなみにこの1977年の参院選には中山千夏は出ていない。被選挙権を得られる30歳に達していなかったのだ。
この選挙の失敗で革自連は解散の危機に陥る。矢崎泰久も解散論だったが、中山千夏は継続を主張した。その結果、1980年の参院選では中山千夏が立候補することになった。当時の全国区という制度は全国すべてが選挙区で、上から得票数50人まで当選するという制度。広すぎて有力な団体(業界団体、労働組合、宗教組織など)が付いているか、または知名度抜群の「タレント候補」しか当選できないと言われた。中山千夏は最初に書いたように162万票ほどを得て、5位で当選した。その時の1位は市川房枝だった。
3年後の参院選では違う制度が導入された。「拘束名簿式比例代表制」である。全国区は政党しか出られなくなってしまった。83年は「無所属市民連合」として候補を立て、比例名簿1位には永六輔を擁立した。2位が矢崎泰久、5位に岩城宏之、10位に水戸巌となっている。もしかしたら僕も投票したのかもしれないが、まったく記憶がない。83年は就職、結婚した年だから、多忙でほとんど何も覚えていない。そして、その選挙は惨敗する。86年は中山千夏の改選期だが、全国区はない。10人立てて比例区に出るのではなく、東京選挙区に転じることを選択した。そして次点で落選。(僕はその時は千葉県に住んでいたので投票できなかった。)それで選挙に出るのも終わり。
結局、似合わないことをやったのだと思う。議員としての活動は自分で振り返る通り、ずいぶんよくやってたと思う。何かを成しとげたわけじゃないけど、「私の代表」だと思える議員だった。でも「出たい人」じゃなかった。その後、「古事記」などの研究、伊豆に移住してスキューバ・ダイビングを始める。その後も様々な市民運動に関わっている。政界報告の部分は案外短くて、政界裏話を期待すると裏切られる。僕はウーマンリブ時代の「新宿ホーキ星」の話が一番面白かった。そして、「死刑をなくす女の会」のこと。そういう団体があったのである。当時の記憶を持たない世代、「中山千夏」という名前も知らない世代にこそ、そんな時代もあったのかと読んでみて欲しい本。
「中山千夏」という人を知らない人もいるだろう。知ってる人でも様々なイメージがあると思う。この人は最初「天才子役」だった。僕は長いこと知識としてしか知らなくて、最近になって中平康監督「現代っ子」とか千葉泰樹監督「がめつい奴」といった映画を見て、その子役姿を確認できた。本当は舞台の活動が中心だが、もちろん見てない。僕は子役時代の中山千夏を全然知らない。
僕が知っているのは、その後の20歳前後からの歌手やタレントとしての活動から。それまでの商業演劇時代にしっくりこないものを感じて、1968年に専属契約を離れてフリーになった。そのため舞台の口はかからなくなり、テレビでの活動が中心になった。長い髪が魅力的で、「あなたの心に」という歌もヒットした。僕は中学生だったけど、周りでも誰でも知ってるテレビタレントだったと思う。「あなたの心に風があるなら」と続く「あなたの心に」はその頃から大好きで、今も時々口ずさむ。
その中山千夏がどうして参議院議員になったのか。その活動を当時得票した「162万人」に対して報告するのがこの本である。僕はその162万人の一人だった。僕は今まで国政選挙を一度も棄権していないけど、投票した候補はかなりの割合で落選している。投票した候補者が当選した稀少な例が中山千夏さんだけど、僕が行使した中でも一番有意義な一票だったと思う。当時よく参加していた死刑廃止の集会で、ずいぶん講演を聞いた。こんなに身近な思いで接することができた国会議員は他にいない。(その当時刊行された「国会報告」も、僕も少し読んだと思う。)
中山千夏は、テレビタレントから「作家」や「市民運動家」になっていった。テレビではどうしても、男性司会者のサブのような役割を割り振られていたが、それでも見ている側はこの人は少し違うと感じたと思う。「自分の考えがある人だ」といった感じは伝わってくるのである。それはその頃文化放送の社員アナだった落合恵子さんも同じだった。深夜放送「セイ・ヤング」で「レモンちゃん」なんて呼ばれて人気が出ていたけど、聞いてれば「この人はそれだけの人ではない」と何となく感じる。その後「作家」として活動し、さらにさまざまな活動を始めてゆくのは周知のとおり。
「生き方を決めたウーマンリブ」という章があり、その言葉がすべてを表わしている。「ウーマンリブ」とは1970年にアメリカで始められた女性解放運動で、世界的に非常に大きな衝撃を与えた。60年代末に世界で起こった反体制運動、革命運動の中にも男性優位、女性蔑視があったと告発したことが驚きだったのである。まだ「フェミニズム」という概念がなかったころで、日本では一種の風俗的現象として扱われた感もあった。(「リブ」とは解放=liberationの略である。)
中山千夏さんもその「ウーマンリブ」に触れ、「人生の方針が決まる」「政治の必要性を知る」。そんな中山千夏を具体的な政治の世界に引っ張り込んだのは、雑誌「話の特集」の矢崎泰久だった。「話の特集」はごった煮的な不思議な面白雑誌で、当時はそんな雑誌がけっこうあった、中山千夏もその雑誌に書いていた。1977年の参院選は「保革伯仲」と呼ばれる結果になったが、そのことを見越して「我々が候補を全国区に多数立ててキャスチングボートを握ろう」と考えた人がいた。中山千夏はキャスチングボート(投票の際にどっちに付くかで結果を左右するグループのこと)という言葉も知らなかったけれど、女性として代表になることになった。
その時に作られたのが「革新自由連合」(革自連)という政治団体だった。その成り立ちをめぐる五木寛之、青島幸男、竹中労などの動きはどうもよく判らない。著名人10人を全国区に立てるという方針はいろいろあって挫折する。情報はマスコミにどんどん漏れてしまい、皆がしり込みする。何とか10人立てたものの結果は惨敗。当選したのはすぐに革自連を離れてしまった(多分もともと選挙の看板に利用しただけの)横山ノック一人に終わった。ちなみにこの1977年の参院選には中山千夏は出ていない。被選挙権を得られる30歳に達していなかったのだ。
この選挙の失敗で革自連は解散の危機に陥る。矢崎泰久も解散論だったが、中山千夏は継続を主張した。その結果、1980年の参院選では中山千夏が立候補することになった。当時の全国区という制度は全国すべてが選挙区で、上から得票数50人まで当選するという制度。広すぎて有力な団体(業界団体、労働組合、宗教組織など)が付いているか、または知名度抜群の「タレント候補」しか当選できないと言われた。中山千夏は最初に書いたように162万票ほどを得て、5位で当選した。その時の1位は市川房枝だった。
3年後の参院選では違う制度が導入された。「拘束名簿式比例代表制」である。全国区は政党しか出られなくなってしまった。83年は「無所属市民連合」として候補を立て、比例名簿1位には永六輔を擁立した。2位が矢崎泰久、5位に岩城宏之、10位に水戸巌となっている。もしかしたら僕も投票したのかもしれないが、まったく記憶がない。83年は就職、結婚した年だから、多忙でほとんど何も覚えていない。そして、その選挙は惨敗する。86年は中山千夏の改選期だが、全国区はない。10人立てて比例区に出るのではなく、東京選挙区に転じることを選択した。そして次点で落選。(僕はその時は千葉県に住んでいたので投票できなかった。)それで選挙に出るのも終わり。
結局、似合わないことをやったのだと思う。議員としての活動は自分で振り返る通り、ずいぶんよくやってたと思う。何かを成しとげたわけじゃないけど、「私の代表」だと思える議員だった。でも「出たい人」じゃなかった。その後、「古事記」などの研究、伊豆に移住してスキューバ・ダイビングを始める。その後も様々な市民運動に関わっている。政界報告の部分は案外短くて、政界裏話を期待すると裏切られる。僕はウーマンリブ時代の「新宿ホーキ星」の話が一番面白かった。そして、「死刑をなくす女の会」のこと。そういう団体があったのである。当時の記憶を持たない世代、「中山千夏」という名前も知らない世代にこそ、そんな時代もあったのかと読んでみて欲しい本。
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