『男はつらいよ』シリーズを考える2回目。今回第3作の『男はつらいよ フーテンの寅』を見たのだが、これはなかなか映画館で見る機会が少ない。僕も前に見ているとは思うが、細部はほぼ忘れていた。というのも山田洋次監督は正続2作で一端終わりと考えたようで、3作目はシナリオは書いたものの演出を森崎東監督に任せたのである。寅さん特集上映が企画されるときは山田監督作品が中心になり、一方森崎監督特集も時々あるけれど山田色が強いこの作品は除かれやすいのである。
この映画は三重県の湯の山温泉が舞台になっている。おいちゃん、おばちゃんが久しぶりに骨休みで温泉に行くことになる。今頃寅はどこでなにしてるやら? やだよ、旅先で会っちゃったりしたら…なんて会話しながら旅館に入るとコタツが点いてない。フロントに電話すると飛んできたのが寅さんだった! という、当然そうなると予想通りの「悪夢の展開」。旅先で病気になった寅を親切に看病してくれた旅館の女将。寅さんはその女将新珠三千代に一目惚れして居付いてしまったのである。
1928年生まれの渥美清に対し、新珠三千代は1930年生まれだから、年齢的には釣り合っている。当時50~60年代に映画各社で活躍した女優は映画界の衰退と年齢的問題で、舞台やテレビに活躍の場を移していた。新珠三千代は宝塚出身の美人で、テレビの『氷点』や『細うで繁盛記』で大人気だった人である。だから、観客が二人をある種の「身分違い」と認識するのは当然だ。片方は亭主に死に別れた美人女将、もう片方は定職もないテキ屋である。この恋もまたまた失恋に決まっている。
シリーズのマドンナ役には多くの女優が出たが、当初のマドンナには3作目の新珠のような、年齢は釣り合うが設定と芸歴が釣り合わない「大女優」が多く出ている。若尾文子、池内淳子、八千草薫、岸惠子、京マチ子、香川京子らで、当然結ばれるはずもない。一方、1973年8月公開の『男はつらいよ 寅次郎わすれな草』のマドンナ浅丘ルリ子(1940~)はちょっと違っていた。当初山田監督は北海道の酪農農家という役をオファーしたが、浅丘は自分の体格からそれは無理で、お化粧もせず牛の世話をする役は自分に合ってないと断ったという。そこで山田監督は再考して「さすらいの歌姫松岡リリー」という役に書き換えたのである。
今回第25作『男はつらいよ 寅次郎ハイビスカスの花』(1980)を再見したが、これはリリー3部作の3作目。(リリー出演作は4つあるが、最終作の『寅次郎紅の花』は設定が特別なので除く。)いま「さすらいの歌姫」なんてカッコよく表現してしまったが、実は地方のキャバレーを歌い歩くドサ回り歌手である。博がたまたまキャバレーの募集広告を小岩(江戸川区)に届けると、リリーに偶然出会う。帰ってから柴又の皆は「リリーさんみたいな人がお兄ちゃんと一緒になってくれていたら」と語り合う。と思うと突然リリーから沖縄で病気になって入院中という速達が来た。飛行機嫌いの寅も何とかすぐに駆けつけるのだが…。
寅とリリーの関係は「身分違い」とは言えない。テキ屋とドサ回り歌手は、まあちょっと違うかも知れないが、本人どうしが好き合うなら周りも反対しないだろう。もちろん二人が幸福な結婚をして寅さんが定職に就いてしまったら、シリーズは終了である。エンタメシリーズの展開上も、またドル箱を失えない松竹の営業事情からも、寅さんとリリーは結ばれてはならない。しかし、それ以前の多くの作品では、明らかに「釣り合わない」ゆえに寅の懸想はまたも報われないと観客皆が予想出来た。しかし、その展開はリリー3部作では使えないのである。ではどういう事情、論理から二人は結ばれなかったのかを具体的に見てみたい。
『寅次郎忘れな草』(1973)の冒頭、網走で寅とリリーは出会ってお互いの浮草稼業を語り意気投合する。東京へ来たら柴又を訪ねておいでと別れた二人。実際にリリーはとらやを訪ねて歓迎される。ある夜リリーは酔っ払って柴又に現れ、寅さんに一緒に旅に出ようと誘うが、寅さんは一歩を踏み出せず、ここは堅気の家だから深夜は静かにとたしなめる。翌日リリーのアパートを訪ねるが、もうその時は引き払った後だった。その後とらやにハガキが着き、リリーは寿司職人と結ばれ店を持ったという。寅が訪ねると、リリーは「本当はこの人より寅さんが好きだった」と冗談のように言う。リリーの相手は毒蝮三太夫なんだから、こんなことを言っちゃ何だけど渥美清と結ばれていても全然おかしくないのである。
僕だけでなく多くの人がシリーズ最高傑作と考える第15作『寅次郎相合い傘』(1975)。冒頭で離婚したリリーは再び柴又を訪ねるが、寅さんいなかった。その頃寅は「蒸発」中の会社役員船越英二と出会って北海道に渡る。北へ向かったリリーは函館でこの二人と出会い、三人の珍道中となる。しかし、船越の初恋の人を訪ねた後で寅とリリーは女の幸福をめぐって口げんかとなって、リリーは去って行く。柴又へ帰った寅だが、そこへリリーも来て仲直り。周囲もあの二人のケンカは夫婦げんかみたいという。ついにさくらはリリーに対し「お兄ちゃんの奥さんになってくれたら素敵」と発言するのである。それに対して、リリーは真剣な顔になって「いいわよ。あたしみたいな女でよかったら」と述べたのである。シリーズ屈指の名シーンだろう。
ところが帰って来た寅さんは、それを「冗談だよな」と決めつける。そこでリリーも「冗談に決まってるじゃない」と返して去る。さくらは追いかけろと言うが、寅は二人は「渡り鳥」だという。漂泊者である寅とリリーは結ばれても幸福になれないだろうと示唆するのである。これはある意味正しい認識だと思う。第25作『寅次郎ハイビスカスの花』(1980)では病気になったリリーを沖縄に訪ねた後、退院した二人は同じ家に暮らして療養する。その後またケンカしてリリーは寅を置いて東京へ戻る。寅も戻ってきてリリーと再会する。沖縄じゃ幸せだったと言うリリーに、寅も「俺と所帯を持つか」とまで言うのだった。
このように二人はほとんど結婚直前の関係にあった。だが、この二人が結ばれないのは寅さんが臆病だったということではなく、もちろんシリーズを続けさせるためでもない。二人が結婚していたとしても、その後幸福に添い遂げたとは思えない。きっとまたケンカして、寅さんは行商の旅に出て行ってしまうだろう。そういう性格設定になっているからだ。そのような「社会不適応者」としての寅さんに我々は惹かれるのだ。その孤独がリリーの存在によって、くっきりと浮かび上がる。リリーだって同じようなもので、やはりまた歌手に戻ったのではないか。リリーが登場したことで、物語の哀歓はグッと深くなったと思う。
そして「思い合っていても結ばれない関係」という若い時にはよく理解出来なかった心理が、今はただただ懐かしく感じる。好きなら結婚しちゃえばいいじゃないかと昔は思ったが、その後の人生行路を経てそういうもんでもないと思うようになった。そして、居場所を求めてさすらいながら幸福がつかめそうになると自分から遠ざけてしまう寅さんが我が事のように思われるようになった。自分の中にも漂泊の魂があって、ここは自分の本当の居場所じゃないと語りかける。だが今いる場所で頑張り続けることでしか未来は開けない。そうやって年を重ねてきたけれど、年齢とともにますます寅さんとリリーの切なさが身に沁みるのだ。
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