尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

日本新党とは何だったのかー93年政局考③

2021年10月13日 23時33分58秒 | 政治
 日本新党という政党があった。1992年5月に結成され、1994年12月に解党したから、僅か2年半ほどの短い期間しかない。国政選挙には92年参院選93年衆院選の2回しか参加していない。大体名前もおかしい。普通は政党の理念を党名に付けるわけだが、「日本新党」というのは単に新しいということしか表明していない。しかし、この党は日本の現代史に大きな影響を与えた。93年政局において、党首の細川護熙(ほそかわ・もりひろ)が衆院当選1回にして内閣総理大臣に指名され、35年以上続いた自民党内閣を終わらせることになったのである。

 そもそもは前熊本県知事だった細川護熙が1992年5月の「文藝春秋」に「『自由社会連合』結党宣言」という論文を掲載したことにある。細川は55年体制打破を掲げて新党を結成し、参議院選挙に臨むと表明したのである。政策の一番目に「地球環境問題への貢献」があることで判るように、自民党、社会党の「冷戦的枠組」にとらわれない新しい政党という方向性があったのである。

 細川護熙(1938~)は肥後熊本藩主細川家の18代目当主で、父の細川護貞は戦争末期に高松宮の御用係を務め「細川日記」(「情報天皇に達せず」)を残した。(母は近衛文麿の次女。)上智大卒業後に朝日新聞記者になった。その後政治家を志し、1971年の参院選全国区で自民党から出馬して当選した。(田中派に所属。)1977年には熊本選挙区で再選されたが、1983年に熊本県知事に転じて2期務めた。知事時代は全国的に注目される実績を残したが、「権不十年」(同じ権力に10年以上付くべきではない)として1991年に退任した。知事時代に中央集権的な日本政治を改革するべきだと実感したと言われる。

 日本新党に注目が集まったのは、この細川の知名度や実績、あるいは「家柄」などがあったのは間違いない。しかし、それに止まらず、イデオロギーよりも「環境」「地方」を重視する平和志向の穏健保守路線が90年代にフィットしたところも大きい。さらに当時ニュースキャスターとして知名度が高かった小池百合子を候補者にリクルートしたことも大きかった。(もっとも小池優遇に反発してテニス選手の佐藤直子が出馬を辞退するような出来事もあった。)92年の参院選では比例代表区に候補を立て、一挙に4人が当選した。当時は拘束名簿式で1位の細川、2位の小池に続いて、3位の寺澤芳雄、4位の武田邦太郎までが当選した。(翌年細川、小池が衆院に転出し、小島慶三円より子が繰り上げ当選した。)
(参院当選時の日本新党)
 こうして国政政党として認知され、翌1993年の衆議院選挙では55人の候補者を擁立した。政策に共通する新党さきがけとは棲み分けし、議席ゼロから一挙に35人が当選した。これは自民、社会、新生、公明に次ぐ第5党だった。新党さきがけは13議席で、両党で共同の院内会派「さきがけ日本新党」を結成した。93年選挙では自民党は(新生党、さきがけが離党したため)大きく過半数を下回ったが、実は1議席増やして223議席だった。社会、新生、公明、民社、社民連を合せても195議席だったから、「さきがけ日本新党」がキャスティングボートを握ることになった。そこで「小選挙区比例代表並立制への選挙制度改革」を双方に提示し、両勢力ともに受け入れた。さらに小沢一郎が細川政権構想を打ち出し、結局「非自民政権」が樹立されることになった。
(衆院初登院時の日本新党)
 こうして細川政権が成立したが、これは小沢一郎の「軍師」としての最高傑作だろう。自民党の方が勢力が大きいのだから、その気になっていたら自民政権が継続することもあり得たと思う。というか、憲政の常道としてはその方が正しいのではないか。しかし、自民党はまだ55年体制に安住したままだったので、小沢一郎にしてやられたといったところだろう。細川内閣はさきがけ代表の武村正義を官房長官にし、社会党6人、公明党4人が入閣したが、外相は羽田孜、蔵相は藤井裕久、通産相は熊谷弘など重要な閣僚は新生党が占めていた。

 細川政権は当初は非常に新鮮な感じがあった。発足直後の8月15日には日本の戦争について首相として初めて「侵略」と認めた。しかし、結果的に細川政権は短命だった。1994年1月に「政治改革法案」が成立すると、急速に求心力を失い、官房長官の武村と公然と対立した。自民党は佐川急便グループからの借入金問題を追及し、4月8日に細川首相は辞意を表明した。さきがけとの院内会派は解散したが、親さきがけグループは離党して日本新党は分裂していく。細川後に新生党の羽田孜が首相になるが、社会党以外が共同の会派を結成したことに反発して社会党が連立を離脱した。その後、6月に社会党委員長をさきがけと自民党が支持する村山富市内閣が成立した。

 小沢一郎らは自民党の元首相海部俊樹を首相候補に擁立して、社会党委員長には投票できないと思う自民党議員に働きかけた。結局は敗れたが、海部支持グループで大同団結することになり、新生党、日本新党、民社党などは解散して94年12月に「新進党」を結成した。(公明党衆議院議員も参加したが、参議院と地方議員は「公明」として残しておいた。)新進党のことは別問題になるからここでは取り上げない。では日本新党議員はどう行動したのだろうか。全員が新進党に参加したわけではなかった。

 現在まで政治活動を続けている政治家を中心に、どういう行動があったのかみておきたい。
新進党に参加した後で、自民党に入党したもの
 伊藤達也(元金融相、2021年総裁選で河野太郎陣営の選対本部長)
 鴨下一郎(元環境相、石破派事務総長を務め、今回で引退)
 山田宏(元杉並区長、一時維新で当選、現在自民党衆議院議員)
 小池百合子(現都知事、元環境相、元防衛相)
新進党に参加せず、無所属を経て自民党入党
 茂木敏充(もてぎ・としみつ、現外相)
さきがけに入党し、その後民主党に参加したもの
 枝野幸男(現立憲民主党代表)
 海江田万里(現立憲民主党、元民主党代表)
 荒井聰(現立憲民主党、今回で引退)
 前原誠司(現国民民主党、元民主党代表)
新進党に参加し、その後民主党に入党したもの
 野田佳彦(現立憲民主党、元首相)
 長浜博行(現立憲民主党)
 河村たかし(現名古屋市長)
その他
 中村時広(現愛媛県知事、新進党で落選し、松山市長に転じる。)
 矢上雅義(新進党で当選、新進党解党後に自民入党、落選して熊本県相良村長。2017年立憲民主党から当選。)

 ④のタイプは本当はもっと多いのだが、藤村修、鮫島宗明など引退した人が多い。樽床伸二は落選中。中田宏も自民党参院議員に立候補して落選。結局、上の一覧にある人だけが今も政界に残っているのだが、日本新党は自民党にも、立憲民主党にも人材を送り出したことになる。両方のタイプが政治の世界に進むためのステップとして、「日本新党」を利用したということだろう。細川政権では総理を出したわけだが、当選1回では大臣など重要な役は回ってこない。厳しい政局を生き抜いて、自民、民主のどちらかに賭けて、21世紀に首相や党首級になった人が多く出た。短命の小党としては異例なほど、重要な政治家を生んだと言えるだろう。
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