尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

「55年体制」から「93年体制」へー93年政局考①

2021年10月11日 23時09分28秒 | 政治
 30年ぐらい前まで日本の政治を「55年体制」と呼ぶことが多かった。じゃあ、それはいつまで続いて、今は何体制なんだろうか。衆議院選挙が近づいた現時点で、そのことを考えてみたい。戦前の日本には「政友会」「民政党」という2大政党があり、それ外に社会主義的な「無産政党」が何党かあった。戦争中はすべての政党が解散して「大政翼賛会」に一本化されるが、敗戦とともに多くの政党が復活する。結局いろいろあって、保守系では「自由党」「民主党」にまとまり、1955年11月に合同して「自由民主党」が成立した。

 一方無産系は戦後になって大同して「日本社会党」を結成し、1947年には第一党になって片山哲内閣が成立した。しかし、日米安保条約をめぐって1951年に左右に分裂し、「左社」「右社」として選挙も戦った。反戦を強く訴えた左社が党勢を伸ばし、1955年の総選挙では左社89、右社67と合計で衆議院の3分の1を確保した。その結果保守党が掲げる改憲を阻止できることになり、合同機運が高まり1955年10月に再統一した。また日本共産党も1950年に分裂して武装闘争路線を取ったが、1955年の六全協で統一指導部が再建された。

 このように戦後政治史の主要政党が1955年に出そろった。その当時は日本でも2大政党政治になるなどと言われたが、その後の選挙結果はむしろ「自民党一党体制」の始まりとも言えた。そのため「1½政党制」とも呼ぶ人がいたぐらいである。当時の衆議院の選挙制度は後によく「中選挙区制」と呼ばれた制度だった。それは一つの選挙区から3~5人の当選者を選ぶという仕組みだった。(奄美諸島は1953年まで米国統治下にあったため、返還後1人区となった。92年廃止。「一票の格差」を解消するために、2人区、6人区も作られた。)

 ある程度大きな選挙区になるので、地域の中心的な町が複数含まれることになる。各地区を代表する自民党候補が複数当選し、社会党は1人か2人しか当選できない。社会党が多数の候補を立てても共倒れしてしまう。そのため社会党は全員当選しても衆議院の過半数に満たない候補しか立てられなかった。つまり、選挙前から自民党政権が続くことが決まっていた。この「自民政権永続」を保証する選挙制度を、今でも「前の方が良かった」と評価する左派・リベラル系論者がいる。それは各選挙区で野党系議員が1人か2人は当選することから、合計で野党が衆議院の3分の1を確保出来るからである。つまり、自民党政権は続くが憲法改正は発議できない。

 その方が良いと考えるわけだが、それはおかしいと考える人もいた。「政権交代が可能な選挙制度」にしなければならないというわけである。そこには国際的な変動、冷戦終結湾岸戦争も関わっているが、今はそのことには触れないことにする。そこで国内では「政治改革」というテーマが浮上する。89年にリクルート事件が発覚し、さらに東京佐川急便事件など政治資金をめぐるスキャンダルが頻発し、自民党に代わる政権を求める声が広がっていたということも大きい。旧竹下派が分裂し小沢一郎らの「羽田派」は特に強く政治改革を主張し、当時の宮澤喜一内閣が改革に消極的だとして反発を強め、野党の提出した不信任案に賛成した。
(不信任案に賛成した小沢一党、羽田孜ら)
 ちょっと前提となる出来事の説明で長くなってしまったが、その結果「羽田派」は自民党を脱党して「新生党」を結成した。また武村正義鳩山由紀夫らは不信任案には反対したものの、離党して「新党さきがけ」を結成した。不信任案は可決され衆議院が解散され、その後は自民党が過半数を割り込み、8党派連立で細川護熙政権が誕生した。以後、ごく一部の短い時期を除き、連立政権となる。つまり、「自民党一党時代」から「連立政権時代」に日本政治が転換した。これをもって、僕は「1993年体制」と読んでいいのではないかと思うが、未だ政治学ではそういう概念はないようである。
(首相に指名された細川護熙)
 簡単に連立の歴史を振り返っておくと以下のようになる。
細川護熙内閣 1993~1994 日本新党、新党さきがけ、社会党、新生党、公明党、民社党、社民連、民主改革連合
羽田孜内閣  1994    細川内閣から社会党が抜け、さきがけが閣外協力
村山富市内閣 1994~1996 自民党、社会党、新党さきがけ
橋本龍太郎内閣1996~1998 自民、社会(社民)、さきがけ (1996.11から社さ閣外協力、1998.6連立離脱)
小渕恵三内閣 1998~2000 自民、自由、公明 (1999.1まで自民単独、99.1~10 自由党と連立、99.10 公明党が連立参加、2000.4自由党連立離脱、分裂して保守党が連立残留)
森喜朗内閣  2000~2001 自民、公明、保守
小泉純一郎内閣2001~2006 自民、公明、保守(後保守新党、2003.11自民に合流)
安倍晋三内閣 2006~2007 自民、公明
福田康夫内閣 2007~2008 同上
麻生太郎内閣 2008~2009 同上
鳩山由紀夫内閣2009~2020 民主、社民(2020.5連立離脱)、国民新党
菅直人内閣  2010~2011 民主、国民新党
野田佳彦内閣 2011~2012 民主、国民新党
安倍晋三内閣 2012~2020 自民、公明
菅義偉内閣  2020~2021 自民、公明
岸田文雄内閣 2021~    自民、公明

 ちょっと長くなったが、要するに1998年6月から1999年1月までのわずか半年間だけ自民党単独内閣だっただけなのである。しかも、1998年の参院選で自民党は大敗したため、小渕内閣は当初参議院で過半数を持っていなかった。(参議院の首班指名は民主党の菅直人になった。憲法の規定で衆議院指名の小渕が首相になった。)何とか参議院の過半数を獲得するため、当時の野中官房長官は「ひれ伏してでも」と述べて、小沢一郎らの自由党を連立に参加させた。自由党だけでは過半数にならないため、99年10月には公明党も連立に参加した。当時は「自自公連立」と呼ばれていた。

 今では自民、公明の連立が長くなって当たり前のように思ってしまうが、当初は自民内に反創価学会の宗教票も多いため微妙なものがあった。そのため自由党をはさんで三党連立という形を取ったのである。2009年の民主党政権では民主党が過半数を獲得していたし、近年の自民党も単独で過半数を確保している。しかし、今や連立が常態化しているのは何故だろうか。「小選挙区」と「比例代表区」が両方あるという点で、衆参の選挙制度は共通している。比例区があるため参院では過半数獲得が難しい。小選挙区があるため、衆議院でも安定した票を持つ小党の協力が欲しい。そういう動機で何年も続けている間に連立政権に違和感が薄れたのだろう。

 「55年体制」は1993年に崩れて、1993年からは連立政権が常態化する「93年体制」に移行した。僕はそう考えているのだが、さらに93年選挙の重大性が幾つかある。それを今後考えていきたい。ところで先にノーベル物理学賞受賞の真鍋淑郎氏の「モデリング」の重要性という言葉を紹介した。それは自然科学に止まらないとも書いた。「現代」は自分もその中で生きているので、どういう時代かが見えにくい。特に政治の問題は避けている人もいるので、10年前、20年前のことも忘れられやすい。そこで年長世代としては、若い世代が少しでも現在地の見通しを付けられる手助けをするべきだと思う。今回書いている趣旨はそのようなもので、特に「93年体制」という言葉に固執するわけではない。
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