尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

「あじさいの歌」-芦川いづみの映画再び②

2016年02月09日 00時03分48秒 |  〃  (旧作日本映画)
 芦川いづみ映画の第2弾。前回の特集では中平康監督作品が多かったが、今回は滝沢英輔監督作品と西河克己監督作品が3本選ばれている。第1回で西河克己監督作品を書いたので、今回は滝沢作品について。ただし、「祈るひと」(1959)という映画は来週上映で、また見ていない。この映画は僕の大好きな田宮虎彦の原作なので楽しみ。そこで「佳人」(1958)と「あじさいの歌」(1960)。

 「佳人」は上映が終了してしまったので、今週やっている「あじさいの歌」から。この映画は石坂洋次郎原作で、石原裕次郎主演で作られた何本もの映画の一つ。それまでの「乳母車」「陽のあたる坂道」「若い川の流れ」は田坂具隆監督だった。(芦川いづみは全作に出ているが、後者2作の女優トップは北原三枝。)しかし、「あじさいの歌」は滝沢英輔監督(1902~1965)である。田坂監督は東映に移り、この年は中村錦之介主演で「親鸞」「続親鸞」を作っているのだからやむを得ない。

 「あじさいの歌」は散歩しながらデッサンしている建築デザイナーの青年(石原裕次郎)が、偶然お寺の階段で捻挫している老人(東野英治郎)を助けるところから始まる。おぶって帰ると、このヘンクツな老人が実は大富豪で、豪華な洋館に住んでいる。そして、そこに美しい一人娘がいる。女性不信から離婚して女を近づけない老人は、娘にも学校教育を受けさせず、中学からは家に家庭教師を呼んで教育している。テニスコートまである大邸宅なんだけど、この家では時間が死んでいて、娘は「囚われの美女」なのである。そして、もちろん青年は美女に恋するようになる。
(あじさいの歌)
 僕が初めて見た芦川いづみの映画は、多分この「あじさいの歌」である。見たのは40年以上前の文芸坐オールナイトで「あじさいの歌」「陽のあたる坂道」「あいつと私」の3本だった。順番は覚えていないが、多分今書いた通り。この洋館と芦川いづみの魅力にはまってしまった。これほどロマネスクな設定が日本で可能なのか。まるでフランス文学の「グラン・モーヌ」(アラン・フルニエ)を思わせる。映画の中の洋館は明らかにロケだが、見たことがないところである。検索してみたら、横浜市の野毛山公園近くの旧横浜銀行頭取邸だと出ていた。この邸宅はどうなっているのだろうか。

 さて、もう細かく筋書きを書くこともないだろう。どこにいるともしれない母親、そして裕次郎をめぐる恋のさや当て。父が心配して、大きくなった娘が世に出るための「お友達」を選ぶ。選ばれた中原早苗は、実は偶然にも裕次郎とも知り合いなのであった。そして、中原早苗の兄、小高雄二は芦川いづみを好きになる。大体、この時期の日活ラブロマンスでは中原早苗と小高雄二が、恋敵的な役柄を割り振られている。けっして絶世の美人とは言えない、後の深作欣二夫人の中原早苗が僕は大好きだ。それはともかく、ロングヘアの芦川いづみが、初めて(?)美容院に行って、バッサリ切ってしまってショートにする場面の、「ローマの休日」のような極上シーンは見逃せない。まあ、これが初めて街に出る女の子なのかなどと言うのはヤボで、芦川いづみの魅力に浸るしかない。

 監督が変わったからというより、原作そのものの違いが大きいと思うが、「あじさいの歌」はそれまでの洋次郎+裕次郎映画の中では異色である。他の映画は「もつれた人間関係」が、関係者の「言語による討論」により理性的な解決が図られる。日本ではありえないような「理想」だが、ブルジョワ家庭という設定と裕次郎の肉体によって、むりやり見る者を説得してしまう。その「戦後民主主義」的な言語感覚とそれを具現化するような映画空間(美術など)の魅力が忘れがたい。

 「あじさいの歌」も、関係者の凍結された時間が解凍される設定は共通している。だけど、「言語」へのこだわりが少ない。物語としての魅力と登場人物によって見せる、普通のラブロマンスに近い。「洋館」の魅力という「建物映画」の系譜に位置づけることもできる。また、母親が大阪に行って赤線経営をしていたとされたり、裕次郎と中原早苗が性的に関係したかのようなシーンがある。石坂洋次郎は一貫して、恋愛やセックスを明るく健全なものとして語った作家である。だけど、これまでは不倫や芸者などが出て来ても、ドロドロした感じは少なく、さらっと描かれていた。もう時代も変わってきて、次の「あいつと私」ではもっと正面から性の問題が扱われる。この映画は芦川いづみと洋館の魅力で、清潔な感じに仕上がっていて、実に魅惑的だと思う。

 滝沢英輔は、戦前に京都で若い映画人の集まり「鳴滝組」に参加していた。日中戦争で戦病死した伝説の天才・山中貞雄、「無法松の一生」を監督した稲垣浩などが参加していたことで有名な集団である。滝沢はそれ以前にマキノ雅弘(当時は正博)監督のもとで「浪人街」の助監督だった。監督としても「パイプの三吉」という映画が1929年のキネマ旬報ベストテン7位に入っている。その後東宝に移り、1937年に「戦国群盗伝」前後編を完成させた。これが有名だが、その後も戦中戦後の東宝で時代劇を作り、製作を再開した日活に移っても、時代劇やメロドラマをたくさん残している。戦後の作品はほとんど忘れられた感じだが、さすがに演出力は確かである。他にも面白い映画があるのかもしれない。職人的娯楽映画の作り手として、再評価が必要か。
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1 コメント

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滝沢英輔は (さすらい日乗)
2016-02-09 10:16:52
滝沢英輔は、好きな監督の一人です。『戦国野盗伝』のセカンド助監督は黒澤明で、『七人の侍』は明らかにこの影響を受けています。
西河克己によれば、滝澤は「順撮りの滝澤」と言って有名で、セットに入ってからコンテを決め、シーンを順に撮っていたそうです。
非効率的ですが、意外な力のある撮り方だと西河は評価していますが、本当だと思います。
また、蔵原惟繕は、滝澤の助監督で、滝澤は蔵原にも影響を与えていると思います。
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